ハルシャを――
自分から解放することが正しいことだと、解っていた。
なのに。
説得し続け、ようやく覚悟を決めてハルシャが部屋を去ったあと……
どうしようもない喪失感に、打ちのめされた。
息が出来なかった。
世界から光が消えた。
暗黒の中に、たった一人自分は佇み続けていた。
ハルシャを失うことの意味を、その瞬間、正確に自分は悟ったのかもしれない。
かつて。
これが自分の日常だったのだと、ジェイ・ゼルは思い出していた。
漆黒の闇の中を、ただ、漂うだけの日々。
肉体を貪られ、心など必要とされない、永劫の束縛。
生きながらに煉獄の炎に焼かれているようだった。
どんな祈りも。
どんな希望も。
どんな願いも。
全てを打ち砕かれ、身を支配され、諦念だけを抱えて生きていた。それが、作られた生命体の宿業だと、毒を身に入れるように飲み込まされた。
自分は――
望んで『
それ以外の人生を、選ぶ自由すら与えられず、性奴隷としての未来を生きるしかなかった。
二十年前、イズル・ザヒル様によって解き放たれた時、決して闇に戻るまいと決めた。服従と隷属を強いられる『
その自分に、ハルシャは言ってくれた。
あなたはまがいものの人間ではない。
本物の『
彼の朴訥な言葉の意味を理解した時に、魂が震えた。
ハルシャは懸命に伝えようとしているのだ。
自分以外にならなくていい。
あなたは、あなたで良いのだ、と。
緑に変じるこの瞳すら――彼はきれいだと言ってくれた。
呪詛そのものである、人工生命体の証を。
永遠に見つめていたいと、教えてくれた。
これほど深く、自分を理解してくれた存在があっただろうか。
ハルシャは全てを受け入れて、認めてくれた。
なのにこの先、自分は彼のいない世界で生きていくのだ。
手を離すことが、彼の幸せだと解っているのに――
なぜ。
こんなにも、途方に暮れたような気持ちになるのだろう。
あなたを忘れない。
ありがとう、ジェイ・ゼル。
優しい言葉が、まだ耳にこだましている。
泣きじゃくっていた顔と、必死に浮かべていた笑顔と。
自分にだけ見せてくれる艶めいた表情と、あえやかな吐息と。
ハルシャの全てを、自分は失うのか?
内に問いかけた瞬間、声が聞こえた。
お前はどうしたいんだ、ジェイ・ゼル。
逃げるな。
本気を見せてみろ。
かつて、
ハルシャの消えた空間を見つめる。
どうして。
――
たとえ一瞬でも。
彼と離れて、生きていけるなどと、思ってしまったのだろう。
気付いた瞬間、ジェイ・ゼルは、走っていた。
床を蹴って数歩で玄関にたどり着き、ハルシャが触れた駐車場の文字を強い力で押す。
身が、浮遊感に包まれた。
欲しいのなら、手に入れればいい。
一人の人間として、堂々と愛する者を求めればいい。
ジェイ・ゼル。
お前は、どうしたいんだ。
聞かせてくれ、お前の本音を。
歯を食いしばり、ジェイ・ゼルは叫び出したい衝動を抑えた。
私は――
ハルシャを失いたくない。
彼は、自分が初めて愛した人だ。
人生でたった一度、心から求めた人だ。
彼は自分の全てを、受け入れてくれた。
これほど愛した人はいない。
過去も。
未来も。
ただ――ハルシャだけだ。
彼を失うことなど、耐えられない。
降り立った駐車場で、飛行車に乗り込もうとするハルシャの後姿が見えた。
ためらいも羞恥も全てをかなぐり捨てて、ジェイ・ゼルはひたむきに走っていた。
身を屈めたハルシャの腕を引き、抱き寄せる。
腕に温もりを包んだ時、崩れそうなほどの安堵が、身の内に広がった。
この愛しい存在を、失うところだったのだ。
愚かな選択だと、イズル・ザヒル様からは非難を受けるかもしれない。
それでも良かった。
泣きじゃくるハルシャの髪に頬を当てて、自分は間違っていなかったのだと、思う。
彼のためになら、命を捧げても悔いはなかった。
愛していると、ハルシャがはじめて言葉にしてくれたとき、全身の細胞が甘く震えた。
これほど美しい言葉を、自分は聞いたことがなかった。
愛しい人からこぼれ落ちる、真実の告白は、この世で一番貴い響きを帯びていた。
ハルシャは、自分を愛してくれた。
『
そして。
ハルシャは、五年前の過去すら、自分に償う機会を与えてくれた。
全てをやり直して、そこから新しい一歩を、踏み出して行こうと――
五年前。
最後の銀行の手続きを終え、飛行車の中で考えていたように――ジェイ・ゼルは時を巻き戻して、ハルシャを抱いた。
自分は『
身を通じて快楽という名の幸せを、相手に与えるために存在する。
ジェイ・ゼルは自分の本性を隠すことなく、ハルシャに向き合った。
彼に理解して欲しかった。
自分、という存在を。
交歓の中で緑に瞳を変じる自分を、ハルシャに見つめて欲しかった。
ハルシャは、知らない。
瞳の色が緑に変じるのは、とても希少な現象であるのだと。
酔うほどの深い快楽を得なければ、瞳の色は変化しない。
かつて、『
それほどの手管を使わなければ引き出せない、真の姿を――
ハルシャはただ、身を合わせるだけで、自分に呼び起こした。
柔らかく指を後孔に沈めるジェイ・ゼルの動きに、ハルシャが色めいた吐息をあげる。
音が耳朶に触れるたびに、痺れるような快楽が内側に広がる。
愛し、愛されるために生まれて来た『
身の内の真の歓びを、ハルシャが呼び覚ましてくる。
ただ、彼だけが――
『
自分の全てを傾けて、ジェイ・ゼルはハルシャを慈しんだ。
彼がじれて挿入をねだるまでに、優しくゆっくりと後孔をほぐしていく。
ハルシャにこの行為を望んで欲しかった。
限界まで忍耐をし、彼の口から懇願を引き出した。
初めての彼の体を抱くように、ジェイ・ゼルは優しく自分自身を彼の中に沈めていく。
制御を外さぬように気を付けながら、ゆっくりと自分自身をハルシャに馴染ませていく。五年前に出来なかったことを、今、ハルシャはやり直す機会を与えてくれたのだ。
胸が痺れる。
ハルシャの内側から、熱を拾い上げる。
ここに、楽園があるのだと、感じた。
愛しているよ、ハルシャ。
彼に触れる全ての場所から、ジェイ・ゼルは語りかける。
君が愛しいと、言葉もなく呟き続ける。
全てを彼の中に沈め終えた時、五年前の過ちを乗り越えて、今、ハルシャと一つになれたのだとはじめて思えた。
愚かな罪を繰り返す自分を、ハルシャは赦してくれる。
幾度も、幾度も。
罪に濡れた自分の身を、温かな腕の中に抱きとめてくれる。
この呪われた身でも、生きていていいのだと、囁くように。
愛している、ジェイ・ゼル。
ハルシャの口からこれまで、決して聞けないと諦念していた言葉がこぼれ落ちる。
身を拒み続けたハルシャが、愛を教えてくれる。
ここまで、自分たちは来たのだ。
五年の時を経て――全てを認め愛し合うまでに。
心が震え、ジェイ・ゼルは言葉を発することが出来なかった。
滲みそうな涙を微笑みで隠し、柔らかく唇を覆った。
初めて触れた時――
青い果実のようだったハルシャの唇が、柔らかく自分を受け入れてくれている。
過ぎ去った日々が、脳裏をよぎる。
思いが溢れ、耐えきれなくなったように、ジェイ・ゼルはそっと身を動かした。
傷つけないように、柔らかく彼の中を擦る。
ハルシャのあえやかな吐息が、耳朶をくすぐった。
不意に――
動き始めたジェイ・ゼルに合わせるように、ハルシャが身を動かし始めた。
かすかな驚きが広がる。
上に乗ってくれた時以外、ハルシャは自分から動こうとはしなかったのに。
今は、ジェイ・ゼルの動きに添うように、身をうねらせている。
驚きが喜びに変化していく。
ハルシャが自分を受け入れて、共に高みに昇りつめようとしてくれている。
この行為が一方的なものでなく、二人で営むことだと理解してくれたように。
ぎこちないハルシャの腰遣いに、愛しさがあふれて止まらなかった。
伝わる動きに、内側が甘く痺れていく。
この瞬間のために、自分は生まれてきたのかもしれない。
そう思えるほどに、ハルシャの熱に自分が溶けていく。
彼を見つめたかった。
官能に色めくハルシャをーー
唇を離し、距離を取って表情を見守る。
頬を上気させ、唇を引き結んで、彼が自分の動きを受け入れてくれている。
瞳が触れ合う。
ハルシャは緑に変じる瞳の色を、きれいだと言った。
忌まわしい過去と共に、永遠に封じたかった、この瞳を――彼はいつまでも、見つめていたいと、言ってくれた。
愛しかった。
ただ。
彼が愛しかった。
「――ジェイ・ゼル!」
快楽に身を捩りながら、ハルシャが名を呼ぶ。
声で、自分の魂に触れようとするかのように。
瞬間、彼に、自分の全てを知って欲しいと、祈るように思った。
「ジェイド、だ」
動き続けながら、言葉が、口からこぼれ落ちた。
かつて。
あれほど忌んだ本名を、自分はハルシャに告げていた。
驚きに瞠った、澄んだ金色の瞳を見つめながら、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。
耳にした本当の名に、蘇る過去の痛みが、微かな笑みを浮かべさせる。
「私の本当の名前は、『ジェイド』だ」
過去がフラッシュバックする。
醜い行為も、傷ついた心も――愛する人に、全てをさらしたかった。
ハルシャから目を逸らさずに、ジェイ・ゼルは呟く。
「今だけは、その名で呼んでくれないか、ハルシャ」
この瞬間だけは。
本当の自分で向き合いたかった。
虚偽も何もなく、ただ、惑星アマンダで作り出された『
真実を彼にさらしたかった。
「――ジェイド」
優しい唇が、秘め続けた本当の名を、空間に刻む。
重く内側が痺れた。
愛しさが溢れて、抑えきれなくなる。
「ジェイド」
ハルシャの唇が、忌んできた名前を口にしている。
宝物のように、愛しそうに目を細めながら。
激しい感情に突き動かされ、ジェイ・ゼルは身を倒してハルシャを腕に包んだ。
そのまま抱き上げる。
自身の重みで、ハルシャの中の深いところへ熱を持った昂ぶりが入り込む。
痛みに近い刺激に、ハルシャが叫んだ。
苦しみを和らげようと、ジェイ・ゼルは強く彼を抱きしめる。
「ハルシャ」
彼が自分の名を、大切に口にしてくれたように――
この世で一番貴重な言葉を、ジェイ・ゼルは呟いた。
ハルシャ・ヴィンドースの名を。
呼びかけに応えるように、ハルシャが目を開く。
金色の瞳の中に、自分の姿が映っていた。
ラグレンに降り立たなければ、ハルシャに出会うことは出来なかった。
その奇跡を、思う。
『
それすらも、ハルシャに出会うための道だったのかもしれないと、ジェイ・ゼルはふと、考えた。
快楽を与えることだけを、教えられた日々。
屈辱を感じることすら許されなかった、物としての生。
呪われ、存在を許されない命であっても、愛する心は内側にあるのだと――
ハルシャが、教えてくれた。
澄み切った金色の瞳を、貪るように見つめ続ける。
「ジェイド」
過去と未来を繋いで、自分の本当の名が、愛しい人の口からこぼれ落ちる。
そうだ。
自分は「ジェイド」だ。
翡翠の色に瞳を変じる『
ジェイ・ゼルは、固く自分に腕を回すハルシャの身を、揺すり上げた。
嬌声が彼の口からあふれる。
甘やかに締め付けるハルシャの後孔に、ジェイ・ゼルは深く自分自身を送り込んだ。
かつて――
惑星アマンダで、名の由来を話してもらったことがある。
君の瞳は、快楽に酔うと緑の宝玉のようになる。だから「
過去にも、何体かの「
緑の瞳は希少で、発現が難しい色らしい。
それゆえに、人々は争って求めたがる。
所有する『
それは、もしかしたら君にとっては不幸なことかもしれない、と、彼は小さく呟いていた。
その言葉の意味を、ナダル・ダハットに所有されてから思い知った。
瞳の色を、かつての所有者は彼自身の技量で変えさせることが出来なかった。
だから――
ナダル・ダハットは使ったのだ。
惑星アマンダの秘薬。醜悪な媚薬を、自分に。
ハルシャと抱き合い、触れ合う肌が熱を帯びる。
愛しさが全身を痺れさせる。
想いが、動きを激しくさせる。
抑えきれない。
「ぁぁあっ、んっ」
動きに合わせて、ハルシャが声を絞る。
「んっ、んあっ」
呼吸が苦しいように、必死に息を吸い込みながら、ハルシャが声をあげる。
リズムを緩めてあげたいと思っても、動きが止められなかった。
彼の内側を擦り上げながら、肌を触れ合わせる。
『
自分は真の快楽を知らずに、これまで生きてきたのだと、この瞬間感じた。
愛しい存在との交わりは、魂が体から流れ落ちそうなほど、身の内を蕩けさせる。これほどの快楽が存在すると、自分は知らなかった。
彼だけが、自分の内側から、歓びを引き出していく。
肉体を通じて、彼の魂と溶けあうのを感じる。
動きが、止められなかった。
激しく揺すり上げられながら、ハルシャが腕を動かし、髪に指を絡めてくる。
ひどく優しい手つきで、慈しむように撫でられている。
悦びが、身の内から滴り落ちた。
「――ジェイド」
耳元に、ハルシャの声が触れる。
動きが止められない。
ハルシャの後から、ふくらみに指を喰い込ませるようにして、身を持ちあげる。
落とすようにして下げると、嬌声が一段と高くなる。
悦びに鳴く声に、耳朶が痺れていく。
全身が熱い。
ジェイド……ジェイド……ジェイド……
動きに合わせるように、ハルシャの口から、優しい呼び声が紡がれていく。
言葉の鎖に巻かれて、彼の身に繋ぎ止められているようだった。
凄まじい快楽が内側から湧き上がって来た。
ハルシャの荒い息遣いを聞きながら、ふと、ジェイ・ゼルは思った。
ナダル・ダハットは、媚薬の力を借りなければ、瞳の色を変じさせることができなかった。
突然、事実に気付かされた。
彼は、惑星アマンダの最高作品とまで言われた自分たちの――身に有する本当の美を、自分自身の力で引き出せなかったのだ。
これまで、ずっと――
ナダル・ダハットが満足しないのは、自分たちの不手際だとジェイ・ゼルたちは感じさせられてきた。
とんでもない高額の代金を支払ったのに、これぐらいのことしか出来ないのか、と。罵られ、身を苛まれ、追い込まれ続けた。
ナダル・ダハットは、極めて繊細に作られた自分たちを暴力で苛み続けた。
愛で慈しめば咲く花を、乱雑に踏みにじるように。
そうか――
ジェイ・ゼルは心に呟いていた。
ナダル・ダハットは、『
王冠を持つだけでは、王となれないように。
自身の力量不足を、ナダル・ダハットは暴力と媚薬で埋めようとしたのかもしれない。
持つに値しない人物に、自分たちは身を縛られ続けていただけなのだ。
ハルシャが、急に身に力を込めた。
痛みを得たのかと、はっと意識を戻したジェイ・ゼルの上で、彼が膝を使って、自分のリズムに合わせて身を動かし始めた。
これほど激しく揺すられながらも――ハルシャは自分に応えようとしていた。
自分と一つになりたいと、言葉もなく叫ぶように。
ひたむきな動きに、背筋に愉悦が走る。
「ハルシャ」
愛しさが溢れて、言葉になる。
「愛している、ハルシャ」
動きを緩めることが出来ずに、ジェイ・ゼルは内側の真実を、無意識のように呟いていた。
「君を、君だけを――」
目の前の愛しい人の肌触りに、快楽が弾けていく。
熱い。
ハルシャの中が、燃えるように熱かった。
言葉に反応したように、彼の内側が痙攣する。
締め付けのきつさに、眉を寄せてジェイ・ゼルは動きを速めた。
「ああっ!」
声を絞ってから、ハルシャが身を寄せて、腕に力を込めた。
君が、君だけが――
私の真実を、引き出してくれる。
甘く締め付けるハルシャの内側を穿ちながら、初めてジェイ・ゼルは、かつての所有者を憐れだと感じた。
ナダル・ダハットは、自分たちをただ所有し、支配することしか出来なかった。
快楽を与えることも出来ず、自分の真の姿を、見ることもなかった。
ハルシャの腕の中で、瞳の色を変じていく自分の――
この上なく希少だと言われた、真の快楽に酔う『
激しい動きに、ハルシャが身を震わせて耐え続けている。
動きが止められない。
愛しい人の香りにすら、全身が痺れていく。
ハルシャの汗の香り。
乾した麦藁のような、軽みのある香ばしい匂い。
五感を痺れさせるジェイ・ゼルの耳に、ハルシャの言葉が響いた。
「私も、愛している、ジェイド」
呟いた後、耐えかねたようにハルシャが絶叫した。
彼が、達する。
加減できずに激しく突き上げた時、ハルシャの昂ぶりから白濁した液が溢れた。
合わせた肌に、降り注ぐ。
ほとばしりを受け止めた場所が、焼けた鉄を当てられたように熱かった。
ハルシャの、愛しい快楽の証。
感じた瞬間、ジェイ・ゼルも内側からの波に攫われるように、絶頂を迎えていた。
「ハルシャ」
まだ吐精の余韻の冷めないハルシャの内側が、ひくひくと締め付ける中に、自身を放つ。
世界が、白くなった。
無我夢中で、ジェイ・ゼルは腕にハルシャを包み、自分の身に引き寄せた。
応えるように、ハルシャが背中に腕を回してくれる。
固く、抱き締め合う。
ぐったりと身を預けるハルシャの口から、荒い息が漏れている。
無言で、彼の命の響きに耳を澄ませる。
生きている。
ここに。
ハルシャが。
全てを、受け入れてくれる――
私の、愛しい人が。
弛緩するハルシャの身を抱きしめながら、長くジェイ・ゼルは沈黙を守っていた。
長い旅路の末に、故郷にたどり着いたようだった。
言葉が必要ないほどの、安らぎが包む。
かつて覚えたことがないほどの、幸福感が身の内を満たしていた。
汗ばむハルシャの髪を、ジェイ・ゼルは静かに撫でた。
「ジェイドは」
言葉が、無意識に口からこぼれた。
「生まれた時につけられた名だ。惑星アマンダで……ずっと、私はその名で呼ばれていた」
ハルシャが身じろぎをして、少し顔が見えるだけの距離を取って、自分を見た。
その表情から、悟る。
自分の瞳は、緑色に変じているのだろう。
ハルシャは、この瞳の色がとても好きなようだ。
子どもが大好きなお菓子を見るような眼差しで、いつも自分を見つめてくる。
無邪気な表情に、ジェイ・ゼルは自然と笑みがこぼれるのが止められなかった。
見つめるハルシャに、静かに語りかける。
「緑色の
それが『
心を落ち着けるように、瞬きを一つ、した。
真実を告げるだけの勇気をかき集めると、ジェイ・ゼルは再び口を開いた。
「忌まわしい記憶そのものの名前を、もう二度と口にするつもりはなかった。緑の眼は、私にとって呪いにほかならなかったからね」
かつて――
身を容赦なく弄ばれた過去が、言葉と共に蘇る。
呪いだと、思っていた。
色を変じるこの瞳は――生まれたときにかけられた、永劫の呪詛だと。
なのに。
ハルシャは今も、一心に瞳を見つめている。
少し頬を紅潮させて、憧れるように目を瞠って。
この瞳を、彼は愛してくれている。
それだけで、全てが許せるような気がした。
媚薬でしか、この瞳の色を引き出せなかった醜悪な所有者も。
自分を作り出した惑星アマンダの科学者たちも。
笑みを深めながら、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。
「けれど、君はこの眼を、きれいだと言ってくれた。
永遠に見つめていたいと――」
絡めていた腕を解き、ひたむきに見つめてくる、ハルシャの頬に触れる。
手の平の内側に、彼の熱を感じる。
「君が喜んでくれるのなら、緑に変わるこの瞳も、悪くないかもしれない」
愛しい命の手触りにジェイ・ゼルは、目を細めた。
「やっと、そう、思えるようになったんだよ。ハルシャ」
震えそうになる唇で、言葉を続ける。
「君のお陰だ」
彼は言ってくれた。
自分は、まがい物の人間ではない。
本物の『
その自分の本当の姿を、ハルシャだけが引き出してくれる。
この瞳は語ってくれているのだ。
ハルシャを想う、自分の心を。
自分を思う、ハルシャの心を。
真実の愛がそこにあるのだと――この瞳は、教えてくれている。
幸福感に、ジェイ・ゼルは微笑みを浮かべた。
「ジェイド」
不意に、ハルシャが口を開いた。
「きれいだよ、あなたの緑の瞳は――目にするだけで、心が震える。透明で深みのある、翡翠の緑だ」
朴訥な言葉を呟きながら、金色の眼に、何の前触れもなく、涙が滲んだ。
刺されるように、胸が痛んだ。
ハルシャが泣いている。
透明な涙を見つめたまま、ジェイ・ゼルは動けなくなった。
優しい言葉が、ハルシャの口から紡ぎだされた。
「大好きだよ、永遠にみつめていたいほどに。この瞳が、私は大好きだ。お願いだ、もう、嫌わないでくれ。世界でこれほど美しいものがあるのかと思うほどに、あなたの瞳は、美しい」
言葉を切ると、彼は微笑んだ。
細めた目から、新たな涙がこぼれ落ちる。
泣いていることも気にせずに、ハルシャは言葉を続けた。
「――私の、宝物だ」
宝物は、君だよ。
私の
ハルシャ。
想いの深さに、言葉がすぐに出なかった。
ただ、ハルシャの瞳を見つめ続ける。
はらはらと落ちる透明な涙に、ここまで深く、自分を想ってくれる存在があることに、心が震え続ける。
遠い昔見た、ステンドグラスの中に封じられた、炎をまとった大天使のことを、思い出す。
どうして、四体いる大天使の内、正義を司る天使だけが気になるのだろうと、ずっと思っていた。
それはきっと――
ハルシャに似ていたからだ。
未来に出逢う彼の面影を、過去の自分はもう、知っていたのかもしれない。
この出逢いは、運命だったのだろうか。
未来の一点で、彼に出会うことが定められていたのだろうか。
広大な宇宙の中で――
恒星ラーガンナの光の照らす、惑星トルディアの大地の上で。
私は、ハルシャに出逢うことが出来た。
その奇跡を、再びジェイ・ゼルは思った。
「君は、私の全てだよ。ハルシャ」
湧き上がる感動を言葉にしきれずに、ジェイ・ゼルは呟いていた。
髪を撫でてから、そっと顔を寄せる。
優しい言葉を告げた唇を、覆う。
柔らかく受け入れるハルシャの唇を、静かに探る。
心が穏やかになっていく。
渇望が消えて、深く静かな情愛だけが、自分の中を満たしていった。
「もう一度、君と愛し合いたい」
愛し合う。
そうだ。
この行為は――肉体を通じて、愛を交わすためにあるのだ。
その真の意味を、これまで数えきれないほど身を合わせて来たのに、自分は気付いていなかった。
五年をかけて――ハルシャが教えてくれたのだ。
大切なのは、肉体の奥にある心なのだと。
愛しい魂を内側に宿す体を、壊れ物のようにそっとベッドに横たえる。
まだ繋がったままの場所から伝わる刺激に、ハルシャがちいさく呻きを漏らした。
羞恥に顔を赤らめている。
これほど求め合いながら、まだ頬を染める恥じらいを持っていることに、ジェイ・ゼルは微笑んだ。
ハルシャの顔の横に手を突き、上から見つめる。
緑に変わっている瞳へ、食い入るようにハルシャが眼差しを与えてくる。
見つめ合いながら、静かに身を動かす。
一度吐いた精のためか、ハルシャの中は滑らかだった。
彼が好むように、穏やかに昂ぶりを動かしていく。
ハルシャは、追い立てるような激しさが苦手だった。
内側の感覚がついて行かないのか、静かな動きが好きだった。
ジェイド
星屑のように、きらめく言葉がハルシャの口から零れ落ちる。
その度に、激しくなりそうな動きを制御して、ジェイ・ゼルは身を滑らかに動かし続けた。
少しでも長く、彼の中に入っていたかった。
擦れる水音が、次第に荒くなるハルシャの呼吸の音に重なる。
少し高めの声で、ハルシャが快楽をこぼす。
摺り上げる動きに、身を捩って全身で歓びを表現していた。
『
門外不出の技術を注ぎこまれて生まれた生命体は、子孫を残せないように、惑星アマンダのコントロールを受けていた。
一代限りで、終わる命。
だから。
どれほど交わっても、残せるのはただ、身の内の快楽だけだった。
それでも――
ハルシャの中に、何かを残したいと思ってしまうのかもしれない。
彼だけには、その身の内にジェイ・ゼルは精を吐いた。
自身から病を得てはいけないと、『アイギッド』からの仕事も、ハルシャを相手にすると決めてからは断っている。
ほとんどの性病は治療法が確立しているが、それでもハルシャの身を守りたかったのだ。
親もなく、子も作れない。
自分が生きた証はただ、ハルシャの心の中にしか、残らない。
ハルシャの艶めく表情を見つめながら、ジェイ・ゼルは穏やかに身を動かし続ける。
惑星アマンダの美の境地とまで呼ばれる、『
醜くなることも、許されていなかった。
だから。
寿命が人よりも短く設定されている。
老醜をさらす前に、命を散らすように。
五十まで生きられた『
だから、ハルシャの借金の返済を、自分は焦ってしまったのかもしれない。
自分の人生の終わる前に、ハルシャが自由になるように、と。
その願いが叶ったことを、自分はきっと、誰よりも喜んでいる。
彼はもう、自分自身の人生を歩いて行ける。
一度は諦めた彼と生きる人生を、再び手にしたことに、限りない幸福が湧き上がって来た。
この命が尽きるまで、守り抜きたい。
ハルシャを。
愛する人を――
心の中に呟きながら、優しく彼を高めていく。
「ジェイド――」
次第に虚ろな眼差しになりながら、ハルシャが呟く。
「愛している、ジェイド……」
「私もだよ、ハルシャ」
焦点がぼやける視線を捉え、ジェイ・ゼルは彼の言葉に応えた。
言葉を態度で示すように、身を深く入れて、ハルシャが震える場所を穿つ。
びくっと、身を跳ねて、ハルシャが叫んでいる。
たゆみなく、彼が快楽に鳴く場所を、刺激し続ける。
がくがくと、ハルシャの身が揺れ出した。
「ジェ……ジェイ・ゼル」
ほとんど無意識に自分の名を呼んでいる。
もう、教えられた本名を口にする余裕を失くしてきたようだ。
「ハルシャ」
呼ばれた名に、ハルシャが懸命に意識を向けようとするが、内側からの衝動が彼の思考を奪っているようだ。
「あっ、んあっ、んんっ」
熱い吐息と共に、言葉が虚空に吐かれる。
ハルシャの内側が甘く締め付けてくる。
快楽に酔いながら、懸命に見つめようとする仕草に、どうしようもなく高められていく。
想いのままに顔を寄せ、ハルシャの熱い息を、口で覆った。
びく、びくっと、刺激に反応するように、ハルシャの中が震える。
意識がさらわれそうなほどの快感が、背筋を駆け抜けた。
口と身体を合わせながら、深く静かに互いを味わいつくす。
強く押し込む動きに、不意にハルシャの身が痙攣した。
精を吐かずに、中だけで達してしまったようだ。
重い喘ぎが口の中に呟かれる。
彼の快楽の嵐が去るまで、ジェイ・ゼルは身を動かさなかった。
中に収めたものを、ハルシャの内側がびくびくと締め付ける。
ハルシャの汗の香りがする。
唇で彼を愛撫しながら、五感の全てでハルシャを感じ取る。
彼が内側に感じているものを、触れる場所から吸い取るように。
中だけで達すると、口寂しくなる。
知悉しているジェイ・ゼルは、優しくハルシャの咥内を探りながら、落ち着きを取り戻した彼の中を、再び穿つ。
嬌声が、口の中に溢れる。
優しく静かに――
ハルシャの中に身を沈め続ける。
長く穏やかな交わりの後、三度目にハルシャが中だけで達したとき、ジェイ・ゼルも精を吐いていた。
意識が朦朧としたままに、ハルシャが
「私を置いて行かないでくれ、ジェイ・ゼル。お願いだ。
一人にしないでくれ」
と、涙の滲んだ瞳で見つめながら、訴えかける。
胸が引き裂かれるほどの愛しさが、込み上げる。
「独りにはしないよ」
昂ぶりをそっと彼の身から外し、身を横たえる。
傍らに横たわったまま、ハルシャの手の平を取る。
「側に居るよ、ハルシャ」
温もりに安心したのか、ぎゅっと両手で自分の手を握りしめて、ハルシャが目を閉じた。
自分に握った手を引き寄せて、唇に当てる。
すとんと、落ち込むように彼は眠りについた。
「おやすみ、ハルシャ。
いい夢を」
呟きと共に、額に軽く唇を触れる。
もう、彼には聞こえていないかもしれない。
思いながら唇を離す。
すうっと、穏やかな寝息が聞こえて来た。
眠るハルシャは、ひどく幼い顔になる。
目を細めて、ジェイ・ゼルは寝顔を見守った。
赤い髪が、濡れて額に張り付いていた。
空いている方の手を動かし、汗の滲んだ髪を優しく梳く。
もう、ハルシャの前で、自分自身を偽る必要がないのだと、気付く。
固く握り込んだ手を、初めて開いた時のような、開放感が広がる。
ありのままの自分であることを、ハルシャは許してくれた。
限りない幸福が、身の内から湧き上がって来た。
真の自由を、得たような気がした。
ハルシャが自分の背に翼を与えてくれたようだった。
瞬きを一つして、髪を柔らかく指先で撫でる。
ジェイ・ゼルは過去の亡霊をーー
ナダル・ダハットの影を、静かに葬り去る。
安らかな寝顔を見つめながら、『
指先で、ハルシャの涙の痕を拭う。
微笑んでから、彼の眠りを妨げないように、静かに身を起こし、ベッドの端に追いやっていた上掛けを引き寄せる。
汗が引けば、身が冷える。
ジェイ・ゼルは片手で器用に、ハルシャの身を布団で覆った。
指に、温かなハルシャの息が触れていた。
手の平の内側に、ハルシャの温もりがある。
愛しい人の、命の熱が。
身を寄せ合い、魂を絡め合う。
不思議な静寂が、心の中に広がっていった。
もう。
自分は悪夢を見ることがないのかもしれない。
ハルシャの傍で眠ることが出来るのなら。
彼の温もりを、感じていられるのなら――
目を閉じると、ハルシャの穏やかな息遣いだけが、聞こえた。
その音に身を浸しながら、ジェイ・ゼルも同じまどろみに落ちていった。
(了)
The Other Side ~物語の反対側~ ジェイ・ゼルの視点からの独白をお届けしました。