帰らないと言った言葉に、反射的にリュウジが眉を寄せた。
「それは……なぜですか。サーシャ」
二人の遣り取りを聞いているのか、吉野さんは乗り込みながらも飛行車をまだ動かさなかった。
「だ、だって」
どうしよう。リュウジには秘密にしておくつもりだったのに――
驚かせたい気持ちが、正直に話すことに競り勝った。
「まだ、小説の取材をしていないもの。そのために惑星ガイアに来たから……」
ギャレット博士を説得した理由を、サーシャはここでも使うことにした。
リュウジはさらに眉を寄せる。
「小説、ですか?」
「そ、そう。新しい小説の着想を得たの。それには――どうしても、着生ランの」
と、専門用語っぽく、サーシャは言葉を口にする。
「詳しい取材が必要不可欠なの。この小説の根幹をなすところだから。
だから、ギャレット博士に頼み込んで惑星ガイアで、ランの自生地を見せてもらうことにしたの」
言い終えた後、ぎゅっと唇を噛み締めてリュウジを見つめる。
彼に嘘を吐くのは難しい。簡単に看破してくるからだ。
だからいつも、サーシャは正直なことを包み隠さず言うことにしている。
けれど。
今回は譲れなかった。
もう、苗を持ち帰るのは諦めた。
けれど――リュウジに自生地の画像を贈ることは出来る。
「まだ、取材が出来ていないから……」
覚悟を決めてサーシャは言葉を続ける。
「ギャレット博士と同行するのがダメなら、自分で取材をするわ。現地のガイドをお願いして、ランの自生地を見せてもらうの」
そのための装備も持ってきている。
大丈夫と、自分に言い聞かせる。
「リュウジは激務だから、先に帰っていて。黙って出て来てごめんなさい。これから、ちゃんと毎日連絡を入れるから」
彼は眉を寄せたまま、サーシャを見つめ続ける。
ふっと息を吐くと、リュウジが口を開いた。
「僕が」
静かな声でリュウジが呟く。
「どれほどあなたを心配したかは、考えてくれないのですね、サーシャ」
大きく息を吐くと、彼は視線を前に向けた。
「吉野の名誉のために申しますが、あなたとの約束を守って、彼は一言も今回のあなたの惑星ガイア訪問について、詳細を教えてくれませんでした。
僕が、推理したのです。
――必死に」
彼が焦燥した顔になって、呟く。
「もてる手段をすべて使って、あなたがここのホテルにギャレット博士と滞在していることを調べ上げました。それから、全ての仕事をキャンセルし、あらゆる権力を行使して僕は惑星ガイアにたどり着いたのです」
静かな言葉が車内に響く。
「それは、あなたが危険な目に遭うのが嫌だったからです。サーシャ。
実際、ようやく到着したホテルのバルコニーで、あなたはギャレット博士に執拗に迫られていました。
彼を殴らなかったのは、奇跡だと思ってください。サーシャ」
自分の唐突な行動が、リュウジを動揺させたのだと、気付く。
そして、大迷惑をかけてしまったのだと……
「ご、ごめんなさい」
サーシャは視線を落として呟く。
「――考えが至らなくて、迷惑をかけてしまって」
リュウジは
「迷惑ではありません」
と、ふっと、虚空に呟いた。
ゆっくり視線を上げると、リュウジが自分を見ていた。
「サーシャは、カトレアの自生地の取材をしたいのですね」
そういう理由を告げた以上、引っ込みがつかなかった。
「そ、そうなの。リュウジ。どうしても必要なの」
と、取り敢えず最大限の努力を払って言う。
不意に彼が優しく微笑んだ。
「それなら、協力しましょう」
協力?
問い返す前に、
「自生している状態のカトレアを、僕もまだ実際に目にしたことがないので、ちょうどいい機会です。一緒にカトレアの自生地を見に行きましょう。サーシャ」
と優しい口調になってリュウジが言う。
話が思わぬ展開になって来た。
自分がそもそも野生のカトレアにこだわったのは、リュウジが寂しげな言葉を呟いたからだ。
もしかしたら、彼の夢が一つ叶うかもしれない。
なら、それは歓迎するべきことかもしれない。
「いいの? リュウジ」
思わず弾んだ声になって、サーシャは問い返した。
はっと現実に気付く。
「でも、お仕事が大変じゃないの」
そうだ、彼は仕事をキャンセルしてきたと言っていた。これ以上、自分のために迷惑をかけてはいけないと思い返す。
「私は大丈夫だから、きちんと一人でするから!」
これ以上迷惑をかけるなんて婚約者失格だ、と、自分で罵る。
すっと、リュウジの手がサーシャの頬に触れた。
「あなたが居ないことに気付いた時、僕は心臓が止まりそうになりました」
深い藍色の瞳が自分を見つめる。
「僕は五歳の時に、両親を失っています」
彼から、すでに聞かされていたことだった。
同じ境遇だったことで、深く理解しあえているのだと今も思う。
静かな眼差しのまま、リュウジが呟く。
「惑星ガイアは見かけと違い、危険が多い地域です。あなたは自分の身を自分で守る訓練を受けていません」
穏やかな中に強い意思が潜んでいる。
リュウジは、信じられないほど多くの修羅場を潜り抜けてきた人だった。
「僕はもう、大切な人を失いたくないのです。あなたが着生ランの自生地をその眼で見たいとおっしゃるのなら、僕が同行します。
仕事はいくらでも後で後れを取り戻すことが出来ます。
ですが――あなたに何かがあれば、取り返しがつかないのです」
大切だ、と。
言われているような気がする。
仕事よりも、何よりも。
「――ごめんなさい」
うなだれるサーシャににこっと笑ってリュウジが言う。
「サーシャ。ここはごめんなさい、ではなくて、ありがとう、ですよ」
リュウジが呟いて、顔を前に向ける。
「吉野。『ホテル・クイディンサ』に空室がないか聞いてみてくれ。あればそこに予約を。予約次第、サン・ドレノ宙港に係留中の宇宙船の出港時間を一日ずらしてくれ。
それと、アンダーソンに連絡をして、帰星が一日遅れると伝えてくれないか」
*
取ってくれたホテルに荷物を運び入れ、リュウジはさっそく現地のガイドの手配を自分でしていた。
研究室の皆と宿泊するホテルは簡素な作りだったが、リュウジが指示した場所は一流のホテルのようだった。治安があまりよくないので、セキュリティを優先させるとここになるのです、と教えてくれる。
現地の言葉で連絡を取るリュウジの横で、サーシャはベッドに腰を下ろして床を見ていた。
吉野さんが取ってくれたのは、セミスイートのツインルームだった。
同じ部屋に、ベッドが二つ。
七年間同じ家で暮らして来たけれど、ラグレンを離れてからは一緒に眠ったことは一度もなかった。
これまでは家族として接してくれていたからだが、正式な婚約を整えた後も、リュウジはサーシャの部屋を夜に訪ねてくることはなかった。
もしかしてリュウジは結婚式の後にしか、自分のところに来ないのだろうか。
と。
疑問を口に出すことも出来ずに、サーシャは日々を重ねて来た。
なのに。
今夜は、同じ部屋で眠るのだ。
頬が赤くなる。
で、でも。
と、心の中で呟く。
吉野さんが、ツインルームかダブルルームかどちらがよろしいですかと尋ねた時、ツインルームを指定したのはリュウジだ。
ダブルだと、ベッドは一つ。
ツインは、二台のベッドが置かれている。
だから。
別々のベッドで寝ることにはなる。
そこにこもるリュウジの意図を考えてしまう。
答えの出ない問いが、ぐるぐると頭の中を回る。
会話が終わったらしい。
通話装置を切って、リュウジが微笑む。
「腕のいいガイドの方が、見つかりました。カトレアを専門にされている方です」
笑みがこぼれる。
「今すぐ、こちらへ来て下さるそうです。準備をして、グランド・フロア―でお待ちしていましょうか」
ギャレット博士から、採集に行くのは明日からだと聞いていた。そして、どうしようもなく暑かった。
なのでサーシャは、ショートパンツにラフな半袖のいでたちだった。
けれど、ランの自生地は草深い場所なので、長そで長ズボンは必須で登山用の靴も履かなくてはならない。
用意はしてきている。準備万端だ。
そこは大丈夫だった。
大丈夫でないのは――リュウジと同じ部屋で、着替えることだった。
十一歳の時、何の迷いもなく彼の前で着替えていた過去が蘇る。
豪快に脱ぎさり、半裸で走り回っていた。
今もリュウジは自分に対して同じ感覚なのだろうか。
だとしたら、変にためらうのは親密度が下がるようで、良くないだろうか。
でも。
どう考えても、恥ずかしい。
固まるサーシャの前で、すっとリュウジが立ち上がった。
「これから少し、席を外しますね。吉野のところへ打ち合わせに行ってきます」
同じホテルの別の部屋を、吉野さんの宿泊用に押さえている。そこへ行くとリュウジは言っている。
「十分ほどしたら戻りますから、それまでに準備をしておいてください」
サーシャの言葉をまたずに、彼はすたすたと部屋を出て行った。
一人残されて、サーシャは彼が去った扉を見つめる。
もしかしたら――気を遣ってくれたのだろうか。
わずかの間考え込んでから、サーシャはさっさと行動に移った。
旅行鞄の中から、採集用の服を取り出し手早くまとう。
いちいち悩んでいたら、切りがない。これから一緒に暮らしていくのだ。目の前で着替えることなどどうということもない。
でも。
きっと顔が真っ赤になってしまうだろう。
それだけは、確信があった。
*
リュウジが探してくれた現地ガイドの方は、カルロスという名だった。
「はじめまして」
と、サーシャは握手をする。
労働を重ねてきた、厚い皮膚をした手の平だった。
彼は早口で何かを言う。
サーシャは、ここの言葉がわからずに瞬きを繰り返す。
リュウジが流暢な言葉でガイドの方と会話を交わして、通訳してくれた。
「こんな可愛らしい方を案内できるのは幸運だと、喜んでいらっしゃいますよ、サーシャ」
と、にこにこしている。
「僕の婚約者だと彼に伝えると、僕はとても幸運な男だと言われました」
笑みを弾けさせたまま、リュウジが言う。
彼も――
何だか強烈な光の下では、朗らかな性格になっているような気がする。
赤道近い太陽が、人格を変えるのだろうか。
「ええっと」
サーシャは髪をかりかりと掻いてから、
「ありがとうございます、と伝えて、リュウジ」
と照れながら言う。
彼は優しく笑って言葉を伝えた。
吉野さんの運転する飛行車に乗り込んで、ガイドのカルロスさんが案内する道を辿る。
「ギャレット博士がどちら方面に向かうか解りませんが、明日から採集なら、今日見ておいた方が良いですね。
彼らが採集してしまったら、花を見ることが出来ませんから」
独り言のように、リュウジが呟く。
「僕たちには、採集の許可はおりませんから、ただ、自生状態を見に行くだけです。それで、いいですか。サーシャ」
「も、もちろんよ」
嘘がばれないように、必死にサーシャは言い切る。
本当は――
リュウジに自然のままに育ったカトレアをプレゼントしたかった。
言えない言葉を飲み込む。
彼は――あまりに寂しそうに、手に入れられないもののことを口にした。
あれはきっと、兄のことを想っていたのだ。
七年前、ホテルの部屋の中で、リュウジとマイルズ警部が交わしていた会話を、サーシャは、偶然聞いてしまったのだ。
二人はサーシャが寝ていると思って、潜めた声で語り合っていた。
その中で、知らされる。
リュウジは――兄のハルシャを愛しているのだと。
衝撃に身が震えそうになった。
必死に会話の意味を理解しようと努力し、兄とジェイ・ゼルさんは恋人同士であること。そのことで、兄を愛するリュウジは辛い思いをしていると、悟る。
リュウジは、兄のことが好きだった。
ずっと。
ずっと。
それでも、ジェイ・ゼルさんの刑の終了を待つ兄に、リュウジは一言も自分の想いを告げなかった。
恋人の不在につけ込んで、兄の心を揺さぶろうとはしなかったのだ。
ただ。
いつも心強い家族として、時に心が不安定になる兄の傍らにいて支え続けた。
でも。
サーシャは知っていた。
その眼がいつも愛する者を見る眼で、兄を見つめていることを。
なぜなら――
サーシャはいつも、リュウジのことを見ていたからだった。
彼の眼差しの行きつく先を、黙って見守ることしか出来なかったからだった。
渾身の勇気を振り絞って告げた想いを、リュウジは受け入れてくれた。
そして、結婚を約し婚約を正式に結んでくれた。
兄が親代わりとなって交わした婚約式に、ジェイ・ゼルさんも参列してくれていた。
その時に、二人を見つめるリュウジの目の中に、まだ消えない痛みがあることを、サーシャは読み取ってしまった。
いつもリュウジを見ていたから。
だから、気付いてしまった。
リュウジは今でも、兄のハルシャを、愛している。
身代わりでも良かった。
そんな風に思ってしまったのだ。式を終えた後、兄と屈託なく会話を交わすリュウジを見つめながら。
自分の心の揺れを、ジェイ・ゼルさんは解ってくれていたようだった。
主役がどうしてそんな顔をしているのかな、と話しかけてくれる。
見上げたサーシャの頭を優しく撫でながら、
自分を信じることだ。
と、優しい声で呟いてくれた。
君とリュウジはお似合いだよ、と彼は耳元に口を寄せて、付け加えるように囁く。
その瞬間、凄まじい勢いでリュウジがやってきたのには、驚かされたが。
優しい声のジェイ・ゼルさんの忠告も、あまり役に立たない。
自分に自信なんて持てなかった。
リュウジはきっと――兄のハルシャと本当の家族になりたいから、自分を選んだのだろう。
ハルシャの妹。
それ以外の意味など、もしかしたら、自分にはないのかもしれない。
カラサワ・コンツェルンは世襲制だ。だから、後継ぎが欲しいという意味もあったのだろう。
それでも良かった。
リュウジの側にいられるのなら。
せめて彼が心から喜ぶ誕生日プレゼントを渡してあげたかった。でも、自分には無理なようだ。
何をしても、リュウジに迷惑をかけてしまう。
カラサワ・コンツェルの総帥夫人と言われる未来が、本当は恐かった。
沈黙するサーシャの横で、リュウジはガイドの人と現地の言葉で会話を交わしている。
「サーシャ」
不意に話しかけられて、サーシャは飛び上がりそうになった。
「物語で使うのは、カトレア・ラビアータで大丈夫ですか」
カトレアには、たくさんの種類がある。
ラビアータはここの地域の山で見ることが出来る野生種だった。
サーシャもここに来るまでに、リュウジの好きなカトレアについて、猛勉強を重ねてきたのだ。
「も、もちろん。ラビアータ種の花の形はとてもきれいだから」
「解りました」
と、リュウジは爽やかに答えて、再び現地の人と言葉を交わす。
どうやら、ガイドの方はいくつか自生するカトレアの場所を知っているらしい。その中でどこがサーシャにとって良いのかを、相談しているようだ。
自分が何かをしたいと言えば、リュウジはこれまでも全力でサポートしてくれた。
もう一人の兄として、子どもの頃はずっと慕い続けていた。
その想いが、形を変え始めたのは、いつからだろう。
リュウジに関するゴシップ記事に、悲しい思いをするようになったのは。
サーシャの思いをよそに、
「靴の装備も大丈夫そうですね」
と、リュウジが独り言のように呟く。
「カルロスの話では、標高五〇〇メートルのところに、良株が自生しているそうです。そこへ行きましょう」
標高五〇〇メートル、という高さを、サーシャは軽く見ていた。
きつい光が降り注ぐ中、汗だくになって下草を掻き分けて道を進む。
時に切り立った崖のような場所を歩く。
車から降りる時に、一人一人に背負う形のリュックが渡されたのはなぜだろう、と思っていたが、中には水が入っていて、水分補給をしながら登っていくしかない。
自生するランを見るためには、こんな努力が必要なのだと改めて感じる。
何よりも、暑かった。
ただ、ただ、ひたすらに暑かった。
「カトレアは実は太陽が好きな植物なんですよ」
少しも疲労を見せずに、リュウジが言う。
足元の悪い所では、手を取ってくれて機嫌よくエスコートしてくれながら、知識を教えてくれる。
「この光を吸い込んで、きれいな花を咲かせるのです。楽しみですね、サーシャ」
「そ、そうだね、リュウジ」
苦しい息の下から、サーシャは必死に応える。
「す、すごく、良い作品が書けそうな、予感がする、わ」
リュウジがにこにこと笑う。
「それは何よりです」
登り始めて一時間ほどして、ようやくガイドの方が目指していた場所へたどり着いた。
けれど――
悲痛な声でガイドのカルロスが、大きく枝を伸ばす木を指さして、リュウジに何かを伝えている。
リュウジは冷静に彼の言葉に答える。
短いやり取りの後、
「カルロスが案内しようとしていたカトレアの自生種ですが、一足遅く、どうやら密猟者に採取されてしまったようです」
とリュウジが低めた声で呟く。
「ええええっ!」
驚きのあまり、サーシャは声がひっくり返ってしまった。
「盗られてしまったの!?」
「端的に言うとそうです。法律で禁じられた行為です。残念ながら規制されると、入手が難しくなった分、大金を積んでも手に入れたいという人も現れてしまいます。
おそらく、大株であることに目を付けられて、盗まれてしまったのでしょう」
まだ叫ぶカルロスに、なだめる様にリュウジが話しかけている。
「もしかしたら、ここの近辺一体が盗難にあった可能性が高いと、カルロスは言っています。
この株の他にもあったはずのカトレアが消えているそうです」
どーんと、気持ちが落ち込んだ。
せっかくリュウジに自生のカトレアを見てもらえると思ったのに。せめてそれだけでも、自分は彼のために何かが出来たかもしれないと思ったのに。
やっぱり、何だか上手くいかない。
落ち込んだ表情に気付いたのか、リュウジが眉を寄せる。
「せっかくご足労を頂いたのに、申し訳ないです、サーシャ」
リュウジがまるで、自分の不手際のように謝罪している。
「ど、どうして、リュウジが謝るの?」
驚きに放った声に、リュウジがますます眉を寄せる。
「僕が選択を誤りました。別の場所を選べばよかった。せっかくここまで来たのに――」
彼の言葉に、思わずサーシャは叫んでいた。
「リュウジも、カルロスさんも、誰も悪くないよ!
いけないのは、せっかく自然の中で幸せに暮らしていたカトレアを、お金目的に勝手に持って行った人たちだよ。
リュウジは謝る必要なんて、何一つないよ、むしろ、ありがとうだよ」
リュウジの心を解こうと懸命に言葉を絞る。
「遠くても自分の足で歩いて、自然に咲くさまを楽しませてもらうというのが、本当なんだね」
胸が痛んだ。
「でも、カトレアのことを考えずに、持ち去ってしまう人もいるんだね。そうやって盗んだカトレアを買う人は、汗を流して自分の足で歩いてカトレアに逢いにくる努力をせずに、全てをお金で解決しようとする人だよ。
可哀そうだね。カトレアが好きなのに、その人たちはカトレアの、本当の美しさを知らないんだね」
欲しくても、手に入れてはいけないものもある。
欲望に取りつかれてしまうと、正しいことが見えなくなるのかもしれない。
盗んだカトレアを欲しがる人達もきっと、カトレアを好きなはずなのに。
「だって、リュウジが言っていたよ。
厳しい環境に耐えてこそ、カトレアは美しい花を咲かせる、って。
高い山の中の、雨がほとんど降らない木の枝の上で、一年に一度咲く花が、本当のカトレアだよ。カルロスさんたちはその姿を大切に守っていたのに……」
悲痛なカルロスさんの声を、サーシャは思い出す。
あれは、案内してきて目的のものがなくて申し訳ない、という声ではなかった。
大切なものを失ってしまった時の声だった。
自分はその声を知っている。
六歳の時に、大切なものを自分も失ってしまったから――
だから、カルロスさんの気持ちが、よく解った。
「カルロスさんは悪くないよ。大切にしていたカトレアを失ってしまって、とても傷ついていると思う。サーシャは」
リュウジの目を見て言う。
「美しい花が置かれている、厳しい現実を知ることが出来て良かった。
今はもう、カルロスさんの記憶の中にしかないカトレアの、悲しい運命を知ることが出来て――
だから、ありがとう。リュウジ」
藍色の瞳を見つめる。
「ここへ連れてきてくれて、ありがとう」
自分も、その一人になるところだった。
カトレアを手に入れると言うことは、それを毎年楽しみにしている人たちの喜びを奪ってしまうということだった。
なんという傲慢な行為だったのだろう。
自分の愚かさを思い知る。
その罪を犯さずに済んだのだと、心に呟く。
「サーシャは大事なことを、学ぶことが出来たよ、リュウジ」
リュウジの目が、微かに揺れたような気がした。
彼はさっと顔をカルロスさんに向けると、現地の言葉で語り出した。
カルロスさんが、ちらちらと自分の顔を見ているところを見ると、どうやら先ほど自分が言ったことを、訳してくれているようだ。
勢いで言ってしまったが、なんだか恥ずかしい。
顔を赤らめて立っていると、カルロスさんが、感動したように腕を広げて自分を抱き締めてくれた。
リュウジが短い言葉で問いかける。
それに、カルロスさんが答えた。
「あの木の上にあったのは、セパルとペタルが白色で、リップが淡い桃色だったそうです」
カトレアを猛勉強したサーシャには、リュウジが口にしたセパルとペタルが外側の三枚ずつの花弁で、リップというのが、前に出た筒状の花弁であることを知っていた。
想像する。
白い花びらに、淡いピンクの中心部のある花。
「とても大株で、あの枝一面にこの季節は花が咲くそうです――夢のように美しかったと、カルロスが言っています」
静かに過去形で語れる、花の記憶。
「とても、きれいな花だったんだね」
カルロスさんが、訳してくれた言葉にうなずく。
彼は、大切な我が子を失ったような顔で、カトレアが生えていた木を見ていた。
それだけ大切な存在だったのだ。
労働で硬くなった手を、思わずサーシャは握った。
「リュウジ、言葉を訳してくれる?」
お願いしてから、カルロスさんの目を見る。
想いが伝わる様に、サーシャは言葉を告げた。
「せっかく連れてきてくれたのに、悲しい現実を知らせる結果になって、ごめんなさい」
サーシャの言葉を、リュウジが訳してくれる。
「あなたが自然のままに咲くカトレアを大切にしていたことを、花たちは知っています。
どこに連れ去られたかはわかりませんが、そこで一生懸命に咲いていると思います。離れていても、カルロスさんが喜んでくれるように。だから、悲しまないでください。
どうか、あなたの心の中に、永遠に花を咲かせてあげてください]
リュウジが言葉を終えたあと、もう一度サーシャはぎゅうと抱きしめられていた。
腕を放した後、カルロスさんがリュウジに口早に何かを言う。
少し頬を染めて、リュウジは短く言葉を返した。
訳してくれることを期待して視線を送ったが、リュウジは何も言わない。
その代わりに
「残念ですが、ここでもう戻りましょう。もしかしたら、違法な採集をしている人たちがまだ近くにいるかもしれません。彼らは犯罪者です。武器を持っている可能性がとても高いです。
帰り道も気を付けて行きましょう」
とだけ、言った。
せっかくリュウジのためにと思ったけれど、仕方がない。
歩きながら、はたとサーシャは思いつく。
もしかしたら、ギャレット博士にこの情報を伝えた方がいいのかもしれない。
「リュウジ」
サーシャは麓から昇ってきた道を戻りながら、リュウジに声をかける。
「カトレアが違法に採取されていることを、ギャレット博士に言ってあげたほうがいいかもしれないね。研究室の人達がもしかしたら、ここを目指してくるかもしれないから」
リュウジからすぐに言葉が返らなかった。
聞こえなかったのだろうか。
「リュウジ――」
「もう、僕は彼とサーシャが関わりをもってほしくないのですが」
静かな声だった。
「だめですか」
え?
それは、ギャレット博士と話をするなということだろうか。
釈然としないが、リュウジが嫌な気持ちになるのなら仕方がない。
「解った。黙っておくね」
と、サーシャは答えた。
また、リュウジは言葉を返さない。
しばらく歩いてから、
「すみません、サーシャ」
と、小さくリュウジが呟く。
その後続いて、リュウジが何かを言った。
だが、あまりに小さな声だったので、聞き取れない。
「え、何? リュウジ?」
聞こうとして、下りの山道を、彼の側に近づこうと足を速めた。
その瞬間、山道の端の不安定な場所を踏んでしまったのだろう。
突然足元が崩れて、サーシャはバランスを失った。
急いで降りようとしたため、足元が浮ついていた。そのせいもあったのだろう、悲鳴を上げる余裕もなく、足を取られてサーシャは山道を滑り落ちる。
視界が揺れ、足から斜面へと身が落ちる。
「サーシャ!」