リュウジとサーシャのその後の物語になります。男女の物語です。
惑星トルディアにおけるリュウジのイメージが壊れると思う方は閲覧回避をして下さい。
繰り返します。リュウジとサーシャのその後の恋の物語です。閲覧は自己責任でお願いいたします。
「リュウジは、蘭が好きなの?」
光が降り注ぐ温室の中で、サーシャが吊り下げられた鉢を見上げながら、問いかけた。
帝星ディストニアの首都・帝都ハルシオンの郊外、キンカレア市の小高い丘にリュウジの温室はあった。
周囲を壁で囲み、巨大な温室と管理人のヴェイザーの作業場があるだけの施設。
リュウジにとって、大切な場所だった。
「はい。カトレアが好きです」
蘭、というざくっとした区分を、やんわりと訂正しながら、リュウジは笑顔で答えた。
「手間のかかる花ですが、育て甲斐があります」
ふうんと、納得したようにサーシャが頷きながら、声を漏らしている。
温室は暑い。
サーシャは着ていた上着を脱ぎ、腕に引っかけている。それでもまだ暑いのか、額にじわりと汗がにじんでいた。
ここは、惑星ガイアの熱帯地域を模した状態になっている。
気温は摂氏三十度。湿度は八十%。
空気は循環しているが、慣れないと蒸し暑さのせいで息苦しくなるほどだ。
それでもサーシャは文句一つ言わずに、案内された温室の中で物珍しそうに花を眺めている。
その様子に優しい眼差しを向け
「サーシャは、カトレアは好きですか?」
と、逆に問いかけてみた。
瞬きを一つしてから、彼女が振り向く。
「あまりにきれいすぎて、本物の花とは思えないぐらいだね、リュウジ」
天井の高い温室には、光が満ち溢れている。
差し込む光に、キラキラとサーシャの金色の髪が透けて光っていた。
一瞬見とれてから、リュウジは言葉を返した。
「そうですね。造化の神は、きっと芸術家なのでしょう。地上に存在するあらゆるものを、実に巧みに作り上げていますね」
サーシャは再び、ゆたかに花びらを開く、数輪のカトレアへ顔を向けた。
「本物の花、なんだよね、リュウジ」
「ええ、そうです」
リュウジは近くの蕾を開いた一輪に、視線を向ける。
「僕は原種が好きなので、ほとんどが天然の姿そのままです」
聞きなれない言葉に、サーシャが小首をかしげた。
「原種って、何?」
無邪気な問いに、リュウジは思わず笑みを深めた。
「自然界で発見された、野生そのままの形質をもつ植物のことです」
驚きに、サーシャが目を見開いた。
「自然界って、惑星ガイアで見つかったってこと?」
途端に、尊敬の眼差しをサーシャが花へと向ける。
「天然採取ものは、この温室にはありませんよ、サーシャ」
笑いを含みながら、今、惑星ガイアから、学術的な目的以外では動植物を持ち出すことは禁じられていると、リュウジはサーシャに教える。
母なる惑星の生態系を保存しておこうと言うのが、目下の銀河帝国の政策だった。
「なので、ここにあるのは全て、細胞を培養して作りだしたものです。原種の蘭の細胞を、滅菌された栄養培地に置いて……」
どうやって細胞片から、植物を作り出すのかを説明するリュウジの言葉に、サーシャは瞬きをしながら耳を傾けていた。
「えっと、つまり。原種の蘭のクローン、ってことなのかな? リュウジ」
「その通りです。細胞は同じですから、惑星ガイアに咲いている花と同じものを、僕たちは見ているのです。カトレアには様々な交配種がありますが、原種の力強い美しさには敵わないと思っているのです」
光が降り注ぐ、湿度の高い温室の中を、リュウジはゆっくりと見渡した。
「なるべく備えた美しさを活かすよう、元の姿のままと思っていますが……」
素焼きの鉢に植えこんでいる花を見つめる。
リュウジは視線を、花からサーシャへ向けた。
「自然の状態では、カトレアたちは樹の枝や岩の表面に活着しているのですよ」
ええっ?
とサーシャが驚きに目を瞠る。
「地面に生えているのではないの?」
リュウジは彼女の驚きを眺めながら、頭を揺らした。
「そうです。着生植物というのですが、この太い根でしっかりと枝や岩に巻き付いて成長するのです。
意外とたくましいのですよ」
へえっと、先ほどとはまた違う関心を花たちに寄せている。
サーシャが興味を次第に覚えてくれることが嬉しくて、リュウジは弾む言葉を続けた。
「カトレアたちはあまり栄養が取れない厳しい環境を、わざわざ選んで生きてきたようです」
「こんなにきれいな花を咲かせるのに?」
「そうです。美しい花を咲かすのに、彼らは肥沃な土地を棲み処として選ばなかったのです。地面ではないですから、雨が降ってもすぐに乾いてしまいます。
この、葉っぱの根元を見て下さい。ふっくらとしているでしょう?」
リュウジが示すカトレアの基部へ、サーシャが眼を向ける。
肉厚の葉の下部は、真ん中が膨らんだ紡錘形になっている。
顔を近づけてしげしげと眺めてから、サーシャが感嘆の声を上げた。
「本当だね、リュウジ!」
素直な様子に思わず微笑みながら、リュウジは近くの緑の葉を撫でた。
「これは、バルブといって、カトレアたちは身に受けた水分をここに蓄えて、雨が降らない間も自分自身の水分を使って耐え忍ぶのです。彼らが自然繁殖している場所は、雨季と乾季があって、雨が降らない時期が続くことがあるんですよ。
栽培する時は、逆に水を与えすぎないように、乾かし気味に育てることが肝要になります」
へえ、と、サーシャはまた違った眼で花を眺めた。
「厳しい環境に生きてきたのに、こんなにきれいな花を咲かせるんだね」
心から感心した言葉に、リュウジは静かに微笑んだ。
「そうですね」
静かに視線を、再び花に向ける。
「耐え忍びながらも、艶やかな花を咲かせる――そんなところに、僕はもしかしたら心を惹かれているのかもしれません」
ふと。
思っていた以上に寂しげな言葉が口からこぼれた。
かつて、最下層の地域で生きていたハルシャのことを、想う。
過酷な環境の中で、耐え忍びながら懸命に咲いていた花。
きっとそんなところにも、自分は心惹かれてしまったのだろう。
言葉が、途切れた。
サーシャが花からリュウジに眼差しを向ける。
思いから浮上し、静かに笑みを深めてから、リュウジが視線をサーシャに戻した。
「いつか、自然のままの姿を見たいとは思いますが――」
藍色の眼を細めて彼は言葉を続けた。
「どんなに憧れても……手に入らないものがあるというのも、また、人生の深さかもしれませんね」
痛みが滴る言葉に、サーシャはすぐに言葉を返さなかった。
深い藍色の瞳を、見つめ続ける。
「いつか」
サーシャが静かに呟いた。
「夢は叶うよ、リュウジ。思い続けていたら、きっと」
リュウジは今、叶わない夢もあると知っていた。
その痛みを隠して、静かにサーシャに微笑みを与える。
「そうですね」
彼女は少しもハルシャと面差しが似ていない。
それが唯一の救いのように思える時がある。
もし似ていれば、サーシャの中に兄の姿を探してしまったかもしれない。
「願っていれば、いつか、叶いますね」
叶わない夢もあると解かりながらも、サーシャの心を汲み取るようにリュウジは呟く。
七年間想い続けた人は、別の相手を選んだ。
自分ではなく、ジェイ・ゼルを。
それが、ハルシャの幸せだと解かっていたから、何とか身を引けた。
けれど。
突如として、どうしようもない寂寞が襲いかかってくる時がある。
一番辛いのは……彼が自分を選ばなかったことではない。
彼を一番幸せに出来るのが、自分ではなかったという、揺るがしがたい事実だった。
どんなに願っても、祈っても、自分ではハルシャを幸せに出来ない。
その真実が、辛かった。
ジェイ・ゼルの傍らで、無邪気に笑うハルシャの姿が、今も脳裏をよぎる。
信頼に満ちた眼差しを、彼はひたむきにジェイ・ゼルに注いでいた。
内側の痛みにリュウジはただ、耐え続けた。
サーシャを瞳に映しながら、遠いところへ視線が漂う。
ハルシャは今、ジェイ・ゼルと一緒に宇宙を旅している。
二人だけの空間に身を浸しながら――
彼は長く夢見たことを、実現させたのだ。
それを。
自分の幸せのように感じたいと、リュウジは切に願った。
心を切り替える。
今、傍らには自分の婚約者として、サーシャが居てくれる。
それだけで十分だった。
「そうだよ、リュウジ」
優しい声でサーシャが言う。
「大切なのはね、思い続けることだよ」
出会った時は十一歳だった少女は、伸びやかに生い立っていた。
もう、十八歳になる。
今も自分を見つめる彼女は、天使のようだった姿から、輝くばかりに美しい女性へと成長していた。
最初に出会ってから七年の間、ずっと自分を想っていてくれたと、彼女は自分に伝えてくれた。その時初めて、ハルシャの妹ではなくサーシャ・ヴィンドースという一人の存在として、彼女を見たような気がした。
気付かなかった。
ハルシャの妹としてしか、見ていなかったから。
どんな眼差しを自分に注いでくれていたのか。
揺るぎない愛情で自分を支えてくれていたことにも。
目を覆っていた薄絹を取り去り、世界を初めてはっきりと見たような気がした。
その中で、サーシャは出会ったときと変わらぬ、真っ直ぐな眼差しで自分を見つめていた。
惑星ガイアのようだと、最初に思った青い瞳が自分を映す。
そこから――
ハルシャが去った後の家に二人で暮らし、ゆっくりと想いが熟されていく。
二人での暮らしが一ヶ月を過ぎた頃、リュウジはサーシャに提案していた。
このまま僕と一緒にずっとこの家で過ごしませんか、サーシャ。
本当の家族になって。
その意味を、サーシャは鋭敏な感覚できちんと理解してくれたようだ。
ほんのりと頬を染めて、リュウジが良いなら、と答えてくれた。
その瞬間。
自分が手を取るべき人はこの人だったのだと確信が湧き上がってきた。
惑星トルディアで、僥倖によって自分はハルシャと巡り合ったと思っていた。
その出会いは、もう一つの奇跡も伴っていたのだ。
目の前の、サーシャ・ヴィンドースとの絆を。
時の流れを、感じる。
ラグレンでは成人は二十歳だったが、ここ帝星では十八歳で大人として認められる。
兄より二歳分得したようだと、サーシャははしゃいでいた。
身内だけの温かな誕生祝いを、喜んでいた姿を思い出す。
もう、自分は大人になったと、祝いの席でサーシャが懸命に告げていた意味を、はっきりとその瞬間悟った。一人の人間として見てくれと、彼女は懇願していたのだ。
もうすでに身内だけでの婚約式は済まし、結婚への準備に入っていた。
もう少ししたら、彼女を妻と呼ぶのだとリュウジは心に呟く。
思いもかけないほど、それは喜びを生む想像だった。
「この温室に他人を入れたのは、初めてです」
リュウジは澄み切った青い瞳を見つめながら、呟いた。
青い眼が、せわしなく瞬く。
「え」
サーシャが驚いたように目を瞠る。
「そ、そうなの?」
きょろきょろと、周りを見回している。まるで、誰かが温室の中に隠れていないかと、探すような仕草だ。
「僕の特別な場所ですから」
サーシャをこちらに向かせるように、言葉に力を込めて言う。
ここは自分にとって、聖域のような場所だった。
信頼する管理人のヴェイザー以外は、祖父ですら足を踏み入れたことがない。
煩わしい外事を忘れることのできる唯一の場所が、愛育する花であふれる温室だったのだ。
その場所へ、リュウジはほとんど迷いなくサーシャを招いた。
もしかしたら――
彼女に知って欲しかったのかもしれない。
自分と言う、人間を。
動きを止めてから、彼女は自分へ顔を向けてきた。
「サーシャは、僕の大事な人です。だから、見てほしかったのです。僕が大切にしているものを」
にこっと笑う。
「気に入ってもらえたら、とても嬉しいです」
「と、とっても気に入ったわ!」
突然声を大にして、サーシャが宣言する。
頬が赤い。
照れているのかもしれない。
リュウジは静かに、どぎまぎとするサーシャを見つめる。
その視線から逃れるように、彼女は目を逸らした。
顔を真っ赤にしながら、サーシャが口を開いた。
「も、もうすぐ、誕生日だよね、リュウジ」
突然、サーシャが全く関係のないことを言い出した。
眉を少し上げるとリュウジはうなずいた。
「誕生祝いは人を招いてする予定をしていますが――その席で、サーシャを正式に僕の婚約者としてお披露目しようと思っています」
サーシャがうなずく。
「吉野さんから、聞いているわ」
顔がまだ、赤い。
「お兄ちゃんも、その時には帰ってくると言っていたから」
「ハルシャが?」
「リュウジのお誕生日をお祝いしたいって。ジェイ・ゼルさんと一緒にもう、帝星への軌道を取っていると、先日連絡を受けたの」
なぜだろう。
彼と会えると言うだけで、胸が小さく痛んだ。
「それは、二重の意味で楽しみです」
もう、サーシャのための服は用意している。
ドルディスタ・メリーウェザと一緒に選びに行ったのだ。サプライズで渡すつもりをしていた。
柔らかなピンクの服は、きっと彼女に似合うだろう。
胸の痛みを隠して、リュウジは笑った。
サーシャが花から自分へと視線を向ける。
「私も、お祝いを考えついたから」
ほんのりと頬を染めたまま、サーシャがキラキラと輝く瞳で自分を見上げてくる。
「楽しみにしておいて」
笑みを深めながら、リュウジはサーシャを眼に映して呟いた。
「とても楽しみです。サーシャ」
慈しんできた花よりもなお彼女の方が美しいと、想いを口にできずにリュウジはただ、微笑み続けた。
――――――
確かに。
楽しみだと言った。
だが。
数日後のサーシャの置き手紙を目にして、リュウジは固まってしまった。
『リュウジへ。
惑星ガイアにちょっと行ってきます。
リュウジの誕生日までには帰るから、安心してね。
それじゃ。 サーシャ』
七年間、サーシャと暮らしてきた家に、彼女の姿がなかった。
ただ食卓の上に、朝食の準備と光り文字で走り書きのメモだけが残されていたのだ。
文面をしばらく見つめてから、リュウジは声を発した。
「吉野」
空気が動き、側に吉野が立っていた。
「サーシャは、惑星ガイアに何をしにいったんだ」
視線を滑らせて彼の姿を捉える。
「僕は聞いていないのだが」
吉野は口ごもっている。
珍しいことだ。
「どうした」
重ねて問いかける。
「サーシャに口止めされているのか?」
静かに吉野がうなずく。
「サーシャ様は、
「僕のために?」
一瞬言い淀んでから、視線を落として吉野が呟きを洩らす。
「それ以上は、他言しないでくれと、サーシャ様から懇願を受けています。どうか、ご容赦を」
言い終えると、吉野は頑なに口を噤んでいる。
サーシャによほど強くお願いされたのだろう。
残されたメモと朝食を見つめて、リュウジは考え込んだ。
惑星ガイアに行かなければならない理由を考える。
何かを買うにしても、帝星でほとんどが手に入る。
僕のため、という一言がひっかかった。
そして、誕生日までには帰るという但し書き。
まさか。
予感を感じながら
「惑星ガイアに――サーシャは僕の誕生日のための何かをしに行ったのか?」
と、詰問口調で吉野に問いかける。
彼は口を開かなかった。
懸命に推理する。
記憶を手繰る。サーシャは何を思いついたのだろう。
その瞬間、温室で交わした会話が蘇ってきた。
そうだ。
あの時、私も、お祝いを考えついたから、とサーシャは言っていた。
お祝いを「考えている」から、ではなく。
「考えついた」と――
つまり、あの温室がきっかけで、誕生祝いのヒントを得たということだ。
と、すれば。
可能性は、ただ一つ。
カトレア、だ。
サーシャは、リュウジが趣味としているカトレアを、誕生祝いに渡そうと考えたのかもしれない。だが、それにしても、わざわざ惑星ガイアに行く理由が解らない。
帝星でも良質なカトレアの苗は手に入る。
惑星ガイアと、カトレア。
二つのものが結びついた瞬間、リュウジは声を上げていた。
「自生の……野生種のカトレアか」
瞬間、吉野の眉が無意識に反応した。
図星だ。
止めていた息を、リュウジはゆっくりと吐いた。
「吉野が手を貸したんだな」
静かに彼は、目を伏せた。
「お止めいたしましたが――耳を傾けては下さいませんでした」
そうだ。
ハルシャと良く似て、サーシャは意外と頑固だった。
言い出したらきかないところがある。
再び吐息が口から漏れる。
「吉野が送り出したぐらいだから、安全な場所であるのは確実だろう」
そこは、信頼していた。
だが。
リュウジは眉を寄せる。
「野生のカトレアが育成する地域は、あまり治安が良くない場所がある」
吉野の口を開かそうとするように、リュウジは強い言葉を続ける。
「それに、サーシャが単独で行ったとしても、趣味目的の採集は禁止されている。不法に採取すれば、当局に逮捕されてしまう――サーシャは、それを知っているのか」
吉野の表情が動かない。
頑固だ。
「吉野」
語気を和らげて、リュウジは語りかけた。
「もし、サーシャの身に何かあったら、僕は一生後悔する」
何故か、意図せず声が微かに震えてくる。
「七年もかけてようやく、彼女がどれだけ自分にとって大切なのか気付くことが出来たんだ。大切な家族と思える人を、僕はもう失いたくない」
切なる想いが、口からこぼれ落ちる。
「彼女が僕を驚かせたいという気持ちは十分わかる。
それでも、サーシャを危険な目に遭わせることは出来ない。教えてくれないか。頼む」
リュウジの切願に、吉野が眉を寄せた。
「サーシャ様は、
申し訳ありません。サーシャ様とお約束をしてしまいました」
サーシャの純朴な思いに、吉野が心を動かされたのだと気付く。
譲る様にリュウジは和らげた語気のまま言葉を続けた。
「なら、どうだろう。サーシャがどこへ行ったのかだけ、教えてくれないか。僕が大丈夫だと思えるのなら、大人しく彼女の帰りを待つことにしよう」
譲歩を示した言葉にも、吉野の口は重い。
頑固だ。
長く、リュウジはため息を吐いた。
「解った」
呟いて踵を返す。
「自分で調べる。吉野にはもう訊かない」
拗ねたような口調になってしまうのはなぜだろう。
スタスタと歩き始めた後ろから、吉野は足音を立てずについてくる。
「竜司様……」
困ったように彼が呟く。
その間も、リュウジは考え続けていた。
野生のカトレア。
野生のカトレア。
野生のカトレア。
心に呟き続ける。
どうやってサーシャは野生のカトレアを手に入れようとしたのだろう。
この前温室で、惑星ガイアから自生しているカトレアを持ち出すことは出来ないと話しておいたはずだ。
なのに、どうして。
はっと、天啓のようにアイデアが降って来た。
そうだ。
学術的な目的以外では動植物を持ち出すことは禁じられている。
だが、逆に――学術的な目的なら、持ち出しは許可されていると言うことだ。
「そうか!」
リュウジは思わず叫んでいた。
「サイモン・ギャレット博士の研究室か!」
着生ラン科の研究の第一人者であるギャレット博士なら、野生のカトレアの採取を許可されている。
確か、近々惑星ガイアへ採集に向かうと言っていた。
カトレア愛好会の会場で、彼と立ち話をしたことを思い出す。
そこにサーシャは入れてもらったのかもしれない。
叫んだリュウジへ、吉野が複雑な顔を向けていた。
それだけで、正解だと解る。
「追いかけるぞ、吉野」
リュウジは走り出していた。
「ギャレット博士は、着生ラン科の研究の一人者だが――手癖が悪いのでも有名だ」
サーシャはなにも知らない。
密林でどれだけギャレット博士が開放的になるのかも――。
博士は美しい着生ランも好きだが、美しい女性もそれ以上に好んでいた。
サーシャは、世間の荒波を知らない。
舌打ちが出そうになる。
「僕に一言相談してくれれば良かったのに、サーシャ」
呟きながら走るリュウジの横で、すでに吉野が帝星のアルヴァン宙港からリュウジ専用機を飛ばす連絡を入れていた。
*
暑い。
それ以外の感想が出てこないほど、たどり着いた惑星ガイアのヴァイア地域は暑かった。
サーシャはからりと晴れ渡った空と、青く輝く海を見ていた。
野生のカトレアに興味がある、と、シンクン・ナルキーサスのサイモン・ギャレット博士に相談したところ、ナイスなタイミングだよ、サーシャちゃんと満面の笑みで返されたのだ。
聞けば、数日後に惑星ガイアで研究目的の採集を行うとのことだ。
あまり深く考えずに、ぜひ同行させてほしい、とサーシャが頼み込んだらあっさりと許可が下りたのだ。
採集旅行のメンバーは、ギャレット博士と、彼の研究室の生徒たち十四人、そしてサーシャだった。そこへ、現地ガイドが付き、総勢二十人がこの暑い赤道近い森林に分け入り、目的の蘭を探すようだ。
ここは旧地名をブラジルと呼ばれる南アーメリア地域の一角だった。
目の前には青い海が広がり、多くの人が海水浴を楽しんでいる。
いまだにこれほどの水が無防備に存在することに、サーシャは慣れなかった。
勿体ない、とつい、考えてしまう。
海水は飲めないのに、こんなに水を無駄に放置して! とラグレンに居た時代の感覚がむくむくと目を覚ます。
サーシャは、ホテルのひさしの下で、椅子に座って海を眺める。
採集は明日からだと聞いている。
建物の影に入ってもまだ暑い気候に辟易しながら、リュウジのためにカトレアを持ち帰る未来を、夢想していた。
「サーシャちゃん」
不意に、後ろから声がした。
振り向かなくても、誰かは解る。
サイモン・ギャレット博士だ。
茶色の髪と薄青い瞳の理学博士は、惑星ガイアに着いてからは何だか人格が変わったように、明るく饒舌だ。
「海を眺めて、どうして溜息をついているのかな」
「海の水が飲めたら良いだろうにと、考えていただけです」
サーシャは、笑顔を張り付かせて振り向いた。
「コップ何杯分かなと考えていたら、溜息が出ただけです。昔から私は、数学が苦手だったので」
ほう、と眉を上げながら、ギャレット博士が断りもなく椅子を引き寄せて、サーシャのすぐそばに腰を降ろした。
「作家さんの考えることは、実に散文的だね」
ニコニコと笑ってサーシャを見る。
「サーシャちゃんは、着生ランの自生地を訪ねて、次の作品の参考にしたいそうだね」
そういう理由をつけて、無理矢理サーシャは採集旅行に同行したのだ。
どうしても次の作品に、野生のカトレアの描写が欲しい。自分はリアリズムを追及しているので、画像だけでは満足できない。蘭が生えている雰囲気、空気感、太陽の光、水、大地、そこまで感じ取れる文章を書きたい、だからぜひ一緒に連れて行ってくれ――
と、なりふり構わず頼み込んだのだ。
「は、はい」
たらりと額に汗が滲むのを感じながら、サーシャは笑顔を浮かべ続けた。
連れて帰ってもらわなくてはならない。
そして。
あわよくば、リュウジのために野生のカトレアを一株手に入れたい。
そのためにはギャレット博士の機嫌を損ねる訳にはいかないと、一応理解していた。
一応は。
「どんな作品になるのかな?」
甘ったるい言葉で、ギャレット博士が問いかける。
おかしい。
シンクン・ナルキーサスでは、こんな人柄ではなかったような気がする。
彼の目は蘭しか見ていないような気がしたのだが……読み間違えただろうか。
「あ、その」
作品など、でっち上げだ。何の構想もない。
笑顔のまま、サーシャは
「企業秘密です」
と、言い切った。
「そうなのかい?」
ずっと、ギャレット博士が椅子を擦りながら近づけてくる。
「隠されると知りたくなるのが人情だと、サーシャちゃんは知っているかな?」
「ああ、それは、いないないばあの、理屈ですね!」
にこにこと笑ってサーシャはいなす。
「隠されると見たくなる。幼少期から人間はそうですね」
ずいっと、また椅子が近づく。
ち、近い。
サーシャは同じだけ、ずいっと、椅子を後ろにずらした。
「君は面白いことを言うね」
ずいっ。
「そ、そんなことはないですよ。ギャレット博士」
ずいっ。
「もしかして新しい作品には、着生ランの研究者が出てくるかな? 私のような」
ずずいっ。
「さ、さあどうでしょう。私は構想を他人に安易にお話ししないタイプなんです」
ずいっ。
二人で、椅子の音をさせながら、テーブルの周りをゆっくりと回る。
「そうか。では他人でなければ、話してくれるのかな?」
「そ、それは、どういう意味ですか」
「もちろん、打ち解けた関係、という意味だよ、サーシャちゃん。気心の知れあった……深い、関係。かな」
机の上に置いてあったサーシャの手に向けて、静かに博士の手が伸びてくる。
まずい。
目が恐いです、博士。
迫りくる手を避けようと、サーシャが懸命に後ろに下がろうとした時、なぜか椅子が動かなかった。
えっ?
と、サーシャは椅子を動かそうとカタカタとしてから、はたと、椅子の背に人の手があるのに気づいた。
それが動きを止めている。
椅子の背を掴む指先から、ゆっくりと視線を上げていく。
手の持ち主が視界に入った。
驚きに、目がまん丸になる。
そこには、リュウジの姿があった。
椅子の背もたれに手を預けるようにして、彼はサーシャの傍らに佇んでいた。
ええ?
ええええええええ?
ど、どうして、リュウジがここに?
い、いつの間に。
帝星にいるはずなのに――!
驚きすぎて、何が起こっているのかを脳が理解してくれない。
「リュ……リュウジ」
何とか、口が彼の名を呼んでくれた。
にこっと、上からリュウジの笑顔が降ってくる。
そのまま笑顔で、彼は挨拶をする。
「こんにちは、メドディス・ギャレット」
シンクン・ナルキーサスで博士を呼ぶ時の敬称をつけて、目の前の人物に声をかける。
「僕の婚約者がお世話になっています」
何か、宣戦布告をするような雰囲気で、リュウジが言葉を放った。
「和やかな会話に割って入って申し訳ありません」
少しも詫びる気配のない口調で、リュウジが言った。
「こ、これは、カラサワくん」
あからさまにビビった顔で、ギャレット博士が、ずいっずいっと椅子を後退させながら言う。
「は、初耳だな……サーシャちゃんは、君の婚約者なのかね?」
驚きを隠さずに、博士が言った。
にこにこと、リュウジが微笑む。
「お披露目はまだですが、正式な申し込みは完了しております。なので」
普段温和な彼が、好戦的な雰囲気を醸し出して、呟いた。
「僕の婚約者を、気軽に『ちゃん』づけて呼ぶのも、ご遠慮願いたいのですが、メドディス・ギャレット。椅子で追いつめるのも、許しなく手に触れようとするのも、彼女を侮辱する言葉を吐くのも――」
リュウジの目が底光りする。
「大変不愉快な行為です。以後はお気を付けください」
脅しがこもった言葉だった。
息を飲む博士に、再びリュウジは笑顔を向ける。
「実は彼女に急ぎの用事が出来まして、迎えに来たのです」
驚きに、今度はサーシャが飛び上がりそうになった。
急ぎの用事?
一体なんだろう?
ま、まさか。
お兄ちゃんに何かあったのだろうか。
宇宙船の事故とか……。だから、あれほど固く口止めしていた吉野さんが、リュウジに話してしまったのだ。
ああ、どうしよう。
お兄ちゃんは大丈夫だろうか。
サーシャは一人ででうろたえ出した。
博士とサーシャの間の狭い空間に立ったまま、リュウジは言葉を続ける。
「労を取って頂き、せっかくの採集旅行にご同行させて頂いたのに、申し訳ありません。彼女の参加費と帰りの宇宙船代はこちらで支払っておきますので、この場で失礼することをお許しください」
滔々と述べ立ててから、リュウジが顔を急にこちらに向けた。
「サーシャ」
静かな声で言う。
「部屋を撤収して、荷物を持ったら、このホテルを出ようか」
「わ、解ったわ、リュウジ」
兄の一大事だ。
サーシャは慌てて立ち上がる。
わざわざリュウジが来てくれるなど、相当のことだ。
荒い手つきで椅子を机に戻す。
その場でサーシャは、ぺこりとギャレット博士に頭を下げた。
「せっかく同行させていただいたのに、すみません。お世話になりました、ギャレット博士」
お詫びを述べてから、サーシャは自分を待つリュウジへ顔を向ける。
彼はいつもの優しい笑みを浮かべた。
「部屋に案内してくれるかな、サーシャ」
「も、もちろん。こちらよ、リュウジ」
サーシャは先に立って、建物の中に入った。廊下を進みながら、振り向いてリュウジに問いかける。
「兄ちゃんは大丈夫なの?」
心配のあまり、口調がつい、きつくなってしまった。
リュウジは目をぱちくりさせている。
「……ハルシャ、ですか? 彼に何が?」
思わず足を止めて、サーシャは必死に問いを重ねる。
「お兄ちゃんに何かあったから、迎えにきてくれたんじゃないの? リュウジ」
一瞬の静寂の後、破顔してリュウジが笑い声を上げる。
「百面相をしていたのは、ハルシャのことで僕が迎えに来たと思ったからなのですね。突然表情がころころ変わるので、どうしたのかと思っていました」
笑われて、少し傷つく。
すごく心配したのに。
「じゃあ、お兄ちゃんは大丈夫なの?」
「何も連絡はないですが、便りのないのは良いしるしといいますからね、元気に帝星に向かっている途中だと思いますよ」
唖然とする。
「じゃ、じゃあ、用事というのは……」
「用事というのは方便です。ギャレット博士のチームからサーシャを連れ出すための嘘ですよ」
嘘!
びっくりするサーシャの背に、リュウジの手が触れ、促されるようにして歩き出す。
「ど、どうして? 嘘なんか……」
「メドディス・ギャレットは、採集旅行になるとハイテンションになって、手癖が悪くなるのです。昔から有名で――サーシャは知らなかったでしょう」
「手癖?」
思わず問い返してしまう。
「女性にちょっかいをかけることですよ、サーシャ。旅行で開放的になってしまうのでしょうね」
女性にちょっかいをかける。
砕けた言葉がリュウジの口から出ることなど、稀だ。
サーシャの顔がみるみる赤くなる。
「先程も、詰め寄られて困っていましたね、サーシャ」
見ていたのだ。
「ちょ、ちょっと近いな、と思ったけど――」
「僕が行かなければ、危なかったと思います」
前を向いて、リュウジが静かに言う。
「メドディス・ギャレットは粘り強い人です。着生ランを探すときに遺憾なくその特質を発揮して、今まで数々の功績を上げてきたのは事実です。ですが、女性に対しても同じで、これと決めたらどこまでも食い下がる厄介なタイプなのです。
サーシャは知らなかったかもしれませんが。彼の研究室では有名な話ですよ」
ふつりと、リュウジは言葉を切った。
し、知らなかった。
どうりでしつこいと思った。
動揺するサーシャの横で、彼は前を向いて歩調を緩めずに歩く。サーシャが宛がわれた部屋に着くまで、リュウジは無言だった。
特別待遇で個室を与えられていたサーシャは、
「ここなの」
と、古式ゆかしい手動式の扉を開けた。
リュウジはすぐに入らず、隣の部屋の扉を見ていた。
「こちらの部屋は、誰がお泊りなのですか」
サーシャは振り向いて、リュウジの示す部屋を見る。
「ギャレット博士よ、リュウジ。個室は二人だけで、研究室の人達は相部屋だって」
急に、リュウジの顔が険しくなった。
「あなたの隣の部屋が、メドディス・ギャレットなのですか」
急に怒気を帯びた言葉に、サーシャはうろたえた。
「え、ええ」
鍵を渡された時に博士が告げた言葉を、サーシャはリュウジに伝える。
「個室はこの並びにしかないらしいの。そして、この時期は宿泊客が多いからって……」
小さな舌打ちが聞こえた。
何をリュウジが怒っているのか、よく解らない。
リュウジは扉をしばらく睨みつけていた。
「出ましょう、サーシャ。いますぐ」
低い声で呟くと、サーシャの開ける扉の中にさっさとリュウジは入る。
リュウジは率先して、てきぱきと出していた荷物を再び鞄に収納し、瞬く間に出発する準備が整った。
まだ状況がよく呑み込めないサーシャの手を握ると、
「行きましょう」
と、リュウジが早足で部屋を出て行く。
手を引かれるままに、サーシャは廊下を歩いて行った。
フロントに行く前に、ギャレット博士と廊下ですれ違った。
「失礼いたします、メドディス・ギャレット」
と、優雅なお辞儀をして、リュウジが礼を尽くした。
「僕の婚約者がお世話になりました」
状況が飲み込めていないのは、ギャレット博士も同じようだった。
行くのかね、と、妙に狼狽えた声で言う。
「はい」
きっぱりとリュウジが言う。
「僕の婚約者を、バルコニーで繋がった隣の部屋にあなたが居るのに、残して帰ることなど出来ません。
失礼、メドディス・ギャレット」
ぐっと手が掴まれ、サーシャは引きずられるようにしてホテルを出ていた。
玄関では、飛行車が一台待っている。
さっと吉野さんが扉から出て来た。
「サーシャの隣の部屋に、ギャレットは居座っていた。バルコニーで外から入れるようになっている位置取りの部屋に、だ」
憮然とした顔で、博士を呼び捨てにしながらリュウジが呟く。
「下心が丸見えだ」
吐き捨てるようにリュウジが言う。
吉野さんが激しい彼の言葉に、眉を寄せた。
珍しい。
彼がこれほど感情を露わにするのは、初めて見た。
レアだ。
吉野さんの表情筋の動きに心を奪われている内に、飛行車に荷物が積み込まれ、サーシャは後部座席に
さっきから、リュウジが握った手を離さない。
「帰りましょう、サーシャ」
前を向いたまま、リュウジが呟く。
「帰るって、どこへ?」
サーシャは思わず問いかける。
ようやくリュウジは顔をサーシャに向けた。
「帝星の……僕たちの家へ」
はっと、サーシャは思い出す。
何のためにお小遣いを切り崩して、惑星ガイアへ来たのか。
何としてでも野生のカトレアを手に入れたかったからだ。今はそれは無理でも、せめて画像だけでも収めて帰りたい。
覚悟を思い出すと、サーシャは、
「私は、帰らないわ」
ときっぱりと言い切った。