「サーシャ!」
リュウジの悲痛な声が聞こえる。
止める暇もなく、サーシャは斜面の上から下まで滑落していた。
世界が盛大に揺らいで、歪んで――気付いた時には、大の字に横たわっていた。
何が起こったのか、一瞬解らなかった。
落ちたのだと、はっきり自覚したのは目の前に見慣れない風景が広がっていたからだった。
ああ、また迷惑をかけてしまった。
横たわったままサーシャは考えていた。
いつも自分は、リュウジの足を引っ張ってばかりだ。
何とか身を起こそうとしたとき、右足首に激痛が走った。
足をくじいてしまったみたいだ。
どうしよう。
自分が落ちて来た斜面を見上げる。
リュウジたちがのぞき込んでいる姿が、遠い。
高い。
どうしよう。
どうやったら、この斜面を登ることができるだろう。
「動かないでください! サーシャ!」
叫び声が聞こえる。
「骨を折っているかもしれません! 今行きます。動かないでください!」
言葉が終わると同時に、リュウジが斜面を駆け下りてくる。
「危ないよ! リュウジ!」
目に止めて、慌ててサーシャは叫んだ。
だが、リュウジは迷いなくサーシャの元へと降りてくる。
きつい斜面を、生えている木を上手に使いながら、軽い動きで斜面を滑る。みるみる姿が大きくなり、やがて荒い息を吐きながらリュウジがサーシャの側に立っていた。
「どこか、痛いところはありますか」
開口一番、そう言いながら、リュックを背から外してサーシャのそばにしゃがみこむ。
ぐっと唇を噛んでから
「右足首を、痛めてしまったみたい」
と正直なことを伝えた。
リュウジが眉を寄せてから、
「そのままの姿勢で居て下さい。足を診ます」
と、鞄から応急処置セットを出しながら呟く。
リュウジは手早くサーシャの登山靴を脱がしている。
靴下を脱ぐと、足首がすでに赤く腫れてきていた。
軽く触れられただけで、小さな呻き声が出る。
「捻挫か、ひどくて骨折ですね」
眉を寄せて呟いてから、リュウジは応急処置セットを開き、その中から薄水色のシートを出して足首に貼った。
ひんやりとして気持ちがいい。熱が吸われていくようだ。
「とりあえず患部を冷やしています。応急的ですが、これから足首を固定しますね」
そう言って、彼は布状のものを足首に丁寧に巻いていく。巻き終えると、何か液体を布の上から振りかけた。瞬間、布があっという間に硬化し、かちこちになる。
足首が固定されて、痛みが楽になった。
すごい。
瞬間業だ。
「簡易ギプスです」
感動するサーシャに、やっと笑顔を浮かべてリュウジが説明する。
「どうですか。少しは楽になりましたか?」
「全然違うよ、リュウジ。すごく楽になったよ」
「それは良かったです。他のところも診ましょうか」
腰が少し痛かったが、後は大丈夫そうだった。
リュウジはほっとしていた。
「頸椎や脊椎を折っていると、下手をすれば神経が切れて、身体が動かなくなります。今、吉野が救援隊に応援要請をしています。救助隊が来るまで、しばらくここで待っていましょう」
ええええええっ!
とサーシャは驚きの声を上げてしまった。
「だ、大丈夫だよ。そんな大げさにしなくても! もう少ししたら痛みも引いて歩いて行けると思うから」
この山の中に救助の人が入るのは大変だ。木々が深く枝を交差していて、上から助けることも難しい。
サーシャは盛大にうろたえた。
どうしよう、大迷惑だ。
「平気だから。もうすぐ歩けるようになるよ、大丈夫だよ、リュウジ」
懸命に言い、身を起こそうとしたサーシャに、リュウジは手を伸ばした。動きを止められる。
「サーシャは、頑張り屋さんですね」
静かに頭を、彼が撫でてくれる。
「昔から、少しも変わりませんね。泣きたい涙をのみ込んで、いつでも大丈夫だというのですね」
静かに髪の上を手が滑る。
「ここには僕とサーシャしかいません。我慢することはないのですよ」
穏やかな声に、なぜか心が震えた。
「どうして、こんな無茶をしたのですか、サーシャ」
静かに優しい手と言葉が滴り落ちる。
「僕のためにカトレアの野生種を手に入れようとしてくれたのでしょう。そのために、お小遣いを使って、ギャレット博士の言葉に耐えて、危険な橋を渡って――」
リュウジは静かに微笑んだ。
「僕はそんなに、サーシャを不安にさせていますか?」
傷ついたような笑顔に、内側に込み上げるものが抑えられなかった。
「ち、ちがう。違うよ、リュウジ」
吐き出した言葉に、彼は眉を寄せて耳を澄ませてくれる。
「不安になんか、していないよ。ただ、リュウジに喜んで欲しかっただけ……手に入れられないと、寂しそうに言っていたから」
涙が滲んでしまった。
遠くで鳥の声がする。
吉野さんとカルロスさんは、救援隊のことでどうやらこの場所を動いたようだ。
森の生物たちが立てる音だけが、辺りに響いている。
「リュ……リュウジは」
言葉が詰まる。
大きく息を吸うと、サーシャは勇気をふり絞って言葉を続けた。
「本当はまだ、お兄ちゃんが好きなんでしょう」
リュウジは返事をしなかった。
彼の顔を見ることが出来ない。
「好きだけど、お兄ちゃんの幸せのために、身を引いたんだよね。
解っているよ。
どんなに憧れても……手に入らないものって、本当は――」
やっと顔を上げて、サーシャはリュウジを見た。
「お兄ちゃんのことだよね」
藍色の瞳が、自分を見つめている。
サーシャは眉を寄せて、ずっと身の内に秘めていたことを打ち明けた。
「ごめんね、リュウジ。七年前、まだラグレンにいたころ……ホテルの部屋の中で、リュウジとマイルズ警部が話しているのを聞いてしまったの。
小さい声だったけど――」
視線が落ちる。
「リュウジはその頃から、お兄ちゃんが大好きだったんだよね」
苦しみをサーシャは吐きだす。
「ずっと苦しい想いを内側に隠して、お兄ちゃんに家族として接してきたんだよね。サーシャは知っているよ。
だから。
リュウジの夢を、一つでも叶えてあげたかった。
それがサーシャの……」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「リュウジにしてあげられる、たった一つのことだから」
唇を噛み締めてから、言葉を続ける。
「解っているよ、リュウジ。サーシャを選んだのは、お兄ちゃんの妹だからだよね」
毒が身から滴る様に、秘め続けた想いをサーシャは吐き出していた。
「それが、お兄ちゃんに対するリュウジの想いなんだよね」
リュウジは、自分を通じて兄と永遠の関係を持てる。
義理の弟として――本当の家族になれるのだ。
一番の願いは叶えてあげられなくても、せめて彼の思いを繋ぐ楔の役をしようと、サーシャは心に決めていた。
「それでいいよ、リュウジ」
ぽつりとサーシャは呟く。
「サーシャは、それでいいよ」
顔が上げられない。
醜い心の内を告げた自分を、どんな目でリュウジが見ているか、知るのが恐かった。
怒っているのかもしれない。
彼は何も言わなかった。
髪に触れていた手が、頬に滑り落ちて来た。
「サーシャ」
名が呼ばれる。
恥ずかしくて顔を上げることが出来なかった。
唇を噛み締めて視線を落とし続ける。
「サーシャ……顔を上げて下さい」
静かな声に促される。
「僕を、見て下さい」
頬に触れている手が優しく、動く。
「サーシャ」
頬を真っ赤に染めながら、サーシャは顔をようやく上げた。
そこにはいつもの穏やかなリュウジはいなかった。
恐いほど真剣な表情の一人の男性がいた。
ドキンと心臓が躍る。
保護者の立場をかなぐり捨てて、リュウジが今、一人の人間として自分に向き合ってくれているような気がした。
彼は、こんなにも寂しい目をしていたのだと、サーシャは初めて気付いた。
「僕はハルシャを愛していました」
藍色の瞳を真っ直ぐに自分に向けたまま、リュウジが呟く。
「それは真実です」
はっきりと言い切った言葉の潔さに、彼は何も後ろめたい気持ちを持っていないことに気付く。言葉の強さに圧倒されながら、サーシャは彼の瞳を見つめ続ける。
「けれどハルシャの幸せは、僕と一緒にいることではありませんでした。
彼の幸せは――かけがえのない伴侶であるジェイ・ゼルと生きることです。
ジェイ・ゼルから奪っても彼は幸せにならないと、ラグレンに居る時から気付いていました。僕はジェイ・ゼルほど深く私心なく、ハルシャを愛する自信はありません。
それでもハルシャを諦められなかったのは、彼の側だと僕は、カラサワ・コンツェルン次期総帥ではく、カラサワ・リュウジという一人の人間になることが出来たからです。
その心地良さを、彼から与えられる無条件の愛情を僕は、心の底から欲していたのです」
ふっとリュウジが表情を和らげる。
「僕は両親を失ってからずっと、どうやら愛情に飢えていたようです。哀れなほどに……僕が僕だから愛してくれる存在を、求め続けていたのです。
そこで出会ったのが、ハルシャでした。
ラグレンで記憶を失った僕を、彼は無条件で受け入れてくれました。何一つ見返りを求めずに、僕を守り続けてくれました。
だから、彼に愛情を抱いたのです。
ハルシャが男性であることも、何も気になりませんでした。ただ、彼がハルシャ・ヴィンドースだから――気高く優しい心を持つ人だったから」
静かな言葉が、耳を通じて心に沁み込む。
「彼だから愛したのです」
清々しい言葉に、サーシャは不思議と心が落ち着いてきた。
隠し立てせずに全てを話してくれている率直さが、彼に対する信頼を呼ぶ。
まだ涙の滲む目で、サーシャも真っ直ぐにリュウジを見つめ続ける。
視線を逸らすことなく、リュウジは心の内の本当の言葉を呟いた。
「ですが、僕は解っていなかったのです。僕が心から愛したハルシャは、ジェイ・ゼルと過ごした五年間によって育まれたものだったのだ、と」
静かな笑みがリュウジの顔に浮かんだ。
「ジェイ・ゼルは、惜しみなくハルシャに愛情を注いでいました。無意識の内に注がれていた深い情愛を、ハルシャは身に受けて深く豊かに育っていたのです。
僕が愛したハルシャ・ヴィンドースは、ジェイ・ゼルのものでした。
物質的な意味ではありません。精神的な意味です」
何かを思い出したように、彼は言葉を途切れさせた。
短い沈黙の後、リュウジは遠いところへ向けて呟くように、静かな声で言葉を続けた。
「最初、ハルシャとサーシャに出逢った時、過酷な環境の中で懸命に咲こうとするカトレアのようだと思いました」
自分たちを花にたとえるリュウジに、サーシャは瞬きを数度した。
淡々とリュウジは内側の思いを言葉にしていく。
「サーシャも言っていたように、カトレアは厳しい自然の中で、激しい日光と僅かな雨を頼りに育ちます。決して恵まれたとは言えない条件の中でこそ、カトレアはあれほど美しく咲くのです。
花の持つ力を信じ、甘やかさずにそれでも慈しみ続ける――強い日光と時折降り注ぐ慈雨。
ハルシャにとって、ジェイ・ゼルは厳しい自然条件そのものでした。
ジェイ・ゼルが慈しみ続け咲きほころんだ花を、僕は欲しいと思ってしまったのです。
その愚かしさを七年の間、噛み締めていました。ハルシャは決して、ジェイ・ゼルを忘れなかったのです」
ふと、言葉が途切れた。
「さきほど、サーシャはカルロスに言っていましたね。どこに連れ去られても、花は大事にしてくれた人を憶えていて、その人を想いながら咲く、と。
その通りだと思います。
ハルシャは、慈しんでくれた光と慈雨を忘れずに、ジェイ・ゼルのためだけに咲き続ける花でした。ようやく、大切な人の手の中に戻るというのに――どうして、僕が邪魔することが出来るでしょう。彼の側で笑っていることが、ハルシャに取って一番の幸せなのだと……心から納得した時に、不意に気付いたのです」
目を細めて静かに彼は呟いた。
「僕が愛情と思っていたのは、本当はただの執着だったのだと」
しばらく無言でリュウジはサーシャを見つめていた。
「愛は、色々な姿を取ります。欲望も、愛の姿をしているのです」
毒を滴らせるように、リュウジが呟いた。
「僕はハルシャを愛していました。けれどそれは欲望だったのです。
本当は、僕はただハルシャを自分に縛り付けて手元に置きたいだけだった。愛の姿をしていますが、正体は執着心だったのです。そのことに、僕は七年をかけて気付きました。
僕の間違いを教えてくれたのは、ジェイ・ゼルです」
静かにリュウジの瞳が底光りした。
「ジェイ・ゼルのハルシャに対する思いは、醜い欲望の姿をしていました。最初、僕は表面だけをみて彼に対して激怒しました。こんな理不尽なことが許されていいのか、と。
けれど」
不意に彼は、ひどく悲しげに微笑んだ。
「醜い欲望の姿をしていたものの正体は――純粋な真実の愛でした」
痛みを覚えたように、リュウジが顔を歪める。
「僕と反対です」
言葉が再び、途切れた。
「気付いた時に、ひどく自分が愚かで醜く思えました。それでも心は軽くなったのです。まるで呪縛から解き放たれたように。
その時に、不意に思い出したのです。僕はハルシャの借金を早く支払って、彼を解放したいと切望していました。もちろん、ハルシャを自由にして上げたかったのが一番です。ですが、無意識の底では、もう一つの理由があったのです。
それは」
ぐっと、言葉に一瞬リュウジは詰まった。
込み上げるものを、ようやく飲み下すように、彼は小さな声で呟いた。
「サーシャの未来が閉ざされることを、何よりも恐れていたからです」
未来が閉ざされる。
言葉に籠る響きに、なぜか戦慄を覚えた。
自分の知らないところで、兄もリュウジも闘ってくれていたのだと、瞬間悟る。
「ハルシャは愛する人でした。ですが、サーシャは、僕にとってかけがえのない存在だったのです。
大切に慈しみ守るべき人。何も意識をせずに家族として自然に暮らしていける、傍らにいて心からくつろげる存在。
だから、気付かなかったのです。
あなたがどれだけ、自分にとって大切な人になっていたかということに」
藍色の瞳が自分を見つめる。
「あなたが自分の気持ちを教えてくれた時、突然気づいたのです。
僕は、ハルシャがジェイ・ゼルの元へ行き、彼と一緒に暮らしても、生きていける。
けれど――今の生活からサーシャを失ったら、僕は」
一切の笑みを消した、真剣な目が、自分を映す。
「生きてはいけない、と」
不意に眉が寄せられた。
「朝起きて、あなたの置手紙だけで姿が見えなかったときに、心臓が止まりそうでした。
失いたくない。
あなたが居なくなったら、僕は生きていけない。
自分の真実を突き付けられました。
だから、あなたが嫌がるかもしれないと思いながらも、なりふり構わずに追いかけてきたのです。
愚かなことをしているとは、解っています。その結果、あなたに怪我を負わせてしまいました。僕の判断ミスです」
「違うよ、リュウジ」
懸命に、サーシャは首を振る。
「サーシャが勝手に落ちただけだよ」
「あなたの手を取ることは出来たはずです。ですが、僕は狭量なことを言った僕を、嫌っていないだろうかと心配になって、一瞬反応が遅れたのです。
僕は、嫌われるのが恐いのです。本当に愚かなことです。七年間もずっと一緒に暮らしてきているのに――今更ながら、つまらないことが心配なのです。あなたに拒まれるのが恐くて、今の関係から一歩も踏み出せないほどに」
真剣な眼差しが自分を見つめる。
「ですが、そんな煮え切らない僕の態度が、サーシャを不安がらせていたのですね」
ずっと頬に触れていた手に力がこもる。
「サーシャ。あなたと結婚したいと思ったのは、ハルシャの妹だからではありません」
真っ直ぐに目を見つめたまま、リュウジが呟く。
「あなたが、あなただからです」
今。
真実の言葉を聞いているのだと、サーシャは震える身の奥で感じ取る。
兄と慕っていた人は、別の顔を持っていた。
一人の男として、自分に向き合う……瞳の奥に孤独を秘めた人。
彼がオキュラ地域の廃材屋で、ぬいぐるみ生物をサーシャのために手に入れようと、闘ってくれたことを今でも覚えていた。
渡されたぬいぐるみ生物のふわりとした肌触りと、この瞬間のために必死に食い下がってくれたリュウジの想いが、嬉しくて仕方がなかった。
思い出す。
あの時の、信頼と歓喜を。
身が、抑えようもなく震えた。
「惑星トルディアの厳しいオキュラ地域の最奥で、僕が見つけたのは、水の惑星の色を瞳に湛えた一輪の美しい花でした。
水に乾く大地の上で、過酷な環境の中で、懸命に花開こうとする姿に僕は惹かれたのです。
困難に負けずに、少ない水を身に蓄えて――それが、あなたです」
リュウジの低い声が耳に響く。
「誰よりも気高く美しく咲く、私のカトレア」
顔が近づき、息が触れる距離で言葉が呟かれた。
「サーシャ・ヴィンドース。あなたを愛しています」
言葉の響きが消えた後、優しく唇が覆われていた。
ドキンドキンと心臓が躍りまくる。
ど、どうしよう。
初めてだ。
こ、こんな時どうしたらいいんだろう。
顔を真っ赤にして息を詰めるサーシャに気付くと、小さく笑ってリュウジが口を離した。
「こんなことをして、僕を嫌いませんか」
「き、嫌わないよ、リュウジ」
心臓が飛び出してきそうだ。
「なら……もう少し、良いですか?」
確認しないでほしい。
ぎゅっと目を瞑ると、再び優しく唇が触れ合った。
二度目でもドキドキが止まらない。
感覚だけが、嫌に鮮明だ。
息を詰めていたために、酸欠になりそうになった時にリュウジが唇を離してくれた。
慌てて息を吸い込む。
横を向いて、すーはーと深呼吸する。
リュウジはどんな顔をしているのだろう。
確かめるのが恐いが、サーシャは目を開いた。
顔を横向けにしたために、さっきまでとは違う風景が目に飛び込んでくる。
大きな岩の上にあるものに気付いた瞬間、サーシャは叫んでいた。
「リュウジ!」
自分が横たわる地面に繋がる岩の上を指さす。
「カトレアだよ!」
サーシャから身を離し、リュウジが指さす方向へ顔を向ける。
さっと彼が立ち上がって、存在を確かめている。
随分離れた岩の上に、カトレアの一株が生えていた。岩から天へ向けて身を伸ばすように、緑の肉厚な葉の間から、花が咲きこぼれている。
「――野生種です。サーシャ」
興奮が隠せない口調で呟いて、リュウジが再び自分の側に腰を下ろした。
「きれいなカトレアです」
遠目に見ただけだが、純白のカトレアだった。
人の通わない山の奥の荒々しい岩の上に、太い根でしがみつくようにして、可憐なカトレアの数輪が咲いている。
きれいだった。
リュウジの温室で見せてもらった花もとてもステキだったが、自生するカトレアは、凛とした気品がある。
厳しい環境に一年間耐え続け花を咲かせた強さが、たたずまいから漂ってくるようだ。
熱帯の濃い緑に囲まれた中、真っ白な花の色が鮮やかに浮かんでいる。幻のように美しかった。
「サーシャのお陰で、夢が叶いました」
静かな声で、リュウジが呟いた。
「自生するカトレアをこの目で見ることが出来たのです。そして恐らく、この花を見たのは僕たちが初めてでしょう――自然そのままの姿を今、目にしているのですね。感動です」
彼の微笑みが、静かに降り注ぐ。
「サーシャが転がり落ちてくれたおかげで、僕は思わぬ僥倖に出くわしました。
あなたの言う通りですね。思い続けていたら、夢は必ず、叶う」
笑みを深めて、リュウジが呟いた。
「サーシャと一緒だと、いつも思いがけないことばかりで、とても楽しいです。
あなたの傍らで見る世界は、とても美しいと――知っていましたか? サーシャ」
視線が触れ合う。
笑みを消すと、彼の顔が再び近づいた。
しっとりとした感触を残して、彼が口を引く。
「僕たちの記憶だけに、この花を残しておきましょう。誰にも告げずに――僕はサーシャと一緒にカトレアの自生する姿を見られただけで十分です」
優しく頬が撫でられる。
「これ以上の喜びはありません」
微笑んで彼は呟いた。
「最高の誕生日プレゼントですよ、サーシャ」
それから、救援隊が来るまで、二人で並んでカトレアを眺めて過ごした。
純白の、美しい花。
心の一番きれいな所に、この花はずっと咲き続ける。何十年でも、きっと。
「大好きだよ、リュウジ」
彼にもたれて、サーシャは呟いた。
「ぬいぐるみ生物をおまけにつけてくれた時から、ずっと」
リュウジがくすくすと笑う。
「あのとき、アルフォンソ二世があそこに居てくれたのは、僥倖でしたね」
思い出が巡る。
言葉が途切れた後、リュウジがぽつりと呟いた。
「結婚式には、真っ白なカトレアをサーシャのベールに飾りましょう」
ええええっ!と、サーシャは驚いてしまった。
「大切な花でしょう!」
「そうですね。でも、大切なサーシャのためなら大丈夫ですよ」
柔らかい声でリュウジが続ける。
「真っ白なカトレアと、白いマーガレットをブーケにして――」
優しくリュウジが微笑む。
「銀河で一番きれいな花嫁になると思いますよ」
サーシャは顔が真っ赤になった。
「ぎ、銀河で一番きれいかどうかは、わからないけれど――でも」
藍色の宇宙を秘めたような瞳を見上げて、サーシャは呟いた。
「銀河で一番、幸せな花嫁だと思うわ」
無言で見つめ合った後、自然と唇が触れ合った。
四度目にしてやっと、ドキドキが収まったような気がした。
そして――
リュウジが予言したように、銀河で一番美しく、そして幸せな花嫁は、夫が彼女のために丹精込めた純白のカトレアを髪に飾り、マーガレットとカトレアが愛らしく手元を飾るブーケを手に、兄に導かれて教会の通路を歩む。
聖堂の奥で待つ、微笑みを湛えた大切な人の元へと。
十一歳の時に、初めて出会い人生を寄り添ってきた――
運命に導かれた恋人の側へ。
しっかりとした足取りで、進んで行った。
その日――
帝星ディストニアの空は、どこまでも青く美しく済み渡っていた。
こよなく夫が愛でる、彼女の美しい二つの瞳のように。
(了)