次の日、帝星の空は晴れ渡っていた。
絶好のピクニック日和だ。
昨夜は随分早く寝台に潜り込んだのに、ハルシャはピクニックが嬉しすぎて中々寝付けなかった。
ジェイ・ゼルの睡眠を邪魔してはいけないと思い、大人しくベッドに収まっていたが、目を閉じても眠たくならない。寝息に耳を傾けながら目を塞いで、数時間を過ごした。
結局、ウトウトと眠りについたのは、夜明けも近くなってからだった。
短い眠りは、意外と深かったらしい。
ハルシャがジェイ・ゼルに揺り起こされた時には、出発を予定していた時間近くで、彼がすでに一人で準備を終えていた。
あれほど手伝おうと心に決めていたのに、自分が不甲斐なかった。
起こしてくれたら手伝ったのに、というハルシャの言葉に、彼は小さく笑った。
あまりにも気持ちよさそうに眠っていたからね、起こすのが忍びなかったのだよ。と。それにたいした準備はしていないから、大丈夫だよと付け加えてくれる。
本当に申し訳ないことだった。
「夏の日差しは強いからね」
出かけるに当たって、ジェイ・ゼルがハルシャに注意を与える。
「帽子をかぶって行かないと、熱射病になってしまうよ」
言いながら、つばのある木綿の帽子をかぶせてくれた。
「ラグレンでは日光に注意する必要がなかったから、ついつい油断してしまうけどね。帝星の太陽は侮れないから気を付けるんだよ、ハルシャ」
ドームで守られた環境で長く暮らしてきたハルシャには、帝星の自然がとても荒々しいように思える時がある。
日焼けもしたことがなかったので、肌が赤くなった時には慌ててしまった。
赤く熱を持つ肌を見つめてサーシャと二人で途方に暮れていると、リュウジが必死に笑いをこらえながら、太陽に当たると日焼けをするのですよ、病気ではありませんと、教えてくれる。
無防備に夏の太陽の下に出たことが原因だったらしい。
日焼けが落ち着いた後、皮膚がぱりぱりと剥がれてきた時も、サーシャと悩んでしまった。
それは普通のことだと自分はラグレンを出るまで全く知らなかったのだ。
この太陽が、ジェイ・ゼルの肌に悪影響を与える。
『
皮膚に直接触れるものは、木綿やリネンなど天然の素材でないと受け付けない。
普段着にシルクの素材を使っていたのは、必要に迫られてのことだと後でハルシャは知った。
とても繊細な肌なので、太陽光線も長く浴びると赤く炎症を起こしてしまうようだ。
今日も屋外での活動を想定して、ジェイ・ゼルは軽い素材の長袖をまとっていた。帽子は前だけにひさしのようなつばのあるハンティングを被り、首元を日光から守るために、薄い素材のストールも洒脱に巻きつけている。
その上、強い光に備えてかサングラスもかけていた。
普段見慣れない姿のジェイ・ゼルに、なんだか鼓動が収まらない。
ことにサングラスをしていると、彼の彫りの深い顔だちが際立って見える。
思わず見とれてしまうほどだ。
帽子を被せられながらじっと見つめていると、ジェイ・ゼルの口元が笑みの形になった。
「どうした、ハルシャ?」
サングラスの奥で、ジェイ・ゼルが灰色の眼を細めているのが、わずかに見えた。
「見慣れない格好が珍しいのかな?」
かっと顔が赤くなる。
ジェイ・ゼルに見とれていた自分が、妙に恥ずかしかった。
「な、何でもない」
視線を落として呟くと、帽子越しにポンと手が乗せられた。
「そろそろ出ないとね。お昼までに目的地に着くように頑張ってみようか」
ジェイ・ゼルが運転席に座り、ふわりと飛行車が浮いた。
シルガネン湖を後にするところまでは、ハルシャの記憶があった。
だが――
その後どうやら、自分は心地良い飛行車の揺れのために、ぐっすりと眠り込んでしまったらしい。
夜明けまで昂奮して眠れなかったつけが来たようだ。
道中ひたすら眠り続け、不覚にもジェイ・ゼルに揺り起こされて目が覚める。
「着いたよ、ハルシャ」
はっと目を開くと、ジェイ・ゼルが自分をのぞき込んでいた。サングラス越しに微笑んでいるのが解る。
「良く寝ていたね」
高次元透過航法を使って、惑星と惑星の間を一瞬で駆け抜けたようだった。
「す、すまない、ジェイ・ゼル」
うろたえながらハルシャは座席から起き上がっていた。
「途中で運転を変わると約束していたのに……」
「初めての場所での運転はくたびれてしまうからね。私なら大丈夫だよ、ハルシャ」
優しい声でジェイ・ゼルが危惧を解く。
「だ、だが、一人で運転をさせてしまった」
出がけに運転を交代すると約束をしていたのに、何てことだろう。
ふふっと、ジェイ・ゼルは微笑むと、手を伸ばして帽子越しに頭を撫でる。
「安心しきった顔で、ハルシャが横で眠っているのが嬉しくてね。つい、起こしそびれてしまった。気にしなくていいからね」
優しい手つきで頭が撫でられた。
申し訳なさに唇を噛み締めるハルシャを見つめてから、彼は妥協するように微笑んだ。
「でも。そうだね。帰りは交代しながら運転しようか」
その一言で気持ちが晴れた。
「解った、ジェイ・ゼル。帰りは寝ないようにする」
ジェイ・ゼルの笑みが深まる。
よしよしと頭を撫でてから、手が離れた。
「それでは、お待ちかねのピクニックを始めようか。ハルシャ」
ジェイ・ゼルの話では、ピクニックの目的地まで少し歩くらしい。
お弁当の入った籠の持ち手を二人で片方ずつ持ち、飲み物と下に敷くシートを携えて飛行車を離れる。
ここは、シルガネン湖から飛行車で四時間ほどの距離にあるらしい。ミルミェン市ガナッソだよ、とジェイ・ゼルが土地の名前を教えてくれる。初めて聞く街の名前だった。
なんと自分は四時間も眠り込んでいたのだ。
昔、紫の森にジェイ・ゼルが連れて行ってくれた時も、二時間自分は寝てしまった。成長が無いと反省をしてしまう。
ミルミェン市は、ハルシャ達の暮らす街よりも北寄りにあるらしい。空気が爽やかだった。
尖った形の木々の間の細い道を、ジェイ・ゼルと並んで歩いていく。
ふわふわと虫が漂うように飛んでいく姿が、森の中にたくさんみえる。
森の中の道は、ひんやりしていて気持ちが良かった。
木漏れ日が大地にきれいな紋様を描いている。
ちらちらと動く光の形が、木の間から自分たちにも降り注ぐ。
ハルシャはそれだけで楽しかった。
「ここの空気は、木の香りがするね」
ジェイ・ゼルが歩きながら呟く。
「この森を抜けると、目的の場所だよ」
飛行車では通れない細い道だ。歩いてしか行けないのだと教えてくれる。
「だから、そんなに人はいないと思うよ」
心配するハルシャの心をほぐすように、ジェイ・ゼルが優しい声で言う。
細道を十分ほど歩くと、森が切れてぱあっと視界が開けた。
その瞬間、ハルシャは目の前の光景に圧倒されて、一歩も動けなくなった。
暗い森を抜けた先は、緩やかな傾斜の丘になっていた。
眼前に広がる丘一面に、愛らしい花が咲き誇り、風に揺らめいている。
見渡す限り――様々な色調のピンクの花が大地を埋め尽くしていた。
コスモスだ。
風に揺れる花を見つめて、ハルシャは心の中に呟く。
ジェイ・ゼルの好きな花だ。
それが、こんなにたくさん――
帝星の青い空の彼方まで、優しいピンクの花の海が続いている。
風が吹くたびに、色調が微妙に変化していく。
心が震えるほどに美しい風景だった。
言葉を失って、ハルシャはただ立ち尽くしていた。
「きれいなコスモス畑だろう」
静かな声で、ジェイ・ゼルが呟いた。
「空の彼方まで、続いているようだね」
きっぱりとした帝星の空の青と。
柔らかなコスモスのピンクの花びらの色と。
色の対比の美しさに、理由も解らずに涙が滲みそうになる。
「きれいだ」
呟いてから、ジェイ・ゼルへ視線を向ける。彼ははるかな彼方を見つめていた。
整った横顔を目に映して、想いを滴らせる。
「ジェイ・ゼルの好きな花は、こんなにも力強く大地に咲くんだな」
ふっと顔が自分に向けられた。
口角が上がり、笑みを作る。
「コスモスがどんな風に咲くのかを、ハルシャに見てほしくてね」
静かな声で彼が呟く。
「花瓶の中だけでなく、大地に根を張り、雨と太陽の光を浴びて天に向けて咲くさまを――。本当の花の姿を」
笑って彼は付け加えた。
「これがコスモスだよ、ハルシャ」
昨日、食事の後にジェイ・ゼルにガーベラの画像を見せてもらった。
鉢植えに咲いているものがほとんどで、花弁の形や質感が違うことを、花瓶に挿したコスモスを側に引き寄せて、比べながら教えてくれる。
比較して、やっと納得する。コスモスとガーベラは、全く別のものだった。
知らずに二十八年間を生きてきてしまった。
きっとジェイ・ゼルは――
本物のコスモスを、自分に見せたかったのだろう。
そのためにここに連れてきてくれたのだと、得心する。
「よく解った、ジェイ・ゼル。もう間違えない」
羞恥に顔を赤らめながら、ハルシャはぼそりと呟く。
ふふっと笑うと彼はコスモス畑へ再び目を戻した。
「後で、あの丘の上まで登ってみよう。でもその前に――」
視線を再びハルシャに向けて笑みを深める。
「このコスモス畑を見ながら、お昼ご飯にしようか」
昼には少し早い時間だったが、ジェイ・ゼルの提案で先に食事をとることにする。
歩いてきた道から森の端にそってしばらく進んだところを、ジェイ・ゼルは昼食の場所に選んだ。日陰でその上少し奥まっているから、人目に付きにくいというのが理由だった。
ここからでも十分コスモスが眺められる。
ジェイ・ゼルは太陽に長く当たれないので、日陰は大歓迎だった。
日差しがないので帽子を脱ぎ、風を髪に受ける。
地面を軽くならして、携えてきた敷物を広げると、もうそれでピクニック気分になってしまう。
森を背に、コスモスを眺める位置に二人で並んで座り、お弁当を開く。
ワクワクしながら開いた籠の中には、こんがりと表面が焼かれたホットサンドウィッチが並んでいた。
瞬間。
思い出が蘇り、ハルシャは口を開けて驚きを露わにしてしまう。
その顔のまま、ジェイ・ゼルを見る。
彼は、サングラスを外して微笑んでいた。
「そんなに驚かなくてもいいよ、ハルシャ」
ふふっと笑みが深まる。
「懐かしいサンドウィッチだね」
口を閉じて、じっとジェイ・ゼルを見つめる。
借金を全額返した後、彼にもう会わないと告げられた時――このホットサンドウィッチを見て、自分は涙をこぼしてしまった。
懐かしくて、ジェイ・ゼルが恋しくて。
逢いたくて、逢いたくてたまらなかった。
その時の感情が蘇ってくる。
「ジェイ・ゼルがもう会ってくれないと言った後」
想いを伝えたくて、ハルシャは口を開いていた。
「オキュラ地域で住んでいた家の引っ越し作業をしたんだ」
ゆっくりと笑みを消して、ジェイ・ゼルが自分の言葉に耳を傾けてくれている。
あまり、あの時のことは二人とも話題にしなかった。
でも、今、とても話したくなってしまったのだ。思いに突き動かされながら、ハルシャは言葉を続けた。
「その昼に、リュウジがホテルに頼んでくれたのが、ホットサンドウィッチだった」
わずかに、ジェイ・ゼルの表情が動いた。
ハルシャは眉を寄せながら、懸命に想いを伝える。
「それを見た瞬間、ジェイ・ゼルと過ごした時間が蘇ってきて、涙が抑えられなかった。サーシャが傍にいたのに、歯止めが効かなかった」
あの時、泣いていることすら自覚せずに、頬を涙が伝い落ちていた。
過去に心を飛ばしながら、ジェイ・ゼルの灰色の瞳を見つめる。
「ジェイ・ゼルに、逢いたかった」
ぴくっと、ジェイ・ゼルの眉が震える。
「来てはいけないと言われていたのに、どうしても逢いたかった」
涙が滲みそうになって、慌ててハルシャは視線をそらした。
「すまない、ジェイ・ゼル。サンドウィッチを見たら、その時のことを思い出してしまった。もし、あの時、お昼に出たのがホットサンドウィッチでなければ、ジェイ・ゼルのところへ行かなかったかもしれないと、思う時がある。
だから」
心の整理をつけると、ようやくハルシャは笑顔になってジェイ・ゼルへ視線を戻した。
「感謝しているんだ。ホットサンドウィッチに」
消えていたジェイ・ゼルの笑みが、再び彼の顔に灯った。
「そうか」
手がさし伸ばされ、優しくハルシャの髪を撫でる。
「なら、私も感謝しなくてはならないな。ホットサンドウィッチに」
灰色の眼を細めて、彼はとても穏やかな声で呟いた。
「ハルシャと私を、再び結び付けてくれてありがとう、と」
そんな言い方をされると、何となく照れる。
「つ、つまらない思い出話をしてしまった」
静かにジェイ・ゼルが首を振った。
「とても素敵な話だよ。聞かせてもらってとても嬉しいな。ハルシャがそんな風にして私のところに来てくれたのだと教えてもらってね」
ゆっくりと手が髪を滑る。
「その思い出のたっぷり詰まったサンドウィッチを、さっそく食べようか」
手をすっと引くと、彼はなぜか胡坐をかいて敷物の上に座る。おもむろにハルシャに目を向けると、ぽんぽんと自分の膝の上を叩いた。
ま。
まさか。
この動きは――
と見つめるハルシャへ満面の笑顔を向けながら、
「さあ、膝の上においで、ハルシャ」
と、優しい声で
ハルシャはとっさにまわりを見回した。
ジェイ・ゼルが言っていたように、確かに周りに人の気配はない。だが、いつどこで誰が来るか解らない。
「ジェ、ジェイ・ゼル」
震える声で、ハルシャは警告するように言う。
「誰かがあの森から来たら――」
「大丈夫だよ、ハルシャ。きちんと人目につかない場所を選んでいるからね」
ふふと彼は笑う。
「ハルシャは照れ屋さんだから、ちゃんと考慮済みだよ」
そんなに嬉しそうに言われても、素直にそうですかとは言えない。
「けれど、もし誰かが――」
「大丈夫だよ。みんなきれいなコスモスに目を奪われて、森の隅っこにいる私たちのことなど気にもかけないよ」
「だが、ジェイ・ゼル――」
「ほら、ハルシャ。今なら誰もいないよ。急がないと、ハルシャの心配したように、人が来てしまうかもしれないね」
さあ、急いで、というように再び膝の上がパンパンと叩かれる。
反論できず、ハルシャはきゅっと唇を噛み締めた。
どうして。
晴れ渡る青空の下、爽やかな風が優しい色の花々を揺らす、とても美しい風景の中で、自分たちはこんな押し問答をしているのだろう。
「ハルシャの手から食べさせてもらったホットサンドウィッチは、とても美味しくてね」
不意に語調を変えて、ジェイ・ゼルが呟いた。
「同じように作って食べても、自分の手ではあれほどの味を感じたことがないのだよ、ハルシャ」
首を傾げて彼が続ける。
「なぜなのか、どうしても知りたくてね。もう一度同じような状況で、食べさせてもらうととても嬉しいのだけれどね」
灰色の眼を細めて、柔らかに彼が問いかける。
「それとも、恥ずかしいから――ハルシャには出来ないかな?」
そんな風に懇願されると、ハルシャの心が揺らぐ。羞恥心とジェイ・ゼルの願いを叶えたい気持ちの狭間でぐらつくのを止められない。
「ジェイ・ゼルは、前と同じ状況で食べたいんだな」
確かめるように、問いかける。
ラグレンで一番高級なホテルの一室で、彼の膝の上でサンドウィッチを口に運んだことが蘇る。あの瞬間を再現したいとジェイ・ゼルは言っているのだ。
失われた時間を取り戻すように。
にこっと彼は微笑んだ。
「そうだね、ハルシャ。君の手から食べる以上の味を、味わったことがなくてね」
不思議だね、と彼は笑顔をこぼす。
「今日はもしかしたらその謎が解けるかもしれないと、つい気合を入れてホットサンドウィッチを作ってしまったのだよ」
そうだ。
彼は寝ているハルシャを起こさずに、一人で早朝からこの料理を作ってくれたのだ。その思いを感じ取る。
彼の願いを叶えてあげたい方へと、心が急速に傾いていく。
「わ、解った」
つい、声が上ずってしまう。
「ひ、膝に座って、サンドウィッチを口に運べば良いんだな」
「そうだね、ハルシャ。口移しに食べさせろとはもう言わないよ」
最初の提案を思い出し、ハルシャは盛大に顔を赤らめた。
それだけは、今でも無理だと断言できる。
ジェイ・ゼルが頼んでいるんだ、頑張ろうと心を決める。
籠を引き寄せ両手に持つと、彼の方へにじり寄る。
「お、重かったら、言ってくれ。すぐに動くから」
断りながら、ハルシャは腰を浮かすと胡坐に組んだジェイ・ゼルの膝の間に、そっと身を動かした。
顔が真っ赤になる。
膝の上に抱き上げられることなど、何度もベッドの上でしているはずなのに、晴れた青空の下だと、どうしようもなく恥ずかしい。
迎え入れるように、ジェイ・ゼルの手がハルシャの背中に回る。
「少しも重たくないよ」
耳に口を寄せて、ジェイ・ゼルが呟く。
横向けに座るハルシャの後ろで、ジェイ・ゼルは片膝を立てた。
「この膝に背中を預けたら、体勢が楽かな」
ジェイ・ゼルの左足を足の下に敷きこんで、立てた右の足に背中を預ける。
すっぽりと彼の足の間の空間に身が収まり、妙に居心地がいい。
「楽かもしれない」
申告すると、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
「それは何よりだ」
運んで来た籠を膝の上に置き、サンドウィッチを一つ摘まみ上げると、ジェイ・ゼルへ視線を向ける。
彼は満面の笑みをたたえて、自分を見ていた。
もしかして。
これが目的で、自分をピクニックに誘ったのだろうか。
と、妙な疑惑が湧き上がってくる。
いいや、コスモスを見せてくれるためだ。
疑っては悪いと首を振って邪念を払う。
心を決めると、彼の口元へとサンドウィッチを運んだ。
笑顔のまま、ジェイ・ゼルが迎えるように口を開いてくれる。
やはり。
無防備な姿に何だかドキドキする。
今回のサンドウィッチも、少し大きかったようだ。途中でジェイ・ゼルは噛み切った。歯形の残る切れはしを見つめる。
そう言えば、以前はこの欠片を、味が同じかどうか確かめてごらん、と言われて口に含んだことを思い出す。
味が違うのだろうか、と疑問に思って何の気なしに食べてしまった。
考えていると、ジェイ・ゼルが口の中のものを飲み下したようだ。再び口を開いてサンドウィッチを催促する。
手にしていた残りの欠片を口に入れると、彼は優しく微笑んだ。
咀嚼してゆっくり飲み込んでから、
「とても美味しいよ、ハルシャ。あの時と同じ、極上の味わいだね」
と言葉が微笑んだ彼の口からこぼれ落ちる。
「どうやら謎が解けたようだよ。君の手から食べるから、味が違うんだね」
そんなことがあり得るのだろうか。
何だか非科学的だ。
疑問を顔に浮かべていたのだろう。
おや、とジェイ・ゼルが眉を上げる。
「ハルシャは信じられないのかな?」
「疑う訳でないが……味が変わるシステムがよく解らない」
そう言うと、カラカラとジェイ・ゼルが笑った。
「なら、ハルシャも試してご覧」
試す?
その言葉の意味を、すぐさまハルシャは知った。
膝に乗せた籠の中に手を伸ばして、ジェイ・ゼルが一つサンドウィッチを摘まみ上げたのだ。
「私が食べさせてあげよう。ほら、口を開けて……」
子ども扱いされているようで、妙に恥ずかしい。
ためらっていると、彼が語調を変えて低い声で呟く。
「ハルシャも確かめてみたいだろう? 自分で食べるのと、相手に食べさせてもらうのと、本当に味が違うのか――仮説を証明するためには、実験あるのみだからね」
そう言われると、チャレンジしたくなるから不思議だ。
「解った。確かめてみる」
と、潔く口を開く。
ジェイ・ゼルは微笑みながら、優しい手つきで口元へとホットサンドウィッチを運んでくれる。
程よい量を入れてくれたところで口を閉じて噛み切った。
もぐもぐと口を動かしていると、目を細めてジェイ・ゼルが問いかける。
「どうかな、ハルシャ。味の違いを感じるかな?」
口の中に物が入っているので、ハルシャは微かに首を傾げると、想いを態度で表した。
美味しいサンドウィッチだ。それは間違いない。
だが、よく考えると、比較対象の物がないことに気付く。
まだ自分の手で食べてはいない。
ごくんと飲み込んでから、
「すごく美味しいが、別の一つを自分の手で食べてみないとわからない」
と意見を告げる。
「それもそうだね」
ジェイ・ゼルは頷くと、ハルシャの食べかけのサンドウィッチをぱくりと口に含んだ。あっという間もない出来事だった。
驚きに眼を開くハルシャに、笑顔でジェイ・ゼルが促す。
「なら、実証するために、自分でもう一つを食べてご覧、ハルシャ」
何か、流されているような気がするのは、なぜだろう。
それでも、違いを証明するためにハルシャは新しい一個を口に運んだ。
ジェイ・ゼルがじっと見つめている。
「どうかな? 味が違うかな?」
再びハルシャは首を捻った。
よく解らない。
飲み下した後そう伝えると、ジェイ・ゼルも首を傾げた。
「実験数が足りないのかな。それでは、もう一度食べさせてあげよう。次はよく差に注意して食べてご覧」
満面の笑みでジェイ・ゼルが新しいサンドウィッチを手に取る。
慌てて手にしていたものを食べ終えると、彼の前に口を開く。
再び優しい手つきで、サンドウィッチが口元へ運ばれる。
彼の見守る前で、香ばしいパンを噛み切る。
口に含んだ瞬間、気付く。
あ。
何かが違うような気がする。
もしかしたら、気のせいかもしれない。
でも、何となく自分で食べた時よりも、味がまろやかな感じがした。
伝えたくて、懸命に噛み下して飲み込む。
「な、何となく違うような気がする。味が優しいというのか……」
言葉に、ジェイ・ゼルの笑みが深まった。
「ほう」
彼は妙に嬉しそうだった。
「やはり、違いがあるようだね」
灰色の瞳が、ひどく近いところで自分を見つめる。
「せっかくのピクニックだからね。美味しいサンドウィッチを食べて欲しいな」
手にしていた残りを微笑みながらジェイ・ゼルが差し出す。
「私が食べさせてあげようね、ハルシャ」
促されるままに口を開いて、彼の差し出すものを受け入れる。
味が違うと言われると、そんな気になってくる。
もぐもぐと口を動かすハルシャに
「美味しいかい?」
とジェイ・ゼルが問いかける。口に物が入っているので、ハルシャはただ頷いて想いを伝えた。
ジェイ・ゼルが優しく微笑む。
「なら、次は私に食べさせてくれるかな、ハルシャ?」
ジェイ・ゼルの膝の上に座って、互いの食事を口元へと運ぶ。
爽やかな青空の下、きれいなコスモスが揺れる草原で、何をしているのだろうとふと思うが、ジェイ・ゼルがとても喜んでいるので、まあ、いいかとハルシャは自分に納得をつける。
二人のお腹の中に、香ばしい香りのサンドウィッチが消えていく。
籠が空になるころには、満腹で幸せの吐息が出るほどだった。
ジェイ・ゼルは上機嫌だった。
「作った甲斐があったよ」
後ろに手をついて身を反らすようにしながら、満足げにジェイ・ゼルが呟く。
「お天気も最高で、ハルシャが側にいてくれて」
身を支えていた片手が浮いて、ハルシャの髪を指先で梳くように撫でる。
「とても楽しいピクニックだね」
優しく髪を撫でながら、手が頭の後ろに回り、静かに引き寄せられた。
身を寄せると、ジェイ・ゼルが抱きしめてくれる。
「君の手から食べるサンドウィッチは、極上の味わいだったよ、ハルシャ」
髪に唇を寄せて、言葉が呟かれる。
遠くで鳥が鳴いている。
お腹が一杯で、爽やかな風が吹き抜けて、ジェイ・ゼルの身の温もりが側にあって――ハルシャは、なんだか眠たくなってきた。
道中あれほど寝たはずなのに、うとうとと睡魔に引き込まれそうになる。
様子に気付いたらしい。
「眠たいのかな、ハルシャ?」
とジェイ・ゼルが顔を寄せたまま問いかける。
「だ、大丈夫だ」
眠気を払おうと身を起こしかけたら、両腕に包まれて、敷物の上にジェイ・ゼルと一緒に横たわっていた。
「ちょっと、休憩しようか」
優しい声で彼が言う。
ハルシャが敷きこんでいた足を動かして、ジェイ・ゼルが長々と身を伸ばす。
彼は身長が高いので、敷物から少し足先が出ている。
「丘に、登るのだろう?」
自分のために譲ってくれているようで、気兼ねするハルシャに
「運転は苦にならないのだけれど、少しくたびれたのかな。ちょうど休みたいと思っていたのだよ」
と、静かにジェイ・ゼルが語りかける。
「食後の休憩を、ちょっとしようか、ハルシャ」
理由に納得すると、ハルシャは身に込めていた力を抜いた。
「わかった。ゆっくり休んでくれ、ジェイ・ゼル」
ふふと笑いながら、片肘に頭を預けて、浮いた手でハルシャの髪を優しく撫でる。穏やかなジェイ・ゼルの手の動きに、再び睡魔が襲ってくる。
うつらうつらしているハルシャに
「ラグレンで、君が借金を払い終えた次の日」
と、不意にジェイ・ゼルの言葉が耳に響いた。
はっと目を開くと、ジェイ・ゼルが真正面から自分を見つめていた。
「ハルシャが来てくれたときだね」
ジェイ・ゼルが静かな声で語り掛けてくれている。
ふっと優しい笑みが彼の顔に浮かんだ。
「偶然だね。私も昼にホットサンドウィッチを作っていたんだよ」
はっきりと目を覚ましてジェイ・ゼルの顔を見つめる。
手が髪を撫でている。
笑みを顔に浮かべたまま、彼が呟く。
「君との思い出に縋りたかったんだろうね。無意識にサンドウィッチを作っていた。けれど――何一つ味がしなかった。
君の手から食べさせてもらった時は、こんなに美味しい料理があるだろうか、と思ったというのにね」
静かに指が髪の筋をなぞる。
「その時、気付いたんだよ。ホットサンドウィッチが美味しかったんじゃなくて――君と一緒に食べた料理だから、極上の味だったのだと」
優しく細められた灰色の瞳が自分を見つめていた。
「今日のホットサンドウィッチも、極上の味わいだったよ、ハルシャ」
なぜ。
泣きたいような気持になるのだろう。
言葉に出来ずに、ハルシャは腕を伸ばしてジェイ・ゼルに絡めると、彼の肩に顔を埋めた。
無言でジェイ・ゼルが抱きしめてくれる。
風が吹き渡る森の端で、身を寄せ合って互いの鼓動を聞き合う。
「コスモスが好きなのはね」
押し付けた場所からジェイ・ゼルの声が聞こえた。
「私と妹がイズル・ザヒル様に解放して頂いた後、しばらく惑星ガイアで過ごしていてね。半年ぐらいかな」
過去を手繰り寄せるような声で、彼が呟いている。
「その時に、イズル・ザヒル様に連れて行ってもらったのが、一面のコスモス畑だったんだよ。空と大地が触れ合う彼方まで、優しい色が埋め尽くしている様に、心打たれてね――その時に、イズル・ザヒル様がおっしゃったんだ。
この大地の端まで、君は歩いて行ける。もう、誰にはばかることもなく、自分の意思で道を選べる。行きたいところへ心のままに。それを、自由と呼ぶのだと――」
静かな声で彼は呟いた。
「そう、教えて下さったんだ」
ジェイ・ゼルは、物としての生を強いられてきた。
苛烈な過去を綴った手記を、彼は刑を終えたときに、自分に渡してくれている。
あまりに辛い過去を、彼はさらりと口にした。
「その時から、コスモスは私にとって特別な花になった」
ハルシャはジェイ・ゼルの服を握りしめると、込み上げる涙を必死に抑えた。
心が震える。
「だから、ハルシャにも見てほしかった――花瓶にある花でなく、大地に咲く花の本当の姿を。根を張り、天に向けて葉を差し伸べて、雨を浴び風に耐えて懸命に咲くコスモスの姿を――生命《いのち》の強さと、自由の尊さを。この花に私は教えてもらった」
ジェイ・ゼルの腕に力がこもった。
「君にも、知って欲しかったんだよ。ハルシャ」
あまりに貴重なために、逃げないように常に監視を受けながら。
一室に監禁同然に生活をする。
それが、『
その彼が――
初めて見た、大地を埋め尽くす花の海。
この地平の彼方まで、自分の意思で、自分の足で歩いて行ける。
そう知った時の喜びは――どれほどのものだったのだろう。
伝えようとしてくれているのだ。
その時の感動と、自由の素晴らしさを。
心の震えた瞬間を。
同じものを見て欲しいと、彼が願っているのだ。
ハルシャは身の震えが抑えられなかった。
ジェイ・ゼルの服を強く握りしめて、感情の波に耐える。
幼い眼に映った、優しいピンクの花の色と、惑星ガイアの青い空。
触れる場所から、必死に感じ取ろうと想像する。
「と、とても綺麗だったろうな、ジェイ・ゼル」
震える声で、ハルシャは懸命に想いを伝える。
「私も……その時、ジェイ・ゼルの隣りで、一緒に花を眺めたかった」
彼が自由を噛み締めた瞬間に。
手を握って、その生を祝福したかった。
生きていてくれてありがとう、と。
彼に伝えたかった。
「ジェイ・ゼルの……側にいたかった」
震える身を、ジェイ・ゼルが腕に包んで優しく呟いた。
「今こうして、ハルシャと一緒に同じ風景を見つめられる――それだけで、私は十分だよ」
感情の嵐を鎮めるように、静かに背中に手が滑る。
「ありがとう、ハルシャ」
優しい感謝の言葉に、予期せぬ嗚咽が漏れた。
ジェイ・ゼルはその悲しみを両腕で受け止めてくれていた。
長い時間の後、ようやく涙が収まったハルシャに、
「コスモスの名は『秩序』や『調和』を意味するギリシア語を語源としていてね」
と、小さな声でジェイ・ゼルが呟く。
「『宇宙』を表わす『コスモス』も同じ言葉から生まれているんだよ」
豆知識のような言葉に、ハルシャはちょっと顔を浮かした。
彼はにこっと笑って見せる。
「小さなピンクの花と、壮大な『宇宙』が源を同じにするとは、何だか不思議だね」
ふっと笑みが深まる。
花の――宇宙。
ハルシャも笑顔になった。
「とても素敵な名前だ」
笑うハルシャの涙の痕を、背から離れた手でジェイ・ゼルがそっと拭う。
「そうだね」
柔らかい口調で彼は続けた。
「この花は、ハルシャの名前も持っているんだよ」
え?
と驚きに眼を見開いてしまう。
「わ、私の?」
にこっとジェイ・ゼルが頬を拭いながら笑って答える。
「惑星ガイアの、たしかリュウジの出身地に当たる国では、コスモスのことを、オオハルシャギクと言うそうだよ。漢字、というのかな。それを使って書くようだ」
涙を拭きとった手が、髪に滑る。
「そういわれると、親しみが湧くかな?」
ハルシャは身を起こして、丘の彼方まで続くコスモスの花を見つめる。
ジェイ・ゼルの好きな花に、自分の名があることが何となく恥ずかしいが、嬉しかった。
顔を戻すと
「ジェイ・ゼルは、博識だな。コスモスにそんなたくさんの背景があるとは知らなかった」
笑いかけると、ジェイ・ゼルも微笑んで身を起こした。
「目に見える事柄だけでなく、事象の奥底に流れるものを知りたいと思ってしまうのだよ。昔は知識を得ることしか出来なかったからね」
彼は静かに視線を彼方へ向ける。
「でも今はこうして――心のままに行動できる。それが、とても嬉しいのだよ、ハルシャ」
静かに彼はコスモスの海から自分に顔を戻した。
優しい笑みが彼の顔に浮かんだ。
「君が、本当の自由を私に与えてくれたからね――」
言葉が、途切れる。
見つめ合ったまま、想いが触れ合う。
ふと、ジェイ・ゼルは笑みを消した。真摯な、剥き出しの魂そのままの表情になると、そっとハルシャの頬に手を触れて、静かに顔を寄せた。
鳴き交わす鳥の声が聞こえる。
風が、音を立てて丘を渡っていく。
光が大地を温める中で、ジェイ・ゼルの唇が重ねられた。
触れ合う場所から、彼の優しさと孤独が沁み込んでくる。
無言で腕を彼の首に絡め、目を閉じ深く彼と口づけを交わす。
時が止まる。
世界がジェイ・ゼルだけになる。
この世でたった一人。かけがえのない、愛する人。
彼は――心の奥底にあった大切な風景を、自分に見せたかったのだ。
一面のコスモス畑。
大地と空の触れ合う彼方まで、続くピンクの花の海。
幼い頃に心を震わせた、自由の象徴であった、大切な記憶を。
自分に教えたかったのだ。
想いを、熱い唇から受け取る。
はにかみながら、差し出された、コスモスの花束。
彼は自分のために――この花を選んでくれたのだ。
自由を教えてくれた、大切な花を。
しばらくそうしてから、ジェイ・ゼルが唇を離した。
「丘に――」
ごく近いところで言葉が呟かれる。
「登ってみようか、ハルシャ。上から見下ろすコスモスも、きっときれいだよ」
まだ頭の芯がぼうっとしている。
だが、ハルシャは腕を解き、ジェイ・ゼルの言葉に静かに肯いた。
もう、眠気も去ってしまった。
また戻ってくることにして、敷物とお弁当を入れてきた籠はそのまま置くことにする。身軽になって、歩き出す。
「このコスモス畑は、実は亡くなった娘のために、父親が種を植えたのが最初なんだよ」
日陰からコスモスの群れの中に歩を進めながらジェイ・ゼルが言う。
よく見ると、コスモスの中に細い道がある。人一人しか通れないほどの剥き出しの土の道だった。
ハルシャが先に立って歩く。
「亡くなった女の子は、コスモスが大好きだったらしい。彼女が天国から見下ろした時に喜ぶようにと、父親は森を切り拓いて、コスモスを植え続けたんだ。父親が老齢に達した後は、その息子が、若くして天に召された姉のために、コスモスを植え続けた。そうやって世代を重ねて、今も大切にコスモスは育てられている――」
後ろから、声が聞こえる。
「森の奥で、しかも観光目的ではないコスモス畑だからね。一般にはあまり知られていないんだよ」
だから、ほとんど人がいないのだ。
大切な人のために、植え続けらえた花。
ハルシャは腰の高さほどのコスモスの中を、丘の上を目指して歩いていく。
見た時は近いように思ったが、意外と頂上は遠い。
細いので、歩く道の上にまで花が溢れている。コスモスの花を傷つけないように、掻き分けながら歩いていく。
よく見ると、ピンクの中にも色の濃淡がある。白いコスモスもあった。
葉の緑の中に、コスモスの花の色が鮮やかに浮かんでいる。
風が吹き抜ける度に、世界が揺れるように花がしなる。
どのぐらい長く、その人たちはこのコスモス畑を守ってきたのだろう。
父親から息子へ、そして、その子へ――
百年ぐらいだろうか。
疑問の答えが欲しくて、ハルシャは振り向いて、ジェイ・ゼルに問いかけようとした。
足が、止まる。
自分に続いて登ってきていたはずの、ジェイ・ゼルの姿がなかった。
一人でぽつんと、コスモスの中に自分は佇んでいた。
うろたえて、ハルシャは周りを見回した。
丘へ早く着きたくて、足を速め過ぎたのだろうか。
それなら、続く道のどこかにジェイ・ゼルの姿があるはずだ。
なのに――
どこにも、彼はいない。
広大なコスモスの海の中に一人で佇んで、ハルシャは不意打ちのような寂しさを感じた。
ジェイ・ゼルが、いない。
困惑が身の内から湧き上がってくる。
コスモス畑を、騒めかせながら風が吹き抜ける。
ハルシャは懸命に首を巡らせてジェイ・ゼルの姿を探した。
「ジェイ・ゼル」
小さく、彼を呼ぶ。
答える声はなかった。
消えてしまった。
もしかしたら――
やはり、自分は夢を見ていたのだろうか。
彼と一緒にいたという、切望が生み出した夢を。
本当は――
まだ、彼は服役中で、自分はジェイ・ゼルに会えていないのだろうか。
不安が湧き上がってきて、胸を掻きむしる。
違う。
嘘だ。
さっきまで、ジェイ・ゼルはここにいた。
「ジェイ・ゼル!」
叫びながら、ハルシャは登って来た道を必死に駆け下りていた。
嘘だ。
彼は自分の前から消えたりしない。
「ジェイ・ゼル!」
必死に叫んだ声に、
「ハルシャ」
と応える声があった。
涙の滲みそうな眼を、声の方向へ向ける。
ジェイ・ゼルが森の端にいた。
先ほど昼食を食べた場所だ。
彼は手に何かを持って振りながら、こちらへ歩いてくる。
考えるよりも先に、ハルシャは走っていた。
彼を目指して、ひたむきに。
コスモスの中を駆け下りて、歩を進めるジェイ・ゼルの胴へ、有無も言わさずに抱きついた。倒さんばかりの勢いに、わずかにジェイ・ゼルがよろめく。
「ハルシャ……」
彼の身を抱き締めながら
「ジェ……ジェイ・ゼルが」
息が切れて、上手く言葉にならない。
「いなくなったかと、思った」
不安と恐怖を滲ませるハルシャの身を、そっとジェイ・ゼルが抱きしめてくれた。
「すまない。ハルシャが帽子を忘れていたから、取りに戻っていたんだよ」
よしよしと背を撫でながら、
「何も言わずに引き返したから、びっくりしたんだね」
と、ジェイ・ゼルがなだめるように言葉をかけてくれる。
息が収まらない。
彼がいなくなることが、これほど恐怖を引き起こすとは思わなかった。
美しい花の海の中で、迷子になったような、途方に暮れた気持ちが蘇る。
「ひ、一人にしないでくれ。ジェイ・ゼル」
懇願を、抱き締めた場所に呟く。
「私を置いて行かないでくれ。お願いだ」
あなたと逢えない時間は、辛かった。
心がボロボロになるほど――辛くて、苦しかった。
言えない言葉を飲み込んで、ハルシャは腕に力を込めた。
ジェイ・ゼルの唇が髪に触れる。
「独りにはしないよ」
誓うように、彼が呟く。
「ずっと、君の側にいるよ、ハルシャ」
身を寄せて、静かにジェイ・ゼルが腕に包んでくれる。
ハルシャの息が穏やかになるまで、彼は身じろぎもせずに温もりで慰撫してくれる。
彼の存在に縋って、ハルシャは荒れ狂った心を必死に鎮めた。
ようやく息を整えて、顔を真っ赤にしながらハルシャは腕をほどいた。
「す、すまない、ジェイ・ゼル」
恥ずかしくて顔が上げられない。
「急に姿が見えなくなったから、驚いてしまって――」
うなだれるハルシャの頭に、優しい手つきでジェイ・ゼルが帽子を被せてくれる。
黙ってハルシャの右手を取り、指を絡めるようにして握り込む。
「行こうか」
しっかりと手を繋いだまま、細い道を前後になって歩いていく。
ジェイ・ゼルの背が、自分の前にある。それだけで、こんなにも安心する。
風が吹き渡るコスモスの丘を、一緒に登っていく。風景が徐々に変化していった。
丘の頂上に登り切った時、ハルシャは息を飲んだ。
小高い丘の周囲を全て、コスモスが埋め尽くしている。森の中に、ぽっかりとピンクの丘が浮かんでいるようだ。
絶景に、言葉を失う。
どちらを向いてもコスモスが風に揺れている。
首と身を巡らせて、ハルシャは四方を眺めた。
「圧倒的だね」
ふふっと、笑いながらジェイ・ゼルがハルシャを見つめている。
「娘の愛する花を、大地に咲かせたいという父親の想いが、これほどまでの壮観な眺めを生んだのだね」
そっと、ジェイ・ゼルは天を仰いだ。
「きっと、天国で、彼女はこの眺めを楽しんでいるのだろうね――天に届くほどに、素晴らしいコスモスだからね」
ジェイ・ゼルは視線を下ろして、ハルシャへ顔を向けた。
「君と」
微笑みと共に、言葉がこぼれ落ちる。
「この風景を眺められて、言葉に出来ないほど嬉しいよ。ハルシャ」
風が吹き抜ける。
花弁が翻り、コスモス畑が波のように色を変える。
宇宙を名に持つ花の中で、過去から未来へ続くこの一点で、自分はジェイ・ゼルと向き合っている。
わずかなことで、触れ合わなかったかもしれない、二人の人生。
ジェイ・ゼルがラグレンの支部を任されなかったら。
父が偽水を飲用水にしようと志を持たなければ。
二人は出会わなかった。
そして。
あの時、リュウジがホットサンドウィッチを頼まなければ。
自分は全てを諦めていたかもしれない。
柔らかなピンクの花が彩る丘の上で、ジェイ・ゼルと向き合っている。
それを――
きっと、奇跡と呼ぶのだろう。
手を握り合ったまま、ハルシャは微笑んだ。
涙が、頬から滑り落ちる。
「私も嬉しい。ジェイ・ゼル――こんなに美しい風景があることを、ジェイ・ゼルに出会わなければ、私は知らなかった。
教えてくれて、ありがとう」
繋いだ手を引き寄せて、ジェイ・ゼルがハルシャを腕の中に包んだ。
さわさわと、コスモスが風に微かな音を立てている。
ジェイ・ゼルの温もりに身を委ね、ハルシャは目を閉じて音に耳を傾けた。
ふと。
まだ繋いだままの手に、幼い時のジェイ・ゼルの姿を想う。
醜い欲望しか見せつけられてこなかった少年が、初めて目にした、花のあふれる美しい大地。
自由を知った喜びと、一輪一輪に秘められた、花の命。
繊細で優しいジェイ・ゼルは、美しい風景に心震わせたのだろう。
その時の幼い彼に寄り添うように、ハルシャは絡める指の力を強めた。
沈黙の後、心が言葉となってこぼれ落ちた。
「愛している、ジェイド」
小さく呟いた言葉に、腕に力を込めて、ジェイ・ゼルが囁きを返す。
「――私もだよ、ハルシャ」
再びおとずれた沈黙の中で、コスモスがざわめく音だけが聞こえた。
花咲く丘の上に、二人で佇み身を寄せ合う。
どれだけ時が流れても――
この日のことを決して忘れないと、ハルシャは思った。
(了)
(その後の物語『コスモス畑でつかまえて』へ続きます)