今回はジェイ・ゼルの忠実な運転手、ネルソンさんの独白です。
(ジェイ・ゼルがスペースコロニー『アイギッド』から戻るのを、待つ間の出来事、第89話ごろのお話です)
※ネルソンが、回想を巡らせているようです。その心の呟きを、少し覗いてみませんか。
*
ヴォーデン・ゲートでネルソンは、ジェイ・ゼルが姿を現わすのを、忍耐強く待っていた。
巨大なゲートが、順番に多くの飛行車を飲み込み、また、吐き出していく。
その様子を見つめながら、ふと、ここ最近のことが、ネルソンの脳裏をよぎった。
ヴォーデン・ゲートで、ジェイ・ゼル様がハルシャ・ヴィンドースと戻られたのは、ほんの数日前だった。
ジェイ・ゼル様が、個人的な付き合いの少年に、それほどの恩寵を与えるのははじめてだった。
ジェイ・ゼル様に運転を任されるようになってから、もう九年が経とうとしている。
この九年の間、様々なことがあったが、とりわけ印象深いのは、ハルシャ・ヴィンドースのことだ。
一人の少年の存在が、ジェイ・ゼル様の生活を、それまでとは全く変えたように思う。
五年前――
巨額の借金の負債者宅に、ジェイ・ゼル様をお乗せして訪ねた時はこんな未来が待つとは思ってもみなかった。いつもと同じように取り立てを行う手筈になっていたのだ。
当初、ヴィンドース家を訪れるまでは、年頃の二人をイズル・ザヒル様のところへ連れて行くことで話が出来ていたようだ。
ジェイ・ゼル様の仕事は、二人をイズル・ザヒル様のスペースコロニー『アイギッド』へ連れて行き引き渡して終わりとなるはずだった。
後の借金の回収は、イズル・ザヒル様が自ら行う予定になっていた。
簡単な仕事だと、ジェイ・ゼル様ご自身も仰っていた。
けれど。
二回目にヴィンドース家を訪問し、借金の返済の話を付けて帰る道中、ジェイ・ゼル様は深く考え込まれていた。
腕を組んで、瞑目され、無言だった。かつてない雰囲気だ。
何を考えていらっしゃるのか、深く眉を寄せて悩まれているご様子だった。
思わず、
ヴィンドース家の子たちが、手ひどく抵抗したのですか。
と、問いかけてしまうほどだった。
ジェイ・ゼル様は、やっと目を開けて優しく微笑まれた。
どうした、ネルソン。そんなに私が難しい顔をしていたのかい?
と、言葉を後ろからかけられる。
いえ、申し訳ありません、と申し上げると、ジェイ・ゼル様は、深く座席に身を預けて天を仰がれた。
逆だよ、ネルソン。この上なく借金返済に協力的だった。必死に財産をかき集めたようだ。まだ全然足りなかったがね。
と、笑いを含んでおっしゃる。
なら、良いのではないですか、と思わず申し上げた自分に対して、静かな言葉が返ってくる。
ハルシャ・ヴィンドースは、自分が辿る運命を知らずに、必死に妹をかばおうとしていた。
名家の誇りと家名の重さを彼は一身に背負っていたよ。
まだ、十五の少年なのにね。
呟いた後、再び目を閉じられて、ジェイ・ゼル様は沈黙される。
何かを考えていらっしゃることだけは、わかった。
ジェイ・ゼル様は、惑星トルディアでも名家中の名家、ヴィンドース家の兄妹に対して特別な想いを掛けられたようだ。
兄のハルシャは十五歳。妹はまだ六歳だった。
両親を失った幼い兄妹の行く末を、憂慮されたのかもしれない。
ジェイ・ゼル様は、本当は心根の優しい方だ。どうしてこのようなお仕事をされているのか、時々疑問に思う。運転手の自分に対してさえ、思いやり深い言葉をかけて下さる。
人間扱いしてもらえなかった、以前の職場とは雲泥の差だ。
そんな優しいジェイ・ゼル様は、彼らが身を売り、イズル・ザヒル様のところで働く事態に陥るのを避けるために、懸命に手立てを尽くされようだ。
事務所に戻られてから、イズル・ザヒル様と長く話し合いを持たれている。
次の日、ヴィンドース家へ借金の取り立てに再度向かう時、乗り込みながら、
すまないが、ネルソン。もしかしたら、オキュラ地域に行くことになるかもしれない。飛行車を停めにくいと思うが、頼めるかな。
と、静かな声で告げられた。
大丈夫です、と申し上げると、ジェイ・ゼル様は微笑まれる。
借金の取り立てだけと思っていたが、ジェイ・ゼル様はハルシャ・ヴィンドースと、妹のサーシャを伴って、飛行車へと乗り込んでいらした。
その時、自分は初めてハルシャ・ヴィンドースを目にした。
一目見て、彼がとても大切に育てられてきた子だと、わかった。
気品というのだろうか、たった十五歳の少年だが、立ち居振る舞いに育ちの良さを感じさせる優美さがあった。
シートの背もたれに背中を預けることなく、彼は真っ直ぐに身を立てて、唇を引き結んで座っていた。
ぎゅっと、幼い妹の手を握り、自分が彼女を守らなくては、と心に決めている様子だった。
その健気さに、ジェイ・ゼル様は心打たれたのだろう。
借金を取り立てる相手にしては、とても大事に二人を扱っていた。
破格と言っても良いいほどだ。
そして、オキュラ地域に飛行車を下ろすという意味を、やっと自分は知ることになる。
ハルシャとサーシャの兄妹を、そこで生活させることに、ジェイ・ゼル様は決められたようだ。
正直、驚きが隠せなかった。
イズル・ザヒル様のところへ連れて行く予定を、ジェイ・ゼル様は変更されたのだ。
かつてないことだった。
諸手続きも、ジェイ・ゼル様が自ら同行され、丁寧に対応されている。
取りはぐれがないように、とジェイ・ゼル様はハルシャに告げていたが、それ以上の心遣いが、感じられる。
両親を失ったばかりの二人が、不安にならないように、ジェイ・ゼル様は、わざわざお忙しい中時間を割いて、お付き合いをされていたのだ。
手続きなら、マシュー・フェルズさんでも行えるはずだった。
だが、ご自分が行くと、宣言されたようだった。ジェイ・ゼル様が動かれるので、通常業務が滞ると、不満げにフェルズさんが呟いていたのを、耳にしている。
そして。
ジェイ・ゼル様は、ご自宅へハルシャ・ヴィンドースを連れて行かれた。
これも、かつてないことだった。
自分が知る限りでは、プライベートな場所へ、他人を伴うことは、これまで一度もなかった。
だが、ジェイ・ゼル様はハルシャをご自宅へ案内されたのだ。
そして――
当初の予定の一時間を大きく過ぎてから、彼の体を抱えるようにして、戻って来られた。
ご自分の相手をさせたのだと、すぐにわかるご様子だった。
その時の、ジェイ・ゼル様のお顔は、思わず見てはならないと判断してしまうほど、とてもお辛そうだった。
最初はハルシャがお相手を上手く出来ず、ジェイ・ゼル様は、ご不満を抱かれたのかと思っていた。
これまでも、ジェイ・ゼル様は少年を愛でられることが、よくあった。
多くは、イズル・ザヒル様からのご依頼のようだったが、ラグレン市内の宿泊施設を使われることがほとんどだった。
しかも数日間相手をされると、すぐにイズル・ザヒル様の元へと、戻されていた。
今回も、もしかしたらイズル・ザヒル様のご依頼で、ハルシャの相手をされたのだろうか、と初めの内は考えていた。
だが。
ジェイ・ゼル様はどうやら、ハルシャ・ヴィンドースと個人的に専属契約を結ばれたようだ。その時から、イズル・ザヒル様から声掛けがあっても、他の少年の相手をされることがなくなった。
実は、イズル・ザヒル様からの仕事は、結構実入りが良かったらしい。
フェルズさんが、ぽろりと、ハルシャ以外の相手はしないと、ジェイ・ゼル様が仰っていてね、と悲しげな顔で呟いているのを、聞いたことがある。
ジェイ・ゼル様の個人資産のことについて、フェルズさんが深く悩まれるようになったのも、この頃からだった。
増えない。
減る一方だ。
と、ぶつぶつと帳簿を見ながら、フェルズさんが呟く姿が、深夜の事務所で目撃されている。
ジェイ・ゼル様は、ハルシャ・ヴィンドースのために、いつも『エリュシオン』を予約される。
これまで相手をされてきた少年たちでも、『エリュシオン』をとることはなかった。
ハルシャ・ヴィンドースを伴い、オキュラ地域の私設学校を訪れた時、ジェイ・ゼル様は『エリュシオン』に向かうことを指示された。
その時に、気に入られたのだろう。
以後、必ず『エリュシオン』でハルシャを迎えることにされたようだ。
それだけの破格の扱いを受けながらも――
ハルシャ・ヴィンドースは、ジェイ・ゼル様を、蛇蝎《だかつ》のように嫌っていた。
やんわりとジェイ・ゼル様が後部座席で身に引き寄せられても、ハルシャ・ヴィンドースは、恐怖の時間に耐えるような表情で、身を強張らせているのが、常だった。
彼からあれほどの嫌悪を示されながら――ジェイ・ゼル様は一言も、ハルシャの態度を責めることは、なさらなかった。
彼の心のままに、自由に振る舞わせている。
少し、注意をされてはいかがですか、と、思わず一度ジェイ・ゼル様に、申し上げたことがあった。
何をかな、ネルソン。
と、問いかけられた言葉に、
ハルシャ・ヴィンドースの態度です、と、思わず言ってしまった。
小さく、ジェイ・ゼル様は笑い声を上げて、何も注意をするところなど、ないのだけれどね、と思わぬ優しい声でおっしゃっていた。
しばらく沈黙してから、ジェイ・ゼル様は口を開かれる。
ハルシャはね、別れ際にいつも、ありがとう、というのだよ。
ここが嬉しかった。この料理が美味しかった。
私が思いもかけない感謝の言葉を、最後に言ってから、去っていく。
外からどう見えるかは解らないけれど――
ハルシャ・ヴィンドースの心の中には、常に相手に対する感謝の気持ちがあるのだよ。
この数年間一度も、感謝の言葉を忘れたことはない。
それが――私はとても、素晴らしいと思うのだよ、ネルソン。
ひどく優しい表情で、ジェイ・ゼル様はハルシャのことを、語られる。
言葉の響きに、この上なく、大切にされているのだ、と、気付かされた。
ハルシャの態度が頑ななのは、私が悪いのだよ、ネルソン。
彼のせいではない。
小さく、付け加えられてから、ジェイ・ゼル様は沈黙される。
遠くを見つめて、静かな表情で夜のラグレンの街を見つめられていた。
街の灯りが、まるで星のようだね、ネルソン。
小さな声でジェイ・ゼル様が呟かれる。
ハルシャはね――
宇宙飛行士になりたかったのだよ。
その夢を、奪ったのは私だ。
憎まれるのは、仕方がないことだ。ハルシャは悪くないよ、ネルソン。
そんなに厳しい目で、彼を見ないで上げてくれないか。
自分の思い違いに、その瞬間気付かされた。
申し訳ありません、ジェイ・ゼル様。
言った言葉に、ジェイ・ゼル様は優しく微笑んで首を振った。
私を思って言ってくれたのだろう。嬉しいよ、ネルソン。
責めている訳ではないからね。
その日から、ハルシャ・ヴィンドースに対する見方が変わった。
ジェイ・ゼル様のおっしゃっていた通り、彼は降り際に、自分に対して必ず礼を言っていた。
あまりにぶっきらぼうな態度なので、最初はそれと気付かないほどだった。
そして、極度の照れ屋なのだと、気付く。
自分が前で運転しているのに、ジェイ・ゼル様が身に引き寄せるのが、たまらなく恥ずかしいようだ。
だから――
彼の前では、自分は空気になることに徹するように、心がけだした。
自分は、ジェイ・ゼル様に救われた。
限りない恩を受けたお方だった。
そのジェイ・ゼル様が、こよなく愛でられている存在ならば、やはり、とても大切にするべきだと、肝に銘じる。
それだけ大事にされているハルシャ・ヴィンドースだが――
五年経っても、態度の軟化は見られなかった。
感謝の言葉は忘れない、この上なく礼儀正しい。
だが。
ジェイ・ゼル様を拒んでいることは、明らかだった。
『エリュシオン』にお迎えに上がり、ご自宅のセイラメへお送りする時、ジェイ・ゼル様は眉間に皺を刻まれていることが、ほとんどだった。
お辛くは、ないのだろうか。
思わず心配してしまうほどだった。
それでも、五年間――ジェイ・ゼル様はハルシャ・ヴィンドースを大切に扱われてきていた。
声を荒げているところを、一度も見たことがない。
ハルシャ・ヴィンドースの硬い態度はご自分のせいだと、深く覚悟されているようだった。
そんな日。
いつもの夜の呼び出しの時間になっても、ジェイ・ゼル様からのご連絡がなかった。
遅い、遅すぎる。
何か、彼との間であったのだろうか。
まさか、事故でも起こっているのではないか。
まんじりともせずに、ひたすら駐車場でジェイ・ゼル様を待ち続ける。
やっと連絡が入ったのは、夜明けを過ぎた刻限だった。
意外なことに、ジェイ・ゼル様はハルシャ・ヴィンドースを傍らに伴って、玄関口へ姿を見せられた。
乗り込むなり、待たせたね。すまないがネルソン、ハルシャをオキュラ地域まで送っていきたいのだが、良いかな?
と、問いかけられる。
はい、とだけ答えて、飛行車を浮かせた。
乗るやいなや、ジェイ・ゼル様がハルシャ・ヴィンドースを腕に包まれる。
その時、いつもと違うことに、気付かされた。
ハルシャが、ジェイ・ゼル様の腕を、嫌がっていなかったのだ。
思わず、確認したくなるほど、彼は身の力を抜いて、ジェイ・ゼル様に体を預けていた。
何かが、あったのだ。
と、だけ、悟る。
ジェイ・ゼル様の雰囲気が、穏やかだった。
心からくつろいで、ハルシャと身を寄せ合っていらっしゃる。
交わす短い会話にも、これまでのような言葉の尖りがない。
ジェイ・ゼル様は、ハルシャ・ヴィンドースと、打ち解けられたのだ。
思わず、涙が込み上げそうになる。
胸にせりあがってくるものを必死にこらえながら、飛行車を揺らさぬように気を付けて、オキュラ地域までの空を駆ける。
ジェイ・ゼル様が、これまで注がれていた愛情が、ようやくハルシャ・ヴィンドースに伝わったのだろう。
去り際にも、ジェイ・ゼル様が名残りを惜しまれている。
かつてないことだった。
その日から、ジェイ・ゼル様は心から楽しげなご様子で、日々を過ごされるようになった。
マシュー・フェルズさんも、個人資産について、あまり文句を言わなくなっている。
皆が気づいたのだ。
ジェイ・ゼル様とハルシャ・ヴィンドースの関係が、変化したことに。
表情が生き生きされている姿をお見かけするたびに、思わずそこはかとない嬉しさがこみ上げる。
実に忍耐強く、ジェイ・ゼル様は五年の年月を、待ち続けられた。
本当に、心根の優しい方だと、つくづく思う。
ハルシャ・ヴィンドースの方も、ここ数日、男の自分の眼からみても、美しいと思えるほど、艶やかさを増してきた。
大切に慈しまれてきた花が、ジェイ・ゼル様の手の中で、咲き始めたようだった。
そのことに、ジェイ・ゼル様は、この上ない喜びを抱いていらっしゃるようだ。
飛行車の中とはいえ、他人の眼のある場所で、ジェイ・ゼル様はこれまで、決して唇を覆うようなことはならなかった。
お相手をさせていた少年たちがせがんでも、だめだよ、品がないからね、とたしなめられるのが、常だった。
なのに。
ハルシャ・ヴィンドースに対しては、その制御すら、消えてしまわれるようだ。
そういう時は、なるべく気配を消して、静かに運転することにしている。
ごく自然に、ジェイ・ゼル様は彼と情を交わされている。
もしかしたら、自分を信頼して下さって、そのようなお姿を見て下さっているのかもと、さえ、思えてくる。
ジェイ・ゼル様が、お幸せなのが、何にもまして、自分には嬉しい。
スペースコロニー『アイギッド』へ赴かれる前も、ジェイ・ゼル様は、ハルシャとの別れを惜しんでいらした。
もし、一緒に暮らせたら、と。
思わずおっしゃるほどに、ジェイ・ゼル様は、ハルシャ・ヴィンドースを慈しんでおられる。
そうなると――
自分が『エリュシオン』へ送り迎えをすることは、なくなるのだ、ふと、考える。
その未来もまた、素晴らしいように思えた。
*
ネルソンは、ヴォーデン・ゲートでジェイ・ゼルを待ちながら、回想にふけっていた。
出がけに言っていたように、スペースコロニー『アイギッド』からの帰りが早くなっていた。
なんと、一日早まったようだ。
ジェイ・ゼルがチャーターした空気清浄機付きの飛行車が姿を現わすのを、ネルソンは静かに待っていた。
この後、すぐに事務所に向かわれるだろうか。
それとも――
ネルソンの予想は、当たった。
ヴォーデン・ゲートから戻ったジェイ・ゼルは、ネルソンに労いの言葉をかけてから、乗り込む。大きな荷物が、後に続いた。
「『エリュシオン』に行ってくれるか、ネルソン」
開口一番、彼はそう言った。
「ハルシャがそこで、待っていてくれている」
「はい、ジェイ・ゼル様」
ネルソンは、慎重に飛行車を浮かせた。
心身ともに厳しい仕事を終えた後、旅の疲れも癒えないままでも、やはりジェイ・ゼル様は、ハルシャにお逢いになりたいのだ。
心の中に、呟く。
遠い眼差しを虚空に向けながら、ジェイ・ゼルは傍らの荷物に手を預けていた。
恐らく、ハルシャ・ヴィンドースへのお土産なのだろう。
そういう表情をされている。
虚空を見つめるジェイ・ゼルを中に乗せて、ネルソンは『エリュシオン』への道を、ひた走っていた。
ジェイ・ゼルの眼差しの向こうには、きっとハルシャ・ヴィンドースの笑顔があるのだろうと、思いを巡らせながら。
(了)
以上、『ネルソンの小さな呟き』でした。
ハルシャの予想を超えて、実は心の中でネルソンは「ジェイ・ゼル様、お幸せに♡」と、思っていたようです。
ジェイ・ゼルは本当に、部下に大切にされていますね。
『小さな』と銘打った割には、意外と長くなってしまいました(汗)
楽しんでいただけたら、とても嬉しいです♪