夢に、ジェイ・ゼルを見た。
彼は、優しく自分の身を愛撫してくれていた。
望みを伝えると、微笑みながら、その場所に触れてくれる。
ハルシャは、快楽の中に身悶えしていた。
だからだろうか――
目覚めた時、ハルシャは違和感を覚えた。冷たく濡れた感じが、下の方にある。
とっさに、布団をめくり、瞬時に原因を悟る。
夢の中で、自分は精を吐いていたようだ。
羞恥に、かあっと、顔が燃えるように赤くなった。
まさか、こんなところで。
うろたえながら、サーシャを見る。
彼女はぐっすりと眠っていた。
気付かれたくなかった。
顔を赤らめたままで、誰も起こさないように静かに布団を出る。
服を――着替えなくてはならない。
これが、父に一度聞いたことがある、夢精というものだろうか。
情報として知っていたが、身に起こったことが無かった。
戸惑いと困惑と羞恥で、耳まで赤く染めながら、ハルシャは夜明けを迎えたばかりの部屋を静かに移動する。
リュウジが作ってくれた棚から、そっと服をとると、手洗いへと一目散に足を速めて向かう。
個室に入って、やっとハルシャは息を吐いた。
夢の中で――ジェイ・ゼルは、望むような愛撫を与えてくれた。
その心地良さに、ハルシャは身を任せきっていた。
だから、こんなことになってしまったのだろうか。
身を何とか拭い、下穿きと服を着替える。
この洗濯を、サーシャに任せるのが、ためらわれる。
あれこれと方策を考えながら、ハルシャは忍びやかに手洗いを出た。
夜明けを迎えたばかりで、皆を起こすまでには、もう少し時間がある。
ハルシャは濡れた服をくるくると丸めて、極力小さくしてから、鞄の中に突っ込んだ。自力でこれだけ洗濯をしようと、心に決める。
唇を噛み締める。
自分は――
どこまで淫猥になってしまったのだろう。
夢にジェイ・ゼルを求めて寝ながらに射精してしまうなど。
かつての自分なら、考えられないことだ。
身を合わせる行為自体を、嫌悪していたというのに。
まるで、思春期の少年に戻ってしまったようだった。
はっと、ハルシャは気付く。
自分は――寝言を発していなかっただろうか。
夢の中での痴態に、ますます顔が赤らむ。
もし、リュウジに聞かれていたらどうしたらいいのだろう。
ハルシャは、視線を彼に送るが、布団をかぶって丸まっている姿しか見えない。
大丈夫だろうか。
リュウジに是非を問いただすことは、とても出来そうになかった。
ハルシャは、頬を赤らめたまま、時間までと、もう一度布団に潜り込む。
サーシャの穏やかな寝息が、傍らから響いてくる。
自分は――
ジェイ・ゼルに逢いたいのだ。
夢に、彼を見るほどに。
灰色の天井の荒い面に、眼差しを向ける。
明日。
ジェイ・ゼルが帰ってくる。
何時ごろになるだろう。
呼び出しはあるのだろうか。
ハルシャは、天井を見つめ続ける。
宇宙空港から解放されるのは、結構時間を喰う。検疫などの検査があるからだ。
有害な細菌や生物を、宇宙から惑星トルディアに持ち込まないために、かなり厳しい検査が課せられている。自分もかつて、父と一緒にその検査を受けてきたから、解る。
検査を終え、宇宙空港からヴォーデン・ゲートまで、一時間の距離になる。
さらに、ゲートを抜けるまでに、一時間。
下手をしたら、宇宙空港から都心ラグレンにたどり着くまでに半日かかることもある。
戻ってきても、忙しくて逢えないかもしれない。
ハルシャは、ゆっくりと、瞬きをする。
不在中に溜まった仕事を処理する必要があるだろう。
だとしたら、会えるのは明後日になるかもしれない。
無意識に、ハルシャは左手の通話装置に触れていた。
指先で、バンドの形状をなぞる。
その淋しさを埋めるために、また、自分は夢にジェイ・ゼルを見るのだろうか。
彼の身の熱を、夢で求めてしまうのだろうか。
頬が、赤らむ。
サーシャに背を向けて、ハルシャは寝返りを打つ。
誰にも――今の自分の顔を見られたくなかった。
愚かであさましい顔をしている。
ジェイ・ゼルには、借金のかたに抱かれているだけだというのに――
どうして、こんなにも彼を求めてしまうのだろう。
ハルシャは、恒星ラーガンナの光が、壁に筋を付け始める様子を、横たわったまま見つめていた。
今日から、シヴォルト工場長は、居ない。
ジェイ・ゼルは、とても巧みに策を使う。
慣れているのだ。
どんな方策をとれば、万事が丸く収まり、角が立たないのか、彼は良く弁えている。それだけ経験を積んできているのだろう。
彼は――
人心を掌握するのがとても、巧みだった。
自分もあれほど言葉をきちんと喋ることが出来れば、人とぶつからずに済むのだろうか。
けれど。
頬を赤らめたまま、ハルシャは唇を噛み締めた。
ジェイ・ゼルは、自分の言葉が好きだと言ってくれた。飾りのない言葉に安心すると。
それが。
なぜか、とても嬉しかった。
ハルシャは、彼の言葉を考え続ける。
ジェイ・ゼルは、安らぐことが少ないのかもしれない。
心から彼がくつろぐ時は、どんな時なのだろう。
夜明けの静寂の中、ハルシャは、つらつらと考えてみる。
彼は常に心を張って、周囲に気を配っているように思える。
行為の最中も、常に自分を見つめて、反応を探っていた。
主導権を握ってみて、人に何かを与えるというのは、常に先のことを考え続けなくてはならないのだと気付かされた。
ジェイ・ゼルは――
自分と身を合わせながら、いつも様子をみている。
もっと。
彼自身が楽しんでくれればいいのに。
行為の全てが、ハルシャのためにあるように思えて、何だが気が引ける。
自分が未熟だから、ジェイ・ゼルを楽しませることが出来ないような、申し訳ないような気分になってくる。
足にまだ残る痛みを思いながら考える。
結局、最後はジェイ・ゼルが動いて頂点へと連れて行ってくれた。
今度会ったときに言ってみよう。
自分のためでなく、ジェイ・ゼル自身のために、行為をなしてくれと。
彼のことだから、そうしているよと、答えるかもしれないけれど。
ハルシャは、自分の腕を敷いて光を目で追う。
今。ジェイ・ゼルは、どこにいるのだろう。
少しでも自分のことを、思い出してくれているのだろうか。
多忙に紛れて、意識にものぼらないのかもしれない。
ふっと息を吐くと、ハルシャは、ためらいがちに指を上げてそっと自分の唇に触れる。
今度会う時まで――私の唇の温もりを、忘れないでくれ。
暗い炎を宿した瞳で見つめながら彼は呟いた。
見えない鎖で心を繋ぎ止めるように。
夢の中で与えられた熱が、再び身の内に湧き上がりそうになり、ハルシャは触れていた指を小さく噛んだ。
痛みにすり替えて、身の熱を収める。
どうかしている。
小さく心に呟きながら、ハルシャは目を閉じた。
布団をかぶり彼に背を向けながら、リュウジが目を開き、じっと虚空を見つめていることを、その時ハルシャは知らなかった。
目覚めたハルシャの戸惑いと、その後の行動の全てを知悉していることも。
静寂の中で、次第に恒星ラーガンナの光が、高さを増しながら部屋へと差し込んでいた。
*
シヴォルトが異動になり、工場長はそれまで副工場長だった、サリオン・ガルガーが引き継ぐことになる。
朝、勤務の最初に朝礼がもたれ、新工場長として、サリオン・ガルガーが皆の前で挨拶をした。
シヴォルトと違い、彼は人格者だった。
前工場長の功績を讃えた後、シヴォルト工場長が残した業績を落とさぬように、これからも皆も頑張って欲しいと言葉を結ぶ。
朝礼は短時間で済み、その場で解散となった。
ハルシャは、リュウジと一緒に、作業場へと向かう。
彼は、昨日も作成データを持ち帰ることを、強く主張した。
作業場で、鞄から電脳を取り出すときに、きつく丸めた服が見えた。
それだけで、ハルシャは頬が赤らんでしまう。
ぎゅっと底に押し込んでから、ハルシャは電脳を手早く取り出し、鞄を閉めた。
「どうかしましたか?」
リュウジが、ハルシャの行動を見守りながら、小首をかしげる。
「お顔が、赤いですよ」
「そうかな」
ハルシャは、力技で疑念を解こうと努力をする。
「急いで歩いてきたせいかな」
ああ、とリュウジが納得する。
「朝礼があるのは、想定外でしたからね。今日も定時に帰ることが出来るよう、集中して作業をしていきましょう」
とりあえず、誤魔化せたらしい。
ほっとするハルシャの横で、リュウジが作業を進めるために、準備を始めた。
今日は、内部機能をもう一度練り、作成にかかることになっている。
昨夜は遅くまで、リュウジと電脳を見ながら、意見を交換した。
全く新しい理論で組み上げられる駆動機関部の完成が、ハルシャは楽しみで仕方がなかった。
「本来なら、模型で確認しておくところですが」
リュウジが呟く。
「恐らくその時間はないでしょうね」
自分たちが作っているのは、依頼主の託してきた設計図ではない。
そのことを、また、ハルシャは思い出す。
「でも、大丈夫です」
リュウジが思い切ったように、言葉をほとばしらせた。
「僕とハルシャが作るのですから、帝国史に残るような見事な駆動機関部が出来ると思います」
その自信はどこから来るのか、尋ねようとして、ハルシャは言葉を飲んだ。
彼が元気そうに笑っていればいい。
ふと、そう思ってしまったのだ。
彼が秘めている身の奥の恐怖を、ハルシャは痛みと共に思い出す。
嫌な記憶なら、忘れてしまえばいい。
記憶が無くても、自分は君の側から離れない。
あの時言えなかった言葉が、胸の奥で今も渦巻いていた。
昼の時間になって、リュウジは食堂へ行こうと言い張った。
新工場長と近づきになりたいと、彼は柔らかい声でハルシャに告げる。
彼の将来のことも考えると、もっともなことだと、受諾を示し、二人は並んで食堂へと向かった。
相変わらず、自分が姿を見せると、妙な沈黙が広がる。
それが嫌だったが、リュウジと一緒だと、なぜか気にならなかった。
「ガルガー工場長!」
目敏く工場長を見つけると、リュウジは声をかけ、食事をする彼の元に近づいた。
座っているガルガーと会話を楽しげに交わしてから、入り口で佇んでいたハルシャの元へと戻ってくる。
「お隣で食事をしていいそうです。行きましょう、ハルシャ」
定食を頼むと、ハルシャは半ばリュウジに引きずられるようにして、ガルガー工場長の前に座ることになる。
横にはリュウジが座り、会話を弾ませている。
ハルシャの元で、だいぶ経験が積めてきたと、彼は嬉しそうに新工場長へ語り掛けている。
どちらかというと人見知りなハルシャは、すぐに人と打ち解けることが出来ない。それに引き換え、リュウジは誰とでもすぐに気さくに会話を交わしている。
人の懐に入るのが、とても上手だ。
ふと。
ジェイ・ゼルとリュウジなら、会話が弾みそうだと、ハルシャは想像し、小さく微笑んだ。
そこにサーシャも居れば、さぞかし賑やかになるだろう。
自分が黙っていてもきっと誰も気づかない。それだけ、場が盛り上がるかもしれないと、考えてみる。
「何か、面白いことがありましたか、ハルシャ?」
リュウジが前から問いかける。
笑ったところを、彼は見逃さなかったようだ。
「いや」
視線を上げると、真正面から、ガルガー新工場長が見つめていた。
シヴォルト工場長を支えて、長く副工場長を務めていた人だ。
能力ではシヴォルトを凌ぐと言われていたが、それよりもシヴォルトの上に取り入る力が強かったようだ。
正直、彼が工場長になってくれて、とても助かった。
納期に無茶をさせないことで、工員たちからもガルガーは信頼が篤い。
「作業は順調のようだね、ヴィンドース」
彼は、ハルシャを姓で呼ぶ。
「納期には間に合いそうです、工場長」
ハルシャは、丁寧に言葉を返した。
「それは何よりだ。シヴォルト前工場長は、君の能力を高く評価していた。これからも、ぜひその実力を発揮してもらいたい」
それだけを言うと、ガルガー工場長は、椅子を引いて立ち上がった。
「私は失礼するよ。お先に」
もう、彼は食事を終えていたのだが、自分たちに付き合ってくれていたのだ。
「ありがとうございました、ガルガー工場長」
リュウジが明るい声で言う。
見送ってから、笑顔をハルシャに戻す。
「何だか、これから毎日が楽しくなりそうですね」
そうだな、とは、ハルシャは、応えなかった。
食堂の一隅から、暗い視線が注がれているのに、気付いていたからだった。
トーラス・ラゼル達だった。
ハルシャは微笑みだけを返し、食事に戻る。
リュウジは、その後もハルシャとたわいもないことを話す。
今日のサーシャのアルバイト先は、メリーウェザ医師のところだった。今日、飲食店は定休日なのだ。明日が飲食店での、アルバイトになる。
帰りにリュウジは手の傷の消毒のため、医療院を訪れることになっていた。
サーシャと一緒に帰りましょうね、と、リュウジがヒヨコ豆をすくいながら、笑顔で言う。
昨日古着屋から貰ったピンクの服で、サーシャは学校へ向かった。
よほど嬉しかったのだろう。
部屋に戻った時も、試着をして自分たちに披露してくれていた。
サーシャの金色の髪に、優しい色味が、とてもよく似合う。
やはり、女の子だ。新しい服に喜びをはじけさせている。
そのことにも、笑いながらリュウジは触れる。
打ち解けた会話の中での食事は、いつもより美味しく感じられる。
食堂を出る時には、午後からの仕事への活力が自分の中にあふれているのをハルシャは感じた。
リュウジのお陰だと、横を歩く黒髪の青年を見ながら思う。
人は、ありがたい。
とても。
感謝を胸に抱きながら、静かに自分の作業場へと向かう。
少しずつ、何かが良い方向へ向かっているような気がした。
ほんの、わずかずつ。
地獄のような闇の中でもがき続けた日々を思いながら、ハルシャは、ただ歩を進めた。