ハルシャとジェイ・ゼルの後日談になります。(全二話です)
「おや」
初老の女性が、ジェイ・ゼルを見上げて親しげな声を上げた。
「今日はお連れさんと一緒なんだね」
色鮮やかな野菜に取り囲まれた店番の老女が、優しい問いを口にしている。
この日。
ハルシャはジェイ・ゼルに誘われて、自宅から少し離れた彼のお気に入りの市場へと足を運んでいた。
夏の強い日差しを避けるように、色とりどりのテントが道の両側に張り巡らされている。その下で、自慢の野菜や果物それに魚や肉が売られていた。
市場はとても賑わっている。
人ごみをゆったりと流れながら、ジェイ・ゼルは目的のものを求めていた。
野菜を買いたいと足を止めた彼は、話しかけた老女へ穏やかな笑みを向ける。
「お天気がとてもいいからね、誘って買い物に出てみたんだよ」
頻繁に買い物をするのだろうか。
露店の主とジェイ・ゼルは顔なじみらしかった。
ジェイ・ゼルの言葉に、にこっと、初老の女性が笑う。
「そうかい、ゆっくりと見ていっとくれ」
「どれも新鮮で美味しそうだ。目移りしてしまうね」
帝星ディストニアは豊かな水を湛えた稀有な惑星だった。
天恵をふんだんに受けて、この星では農業が盛んだった。至るところで産地直売の市場が開かれ、人々の胃袋を満たしている。
盛り上げられたつややかな野菜の中で、店の女性は笑顔でジェイ・ゼルを見守っていた。
彼は一隅にある見事な赤を指さす。
「そうだね……トマトと……あと、ナスをもらえるかな」
「トマトは良いのが入っているよ。いくつほどしようかね」
いつもの会話なのだろう。
数を言うジェイ・ゼルに、老女が目当ての野菜の籠を引き寄せて、紙袋に入れてくれる。
こうやって、ジェイ・ゼルはいつも市場で買い物をしてくれているのだと、ハルシャは不思議な感動を覚えながらやり取りを見つめていた。
ジェイ・ゼルが七年の刑期を終えてから、もう一年半が過ぎようとしている。
彼が刑務所を出た後、一年間の長期休暇を利用して、ハルシャはジェイ・ゼルと二人きりの時間を過ごした。
最初に訪問した惑星ガイアでは海の近くに長期滞在をし、その後は小型の
夢のような一年だった。
長い旅程を経てハルシャとジェイ・ゼルは帝星へ戻り、二人だけの生活を始めて半年になる。
暮らしているのは、湖畔に建つ白壁の一戸建てだった。
ジェイ・ゼルが刑期を終えるのを待ちながら、ハルシャは二人で住む家を探していた。
中々納得のいく物件がない中、この家に出逢ったのは偶然だった。
仕事の関係でシルガネン湖の側の工場に単身出張していた時、何気なく、住む家を探していると話したハルシャに、工場の人が教えてくれたのだ。
最近、売りに出された一戸建てがある、と。
作りが個性的らしく一般受けしないのか、意外と価格が控え目のようだ。
何となく予感がしたのかもしれない。ハルシャはその場で、ぜひ家を見てみたいと申し出た。
自分にしては、勇気を振り絞ったと思う。
工場の人は快諾してくれて、自分を不動産屋へと案内してくれる。
もう日が暮れていたが、ハルシャはお願いして家を見せてもらうことにした。
森の中に、その家はあった。
前の持ち主は画家で、自宅兼アトリエとして建てた注文住宅だった。
芸術家の住まいらしく、そうとう凝った作りになっている。
今は夜だから解りづらいかもしれないが、と前置きをして不動産屋の方が前の持ち主がアトリエとして使っていた部屋へ案内してくれる。
一面にガラス張りになっていて、湖が一望できた。
湖を取り巻くように、街の灯りが煌めいている。湖面に光が反射して、とてもきれいだった。
見入るハルシャに、ここは高台なので、紅葉の季節はことのほか美しいと不動産屋の方が教えてくれる。
この窓からの眺めを、ジェイ・ゼルは気に入ってくれるかもしれない。
と考えただけで、胸が躍った。
画家の妻は料理が得意だったようで、厨房も動きやすい機能的な作りになっていた。その上よく見ると、芸術を愛する人たちらしいお洒落な要素がそこかしこに散りばめられている。
ジェイ・ゼルは料理が好きだった。この厨房で調理することを喜ぶかもしれない、とまた、ハルシャは考える。鼓動がなかなか鎮まらない。
二階建ての家だが、主寝室は一階にあった。落ち着いた色調で統一されていて、寝室にしてはたっぷりした作りだった。
ジェイ・ゼルは広いベッドが好きだ。
ここなら、どんなサイズのものでも置けそうだった。
少し頬を赤らめながら、ジェイ・ゼルの好みに合うだろうかと、真剣に考える。
居間も広く取られていて、サロン的にも使えるようになっていた。
ソファーを置いても、まだ空間に十分余裕がある。
ふと。
柔らかでゆったりとした服をまとい、ジェイ・ゼルがその部屋を横切る姿が見えるような気がした。
その瞬間、ハルシャは心を決めていた。
この家を購入するには、どういった手続きが必要だろうか。
と、意識する前に言葉を口にしていた。
ジェイ・ゼルが刑を終える一年ほど前のことだった。
そこから――
休日ごとに家に通い、ハルシャは生活をするための準備を整えてきた。
これからこの家で、ジェイ・ゼルと一緒に暮らす日々が始まる。
思い描くことで、別離を余儀なくされている寂寥を、何とか凌いで生きてきた。
念願叶い、二人で暮らし始めてから、もう半年。
雪をかぶっていた森から始まったジェイ・ゼルとの生活は、木々が濃い緑をたたえる夏へと季節を変えていた。
職場から自宅へは飛行車で一時間ほどの距離になる。
仕事を終えるとすぐに、ハルシャはまっしぐらに家を目指した。
暗くなった森の中に、灯りのともる我が家を見た時、その光の中にジェイ・ゼルがいると思うと幸福に胸が震える。
彼と一緒に暮らせることが、今でも夢のように感じられることがある。
にこやかに代金を支払い、野菜の詰まった紙袋を受け取るジェイ・ゼルを、ハルシャは見つめる。
ぼんやりと考えに耽っていたハルシャは、
「こんなに可愛い恋人と暮らしていたとはね」
という老女の言葉に、はっと意識を目の前に戻した。
カラカラと笑いながら老女が目じりを下げる。
「いつも食材選びに余念がない理由がこれでわかったよ。そりゃ、料理にも熱が入るというもんだね」
可愛いという言葉に、ハルシャは真っ赤になってしまう。
帝星に来て驚いたことは、同性同士のカップルに対して、人々がとても寛容なことだった。惑星トルディアではとても考えられないことだ。さすが帝星、というべきだろうか。パートナーとして、異性同性を問わずに認められていて、同性でも法的な婚姻関係を結ぶことが出来る。
今も、何の嫌悪も示さない目で、老女が自分たちをにこやかに見つめていた。
ジェイ・ゼルが優しい笑みを返す。
「彼が喜んでいつも食べてくれるので、作り甲斐があるのは、確かだね」
微笑みを浮かべたまま、ジェイ・ゼルがハルシャへ視線を向けた。
まだ、可愛いと言われた衝撃が身から去らない。ジェイ・ゼルによく言われる言葉だから、慣れているはずなのになぜかとても恥ずかしい。
顔を赤らめるハルシャに、内緒話をするようにちょっと耳に口を近づけて呟く。
「夕食はパスタにしようか、ハルシャ。メリガンさんのところで、とてもいい野菜が手に入ったからね」
ジェイ・ゼルの作るパスタ料理はどれも絶品だった。
羞恥が消えて、思わず笑みがこぼれる。
ふふっと、目を細めてから、ジェイ・ゼルが店の人へと顔を戻した。
「いつも美味しい野菜をありがとう、メリガンさん。また寄らせてもらうよ」
柔らかな挨拶をしてから、ジェイ・ゼルの手が背中に廻された。促されるようにして歩き出す。
「また、そろっておいで。おまけしてあげるからね」
歩き出した二人の背に、声が飛ぶ。
市場での買い物はまだ続いた。
随分この市場に顔見知りが多いようだ。ゆく先々でジェイ・ゼルは気さくに声をかけられ、親しげに会話を交わしている。そして、なにがしかのおまけをしてもらうのが常だった。
重くなる荷物を分担して持ちながら、人通りが多い道をはぐれないようにと、ジェイ・ゼルがハルシャの手を握る。
手の中の温もりの確かさと、傍らの彼の微笑み。
これは夢ではなくて、現実なのだとハルシャは自分に言い聞かせる。
ふと、ジェイ・ゼルが足を止めた。
「もう一つ、買い物を良いかな?」
前を見ていたジェイ・ゼルの目が、自分に降りてくる。
不意に視線を向けられて、ドキンと心臓が躍る。
「も、もちろんだ」
ハルシャの言葉に、彼は温かな笑みを浮かべる。
手が離れた。
「少し、ここで待っていてくれるかな。すぐに戻ってくるから」
先ほどまでは一緒に店に顔を出していたのに、なぜだろう。
と、ちらりと思ったが、
「解った、ジェイ・ゼル」
と答えると、離した手で軽く頭を撫でてから、彼は人ごみの中に姿を消した。
少し道の端によって、ハルシャはジェイ・ゼルを待つ。
何を買いに行ったのだろう。
荷物を抱え、市場を行く人波を見るともなく見つめる。
ジェイ・ゼルは、ジェイド・ラダンスとして今は暮らしている。
別人として、人目を避ける生活を、余儀なくされていた。
実刑判決が下りた時、ハルシャはマイルズ警部から、彼の今後について聞かされた。
死亡したことにして、彼の存在を一度地上から消す、と。
警部は、ジェイ・ゼルが所属していた組織が、報復措置に出ることを恐れていた。『ダイモン』は裏切り者を決して許さない。彼らの追及を凌ぐには思い切った手が必要だ、と。
真実を明らかにするために、ジェイ・ゼルは自ら泥をかぶってくれた。その恩人の命を警察機構は何としてでも守ると、警部は断言してくれる。
ハルシャはマイルズ警部を信じて、一切を委ねた。
そうして――
三ヶ月間刑務所で過ごした後、不慮の事故でジェイ・ゼルは死亡したことになった。偽の情報を流し、新聞に掲載されるように手を回したのもマイルズ警部ら汎銀河帝国警察機構の人達だった。彼らは厳粛な葬儀まで執行してくれる。
ジェイ・ゼルを模した蝋人形が横たわる棺を見て、ハルシャは泣き崩れてしまった。嘘だと解っていてもあまりにも辛かったのだ。結果、非常に真実味が増したと、警部から後でお褒めの言葉をもらってしまった。
素晴らしい演技力だったと、リュウジも賞賛を口にする。
演技ではなく、本気で泣いてしまったのだと告白したら、皆が絶句していた。
その後、ジェイ・ゼルの身柄は密かに移送され、安全な刑務所で別人として服役することになったのだ。
刑務所の名前と場所は、出所する時までハルシャも教えてもらえなかった。
極秘だったようだ。
通常なら許可が出る服役中の面会も、禁止されていた。
ただ、マイルズ警部を通じてジェイ・ゼルへ手紙を届けることだけは許してもらえた。
ハルシャは自分が今、帝星にいること。リュウジの経営する宇宙船の部品工場で働いていること、ラグレンの工場はマシュー・フェルズが首尾よく経営してくれていること。日常のこまごまとしたことを書き綴って、マイルズ警部に届け続けた。
ジェイ・ゼルの返事は一度もなかった。
それでも、ハルシャは、彼が刑に服する七年間手紙を書き続けた。
ジェイ・ゼルは元気だろうか。
食事はしているだろうか。
病気になっていないだろうか。
酷い扱いを刑務所の中で受けていないだろうか。
答えのない問いが、胸の中をぐるぐると駆け巡る。
彼からの言葉が一つもないことで、不安に襲われることが度々あった。
二人の生活を夢見て準備を重ねながら、ふと、手を止めて考える。
ジェイ・ゼルは――
刑務所を出た後、自分と生きる道を選んでくれるだろうか。
確証などどこにもなかった。
彼と暮らしたいというのは、自分の一方的な押し付けかもしれない。
果たしてジェイ・ゼルは、七年間自分を忘れずにいてくれるだろうか。
考えると、涙が滲んできそうになる。
その度に、必死に自分に言い聞かせた。
大丈夫だ。
共に生きるのが自分の幸せだと、ジェイ・ゼルは言ってくれた。
彼の言葉を信じよう。
ジェイ・ゼルの無事を祈りながら、ハルシャは懸命に七年間を耐え続けた。
不安な毎日だった。
今でも、彼の傍らで眠りにつきながら、ふと夜中に目覚めては、ジェイ・ゼルの頬に触れて存在を確かめる。この瞬間が夢ではないのだと、確認せずにはいられない。
それほどまでに、彼との別離は長く辛く苦しかった。
ハルシャは人ごみの中に消えたジェイ・ゼルの姿を、目で探す。
七年の別離を経て、ジェイ・ゼルと一緒に暮らせることが信じられないほど幸福だった。
あまりにも幸せなので、時々これは夢なのかもしれないと、疑ってしまう。
切望するあまりに、夢を見ているのではないかと。
ジェイ・ゼルを待ちながら、眠り込んでしまった夜に見ている、うたかたの夢。
目を覚ましたら――そこにジェイ・ゼルはいなくて、自分は独りなのかもしれないと、不意に不安が胸を掻きむしる。
ジェイ・ゼル。
小さく彼の名を胸の奥に呼ぶ。
彼の姿を、街並みに探す。
唇を噛み締めて、もう一度声なき声で彼を呼ぶ。
ジェイド。
彼の本当の名を。
道行く人を眺めるハルシャの目に、人波を掻き分けるようにして、こちらへ近づくジェイ・ゼルの姿が映った。
無意識に動いていた。
流れに逆らうように彼へと足を進める。何人かの身に体が触れ、謝りながら人ごみをすり抜ける。
辿り着いたジェイ・ゼルは、笑顔だった。
「待たせてしまってすまなかったね」
優しい笑みを浮かべて、ジェイ・ゼルがハルシャの前に花を差し出した。
「意外と迷ってしまってね」
ジェイ・ゼルの手には、小さな花束があった。
愛らしいピンク色の花弁の花だった。三輪がまとめて紙に包まれている。
家に飾るためだろうか。
ジェイ・ゼルはこれを買い求めに一人で行ったのだ。
「ハルシャの好みが解らなかったから、結局自分の好きな花にしてしまったよ」
少し、はにかんだように彼が笑う。
ジェイ・ゼルはこの花が好きなのだ。
華奢な茎の先で、大らかな花弁を開いた花が静かに揺れている。
へえ、と感心するハルシャの手に、ジェイ・ゼルが花を渡してくる。
驚いて、ハルシャは顔をあげてジェイ・ゼルを見つめてしまった。
「わ、私に?」
「そうだよ、ハルシャ」
優しい笑みが彼の顔に浮かぶ。片目を瞑って彼は言葉を続けた。
「可愛らしい私の恋人に、ね」
盛大に顔が赤らんでしまう。
花束を貰うのなど、初めてだ。
恥ずかしさと嬉しさがないまぜになったものが、心の内側に渦巻く。
「あ、ありがとう、ジェイ・ゼル」
突然のことに戸惑い、照れながらも花を受け取ると、空いたジェイ・ゼルの手が髪に触れた。
「喜んでくれると、とても嬉しいよ」
言葉と共に髪を指先が滑り降りる。
「う、嬉しい。ありがとう」
かっかと顔を火照らせながら言うと、ジェイ・ゼルは笑って手を背中に下ろしてそっと押した。
「もう買い物はこれで終了だ。家に戻ろうか」
促されて歩き始める。
ハルシャは背中の温かな手の平を感じながら、手にする花へ視線を注ぐ。
きれいなピンクの花だった。
ハルシャの母親も、花が好きだった。食卓によく飾っていたのを思い出す。
ラグレンでは人が生きるぎりぎりの水しかなかった。だから、植物を育てるのはとんでもない贅沢な趣味だったのだろう。その中で母は工夫しながら、大切に庭で花を育てていた。
手の中で揺れる花を見つめて、ハルシャは過ぎ去った、懐かしい日々に胸を締め付けられていた。
「きれいだな」
手にした花を見つめて歩きながらハルシャは呟いた。
「母も花が好きで、よく飾っていた」
歩くと、ピンクの花弁が揺れる。
この花は、母の好きだった花だ。
思い出にふと微笑む。
「きれいなガーベラだ」
ハルシャが呟いた瞬間、ジェイ・ゼルが足を止めた。
人ごみの中で唐突に停止したので、何人かと肩が触れ合っている。
それも気にならないように、立ち止まった彼はハルシャへ顔を向けた。
無言でしばらくハルシャを見てから、口を開きかけて、ちょっと小首を傾げる。
眉を寄せると、やっと彼は言葉を発した。
「すまない、ハルシャ。今、何と言ったのかな?」
え?
と、ハルシャの方が戸惑ってしまった。何か妙なことを口にしただろうか。
「母は、花が好きだったと言ったのだが――」
「その後だよ。手にしている花を、何と呼んだのかな?」
路上に佇んだまま、彼が問いかける。
ハルシャは瞬きをしたあと、素直に言葉を繰り返す。
「ガーベラと……」
ハルシャはもう一度手にする三輪の花に目を向ける。
真ん中に黄色いところがあって、花びらが中心から放射状に出ている。
どこから見ても、ガーベラだった。
「ガーベラではないのか?」
混乱のあまり問いかけた言葉に、ジェイ・ゼルの眉がますます寄せられた。
「――そうか。ラグレンでは植物をほとんど見かけなかったからね。ハルシャには違いが解らないのだね……」
小さく彼が自分自身に納得をつけるように呟いていた。
花を見てから、視線がハルシャへ向かう。
ジェイ・ゼルは不意に優しい笑みを浮かべた。
「申し訳ないが、ハルシャ。これはガーベラではなくて、コスモスだよ」
コスモス。
初めて聞く花の名前だった。
慌てて手にしている花に目を戻す。
母がガーベラだと教えてくれたのと、同じ形に思える。
「こういう花びらの形状のものは、ガーベラではないのか?」
懸命に問いかけるハルシャの髪を、背中から浮かせた手が静かに撫でた。
「そうだね、コスモスとガーベラはよく似ているね」
微笑んだまま、ジェイ・ゼルが呟く。
「大した違いではないよ。ガーベラもコスモスも、同じキク科だ。同族だからね、間違えてしまうのも仕方がないことだよ」
仕方が無いと言いながら、ハルシャが言い間違えたときに、ひどくジェイ・ゼルは衝撃を受けていた。
再び髪を撫でた手が背中に回り、そっと押される。
促されて、ハルシャは再びジェイ・ゼルと並んで歩き出した。
無意識に歩を進めながら、手元の花を再び見つめる。
真ん中に丸い部分があって、そこから花びらが出ている。
この形をしたものは、全部『ガーベラ』という名前なのだとハルシャは思い込んでいた。母が花を活けながら教えてくれたのだ。
かあっと顔が赤くなる。
それ以外のものがあるとは、知らなかった。
羞恥に顔が赤らむのが止められない。
自分は本当に無知だと思い知らされることが、よくある。
帝星に来るまで、ハルシャは季節というものも知らなかった。ラグレンではほとんど一年中気温が変わらないからだった。
初めて帝星で夏を迎えた時、長袖の服のままで過ごして滝の汗をかいていると、リュウジが申し訳なさそうに教えてくれた。
ハルシャ。夏には半袖の服を着ると良いのですよ、と。
もう随分色々なことに慣れたと思っていたが、まだまだ知らないことがあるようだ。
ハルシャは視線を花に向けたまま、心に呟く。
これは、コスモス。
ガーベラではない。
これは、コスモス。
呪文のように唱え続ける。
呟きながらも、両者の違いが今一つ解らなかった。
花に気を取られたまま歩むうちに、いつの間にか駐車場へと辿り着いている。
飛行車に荷物を積み終え、花を手に座席に座った時、運転席から声が飛んだ。
「そんなにショックを受けなくてもいいよ」
ジェイ・ゼルが優しい声で呟く。
「間違いは誰にでもあることだ」
くしゃっと髪を一撫でして、手を浮かせる。
落ち込んでいることを見透かされていたようだ。
「だ、だが」
ハルシャは申し訳ないような気分になって口を開いた。
「ジェイ・ゼルの好きな花の名前を間違えてしまった」
自分にはよく解らないが、きっと、ガーベラとコスモスと、本当は花の姿がとても違うのだろう。
彼が穏やかな笑みを浮かべる。
「名前は大したことではないよ。君がきれいだと思ってくれたら、それで十分だからね」
ふわりと飛行車が浮いた。
短い沈黙の後、
「帰ったら、夕飯を一緒に作ろうか」
と気分を引き立てるように、ジェイ・ゼルが言う。
「今夜の夕食は、ハルシャの好きなトマトソースのパスタにしようか」
予告通り、その日の夕食は香辛料がぴりっと効いたトマトソースのパスタだった。刻んだトマトから作るジェイ・ゼルお得意の料理だ。それに新鮮な生野菜のサラダと冷製のスープが付き、暑い夏にぴったりの食事になった。大好物の料理を前に、落ち込んでいた気分も晴れ渡る。
喜びを隠さずに食べるハルシャを、目を細めてジェイ・ゼルが見つめている。
「美味しいかい?」
問いかける言葉に、ハルシャは笑顔を向けた。
「とても美味しい。ジェイ・ゼルのパスタは絶品だ」
賞賛の言葉に、彼は微笑みを浮かべた。
「それは何よりだ」
ジェイ・ゼルは細い銀の花瓶にコスモスを活けていた。食事をする傍らで、優しい花びらが、わずかな空気の動きにふわりと揺れている。
楽しい食事も終わり掛けに、ふとジェイ・ゼルが問いかけた。
「明日も仕事は休みなんだね、ハルシャ」
今日明日と、ハルシャは二日連続で休みを貰っていた。休みの昼下がり、天気も良いから一緒に市場へ行こうと誘われたのだ。
念を押すような言葉に、瞬きを一つしてから、
「そうだよ、ジェイ・ゼル」
と言葉を返す。
ジェイ・ゼルは静かに微笑んだ。
「なら」
彼の目が、銀の鶴首の花瓶の中で、思い思いの方向を向く花へ向けられた。
「少し、遠出をしないか?」
遠出、という言葉に、ハルシャは再び瞬きをした。
「どこへ?」
ハルシャの質問には答えずに、彼は笑みを深めた。
「ピクニックはどうかな」
ピクニック、という一言に、ハルシャは思わず瞳を輝かせてしまった。
かつて、家族で行った紫の森の奥の場景が、瞼の裏を過っていく。
『ピクニック』という言葉は幸福で楽しい思い出と結びついている。耳にするだけで、これほどまでに嬉しい。
喜びを隠しきれないハルシャに、ジェイ・ゼルは目を細める。
「早起きをして、お弁当を作って持って行こうか、ハルシャ」
その言葉だけで、ハルシャはワクワクしてしまった。
けれど――はっと、現実に戻る。
「だ、だが。いいのか、ジェイ・ゼル。人目に触れる場所は避けた方が……」
危惧を滲ませたハルシャの言葉に、静かにジェイ・ゼルが微笑む。
「あまり有名ではない場所だから、それほど人出は無いと思うよ。ここから随分遠いが……朝から出かけたら、お昼には向こうに着くかな」
ジェイ・ゼルには、帝星のどこかに思い描く場所があるようだ。
彼は思慮深い。その彼が出かけても大丈夫だと判断したのなら――きっと安全なところなのだろう。
自分の気持ちが納得した途端、心臓がドキドキし始めた。
嬉しかった。
二人で出かけるという言葉だけで、鼓動が収まらない。
かつて。
ジェイ・ゼルと二人で出かけた、紫の森のことが記憶に蘇る。
切ないほどに恋しい気持ちは、今も変わらずに胸の奥にあった。
「と、とても嬉しい」
想いが溢れすぎて、上手く言葉にならない。
「ジェイ・ゼルと一緒にピクニックに行けるなんて――」
まるで、夢のようだ。
と、言いかけて、不意に言葉を飲む。
「私も嬉しいよ」
灰色の眼を細めて彼が微笑む。
「ハルシャがそんなに喜んでくれるならね」
今。
目の前にジェイ・ゼルがいるのは、夢ではない。
現実なのだ。
幸福に胸を締め付けられながら、彼の姿を目に映し続ける。
ゆっくりと、ジェイ・ゼルの顔から笑みが消えた。
「明日は早起きをしなくてはならないからね、ハルシャ」
まだ穏やかな色を残しながら、彼が呟いた。
「そんなに煽ってはいけないよ。寝不足になってしまうからね」
幼い子どもに言い聞かせるような言葉に、自分がどんな目でジェイ・ゼルを見つめていたのかに、はっと気づく。
慌てて視線を伏せる。
「解った。気を付ける」
無意識にいつも自分はジェイ・ゼルを煽ってしまうようだ。
朝、彼の温もりを求める仕草でも、ジェイ・ゼルを刺激してしまうらしい。
そんなつもりはないのだが、心の底で彼を求めているのが、無意識の中で行動に現れてしまう。気を付けなくてはならない。
明日は早くに出るのだ。
自分も頑張って、ジェイ・ゼルの手伝いをして料理を作ろう。と心に決める。
仕事で疲れていると思うのか、ジェイ・ゼルは朝いつもギリギリまでハルシャを寝かせてくれる。一人で起き出して朝ご飯を作ってくれるのだ。
彼の優しさに甘え、守られて日々を過ごしている。
こんな時ぐらい、彼の手伝いをしたかった。
視線を上げると、机の上で静かに揺れるコスモスの花が目に入った。
彼は――
自分の好きな花を、贈ってくれたのだ。
心の底が、ほのぼのと温かい。
「花束をありがとう。思いがけなくて、とても嬉しかった」
感謝の言葉が足りないような気がして、ハルシャは呟いていた。
「コスモスは、きれいな花だな」
彼の好きなものを憶えたことが嬉しくて、大切に花の名前を口にする。
「ジェイ・ゼルが好きなのもうなずける」
言葉と共に笑顔を向けると、ジェイ・ゼルも微笑んだ。
が、次の瞬間、彼は椅子を引いて立ち上がっていた。
食事を終えたからだと思っていると、静かに自分の側に来て、椅子の背もたれに片手を預ける。
椅子から身を捻って見上げると、ジェイ・ゼルの手が頬に触れた。
灰色の瞳が自分を見下ろしている。
「君は」
静かな声で呟きながら、ジェイ・ゼルが顔を寄せてきた。
「――いつも私の忍耐を試してくるね」
柔らかい言葉が、彼の口から溢れる。
そんなことはしていないという反駁ごと、唇が覆われていた。
慣れた動きに心が溶けていく。
美味しい料理で体の内側が満たされ、触れ合う唇から心の中までが満ち足りていく。
幸せだった。
想いを伝えるように、ハルシャはジェイ・ゼルを探る。
啄むようだった口づけが、次第に深く激しくなっていく。
ほとんど無意識に腕を伸ばし、ジェイ・ゼルの首に回して自分に引き寄せる。
舌が絡み、触れ合う場所から愉悦が広がる。
「んっ、んんっ、ぅん」
知らず知らずに声が、口から漏れ出していた。
長く互いを味わってから、ゆっくりとジェイ・ゼルが口を離した。
「明日は早いからね」
椅子に預けていた手が浮いて、髪を優しく撫でる。
「このぐらいで止めておこうか」
目の奥に、燠《おき》のようなほの暗い炎を宿しながら、息の触れ合う距離でジェイ・ゼルが呟く。
顔を真っ赤にしてうなずくハルシャの髪を、再び優しく撫でてから彼は身を離した。
「食事の片づけが終わったら、一緒にガーベラの画像を見ようか」
微笑みながらジェイ・ゼルが言う。
ますます顔を赤らめるハルシャの髪を、優しい手つきで撫でてくれる。
「知らないことは恥ずかしいことではないよ。これから覚えていけば良いだけだからね。ハルシャは学習意欲にあふれているから、すぐに花の名前を覚えられるよ」
指先で髪を梳きながら、不意に重い口調になって彼が呟く。
「私が保証してあげよう。君はとても優秀で、物覚えの良い子だよ」
灰色の瞳が自分を見つめる。
沈黙したまま緩やかに身を屈めると、彼が再び唇を覆った。
ゆっくりと角度を変えながら施される愛撫のような口づけに、ハルシャは夢中で応えた。
小さく笑うと、ジェイ・ゼルが唇を離す。
「素直で、研究熱心で」
髪を撫でながら彼が呟く。
「私をいつも楽しませてくれる」
ふっと笑うと、あっさりと彼は身を引いた。
髪を一撫でしてから手を離すと、彼はもう、夕食の片づけに取りかかっていた。