「おかえりなさい、お兄ちゃん! リュウジ!」
メリーウェザ医師の医療院に姿を見せた二人に、サーシャが飛びついてきた。
迷いなく兄に向かい、身に腕を回す。
淡いピンクの服が、本当に良く似合っている。
「今日も一日、無事に過ごせたか」
問いかけるハルシャに、サーシャは満面の笑みを浮かべる。
「校長先生に、この服を褒めて頂いたの!」
嬉しげな言葉が、ほとばしり落ちる。
「そうか」
ハルシャは、自分の胴を抱きしめる、サーシャの髪を優しく撫でた。
「それは良かったな」
ぎゅっと、力が強くなる。
「うん」
しばらく兄の温もりを確かめてから、サーシャは顔を上げて腕を解いた。
「メリーウェザ先生にも、良く似合うと言って頂いたの」
そのまま、顔をリュウジに向ける。
「ありがとうね、リュウジ! みんなが褒めてくれたよ」
にこっと、彼は笑顔で応える。
「それは、サーシャが可愛らしいからですよ」
さらっと、気恥ずかしくなるようなことを、リュウジは言ってのける。
ハルシャは瞬きをする。
やはり。
リュウジは、ジェイ・ゼルと気が合いそうだ。
ぱっと、サーシャの頬が赤らんだ。
「メリーウェザ先生が、リュウジを待っていたよ。手を消毒しないとって」
「お待たせしてしまいました。行きましょうか、サーシャ」
二人は仲よく、医療室へと向かっていく。
ハルシャも後ろから従っていく。
楽しげに話すリュウジとサーシャの姿を見つめながら、このまま三人で暮らす未来を思う。
リュウジは、自分たちが思いもしない発想で、生活を豊かにしてくれていた。
彼と暮らす日々は、とても楽しいだろう。
リュウジが生活に加わってから、サーシャの表情が、本当に明るくなった。
それが何よりも、嬉しかった。
ハルシャが部屋に入った時には、既に傷を覆っていたシートが手の平から外され、傷口をメリーウェザ医師が確かめているところだった。
「きれいにくっつき始めているね」
ふんふんと、機嫌よく消毒をしながら、メリーウェザ医師が言葉をリュウジにかけている。
ハルシャは部屋の壁の側にある、長椅子に腰を下ろして、治療を見守ることにする。
長椅子には、ぬいぐるみ生物のアルフォンソ二世が、先客として座っていた。
茶色のウサギ型生命体に視線を向けてから、並んで腰を下ろす。
ぬいぐるみ生物は、来た時よりも毛艶もよく、生き生きとしている。
この存在があることで、随分サーシャの精神が安定しているような気がした。
夜寝る時も、片時も側から離さない。
何もない五年間、きっとサーシャは辛かったのだろうと、ふと、ハルシャは思った。
「よし、これで良い」
新しいシートをリュウジの右手に貼りながら、メリーウェザ医師が笑みをこぼす。
「順調だよ、リュウジ。もう無茶はするんじゃないよ」
「はい。ドルディスタ・メリーウェザ。ありがとうございました」
ふっと笑うと、彼女は机の引き出しから、メモを一枚取り出した。
「手に怪我をしているのにすまないが……リュウジ。以前、君が倉庫の整理をしてくれたね」
「はい」
「このメモにあるものを、サーシャと一緒に運んできてくれないか? ちょっと手間がかかるかもしれないが。君は医薬品の名前を、良く知っているからね。サーシャに場所を教えがてら、取ってきて欲しいんだ」
メモを受け取り、リュウジは目を通す。
小さくうなずくと、彼は笑顔で
「かしこまりました、ドルディスタ・メリーウェザ」
と、請け負った。
唇の端に笑みを浮かべたまま、メリーウェザ医師が言葉をかける。
「倉庫の中に、無重力コンテナがあるから、それを使ってくれ。急がないから、確実に品物を集めて来てくれるか?」
「はい。サーシャと一緒に確認してきます」
「よろしく頼む」
「わかりました」
リュウジは立ち上がり、行きましょう、サーシャ。と声をかけて、妹を伴い、医療室から姿を消した。
二人が消えた空間に、不意に静寂が広がる。
足音が聞こえなくなるまで待ってから、
「ハルシャ」
と、メリーウェザ医師がハルシャを呼んだ。
「メドック・システムが、遺伝子から外見を割り出した。見てくれ」
リュウジを襲った、犯人の姿だ。
ハルシャは、黙って立ち上がると、彼女の側に歩んでいった。
さっと、机の上に、プリントアウトされた画像が並べられる。
「精子は減数分裂している。だから、染色体を半分しか持っていない。けれど、精子には移動のエネルギーのためのミトコンドリアがあるからね、その遺伝子から、個人を特定して組み上げてみた。まあ、やや、不確定ではあるが……」
ハルシャは、メリーウェザ医師の言葉を、理解する。
人類の染色体は、四六個、二三対ある。
卵子と精子はその染色体を、半分だけ持っている。
生殖のための細胞には、二三個の染色体しかない計算になる。
卵子と精子だけしかないと、個人の情報が半分しか入手できない。
しかも、生殖細胞になる時に、染色体はランダムに半分になってしまう。
その中で、精子が誰の物なのかを特定するのに、精子に内在するミトコンドリアの遺伝子を使ったと、メリーウェザ医師は述べているのだ。
ミトコンドリアは、母親から受け継がれるもので、細胞内にありながら核をもっている特異な性質を持つ。
太古、核を持つ生命体が人体の中に取り込まれ、そのまま共存を続けてきたと言われている。
ミトコンドリアは、エネルギーを作り出す力があり、精子が胎内を泳いで卵子にたどり着くための、動力源となっている。
精子についている尾を振るエネルギーの元なのだ。
そのミトコンドリアの遺伝子を探れば、個人が特定できる。
なるほど、と、ハルシャはうなずく。
「結果。メドック・システムが叩き出した、精子の保有者の人数は、五人」
さあっと、ハルシャは、血が下がっていくのを、覚えた。
五人。
多い。
それだけの人数に――リュウジは……。
沈黙を続けるハルシャの前に、容赦なく顔と立ち姿のプリントが並べられる。
「背の高さや体格は、遺伝子内の情報から割り出したもので、確定ではない。成長の過程の栄養状態によって、かなりの変動があると思っていてくれ。
だが、容貌はほぼ、この通りだと思う」
ハルシャは、中々、リュウジに卑劣な暴行を加えた者たちの顔を、見ることが出来なかった。
見なくてはならないと解っているが、気持ちの整理がつかない。
「ハルシャ」
静かなメリーウェザ医師の声がした。
「君が一番、リュウジの近くに居て上げられるんだ。見て、記憶に留めておいてくれないか」
優しい声だった。
リュウジの危険をなるべく減らすために、作業を急いでくれたのだろう。
今も――自分たちが来ることが解っていて、ハルシャに情報を伝えるために、理由を付けてリュウジとサーシャを去らせている。
メリーウェザ医師の気持ちを汲み取り、ハルシャはぐっと覚悟を決めて、顔写真へ視線を向けた。
五人の、男。
プリントアウトされたものは、カラーだった。
目に焼き付ける。
茶色い髪に薄い青の瞳の男。細長い顔で特徴のある鼻の形をしている。
黒髪に黒い瞳の男。丸顔で目が大きい。
ダークブラウンの髪に青の瞳の男。目が細い。
暗い金色の髪に、茶色の瞳の男。
そして、明るい金色の髪に、ヘイゼルの瞳の男。やぶにらみのような目だった。
吐き気がしそうだ。
理不尽な暴行を、彼らがリュウジに加えた。
怒りと悲しみが、胸の奥で炎のように身を焼く。
知らず知らずのうちに、爪が手の平に食い込むほどに、手を固く握りしめていた。
「髪型も、オキュラ地域の一般的なものにしている。髪によって、人は随分印象が違うからね。私は、リーダー格の男は、この金髪の奴のような気がする。ふてぶてしい顔だ」
メリーウェザ医師の言葉の中にも、隠しきれない怒りがあった。
「これまで、うちの治療院では見かけたことがない顔ばかりだ。もしかしたら、離れたところに、根城があるかもしれない。
私も気を付けておくよ」
身を震わせるハルシャに視線を向けてから、メリーウェザ医師は静かに言った。
「この前――解毒が済んだ後、リュウジは受けた暴行を、思い出しかけていたのだろう」
ハルシャは、黙ってうなずいた。
「そうか」
吐息を一つしてから、さっさと、彼女はメドック・システムが教えてくれた、リュウジへの暴行犯の写真を、手早く一つに重ね、袋に入れた。
鍵のかかる引き出しに収めてから、封印する。
「悪夢のようだったろうね。かわいそうに」
メリーウェザ医師が虚空を見つめる。
「リュウジは」
小さくハルシャは呟いた。
「詳細は解らないようだった。ただ、身に受けた恐怖だけが、蘇ったみたいだ」
メリーウェザ医師が目を伏せた。
「それ以上のことは、思い出したくないのだろうね――」
言葉を切ると、メリーウェザ医師は深く考え込んでいた。
沈黙に、ハルシャは視線を落として、じっと怒りに耐え続ける。
布団の中に身を丸めて、震えていた彼の姿が、痛みと共に蘇ってくる。
五人の男たちが――リュウジを、傷つけた。
たった一人の青年を、数の暴力で、襲ったのだ。
彼らの卑劣な行為が、どうしても許せない。
「昨日、視線を感じた」
ハルシャは、沈黙の後に、ぽつりと呟いた。
「古着屋での帰り――ロンダルでのことだ」
視線を床に向けたまま、ハルシャは言葉を続ける。
「気のせいかもしれないが、嫌な感じがした。不用意に彼を連れて歩きすぎたかもしれない」
思いつめたようなハルシャの言葉に、小さくメリーウェザ医師が静かに言葉を返す。
「そんなことを言っていたら、リュウジを家の中に閉じ込めるしかなくなるよ、ハルシャ」
椅子をしならせて、彼女はハルシャへ視線を向ける。
「オキュラ地域では、危険と常に隣りあわせだ。ここで生活を続けるのなら、リュウジも生き方を学ばなければならない。
まあ、とりあえず、気になるならロンダルには近づかないことだ。
あそこは、金銭のやり取りを狙って、犯罪者がたむろする地域だからね」
うかつだったかもしれない。
「わかった。ありがとう、メリーウェザ先生」
ミア・メリーウェザが首を振った。
「リュウジのことは、皆で気を付けていこう。君だけが背負い込むことはない」
優しい声で彼女が続ける。
「結局、リュウジの人生なんだ。君のものじゃない。助けた責任を感じなくてもいいんだよ、ハルシャ」
思いやりに満ちる言葉に、ハルシャは沈黙する。
それでも。
彼が生き続けるために、自分に出来ることをしたいと、願ってしまう。
辛い生を選ばせたのは、やはり、自分なのだ。
まだ黙り込むハルシャに
「そんな暗い顔をしていたら、何か話し合っていたと気付かれるよ、ハルシャ。
リュウジの勘は、鋭い」
と、静かにメリーウェザ医師が注意を促した。
気分を変えるように、メリーウェザ医師が言う。
「それにしても、素晴らしい値切りの技術だったそうだね。サーシャから聞かせてもらったよ」
にこっと、彼女が明るく笑う。
「リュウジの凄いところはね、最初の四枚を買おうとした時に、一切値切らなかったところだ。
そこで値切っていたら、店の主人も、さすがにおまけに三着もの服を付けてくれる気には、ならなかっただろう。言い値で買おうとしたところが、彼の勝因だよ」
明るく気分を引き立てるような言葉に、ハルシャもやっと気持ちを変える。
「その場に居たら、メリーウェザ先生も驚いたと思う」
「だね。 私も一緒に行けばよかったよ」
サーシャの服が良く似合うという話で、会話が少しく盛り上がる。
服。
という言葉に、ハルシャは自分の鞄の中のもののことを、思い出した。
ためらいがちに、洗濯機を貸して欲しいというと、メリーウェザ医師は瞬きの後、いいよ、と、明るく許可を与えてくれた。
顔を赤らめるハルシャに、察したのか、メリーウェザ医師が片目をつぶる。
サーシャには、出せない洗濯物なんだな、と。
そこへ、リュウジとサーシャが戻って来た。
「お話が盛り上がっていますね」
楽しそうに、リュウジが言いながら、コンテナを押してくる。
「ドルディスタ・メリーウェザ。ご要望の品は、これで全部だと思います」
「おお。さすが仕事が早いな」
「いえ」
リュウジが笑う。
「サーシャが、手伝って下さいましたから」
*
三人で医療院を出た頃には、すっかり夜になっていた。
あの後、サーシャとリュウジがメリーウェザ医師の手伝いをする隙を見て、そっとハルシャは、医療院の洗濯機で服を洗わせてもらっていた。
明日も来るなら、乾しておけばいいと言ってくれた言葉に甘えて、ハルシャは片隅に広げて置いてきた。
サーシャの明日のアルバイトは、飲食店だった。
リュウジが手の消毒に来るときに、持って帰ればいいと、メリーウェザ医師は言ってくれたのだ。
道中、サーシャは、覚えたての薬品の名前を口にする。本気で医療関係に進みたいようだ。
嬉しそうに、リュウジが相槌を打っていた。
こうやって、三人で並んで歩くのも、随分自然なことに感じられる。
歩いて十分の距離が、とても楽しい。
「今日はね、お兄ちゃんの好きな、白身魚のフライだよ。安売りしていたのを、買っておいたの」
サーシャが、嬉しそうに笑う。
学校の側に、安い総菜屋があるのだ。サーシャはお買い得品をよく、入手してアルバイトに向かう。
今も、買った食糧が彼女の手にあった。
「それは楽しみですね」
自宅にたどり着き、階段を上がりながらリュウジが言う。
ハルシャは、鍵を手に、扉を開けた。
中に入ろうとした時、不意に、通話装置が震えた。
はっと、左手を押さえてハルシャは、身を返して廊下へと出た。
マスターと、表示が出ている。
ジェイ・ゼルだ。
心に呟いた途端、心臓が激しく鳴りだした。
どうして。
逢えるのは、明日ではなかったのか。
突然廊下に出たハルシャを、サーシャとリュウジが驚いた顔で見ている。
ハルシャは、上から通話装置を包みながら、二人に声をかける。
「少し、連絡が入った。すまないが、先に部屋に入っていてくれ」
その一言で、リュウジは全てを察したようだった。
すっと、それまで浮かべていた笑みが消え、ハルシャを真っ直ぐに見つめる。
居たたまれないような、眼差しだった。
眉を寄せるハルシャに、再び彼は、静かな笑みを浮かべた。
意図を汲み取り、彼はサーシャに顔を向ける。
「ハルシャは、お仕事の方から連絡があったようです。先にお部屋に入って、食事の準備を始めていましょう」
と、サーシャの背を押すようにして、扉の向こうに行ってくれる。
二人の姿が消え、扉が閉じられたことを確認すると、ハルシャは、通話の場所に触れた。
「私だ、ハルシャ」
腕の通話装置から、ジェイ・ゼルの声が響いた。
そのことに、打ちのめされたように、すぐにハルシャは言葉を返せなかった。
「今、君はどこにいるのかな? ハルシャ」
いつもの彼の穏やかな声に、やっと
「自宅に、戻ったところだ。ジェイ・ゼル」
と、ハルシャは言葉を返すことが出来た。
一瞬の間があった。
「そうか」
考え込むような沈黙だった。
しばらくしてから、
「今」
と、ジェイ・ゼルの静かな声が、通話装置から響く。
「ヴォーデン・ゲートで、ラグレンへ入るのを、待っている」
ええっ、と、ハルシャは声を上げそうになった。
「もう、ラグレンに帰ってきているのか」
驚きの籠った声に、ジェイ・ゼルが小さく笑う。
「思ったよりも、仕事がスムーズに進んでね。予定よりも一日、早く戻ることが出来た」
バクバクと、心臓が高鳴る。
「今から――」
ジェイ・ゼルの声がハルシャの耳朶を打つ。
「逢うことが出来るか? ハルシャ」
命令ではなかった。
彼は自分に、尋ねてくれている。
逢うことが出来るか、と。
想いを訊いてくれている。
「どこへ、行けばいい?」
答えの代わりに、ハルシャはただ、ジェイ・ゼルに尋ねた。
息を飲み、何かを言いかけた彼は、言葉を切った。
短い沈黙の後、
「『エリュシオン』へ、一人で来ることができるか、ハルシャ」
と、低い声で彼が呟いた。
ぞわりと、言葉で肌が撫でられた様な気がした。
「大丈夫だ」
答える声に、ふっと、ジェイ・ゼルが笑う気配がする。
「ボードで来るのだね、ハルシャ」
「そうだ」
ふふっと、彼は再び笑った。
「今から、『エリュシオン』に予約を入れる。私の名を出して総合受付で鍵を受け取り、先に部屋で待っていてくれないか」
自分が先に部屋に入るのは、初めてのことだった。
「わかった、ジェイ・ゼル」
「それほど、遅くならないと思う」
ジェイ・ゼルの声が、響く。
「私を、待っていてくれ。ハルシャ」
言葉の中に秘められた想いに、不思議に心が震える。
「待っている。ジェイ・ゼル」
ハルシャの呟きに、ジェイ・ゼルが笑う気配がした。
「いい子だ」
一瞬の間の後、
「予約を入れなくてはならない。一端、切るよ、ハルシャ」
と、言ってから、通話が途絶えた。
ジェイ・ゼルは予定を早めて帰ってきてくれたのだ。
そして。
すぐに自分に逢おうとしてくれている。
理由も解らずに、身が震える。
ハルシャは、通話装置を手で包んだまま、踵を返す。
サーシャと、リュウジに説明しなくてはならない。
急な用事で、出なくてはならないと。
リュウジには、伝わってしまうだろう。
自分がこれから、どこへ向かうのか――
それでも。
ハルシャはジェイ・ゼルに逢いたい心を、止めることが出来なかった。
※ハルシャは、二人は気が合うと思っているようですが、ジェイ・ゼルとリュウジが顔を合わせたら、龍虎図のような雰囲気になる予感しかしません……。