ほしのくさり

The Other Side ~物語の反対側~

悪夢 ‐nightmare‐ Ⅱ





 その頃、ジェイ・ゼルはイズル・ザヒルの側で、『ダイモン』の組織で生きていく術を身に着けている最中だった。

 新しく頭領ケファルとなったイズル・ザヒルは、経営の天才だった。
『ダイモン』を違法な犯罪組織から、多角的な経営基盤を持つ組織へと、瞬く間に作り替えていく。
 その収益を得る一つの手段として、イズル・ザヒルは『遊戯』と称した、享楽的なサービスを始めようとしていた。
 客は、法的規制を受けないスペースコロニーの中で、それぞれの性癖を満足させる遊興を得る。その中には、少年たちに客の相手をさせるものも、含まれている。
 興味を覚える客は多く、評判は口伝えで広がっていった。
 賢明なイズル・ザヒルは、継続的な収入を確保するためには、手駒とする少年たちの質の向上が不可欠だと考えていたようだ。
 そこで、イズル・ザヒルはジェイ・ゼルに相談を持ちかけてきた。
 君の持つ技術を、少年たちに仕込んでくれないか、と。

 最初は、ためらいを覚えた。
 『愛玩人形ラヴリー・ドール』としての本性を封じて生きようとしていた矢先だったからだった。性技を仕込むことはたやすいが、以前の自分に戻るようで行為自体を忌避する気持ちが強かった。
 それでも、頭領ケファルのたっての願いに報いたいという思いは強かった。
 返答まで数日の猶予をもらい悩みぬいた結果、仕事と割り切って受けることにした。

 承諾の返事を、頭領ケファルはことのほか喜んでくれた。
 その時、少年の相手をするごとに、いくばくかの手当てを支払う手筈を整えてくれる。
 最初は断ろうとした謝礼を、イズル・ザヒルは受けるように命じた。
 これは、仕事なのだから、と。
 報酬が生じることで、ジェイ・ゼルの心の負担が減ると考えてくれたらしい。
 頭領ケファルが示してくれる深い思い遣りに報いようと、ジェイ・ゼルは自分の力を尽くして、少年たちを指導してきた。
 各地から選りすぐられた少年たちは、素直で勉強熱心な者たちが多かった。
 指導の成果が如実だと、頭領ケファルから褒め言葉を貰った時は、とても嬉しかったことを覚えている。
 これまで価値がないと思っていたことにも、意味があるような気がしたのは不思議だった。

 だが。

 その中に一人、自身の境遇に納得していない少年が混じっていた。
 彼は容姿に恵まれ、頭脳も明晰だった。持っていき方次第で、高額の報酬を得ることが出来る素養を身に備えている。
 半ば騙されるようにして身を売られてきたようで、その不満もあってか、ジェイ・ゼルの指導に対しても、少年は反抗的な態度をみせ、言葉になかなか従わない。
 ジェイ・ゼルは彼を叱らなかった。
 従順な者よりも、少し手ごたえのある少年を好む客もいる。
 様々な客の要望に応えられるのは、良いことだとジェイ・ゼルは判断した。

 彼の特質を損なわないように気を付けながら、性的な技術を持つことは、身を守るために大切なことだと、丁寧に説いて聞かせる。
 それでも、彼は納得していなかったのだろう。
 ジェイ・ゼルが実技に当たろうとした時、彼は抵抗してきた。
 その瞬間――
 過去にナダル・ダハットから受けてきた、暴力的な性行為のことが、ふっと心をよぎった。
 そこから……ほとんど記憶が無かった。
 とぎれとぎれに、少年の言葉の断片は聞こえてきたが、自分がひどく奥まったところに押し込められているような感覚だった。
 気付いた時には、イズル・ザヒルが自分をなだめて居た。

 落ち着け、ジェイ・ゼル。
 大丈夫だ。

 ベッドの上に、恐怖に目を見開く少年の姿があった。
 彼の服は引き裂かれ、手首には強く掴んだためか、痣が残っている。
 何が起こったのか、ジェイ・ゼル自身も解らなかった。

 後から聞いたことだった。
 自分は少年からの抵抗を受けた瞬間、態度が豹変したらしい。
 冷酷で暴力的になり、反抗してきた少年を手荒く扱った、と。
 少年の悲鳴を聞きつけ、人が止めに入らなければ、自分は彼を傷つけたかもしれない。頭領ケファルの大切な人材だというのに。
 これまで体験したことのないことだった。
 自分に何が起こったのかが、解らない。
 『ダイモン』の組織員となるために、格闘技や武器の扱いは学んできている。
 その時に相手からの攻撃を受けたとしても、記憶を飛ばし、人格が変わることなどなかった。
 なのになぜ、あの時に意識がなくなり人格がすり替わったのだろう。
 思い出すのは、ベッドの上で身体的な暴行の兆しがあった時、過去がよぎったことだった。
 それが、引き金だったのだろうか。

 服を引き裂き、相手を乱暴に扱う――
 それは、かつての所有者、ナダル・ダハットの行動に酷似していた。
 気付いた瞬間、全身が、凍り付いたようになった。

 まさか――
 執拗に受けて来た忌まわしい加虐のために、行為に及ぼうとするとき暴力を受けると、自分は人格を変じてしまうのだろうか。
 懸命に記憶を手繰ると、交わした会話の断片だけが浮かんでくる。
 抗う言葉に、自分は冷酷に対応していた。
 自分ではない何かが、そのとき行動の全てを支配していた。

 恐怖に体が震え出した。
 制御しきれない別人格が、自分の中に潜んでいる。
 決して相手を傷つけたくはないのに。
 自分が受けた暴行を、相手に与えるつもりなどないのに――
 それでも自分は、ナダル・ダハットのように、なってしまうのだ。
 おぞましさに、吐き気がしそうだった。
 まだ、自分の中に支配の傷跡があることが、苦しく辛かった。
 どんなに過去を捨てようとしても、ナダル・ダハットの存在が、細胞一つ一つに刻印されているようだ。


 ジェイ・ゼルは、考え抜いた結果、イズル・ザヒルに、少年たちの指導の中止を申し出た。
 またいつ何時、少年たちに対して暴力を振るうか解らないからだった。
 自身の凶暴性が、恐ろしかった。
 イズル・ザヒルは、ジェイ・ゼルの言葉を黙って聞いていた。
 最後まで話し終えた時、静かに口を開く。

 君の技術が伝えられないのは、大変な損失だ。
 指導してくれた少年たちは大変評判が良い、この先もぜひお願いしたいと考えているんだよ。
 今は小規模なスペースコロニーだが、ゆくゆくはもっと大掛かりなものを作るつもりをしている。そこの呼び物にしたいと思っているんだよ、ジェイ・ゼル。

 心を慰撫するように、彼は穏やかな声で言葉をかけてくれる。
 自分を信頼してくれているのだと、眼差しと声が語ってくれていた。

 大丈夫だよ、ジェイ・ゼル。あれは不幸な事故のようなものだ。
 自分を徒《いたず》らに恐れることはない。
 それに、君はきちんと私の制止を受け入れて、途中で行動を中断した。
 制御出来ている。
 たった一度のことを、気に病むことはないんだよ、ジェイ・ゼル。


 それでも躊躇《ためら》うジェイ・ゼルに、熟考の末、彼は一つの方針を打ち出してくれた。
 性技を仕込む子はこちらで吟味し、君には従順な子を宛《あて》がうようにしよう、と。
 相手が抵抗しなければ、君は大丈夫だと頭領ケファルは断言した。
 半信半疑ではあったが、ジェイ・ゼルは言葉に従い中止していた指導を再開する。
 頭領ケファルはやはり、賢明だった。
 彼の予言した通り、その後あの暴力的な人格は現れることはなかった。

 頭領ケファルの言う通り、たった一度だけのことだ。
 偶発的なことだったのかもしれない。
 もう二度と、あんなことはないだろう。

 この十数年間、そう思い込もうとしてきた。
 それでも、自分自身が信じきれなかった。
 どんなに相手を大切に扱おうと思っていても、抵抗を受ければ冷酷な性格に変じてしまう危険性を、自分は内に秘めている。
 そんな状態でハルシャと関係を持つことに、ためらいしか覚えない。
 彼は無垢だった。
 乱雑に扱えば、身が裂かれる。
 まだ性交の歓びを知らない少年に、苦痛だけは与えたくなかった。
 内側の恐怖は、鋭敏なイズル・ザヒルにも伝わっていたのだろう。
 怒りを滲ませながらも、彼は言葉を続けた。


 私の命令が解っていて、それでも楯突いてきたのだろう。
 覚悟は買ってやる。
 お前はどうしたいんだ、ジェイ・ゼル。
 逃げるな。
 本気を見せてみろ。


 彼は、自分の狂気を知っている。
 抵抗を受けた時に、どんな風に自分が人格を変じるのかを――
 そのことに怯えるジェイ・ゼル自身を見つめながら、言葉をかけてくれている。
 逃げるな、と。
 お前は大丈夫だ。
 信じろと、怒りの向こうから、語り掛けてくれているようだった。

 そうだ、彼は――
 『愛玩人形ラヴリー・ドール』として扱われていた日々の中で、たった一人、自分たちを「命」として、大切に慈しんでくれた人だった。
 傷ついた身を優しく拭い、眠る時には低い声で子守唄を歌ってくれる。
 惑星ガイアの古い歌だと、彼は教えてくれた。
 自分の母親は惑星ガイアの出身だったと、彼は一人語りに呟いていた。
 彼の話に耳を傾けながら、いつかこの部屋を出て、惑星ガイアに行くことに憧れたのを覚えている。自由の身になって――

 冷徹に見える表情の奥に、深く熱い愛情があるのを感じる。
 彼はエメラーダだけでなく、自分にまでも、我が子として戸籍を与えてくれた。
 所有物に過ぎなかった自分に、「人間」として生きる道を示してくれたのだ。
 今も……昔と変わらぬ眼差しが、自分を包んでいた。

 見つめるジェイ・ゼルに、語調を和らげて、彼は静かに語り掛けた。


 欲しいのなら、手に入れればいい。
 一人の人間として、堂々と愛する者を求めればいい。
 ジェイ・ゼル。
 お前は、どうしたいんだ。
 聞かせてくれ、お前の本音を。


 誰かを愛し求めることに、怯えることはないのだと、彼は教えてくれていた。
 たとえ『愛玩人形ラヴリー・ドール』であっても。
 身の内に、危うい別人格を宿していても。
 人を求めても良いのだと、彼は力強い眼差しで語り掛ける。

 目の前にいる人は、エメラーダを手にするために、殺人さえ辞さなかった。
 全てを投げうっても誰かを求める強い気持ち。
 ハルシャ・ヴィンドースに対してその想いがあるのかと、イズル・ザヒルは問いかけていた。

 ハルシャに出逢って、自分は生まれて初めて――誰かを欲するという感情を知った。
 けれど。
 彼を求めたとしても――
 それは、自分の一方的な想いだ。
 汚れを知らない少年が、自分を受け入れてくれるだろうか。
 愛し方すら知らない自分であるのに、彼を求めることは正しいのだろうか。
 闇のような不安が、内側からせり上げる。
 ジェイ・ゼルの苦悩を、画面の向こうからイズル・ザヒルが見つめていた。
 答えにたどり着くことを、彼は静かに待ってくれていた。

 たとえ身を拒まれても……憎まれたとしても。
 自分は、ハルシャ・ヴィンドースを愛することが出来るだろうか。
 内側に問いかける。
 答えなど、どこにもなかった。
 ただ。
 初めて彼を見た時――
 階段から駆け下りてくる彼の後ろに、ステンドグラス越しの光が降り注いでいた。
 光に透ける彼の赤い髪の色を、美しいと思った。

 昔……惑星アマンダで過ごしていた部屋にも、ステンドグラスが施されていた。
 翼のある四人の美しい大天使が、鮮やかな色彩で窓を飾っていた。
 炎をまとった天使が、剣を振りかざしていた姿を覚えている。
 正義を司る大天使だった。
 光に透ける姿を、自分はよく眺めていた。
 階段を降りてくるハルシャと、記憶の中の天使の姿が重なった。
 真紅の揺れる髪が、天使を包む炎に見えたのだ。
 ああ。
 そうか。
 もうその時には――自分は――

 不意に、心が決まった。
 ジェイ・ゼルは想いを内側に搔き集めると、口を開いた。


 彼を、私以外の、誰の手にも、触れさせたくありません。
 お願いです、イズル・ザヒル様。
 ハルシャ・ヴィンドースを、私の手元に、置かせて下さい。


 彼が望んだ答えだったのだろう。
 イズル・ザヒルは口角を上げると、静かに微笑んだ。
 出来る。
 彼の身を、決して他人に無遠慮に扱わせはしない。
 ハルシャを守ると、その時に、覚悟を決めたはずだった。

 ジェイ・ゼルは思い出に小さく笑った。
 不意に耐えられなくなったように、両手で顔を覆う。

 ――なのに、自分は、無垢なハルシャの身を、傷つけた。



 イズル・ザヒルは、ハルシャが行為を拒まないように、丁寧にジェイ・ゼルに方策を授けていた。
 家賃と食費を負担する代わりに、行為を拒まないように契約を結びなさい、と。
 ジェイ・ゼルはその上に、元金だけの支払いを示し、利子の支払いの免除を付け加えようと心に決める。

 ハルシャは賢い。
 示した条件が、極めて有利なことにすぐに気付く。
 自分との契約にも応じてくれるに違いない。

 周到な策を巡らせてから、ようやくジェイ・ゼルも安堵を覚えた。
 その上で、彼とは自宅で会おうと、半ば本能的に決断した。
 自宅に他人を入れたことはなかった。
 定期的に『アイギッド』から仕込むための少年が、ラグレンへ招かれるが、相手をするのはホテルと決めていた。
 仕事として割り切った関係を、自宅に持ち込むつもりはなかった。
 けれど、ハルシャとの関係は……仕事ではない。
 極めて個人的なものだ。
 たった一人の相手として、他とは区別したかったのかもしれない。
 彼に対する覚悟を示すためにも、敢えてジェイ・ゼルは自宅を選んだ。

 最後の銀行の手続きを行う朝に、ジェイ・ゼルはハルシャを迎えるための準備を、自宅で整えていた。
 腸を清めるための道具も、身を傷つけないためのローションも、あるべき位置に置き、何度も確認をした。
 そこまでしても、やはり、不安だった。
 彼を自分に縛り付けることが――
 不道徳を強いると解っていた。
 それでも。
 自分はそんな愛情の示し方しか出来ないのだと、自身に言い聞かせる。
 身を繋げて与える快楽こそが、相手にとっての最大の幸福であると、自分は信じ切っていた。
 自分なりのやり方で、ハルシャを幸せにしたいと願っていたのかもしれない。


 銀行での手続きを全て終えた頃には、すでに日が落ちていた。
 帰る飛行車の中は、静かだった。
 サーシャは連日の慣れない作業でくたびれたのか、ハルシャの膝を枕に屈託なく眠りについている。
 ハルシャ自身も、必死にあくびをかみ殺して、眠気に耐えていた。
 もう。
 話を切り出す時分だと、解りながらも口が開けなかった。
 ハルシャの頭が揺れ出した。うとうとと、眠りに引き込まれそうになっている。
 このまま何も言わなければ、彼に行為を強いることはないのだと、ふと、思う。
 だが。
 そのような欺瞞を、すぐに頭領ケファルは見抜くだろう。
 破格の条件を示してくれているのに、彼を裏切ることは出来ない。
 眠りに入りそうなハルシャを見つめてから、ジェイ・ゼルは口を開いた。

 最後の銀行が終わったな。

 言葉に、敏感にハルシャは反応を示した。
 はっと睡魔を振り切り、自分へと顔を向ける。
 同行したことへの感謝の言葉を、彼は丁寧に述べてきた。
 自分の身から、全てをむしり取る相手と解っていながらも、彼は律儀に礼を口にする。その高潔さが、胸を突いた。
 薄闇の中で、澄んで透明な金色の瞳を見つめる。
 これから自分がどれだけ残酷なことを口にするのか、解りながらも止めることが出来ない。
 それが、イズル・ザヒルが譲歩の中で示した条件だった。

 これで、君が持つのは、その身一つになった訳だ。

 言葉に込められた意図を、ハルシャは素早く読み取ったようだ。
 彼の頭脳は明晰だった。
 宇宙飛行士になりたかったのだと、彼の部屋の様子から、ジェイ・ゼルは既に知っていた。
 悪意のない声で、ハルシャが尋ねる。

 私が、身を売るのは、いつからですか。

 と。

 ジェイ・ゼルは、言葉を発することが出来なかった。
 沈黙のまま、金色の澄んだ眼を見つめ続ける。
 ハルシャ・ヴィンドースは、人の悪意を知らない。
 この宇宙の中で、どれほど醜い行為が繰り広げられているのかも。
 待ち受ける未来を知らずに、ただ、身を売ることだけを受け入れている。
 そこへ追い込んだのは、自分だった。
 醜悪な行為を強いようとしているのも、また、自分だった。
 そのおぞましさを、思い知る。
 自己に対する嫌悪が内側から湧き上がってくる。
 苦いものを吐き出すように、ジェイ・ゼルは問いかけていた。

 君は、身を売るという意味が、解っているのか。

 顔を赤らめながら、懸命に答えるハルシャの言葉に、寂寥に近い痛みが湧き上がってくる。
 男と男がどうやって性交をするのか、彼は全く知らなかった。
 自分は生まれながらに、行為を為す未来しか用意されていなかった。
 彼は――
 宇宙を翔けることが出来たはずなのに、その未来が捻じ曲げられ、自分との行為を強いられる。
 ハルシャ・ヴィンドースの翼を、折るのは自分だ。
 その未来しか選べないように追い込んだのは、自分だった。
 ハルシャは、よく理解していた。

 選択肢は、それしかありませんでした。

 きっぱりと、彼は言い切った。
 辛い現実を受け入れながらも、彼の心は動揺していた。

 これまで彼は――過酷な現実を受け入れ、一言も不満を口にしなかった。
 誰かを頼りたい衝動を抑えて、彼は健気に運命に耐え続けていたのだ。
 その彼が心の拠り所とするのはただ、幼い妹だけなのだろう。
 唇を引き結び、視線を落として眠る妹の髪を一心に撫でる。
 そこにしか、救いを求めるところが、無いように。
 横顔を、見つめる。
 いとけないハルシャの姿に、嵐のような愛しさが内側を駆け巡った。
 思いに突き動かされ、自分は行動を起こしていた。

 ハルシャの顎に手を触れ、こちらへ顔を向かせる。
 知識が無いのだろう。
 これから何が起こるのか、彼は全く理解していない目で、自分を見つめてくる。
 怯えさせないようにそっと、ジェイ・ゼルは顔を寄せた。
 優しく、ただ唇を、触れ合わせる。
 瞬間、ハルシャの目が大きく見開かれた。
 触れたのは、堅い唇だった。
 未成熟な青い果実にも似ている。
 恐らく、誰とも触れ合ったことがないのだろう。
 自分がどれだけ甘く熟れることが出来るのか、全く知らない清純な肌触りに、内側が痺れていく。
 深く彼の咥内を探りたい衝動を懸命に抑え、ジェイ・ゼルはあっさりと口を離した。
 ハルシャは、耳までを深紅に染めていた。

 キスも知らないのか、坊や。

 確かめるように呟いた言葉に、ハルシャは動揺していた。
 彼の初心《うぶ》な反応を見守りながら、見知らぬ者に蹂躙される未来に対して、理由の解らない怒りが湧き上がって来た。
 素直過ぎる反応に、手練れの相手ならすぐに無垢だと見抜く。
 身を守る術すら持たずに、彼は自身を生贄として差し出そうとしていたのだ。
 そこまで追い込んだのは、自分だった。
 恐らく。
 自身に対して、嫌悪に近い激しい怒りを覚えていたのだろう。
 ためらいと迷いが消えていく。
 不特定多数の人々に身を弄ばれる運命から、何としてもハルシャを救いたかった。
 彼の未成熟な唇を、他の誰にも、触れさせたくはなかった。
 ハルシャを、守りたかった。
 覚悟を決めて、ジェイ・ゼルは交渉を開始した。

 過酷な現実を告げてから、そこから逃れられる道を示せば、人は動く。

 かつてイズル・ザヒルから教えられた交渉術を、ジェイ・ゼルはハルシャに対して行った。
 ジェイ・ゼルは淡々と、彼を待ち受ける厳しい現実を、余すことなく告げた。
 男同士の性交の事実を知り、ハルシャは衝撃を受けていた。
 意図した通りだ。
 ハルシャの身が、細かく震えている。
 彼は恐怖を覚えていた。
 効果が十分なことを見て取ってから、ジェイ・ゼルはハルシャから離れた。
 飛行車の座席に身を沈め、考えを巡らせる。

 朝。
 ハルシャのために準備した部屋のことを、ジェイ・ゼルは脳裏に描く。
 有利な条件を出し、契約を交わして、彼が抵抗しないように持ち込む。
 まず、第一段階だった。
 その上でこの行為は苦痛ではないのだと、ハルシャに示してあげようと、ジェイ・ゼルは心に決めていた。
 性交には肛門を使うと教えたが、実際のやり方をハルシャは知らない。
 本来排泄に使う場所だ。
 洗浄する必要があると、言葉を尽くして伝えるつもりだった。
 腸を清める液も、低刺激のものをわざわざ選んで用意している。
 苦痛は、最小限にとどめたかった。
 腸内を洗う作業に、最初は屈辱を感じるかもしれないが、必要性を説いて聞かせ、優しく扱えば徐々に慣れていくだろう。
 痛みを得ないように、時間をかけて後孔もほぐしてあげるつもりだった。
 苦しいのなら、最後まで自分を受け入れなくても良かった。
 射精まで持ち込むのも、無理だろう。
 初めての身に、負担を強いるつもりはなかった。
 ただ、これからの行為の実際をハルシャに体験してもらえればいい。
 一度行為に及べば、今後に繋ぐことが出来る。
 焦ることはない。
 これから先、じっくり時間をかけて自分との行為に慣らしてあげればいい。
 ハルシャとの関係は、借金の返済時まで続く。
 最初に彼を怯えさせてはならない。
 丁寧に扱ってあげれば、倫理に反する行為であっても、いつか自分を受け入れてくれるだろう。
 大丈夫だ。自分には出来るはずだ。
 内側に、言い聞かせる。
 その上で、ようやくネルソンに指示を出した。

 セイラメへ、やってくれ。

 と。

 そこまで入念に準備をしながら――
 自分は、ハルシャの知識が皆無なことを、現実として理解しきれていなかったようだ。
 まさか、性行為に及ぶ時に、服を脱ぐことすら知らないとは、思わなかった。
 彼はためらい脱ぐことを拒否しているのかと、自分は考えてしまった。
 それほど乱暴にするつもりはなかったのに、結果として、自分の行動がハルシャの中に恐怖を巻き起こしてしまったようだ。
 彼は恐らく、今まで一度も身体的な暴力を受けたことがなかったのだろう。
 強引な自分の手つきに、ハルシャが無意識に抗った。
 その後のことは、記憶にほとんどない。
 断片的な言葉だけが、時折意識の中に落ちて来た。
 射精を強いるハルシャの言葉に、暴力的な人格なりに手加減をしようとしていた自分が、激怒したのを感じた。
 けれど、抑えようがなかった。
 気付いた時には、ハルシャは後孔から血を流して、ベッドに倒れ伏していた。
 自分が、為してしまったことだった。
 言葉を失い、全身の血が下がった。

 自分は……何と言うことをしてしまったのだろう。

 狂気の人格が顕現し、ハルシャを引き裂いたのだと、悟る。
 恐れていた事態が現実となり、ジェイ・ゼルは衝撃を拭い去れなかった。
 無垢な彼を、自分は無遠慮に傷つけてしまった。
 事実が胸を貫いた。
 どんなに詫びても、許されないことだった。
 それから――
 彼は頑なに自分との触れ合いを、心の中で拒絶した。
 契約に納得してくれたのか、その後反抗することはなかったが、身を強張らしてただ恥辱に耐え続けていた。
 恐怖と痛みを快楽と愛撫で埋めようとしても、彼は無言で拒む。
 ジェイ・ゼルは、それを全て受け入れた。
 拒絶されることを忌避したから、あの人格が出たのだ。
 もう二度と、ハルシャを傷つけたくなかった。
 ハルシャが拒むことを恐れずに受け入れようと、心に誓った。

 それでも。
 やはり自分は辛かったのだろう。
 愚かなことだ。
 自分は幾度も、幾度も――彼を傷つけた。
 あれほど恐れていた狂気の人格が、シヴォルトの密告に焦燥した自分から、溢れてしまった。
 ハルシャと関わりを持ってから五年間、決して現れないように慎重に封じようと努力を重ねてきたのに。
 冷静に話をするつもりだった。
 決して傷つけたくは無かったのに――それでも自分は嫉妬にかられ、意識を飛ばしてハルシャの心と身体を引き裂いた。
 どんなに贖おうとしても、自分は愚かな過ちを、繰り返してしまう。
 だから――
 ジェイ・ゼルは、小さく笑った。

 良かったのだ。
 これで。
 自分から自由になって、ハルシャはきっと、幸せになれる。
 制御出来ない別人格を抱える、人ではない自分の側にいるよりも――
 ハルシャは、幸せになることが出来る。

 心に呟くと、ジェイ・ゼルはようやく顔を覆っていた手を浮かせた。
 画面に出ていたハーロン・ヴァン社のロゴを見つめてから、彼は電脳を操り、カタログが添付された電信を静かに消去した。
 気持ちを切り替え、午前中は溜めていた仕事をこなすことで費やす。
 余り食欲は無かったが、軽めの昼食を作る。
 料理をしていると、不思議と心が穏やかになる。
 無意識だったが、作っていたのはハルシャと最後に一緒に食べた、ホットサンドウィッチだった。
 一人で食卓に座り、ナイフとフォークで食べようとして、ふと、手を止める。
 微笑むと、ハルシャがしていたように、手で掴んでかぶりついた。
 その瞬間、何かが内側から溢れそうになった。
 口に含んだサンドウィッチと一緒に、込み上げてきたものを、飲み下す。

 ハルシャを――
 手離すことが、彼のためだ。
 彼はきっと、幸せになれる。
 夢を叶えて宇宙を翔けることも出来る。
 彼は、自由になったのだから。

 必死に言い聞かせ、義務のようにサンドウィッチを食べ続ける。
 味など何も感じなかった。
 ハルシャの手から食べた時、これほど美味しいものはないと思ったというのに。
 その記憶に縋りたくて、恐らく自分はこの料理を作ったのだろうに。
 何とか食べ終え、ジェイ・ゼルは自分の未練を笑った。

 そう言えば。
 あの時に持ち込んだクラヴァッシュ酒を一緒に飲もうという約束は、結局果たせなかったと、思い至る。
 もう一つ。
 ハルシャが借金を返済した時に、渡してあげようと思って、手元に保管していたファルアス・ヴィンドースの詩の額と。
 人を遣って、ハルシャの手元へクラヴァッシュ酒と共に詩を届けてあげようと、ジェイ・ゼルは考える。
 自分が訪ねることは出来なかった。
 ハルシャの顔を見れば、きっと心が揺らぐ。
 今も。
 ただ、彼に逢いたかった。

 昼食を片付け、午後からの予定を考える。
 食堂の椅子に座ったまま、窓の外を見つめる。
 青い空が、果てしなく広がっていた。

 ハルシャは、何をしているのだろう。

 ぼんやりと、ジェイ・ゼルは考えていた。
 一人にしないでくれと、縋るように呟いていた彼の姿が、脳裏をよぎる。
 与えた手を握り込み、温もりに安心したように眠りについた。
 彼はまだ、両親を失った時の心の傷が、癒えていないのだ。
 初めて出会った、十五の時のままに――
 悲しみに似た愛しさが、胸をふさぐ。
 空を見る。

 悪夢にうなされることなく、昨夜は眠ることが出来ただろうか。
 ハルシャはまた――夢に泣いていないだろうか。

 時を忘れて、青い空を見つめ続ける。
 その耳に、来訪者を告げる呼び出しの音が、不意に響いた。

 想いから浮上し、ジェイ・ゼルは玄関へ目を向けた。
 誰だろう。
 と、眉を寄せる。
 すぐに思いついたのは、マシュー・フェルズだったが、彼ならまず来訪の許可を、通話装置を通じて取ってくるだろう。
 部下以外に、自宅の位置を知るものはほとんどいない。
 いぶかしがりながら、ジェイ・ゼルは立ち上がった。

 玄関のモニターの前に立ち、無意識に繋いでから驚きに目を見開く。
 明るい画面に映し出されているのは、ハルシャだった。

「――ハルシャか」

 考えるよりも先に、言葉が口から溢れていた。
 まさか。
 どうして彼がここに居る。困惑が湧き上がる。
 もしハルシャが訪ねてきても、追い返せと部下には命じていた。
 彼らが労を取らない限り、ハルシャがここに来るはずがない。

『ジェイ・ゼル!』
 もう二度と耳にすることはないと思っていた、愛しい声がインターホン越しに響く。
 来てはならないと、あれほど言っておいたはずなのに。
 自分は彼を、不幸にしかしないというのに。

「なぜ、ここへ来た」
 思ったよりも、硬い声が自分の口から響く。
 追い返すべきだと、理性が声高に叫んでいた。
 少し怯んでから、ハルシャが懸命に言葉を発する。

『ジェイ・ゼルに、逢いに来た』
 それだけでは、説得力に欠けると思ったのだろう。
 慌ててハルシャが付け加える。
『ウェアラブル端末の通信装置をお借りしたままだった。遅くなって、大変申し訳なかったが、返却させてくれないか』

 きょろきょろと周りを見回しながら、ハルシャが滑らかに告げる。
 彼は話すのが苦手だ。
 それにしては饒舌に語っている。
 もしかしたら、ここに来るまでに、一心に練習をして来たのかもしれない。
 淀みなく彼が続ける。

『サーシャの時に、とてもお世話になったのに、動揺してしまってほとんどお礼が言えていない。とても失礼なことをしてしまった』

 不意に、ハルシャがこちらに真っ直ぐな視線を向けてくる。
 ドキリと、心臓が躍った。
 眼差しが、自分を包む。

『お礼とお詫びを、直接ジェイ・ゼルに伝えたい。部屋に入れてくれないだろうか』

 カメラの存在に気付いたのだと、ようやくジェイ・ゼルは悟る。
 金色の瞳が、自分を見ていた。
 鼓動が早くなる。
 ハルシャが、いる。
 そこに。
 ほんのわずかな距離の先に。
 彼のために切り出した別離なのに、心が揺らぐ。
 ハルシャは、自分を訪ねて来てくれたのだ。あれほど厳しく言い置いていたのに、それを乗り越えて、ここへ来てくれた。
 眼差しから、彼の想いが、伝わってくる。

 自分に逢いたいと、彼は言ってくれた。
 無情な借金で身を縛り、倫理に反する行為を強いた、この自分に。
 悪夢そのものであるはずなのに――。

 息が出来ない。
 必死に動揺を押し隠し、ジェイ・ゼルは、理性が命ずる通りに言葉を呟いた。

「礼は受け取った。通話装置は、マシューに渡してもらえばいい。
 それが用事なら、もう戻りなさい。ハルシャ」

 そのまま通話を切るべきだ。
 解っていた。
 だが、一秒でも長く、ハルシャの姿を見つめていたかった。
 彼が去るまで――そう、自分に言い訳をして、画面を眺め続ける。
 不意に、彼の顔が近づいた。
『待ってくれ! ジェイ・ゼル!』
 ハルシャが、叫んだ。
 懇願が滲む言葉に、ジェイ・ゼルは顔を苦痛に歪ませた。
 どうして、諦めてくれないのだ。
 君が居るべきなのは、私の側ではない。
 光の元を歩むことが出来るのに、どうして闇に潜むことしか出来ない私のところへ舞い戻ろうとしているのだ。
 せっかく――その翼を解き放って上げたというのに。
 彼の切望がただ、苦しかった。

『ジェイ・ゼル……』
 眉を寄せて、ハルシャが自分の名を呼び続ける。

 通話を切るべきだ。
 理性が再び命じる。
 こんな姿を見せられたら、彼を自分の手元に招きたくなる。
 途方に暮れた子どものように、縋りつく眼でハルシャが見つめる。

 帰りなさい。

 一言ですむ言葉が、口から出ない。
 不意に、泣きそうに顔を歪めると、ハルシャが絞り出すように、呟いた。

『ジェイ・ゼルに、逢いたい――』

 心臓を、射抜かれたようだった。

 私も。
 君に逢いたい。
 ハルシャ。
 この腕に、君を抱しめたい。
 けれど、それは出来ないんだ。
 私は、君の悪夢なのだよ、ハルシャ。
 求めてはいけない、私を――

 凍り付くジェイ・ゼルの耳に、ハルシャの懇願が響き続ける。

『逢いたいんだ、ジェイ・ゼル!』
 胸が揺さぶられる。
 幼子のような一途な表情で、彼が必死に画面へ視線を向けて縋りつく。

『一度でいい、逢ってくれ……決して、迷惑はかけない』
 距離を隔てて、眼差しが触れ合う。
 ジェイ・ゼルは、画面の向こうのハルシャの頬に無意識に指を触れていた。
 そこにある温もりを、拾い上げようとするかのように。
 彼が慈しんできた、ハルシャの唇が動く。
 最初に触れた時は、未熟な果実のようだった彼の――今は甘い吐息で応えてくれる、柔らかな唇から、言葉が滴り落ちる。

『あなたに、逢いたい……お願いだ……ジェイ・ゼル』

 金色の瞳に、涙が滲んでいる。
 自分を見つめるハルシャの頬の輪郭を、無意識の内にジェイ・ゼルは指先で撫でていた。
 彼がただ、愛しかった。

 拒むことは、簡単なはずだった。
 ただ、画面を切ればいい。
 なのに――自分はそれが出来なかった。
 小さく、ジェイ・ゼルは自嘲を顔に浮かべる。
 頭領ケファルの言う通りだ。
 自分は、愛する者を切り捨てることが出来ない。帰すことが正しいと解っていても、ハルシャの懇願を無下には出来なかった。
 それが、恐らく自分なのだろう。
 目を細めて考える。
 それに。このまま返しても、ハルシャは納得しないだろう。
 逢って――彼を言葉で説き伏せるしかないのだと、腹をくくる。
 真実を話せば、彼は解ってくれるだろう。
 自分がどれだけおぞましい存在なのかを……
 告げる恐怖よりも、ハルシャの幸せを望む気持ちが強いことを、内側に確かめる。
 胸を大きく上下させて、ジェイ・ゼルは息を一つ吐いた。

 覚悟を、決めると、ジェイ・ゼルは指先をハルシャの頬から滑らした。
 画面の横にある『承認』の文字を見つめる。
 僅かなためらいの後、ジェイ・ゼルは指先を文字の上に乗せて、静かに力を込めた。
 転送のための光が溢れる。
 数歩下がると、ジェイ・ゼルは腕を組み、内側の動揺を抑えながら、ハルシャを待った。

 説得して、ハルシャを帰さなくてはならない。
 彼の居るべき世界へ。
 どんなに苦しくても、それがハルシャに対して出来る、たった一つの正しいことだ。

 覚悟をかき集めながら、ジェイ・ゼルは、光の中にハルシャの輪郭が滲むのを見つめていた。






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