ほしのくさり

The Other Side ~物語の反対側~

悪夢 ‐nightmare‐ Ⅰ




はじめに

 物語の別の側面からのお話しです。
 ハルシャが借金を返済した後、ジェイ・ゼルのところを訪ねる前、第156話「引っ越し作業」から第166話「翡翠」までの、ジェイ・ゼル視点の物語です。
 ハルシャに会わないと宣言した後、彼がどうしていたかの、一コマです。(そして、ハルシャは頑張ってやってきます)
 
 では、ハルシャにもう会わないと宣言した後の、ジェイ・ゼルの独白をお楽しみ下さい。
 (全三話です)







 ハルシャの裸体が、強い光の中に浮かび上がっている。

 鍛えられたしなやかな体が、シーツの海の中に横たわっていた。
 広い室内には、たった一つの調度として、ベッドが一つ置かれている。
 その上で、ハルシャが素肌をさらしていた。

 ハルシャ。

 呼ぶのに、彼は反応しない。
 こちらの声は聞こえないようだ。
 ハルシャが何の目的でこの場に居るのか、ジェイ・ゼルは悟る。

 オークションが行われたのだ。
 これからハルシャは、最も高額な落札価格をつけた者の相手をしなくてはならない。
 身を弄ばれ嬌態をさらすさまを、賞翫しょうがんされる。
 自分の意思などどこにも存在しない。
 生命としての尊厳も、何も。
 あるのはただ、痴態にあえぐ肉体の反応だけだ。

 ハルシャと自分は透明な壁に隔てられている。
 光の眩しい壁の向こうとは異なり、ジェイ・ゼルのいる方は暗くなっていて、ハルシャの様子が見やすいようになっていた。
 その目的のためだけに作られた部屋だった。

 ハルシャ!

 叫んでも、彼に声が届かない。
 媚薬を仕込まれているのかもしれない。情欲に酔うように荒い息を吐いて、ハルシャは身悶えをしている。
 彼の姿を、光のないこちら側で、たくさんの人が椅子に座を占めて眺めていた。
 オークションに競り負けた者たちのために、頭領ケファルは特別な趣向を与えていた。相応の金額を支払えば、行為の一部始終を透明な遮断壁越しに観賞することが出来る。
 もちろん、落札者の許可を得てだが、戦利品を見せびらかして楽しむ者は多く、オークションの二次的な楽しみとなっていた。
 大切に慈しんできた彼の秘めた姿を、欲に飢えたあまたの目が無遠慮に見つめている。
 今、自分は客たちと同じ場所で、ハルシャが行為を受け入れさせられるのを、見せつけられるのだ。

 止めてくれ!

 虚空に向けて、ジェイ・ゼルは叫んでいた。
 ハルシャの元へ行こうとしても、座っている椅子に体が張り付いたようで、身を動かすことが出来ない。
 もがくジェイ・ゼルの肩に、静かに手の平が触れた。
 抗いを止め、そこだけは自由になる首を動かし、手の持ち主へとジェイ・ゼルは顔を向けた。

 シャープな顎の線が、見上げた視界に映る。
 頭領ケファルのイズル・ザヒルだった。
 彼はこれから行われる遊戯に不手際が無いか、監督する眼差しでハルシャをみつめていた。

 頭領ケファル

 切羽詰まった呼びかけに、手を肩に置いたまま、彼は照らし出されるハルシャの裸身から、ジェイ・ゼルへと視線を転じた。
 静かにイズル・ザヒルが微笑む。

 オークションの落札価格は、彼の三回分の借金の返済額と同じになった。
 良い傾向だね。そうは思わないか。ジェイ・ゼル。

 ジェイ・ゼルは瞳を揺らしながら、頭領ケファルを見上げる。
 笑みを深め、イズル・ザヒルが言葉を続ける。

 君が仕込んでいるという噂が飛び交っているからね、高額で客たちが競り合ってくれた。思った以上の落札価格がついたよ。
 結果としては、ハルシャのためになっているね、ジェイ・ゼル。
 良いことだ。

 再び、イズル・ザヒルは前を向き、一糸まとわぬハルシャの姿を検品する目で眺める。

 君は実に先見の明がある。
 隠されると人は見たくなる。太古の昔から――

 目を細めて頭領ケファルが呟く。

 それこそ神話の時代より、人の本質というのは変わらないらしい。
 君が手元に大切に秘蔵したお陰で、ハルシャ・ヴィンドースにはとてつもない付加価値がついた。客を満足させられれば、今後も収益が見込める。

 言い切る頭領ケファルに、ジェイ・ゼルは、

 恐れながら、頭領ケファル

 と、必死に声をかけた。
 薄い青の瞳が、静かに空間を滑り、自分に向けられる。
 酷薄な眼差しを受けながら、ジェイ・ゼルは懸命に言葉を続けた。

 ハルシャの借金は滞りなく支払われています。
 どうして、オークションにかける必要があるのですか。

 契約を自分はきちんと履行している。ハルシャを護るためにも、ジェイ・ゼルは注意深く物事を処してきた。今まで一度も、返済を滞らせたことなどない。
 なのに、どうして急にハルシャがこのような処遇を受けているのか、理解できない。目の前の事態に、混乱が湧き起ってくる。
 イズル・ザヒルが静かに口角を上げた。

 説明しておいたはずだが。
 聞き飛ばしていたのかな? 君らしくないね、ジェイ・ゼル。

 どきんと、胸が躍る。
 自分は頭領ケファルの指示を、聞き逃してしまったのだろうか。
 動揺を押し隠すジェイ・ゼルの耳に、優しいイズル・ザヒルの声が響く。

 急遽支払わなくてはならない案件があってね、ハルシャ・ヴィンドースの負債から、少し前倒しで支払ってもらうことになった。
 元はと言えば、私の資産だからね。
 私が必要というのなら、回収いたしますと君は答えていたが――忘れてしまったのかな。

 自分は、イズル・ザヒルとそんな言葉を交わしたのだろうか。
 記憶の中になかった。
 だが、頭領ケファルが必要だと判断すれば、従わなければならない、と言うことだけは理解出来た。
 焦りが瞳に滲む。
 借金の支払い三回分。
 それぐらいの金額なら、自分の個人資産から支払うことは可能だった。
 どうしてこんな事態になるまで、自分は放置してしまったのだろう。もっと早くに手を打つべきだった。
 こんな――公衆の面前に、ハルシャの裸体をさらす前に。
 あれほど嫌悪し、決して施さないと心に決めていた媚薬を、彼は遊戯を盛り上げるために投与されているようだ。
 ハルシャの息が乱れ、肌が上気している。
 その嬌態を、人々は楽しんでいた。
 なんと言うことだ。
 凶悪な惑星アマンダの媚薬が、ハルシャの身体を蝕んでいる。
 これまで、彼の身を損なわないように、注意深く慈しんできたというのに。
 ジェイ・ゼルは眉をきつく寄せた。
 媚薬から抜け出すのは、容易ではない。
 かつて自分も体験した、地獄の苦しみが身を震わせる。
 飢えたように媚薬を求める身を、ジェイ・ゼルは自身で縛り付け、生死の境をさ迷いながら何とか離脱したというのに。
 ジェイ・ゼルは手の平をきつく握りしめた。
 大切な人が、こんな状態に陥る前に、どうして自分は止められなかったのだろう。
 後悔を滲ませながら、ジェイ・ゼルはイズル・ザヒルへ言葉を放った。

 頭領ケファル
 オークションの金額は私が全額補填いたします。
 ご無理は承知の上です。
 どうか、この後の遊戯を中止してください。お願いします。
 ハルシャは、このような行為に耐えられません。
 お願いいたします。
 どうか、イズル・ザヒル様。

 ジェイ・ゼルの懇願に、薄い青の瞳が、鋭さを増して向けられた。

 私の顔に、泥を塗るつもりか。ジェイ・ゼル。

 『ダイモン』のトップの顔で、イズル・ザヒルが静かに言う。

 オークションは行われた。
 もう、動き出したものは止められない。
 ハルシャ・ヴィンドースには、客の相手をしてもらう。
 相手が満足するまで、何時間でも、何日でも――君は、よく知っているだろう。
 ジェイ・ゼル。
 それが、オークションにかけられた者の宿命だ。
 私は借金がなければ、このようなことはしないよ。
 ハルシャは、父親の浅慮のツケを支払わされているだけだ。
 彼が恨むべきは、借金をした父親であって、我々『ダイモン』ではない。
 私は、自分の当然の権利を行使しているだけだよ、ジェイ・ゼル。

 怜悧な刃物のように、鋭い言葉が空間に呟かれる。
 ふっと、彼は表情を和らげた。

 君は心配性だね。
 大丈夫だよ、ジェイ・ゼル。
 ハルシャはきっと、きちんと責務を果たし、相手を満足させるだろう。
 君が手塩にかけて育てて来たのだ。
 彼を信じて、大人しくそこで座っていなさい。

 違う。
 違うのです、頭領ケファル
 彼を抱いてきたのは、快楽のためだけではないのです。
 ハルシャ・ヴィンドースが愛しいから、私は身を重ねてきたのです。
 彼の肉体を弄ばないでください。
 そんなことをすれば、彼の奥にある美しい魂までもが、痛めつけられます。
 お願いです、頭領ケファル
 遊戯を中止して下さるのなら、どんなことでも致します。
 どうか――
 私の愛する人を、傷つけないでください。

 懸命にジェイ・ゼルは心の内を訴えようとした。
 なのに、言葉が喉の奥から出ない。
 椅子に縛り付けられるように、声までが見えざる力に支配されている。
 言葉を発することが出来ず、焦るジェイ・ゼルの姿を見つめてから、イズル・ザヒルが目を細めた。

 ほら、ジェイ・ゼル。
 もう始まるよ。

 その言葉に促されるように、ジェイ・ゼルは見開いた目を、震えながら前に向けた。
 媚薬に酔わされたハルシャの側に、男が近づいていく。
 彼を認めた途端、ジェイ・ゼルは恐怖に椅子を蹴って立ち上がりそうになった。
 だが、身が動かない。
 心臓が強く打つ。
 あれは――
 あの男は……
 大きく目を見開き、ジェイ・ゼルは声もなく叫ぶ。

 止めろ!
 私のハルシャに触るな!

 椅子を揺らし、何とか立ち上がろうともがく。
 止めてくれ。
 あの男は、あの男だけは――
 ジェイ・ゼルの抗いなど気にせずに、柔らかなベッドの上、純白のシーツに横たわるハルシャの側へ、男が動く。
 見間違えようがない。
 あれは――
 あれは、ナダル・ダハットだ。
 かつて、自分を支配していた男。
 ナダル・ダハットは、純白のシーツを愛用した。
 行為の後、それに深紅の血で模様が描かれるのを、楽しむために。

 ハルシャに触れるな!

 絞り出すように、ようやく声が出た。
 イズル・ザヒルの手が、ジェイ・ゼルの動きを強い力で封じる。

 仕方がないね、ジェイ・ゼル。
 彼が最高額で競り落とした。
 物には、選択権がない。落札された者に、所有される運命しか持っていないんだよ。

 耳元で、イズル・ザヒルが低く呟く。
 ジェイ・ゼルは彼へ視線を向けた。
 魂を絞るように、詰る喉から懸命に言葉を放つ。

 ハルシャは人間です。
 尊厳も誇りもある、一個の人格です。
 物などではありません。
 私とは違うのです、お願いです頭領ケファル
 どうしても中止出来ないと仰るのなら、私がハルシャの代わりになります。

 あれほど忌避した行為であっても、ハルシャが傷つくよりは、自分が受けたほうがましだった。
 覚悟を見つめながら、イズル・ザヒルが静かにほほえんだ。

 ジェイ・ゼル。
 途中で止めることは出来ないThe show must go on.
 解っているはずだよ、君は――とても賢いからね。

 食い下がろうとしたジェイ・ゼルは、透明な防護壁の向こうから響いた悲鳴に意識をさらわれた。
 ハルシャの声だった。
 慌てて向けた視界に、陰惨な情景が映る。
 男が、ハルシャの足を掴んで引き寄せ、何も施されていない後孔に、強引に自分自身を押し込んでいた。
 そうだ。
 ナダル・ダハットは悲鳴が好きだった。
 自身の力を誇示するように、いつも乱雑に自分たちを抱いた。
 嫌な汗が全身から噴きだす。
 引き裂かれる行為に、ハルシャが身をよじって苦痛を訴える。
 立ち上がろうと抗いながら、ジェイ・ゼルは叫んでいた。

 止めてくれ!
 ハルシャを傷つけないでくれ!!
 痛めつけたいのなら、私を相手にしろ!

 鋭い言葉が、喉から溢れた。
 思いの強さが、動きを抑制していた力に競り勝ったのかもしれない。
 椅子から、引きはがすように身が浮いた。
 しゃにむに立ち上がると、ジェイ・ゼルは前の透明な壁に、握った拳を打ち付けた。

 ハルシャ!

 声が聞こえたように、ハルシャが苦しげに眉を寄せたまま、眼差しを向けてくる。
 金色の瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
 心臓が止まりそうだった。
 震える彼の唇が、動いた。
 声にならないハルシャの言葉が、耳朶に触れる。

 ――たすけて、ジェイ・ゼル。

 あの時と同じだ。
 ギランジュに抱かせようとした時と。
 あの時も、ギランジュを受け入れようと横たわったまま、視線で必死にハルシャが訴えていた。
 助けてくれと。
 ハルシャを傷つけた元凶であるのに、それでも彼が助けを求める場所は、自分しかないのだと――彼の金色の瞳にあふれた懇願が、心を揺さぶった。
 自分に憎悪の目を向けたとしても、仕方がないことであるのに。
 一縷の望みに縋るように、彼は救いを自分に求めた。
 快楽を拒みながらも、本当は自分に馴染んでくれていたのだと――
 知った事実に打ちのめされた。
 記憶が鮮明に蘇る。

 今も、ハルシャが助けを求めるのは自分なのだと……胸を引き裂かれそうになりながら、事実を受け止める。

 ジェイ・ゼルの目の前で、ハルシャの身が無遠慮に揺さぶられる。
 慣らしていない場所に与えられる抽挿に、彼は全身を強張らせて痛みに耐えていた。
 ハルシャが受ける激痛が、この身にも感じられた。
 とっさに踵を返すと、さっきまで自分が座っていた椅子を、両手でしっかりと持ち、床から持ち上げざま振りかぶる。
 イズル・ザヒルが制止しようとしているのを視界に捉えながら、そのまま椅子を透明な壁に叩きつけた。
 硬質な音を立てて、椅子と壁が砕け散る。

 ハルシャ!

 彼に向けて手を伸ばして、ジェイ・ゼルは駆けた。



「ハルシャ!」
 叫んだ自分の声の大きさに、はっと、ジェイ・ゼルは目を覚ました。
 心臓が大きく脈打っている。
 骨を突き破って出てきそうなほどだった。
 叫んで虚空に手を伸ばしたまま、目に映る天井を、ジェイ・ゼルは見つめ続けていた。

 今。
 自室のベッドの上に居るのだと、気付くまでにしばらく時間がかかった。

 鼓動が鎮まらない。
 恐怖に見開いた目のまま、天井の模様を眺める。
 夢、だったのだ。
 浅い呼吸を繰り返して、現実を受け入れる。
 伸ばしていた手をゆっくりと折り、手の甲を額に当てた。
 どうやら、自分はいつもの夢を見ていたようだ。
 ハルシャが、『アイギッド』で遊戯に供される夢。
 悪夢だ。
 五年間、幾度もこの夢を見た。

 恐れていたのだろう――ハルシャの身が、他人に踏みにじられることを。
 頭領ケファルは約束を守る人だ。
 自分が契約を破らない限り、ハルシャの身は安全だと信じようとしても、不安が拭い去れなかったのかもしれない。
 何よりも大切に想うがゆえに、起こりうる事態が、恐怖を掻き立てる。
 五年の間、心が安らぐ時などなかったのだと、ふと、思う。
 十五の少年から、二十歳の青年に成長していく彼の肌に触れながら、無慈悲に蹂躙される未来から彼を守りたいと、祈り続けた。
 そのためになら、どんなことでも為すと誓うほどに。
 額に手を当てたまま、天井を見つめる。

 昨日。
 その願いが叶った。

 ハルシャが拾ったオオタキ・リュウジは、正体を明かさなかったももの、巨大財閥の御曹司だとジェイ・ゼルは確信していた。
 リュウジが即金で、ハルシャの借金を金額支払ってくれたのだ。
 良かったではないか。
 ハルシャはこれで、自由になれる。
 自分ももう、悪夢を見なくて済む。

 ジェイ・ゼルは目を閉じた。
 そうすると、先ほどまで夢に見ていた場景が、脳裏に浮かび上がってくる。
 よりによって、ナダル・ダハットとは。
 彼が夢に現れたのは、初めてだった。
 もう忘れたと思っていたのに、彼に与えられた行為の傷跡は、今でも心の奥底に残り続けていたのだろう。
 沈めていた恐怖が、微かにジェイ・ゼルの身を震わせる。

 彼のようになりたくないと、ずっと、思っていた。
 なのに。
 最初にハルシャを抱いたとき、自分が彼にしたことは、ナダル・ダハットにされた行為に似ていた。
 自己に対する嫌悪感が、湧き上がってくる。
 ジェイ・ゼルはきつく眉を寄せた。
 自分はきっと、骨の髄まで爛れさせられているのだろう――ナダル・ダハットを受け入れ続けたことで。
 彼が死んだ今でもなお、自分はまだ支配を受けている。
 苦痛と暴力と蹂躙と屈辱しかない性行為――それが自分の置かれていた日常だった。
 消えない印のように、今でも体の内側に、ナダル・ダハットに執拗に受けた行為が刻まれていた。

 小さく、ジェイ・ゼルは自嘲する。
 そんな行為しか受けてきていないのに、倫理観の確立した無垢な少年を、愛することなど出来るはずがなかったものを。
 笑いを不意に消すと、ジェイ・ゼルは唇を噛み締めた。
 ようやく彼が自分を受け入れてくれた矢先に、別離が与えられたのは、きっと、彼に相応しくない存在だったからだろう。
 とことん自分は、愚かに出来ているらしい。
 正体を誤魔化したまま、このままハルシャと人生を歩んでいけると、楽観していた。
 それは、ハルシャに対する欺瞞でしかないというのに。
 愛を語りながら、本質ではハルシャを裏切っていた。
 自分が『愛玩人形ラヴリー・ドール』であるという、真実を口にしないことで――

 苦しい息が、ジェイ・ゼルの口から溢れた。
 どんなに過去を告げても、どうしてもハルシャに伝えられなかったこと。
 自分が帝国法違反の人工生命体であるという、事実。
 告げれば、ハルシャは自分を嫌悪するかもしれない。
 性奴隷として……作られた存在なのだと知れば。
 ハルシャから軽蔑の目を向けられることが、何よりも恐ろしかった。
 愛すれば、愛するほど。
 彼からの拒絶が、身を裂くほどに辛かった。
 恐怖に自分は、負けてしまったのだろう。

 だから。
 これでいいのだ。
 ハルシャとの別離を決意したことは、たった一つ、彼に対してできる正しいことだった。 
 私は、ハルシャにとっては、悪夢そのものだ。
 無垢な少年を蹂躙し、契約で縛り背徳的な行為に浸らせた。
 胸を轟かせて目覚めて、夢で良かったと思う――恐怖そのものだと言うのに。
 それが、夢にうなされるなど、おかしなことだ。

 ジェイ・ゼルはゆっくりと目を開いた。
 天井を見つめる。

 宇宙は見ていたのだ。
 何が正しいのか。
 何が間違っているのか、を。
 私は、ハルシャの傍にいるのに、相応しくない存在だ。
 誰かに所有されるために生まれてきた身でありながら、人間を愛そうとしたこと自体が間違っていたのだろう。
 だから。
 彼を失った。
 それでいい。
 リュウジの側で、ハルシャとサーシャは幸せになるだろう。
 何の憂いもなく、身を弄ばれることもなく、屈託なく笑って過ごすのだろう。
 ハルシャが最初に見せてくれた笑顔を、ジェイ・ゼルは束の間、記憶の中に抱きしめる。
 初めて夜明けまで共に過ごして、部屋を出る時だった。
 はにかんだ様に、彼は自分に笑いかけてくれた。花のようだとその時思った。
 朝露を帯びて、豊かに花びらを開いた、一輪の美しい花。
 五年の間、焦がれるように求め続けた、彼の柔らかな表情。
 目にしていることに、心が震えた。
 永遠に守ると、その時心に誓ったというのに。

 長い沈黙の後、ジェイ・ゼルは身を起こした。
 夢のせいか、汗をひどくかいていた。
 身体中がべたつく。
 布団をめくりあげ、そのまま浴室へと向かう。

 連日の疲労を考えてか、マシューが今日は一日自宅で待機をして下さいと、宣告するように言った。
 何かをしていた方が気が紛れる、とは思ったが、自分はよほど憔悴していたのだろう。
 マシューだけでなく、レグルも心配をしていた。
 これ以上みっともない姿を見せるのも愚かか、と考え直し、ジェイ・ゼルは一日の休みを申告し、終日自宅で過ごすことにしていた。
 遠出をする気にもならない。
 シャワーを浴び、気持ちを切り替えると、普段着に着替えて軽い食事をとる。
 妹が持たせてくれたサボテンの手入れをしてから、居間のソファーで、事務所から持ち帰った電脳を開いた。
 ジェイ・ゼルの元へ、一日の内にたくさんの来翰《らいかん》が電信で送られてくる。
 目を通して、必要な物には返事をしておかなくてはならない。
 仕分けをするジェイ・ゼルは、個人名での通信に目を止めた。
 プロキオン星系に本社がある、ハーロン・ヴァン社からのものだった。
 医学的に効果が認められるローションの開発会社だ。
 ハルシャのために取り寄せていたことを、思い出す。
 新製品が出たら、カタログを送って欲しいと依頼していたのだ。
 添付されていた資料を開かずに、ジェイ・ゼルはただ、ハーロン・ヴァン社のロゴを見つめていた。

 この部屋で、自分は最初にハルシャを抱いた。

 電脳の画面を見つめながら、ジェイ・ゼルは過去をよぎらせる。
 五年前、頭領ケファルに内諾を取り、何とかヴィンドース兄妹をラグレンに留め置くことが出来た。
 だが、その時点でも、サーシャは免除されたものの、ハルシャは『アイギッド』で遊戯に供することを頭領ケファルは考えていた。
 当時を思い出し、ジェイ・ゼルは眉を寄せた。

 ハルシャは、何も解っていなかった。
 身を売ると言うことの、本当の意味を。
 わざと自分は詳細を告げなかった。
 避けられない未来に怯えながら、日々を過ごさせたくなかったからだった。
 ハルシャは、素直で勇気のある子だった。
 父親の銀行口座を解約する手続きに付き合いながら、彼が妹を大切に扱い、優しく気高いことをジェイ・ゼルは見て取った。
 たった十五で、名家の家長として懸命に誇り高く生きようとしていた。
 だからだろうか。
 感じたことのない感情が自分の中に荒れ狂った。
 大丈夫、だよ。と。
 その身を引き寄せて、自分に寄りかからせてあげたかった。
 彼が背負うものを、この肩に預けて欲しかった。

 彼らと一緒に解約の手続きのため銀行を回りながら、ジェイ・ゼルは眠れぬ夜が続いた。
 無垢な少年が、初物を喜ぶ客にどんなふうに身を苛まれるのか、ジェイ・ゼルは知悉《ちしつ》していた。
 『アイギッド』では日常の風景だ。
 様々な事情を抱えた少年たちが、身を売るために『アイギッド』に送り込まれてくる。誰にも犯されたことのない少年たちの初物は、ことに高額で競り落とされた。その代償を求めるように、彼らの身は落札者によって、乱雑に弄ばれる。
 それがすなわち、ハルシャを待ち受ける運命だった。
 焦燥に近い炎が、ジェイ・ゼルの身の内側を焼き続ける。

 頭領ケファルは、ハルシャをオークションにかけると断言した。
 彼の決断は翻らない。
 覆すとすれば、よほど魅力的な条件を差し出さなくてはならない。
 眠れぬままに、ジェイ・ゼルは考え続けた。
 三日三晩考え抜き、返済金額の増加を思いつく。
 増額を示し、代わりにハルシャの身を健全に保つように提案する。
 それなら、頭領ケファルも納得してくれるかもしれない。

 思い付きが、ジェイ・ゼルの心を明るくした。
 追加の金額は、自分の個人資産から捻出すれば、何とかなるだろう。
 早速マシュー・フェルズに依頼して、個人資産の明細を手にれる。
 綿密に計算を重ね、出せるギリギリの金額をはじき出した。
 最初の内はハルシャの技術も拙く、それほど給金を上げることは出来ない。
 それも込みで、一年ごとの金額の見直しを盛り込んだ返済案を、ジェイ・ゼルは作り上げた。
 それを持って、決死の覚悟で頭領ケファルに連絡を入れる。
 頭領ケファルの決定に逆らうなど、本来許されないことだ。
 ジェイ・ゼルは慎重に、話を進めた。
 イズル・ザヒルの機嫌を損ねれば、即座にハルシャを『アイギッド』に連れて行かなくてはならない事態に陥る可能性も高い。
 危険な橋を渡ることは、十分に承知の上だった。
 言葉を選んだ提案は、それでも彼の意に添わなかった。
 オークションを撤廃すること自体が、頭領ケファルにとって受け入れがたいことのようだった。
 遊戯で傷つかないように、自分がハルシャを仕込めばいいとまで、彼は言った。
 何とか食い下がろうとするジェイ・ゼルの耳に、思いもかけない言葉が響く。


 ハルシャ・ヴィンドースを、個人的に愛人として、囲い込みたいのか。
 ジェイ・ゼル? 


 柔らかい問いかけに、ジェイ・ゼルは凍り付いた。
 そのような意図はありません、と、即座に返そうとした言葉が、急に喉の奥に詰まった。
 薄青い瞳が、静かに自分を見つめていた。
 まだ、ナダル・ダハットの所有物であった時代から、彼は自分を知っていた。
 だから、見抜かれてしまったのだろう。
 ジェイ・ゼルが心の奥底に隠しておきたい、本当の想いを。

 水に渇く者のように、自分はハルシャ・ヴィンドースの存在を欲していた。
 いまだかつて、覚えたことのない感覚だった。
 初めて湧き起った内側の衝動に、ジェイ・ゼル自身が、正直戸惑い続けていた。

 醜悪な所有者から解放された時、自分は人間として生きていこうと決心した。
 もう二度と、誰かの所有物になりたくはなかった。
 決して自分の出自を知らせてはならないと、心に誓う。
 だから、個人的な関係に陥らないように、慎重に相手との距離を取り続けた。
 もし心を預け、快楽に酔えば――自分はあれほど忌避してきた『愛玩人形ラヴリー・ドール』である本性をさらして、瞳の色を変じてしまう。
 その事態を避けるために、行為を為したとしても、溺れないように自身を厳しく律した。
 頭領ケファルの命を受け、遊戯に供せられる少年たちに技術を仕込んでいる時も、相手がどんなに快楽に鳴いても、自分だけは冷静であろうと努力を重ねた。
 人との関係を、欲してはならないと戒めてきたのに。
 いつの間に――
 自分はハルシャ・ヴィンドースを求めていたのだろう。
 頭領ケファルに楯突くという愚を犯してまでも、彼の身を守りたいと思うほどに。
 イズル・ザヒルは、的確にジェイ・ゼルの心の内を、見抜いてきた。

 衝撃が去らないジェイ・ゼルに向けて、柔らかな語調でイズル・ザヒルは続けた。
 破格の譲歩を示し、自分が愛人としてハルシャ・ヴィンドースを囲うと懇願するのなら、意図を汲んであげようと。
 もしそうしないのなら『アイギッド』で遊戯に供さざるを得ない。
 自分の気持ち一つだと、温情を示してくれる。

 それでも、すぐにジェイ・ゼルは頷けなかった。

 ラグレンの上流階級では、男色は禁忌だ。
 ヴィンドース家の長子として、厳しく育てられているハルシャが、自分を受け入れるはずがない。
 彼の拒絶の言葉を想像しただけで、戦慄が走る。
 動揺を押し隠し、ジェイ・ゼルは想いを伝えようと、努力をした。
 それでも恐らく声は、震えていたのだろう。

 無垢な彼は、男性同士がどうやって交わるのかを知らない。
 そもそも、男性との交わり自体が、彼らの倫理観に反することだと。
 自分がどんなに求めても、彼は拒絶するだろうと、言葉を選びながら、伝えた。

 ジェイ・ゼルの恐怖すら、聡明な頭領ケファルは見抜いたようだった。

 その悩みは無用だ。
 拒まぬように、契約を結べばいいだけだ、ジェイ・ゼル。
 問題は、そこではない。

 思わぬ鋭い言葉が、彼の口から放たれた。
 イズル・ザヒルは、激怒していた。
 普段冷静な彼が、これほど感情を荒げる姿を見たことがない。
 自分の態度が、頭領ケファルを怒らせたらしい。
 詫びを口にしようとしたジェイ・ゼルの言葉を封じて、イズル・ザヒルが激しい口調で言葉を続けた。


 答えろ、ジェイ・ゼル。
 お前は、ハルシャ・ヴィンドースを抱きたいのか、抱きたくないのか。
 二択だ。
 抱かないのなら、『アイギッド』に連れてこい。
 即刻遊戯に供そう。
 だが。
 抱くのなら、お前の手元に留め置くことを、許可しよう。
 遊戯にも出させない。
 答えろ、ジェイ・ゼル。
 お前は、ハルシャ・ヴィンドースと性行為を行うのか、行わないのか。
 自分で抱くのか、他人に抱かせるのか!
 きれいごとを言うな、本音を聞かせろ!
 答えろ、ジェイ・ゼル!


 イズル・ザヒルの薄青い瞳が、真っ直ぐに自分を見ていた。
 彼は、知っている。
 自分がどんな存在なのかを――
 相手の肌を求めずにはいられない、『愛玩人形ラヴリー・ドール』としての本性を。
 ハルシャに対する飢えに近い渇望は、自分の根源から湧き起っているものだと、ジェイ・ゼルも気付いていた。
 全てを知りながら、頭領ケファルは尋ねてくれている。
 運命を自分でつかみ取るだけの勇気が、お前にあるのか、と。

 惑星アマンダで――
 洗脳に近い教育を自分たちは受けて育った。
 自分たちは、選ばれる存在。
 自分から、相手を選んではならない。
 自分たちは、愛される存在。
 自分から、相手を愛してはならない。
 繰り返し、繰り返し、魂に刻み込み、罪悪感を植え付けるように、思想は呟かれた。
 所有者を自分から選ぶことは、凄まじい葛藤を自分たちの中に生みだす。
 イズル・ザヒルの元へと、走っていくエメラーダの中にも、その苦しみが渦巻いていたのだろう。
 それでも、彼女は力強い腕の中に、自分自身を委ねた。
 運命に抗い、未来をつかみ取る勇気を、その時、自分は見たと思った。

 その勇気を今、見せてみろとイズル・ザヒルは言っている。
 魂が焦げるほどに、ハルシャ・ヴィンドースを欲していることを、彼は見抜いていた。
 それでも、ジェイ・ゼルは頷くことが出来なかった。
 もし、ハルシャが自分を拒めば――自分は狂気にさらされるかもしれない。
 その時に、彼を傷つけることが、恐かった。

 自分の中には、制御しきれない暴力的な人格が、潜んでいる。
 そのことに気付いたのは、ナダル・ダハットから解放されて、数年が経った頃だった。







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