ほしのくさり

第87話  それぞれの想い-02



 




「何をお考えですか、お兄さま」
 透明なグラスに満たされた、上質なクラヴァッシュ酒を差し出しながら、エメラーダが問いかける。
 彼女の声は、優美で音楽的だった。
 受け取りながら、ジェイ・ゼルは微笑みを浮かべる。
「ありがとう、エメル」
 二人だけの時、ジェイ・ゼルは妹を愛称で呼んだ。
 イズル・ザヒルがエメラーダと正式名で呼んでいる以上、親しげに振る舞うのは、個人的な時だけにしている。
 彼女の問いに、ジェイ・ゼルは笑みを深めて答える。
「つまらないことだよ。気にしないでくれ」

 『アイギッド』の中のイズル・ザヒルの私的なスペースに、妹エメラーダの部屋がある。
 そこで、二人は食後、くつろいでいるところだった。
 先程、ゆったりと時間を取った食事を終えたばかりだった。
 イズル・ザヒルは、賭場の見回りがあるので、席を外すよと二人に声をかけた。
 この後は、エメラーダと一緒に過ごしてくれればいい。仕事関係の事務処理は終わったと、ジェイ・ゼルに優しい声で告げてから、彼は立ち去って行った。
 エメラーダの誘いのままに、ジェイ・ゼルは彼女の私室のソファーに腰を下ろし、赤い液体を受け取っているところだった。
 にこっと、エメラーダが微笑みをジェイ・ゼルに向ける。
「今日のお兄さまは、とてもご機嫌が良くて、私も嬉しくなってしまいますわ」
 自分のグラスを手に、彼女は優雅な動きで、ジェイ・ゼルの傍らに腰を下ろした。
 イズル・ザヒルに、エメラーダの私室に入ることを許されている男性は、ジェイ・ゼルただ一人だった。
 他の男性が入るのを、一切彼は許可していない。
 もしその禁を破れば、命を失うことになると、誰もが知っている。
 エメラーダの私室は、いわば『アイギッド』の聖域ともいえた。

「そんなに、機嫌がいいかな?」
「はい」
 こくんと、頭を揺らして、エメラーダは静かに微笑む。
「先程、お兄さまが何をお考えだったか、当ててみましょうか」
 小才の効いたことを、妹が言う。
 珍しかった。
 ジェイ・ゼルは微笑みながら
「言ってごらん、エメル」
 と微笑みと共に言葉を返す。
 目を細めてから、
「お兄さまがお世話をしている、ハルシャ・ヴィンドースのことでしょう」
 と、穏やかな声で、告げる。

 ジェイ・ゼルは笑みを浮かべたまま、静かに瞬きをした。

「いつから、そんなに鋭くなったのだね、エメラーダ」
「お顔に書いていらっしゃいますわ。今、ハルシャ・ヴィンドースは何をしているのだろうか、と。
 残してきた子のことが、心配ですか?」
「そうだね。あの子は、器用な子ではないからね――人間関係で悩まされることが多い。大丈夫かなと、少し考えていただけだよ」
 ジェイ・ゼルは、グラスをエメラーダに掲げる。
「せっかく二人だけの時間なのに、つまらないことで、心を煩わせたね」
 エメラーダが静かにジェイ・ゼルのグラスと縁を合わせて、微かな音をさせた。
「いいえ。それほど楽しそうなお兄さまのお顔を、見ていられるだけで嬉しいです」
 灰色のつぶらな瞳を細めて、妹が本当に嬉しげに言う。
 ジェイ・ゼルは小さく声をたてて笑った。
「そんなに私は普段、つまらなそうな顔をしているのかな」
「ええ」
 はっきりと、エメラーダが言う。
「苦い虫でも、お口にされているようなお顔ですわ」
 二人で、くすくすと笑う。

 生まれた時から寄り添ってきた妹は、一番心が許せる存在だった。
「ハルシャ・ヴィンドースと仲良くなられて、本当に良かったですね、お兄さま。ご機嫌の理由は、彼なのでしょう?」
 柔らかな口調で言ってから、エメラーダは静かにグラスを口に運んだ。
 優雅な動作だった。
 ジェイ・ゼルは、目を伏せた。
「そうだね。結果としては――だが。私のしたことは、とても卑怯なことだ」
 グラスを手に包み、ジェイ・ゼルは懺悔するように呟いた。
「強制的に他人に身を開かせるなど、彼の尊厳を踏みにじり、心と身体を手ひどく傷つける行為だ」
 呟きの後、ジェイ・ゼルは微笑みを、エメラーダに向けた。
「自分の醜さを、思い知らされる。それに」
 小さく付け加える。
「借金が清算されれば、彼との関係は終わる。それだけの間柄に過ぎない。私の心配など、ハルシャにとっては、余計なことだろうにね。つい、色々考えてしまうのだよ」
 自嘲気味にジェイ・ゼルは笑った。
「全く、愚かなことだ」

 再び虚空を見つめるジェイ・ゼルに、潤みを帯びた瞳を、エメラーダは向け続けていた。
「お兄さまは――」
 静かな声が響いた。
「ハルシャ・ヴィンドースを、愛しているのですね」

 ジェイ・ゼルはすぐに、応えなかった。
 ただ、虚空へ眼差しを向ける。

 長い沈黙の後、やっとジェイ・ゼルは口を開いた。
「人を愛してはいけないと、私たちは、教えられてきた」
 遠い所に漂い出す意識のままに、ジェイ・ゼルは呟いていた。
「相手に愛されても、自分は愛するな。それが、身を守る唯一の方法だと。
 なのに、そうだな」
 ジェイ・ゼルは、穏やかに微笑んだ。
「私は恐らく、愛しているのだろうね。ハルシャ・ヴィンドースを」
 微笑みを、エメラーダへ向ける。
「ただの借金相手としか、私を思っていないというのに……本当に、愚かなことだ」

 呟いてから、彼は視線を、手元のグラスに戻した。
 クラヴァッシュ酒を飲ませようとして、頬を赤らめていた、ハルシャの顔が、ふと胸に蘇って来た。
 笑みがこぼれる。
「エメル。私たちは、身を合わせれば、心がそれについてくると、教えられてきた。肉体を思い通りにすれば、心もおのずから手に入る。
 私もそう思って、ハルシャに接してきた。
 快楽を与えれば、心が添ってくれる。
 当時、彼は思春期の少年だったからね、肉体の誘惑に一番弱い年ごろだ。
 一年もかからぬうちに、彼は自分の物になるだろう。そう、甘い見通しを立てていた。
 いくら心の中で反抗していても、長くはもたない。容易く篭絡出来ると高をくくっていたんだよ」
 グラスを揺らしながら、ジェイ・ゼルは微笑んだ。
「自分が根本的に間違えていることに、私は五年間も気付けなかった」

 揺らしたグラスを、ジェイ・ゼルはゆっくりと口に運ぶ。
 クラヴァッシュ酒が、絹のように喉を滑り落ちて行く。
 素晴らしい香りが鼻の奥に広がった。
「とてもおいしいよ、エメル」
 呟きに、妹が微かに笑いを浮かべた。
「お兄さまにお出ししようと思って、イズル様に特別に取り置いて頂いていました」
「それはありがたい、嬉しいよ」
 眼差しを、触れ合わせる。
 かつて――こうやって視線を絡めながら、二人は運命の渦に耐えてきた。
 生まれる前から寄り添ってきた、大切な存在。
 潤みを帯びた大きな瞳が、じっと自分を見つめている。
 その眼に向けて、ジェイ・ゼルは心の内に秘め置いた、素直な言葉を続けた。

「意図に反して、ハルシャ・ヴィンドースは肉体の欲望に負けなかった。
 与える行為に対して、一切の感覚を閉じ、何も感じないようにして、頑なに私を拒み続けた。
 私は彼にとって、借金を理由に身を蹂躙する、理不尽な存在だったからね。
 だから、契約通りに身を自由に私に弄ばせさせながらも、一番大切な場所は、決して明け渡してくれなかったんだよ。
 与えられる、どんな過酷な肉体の責めにも耐え続けて」
 灰色の瞳が、自分を映す。自分の瞳の中にも、エメラーダが映っているのだろう。互いを見つめながら、言葉を滴らせる。
「彼の魂に――私は、触れることすら、許されなかった」

 ジェイ・ゼルは、不意に視線をそらして、虚空を見つめた。
「いや。私が彼の魂を見ていなかっただけかもしれない。
 私が見ていたのは、目の前にある肉体だけ。自分が与える行為による、彼の反応だけかもしれない。
 それが全てだと、私たちは教えられてきたからね。
 目に映るこの世界だけが全てだと。それ以外の存在を求めてはいけないと――形のない物を求めれば、不幸になると思い込んでいた。
 出来ることはし尽したはずなのに、彼の肉体は、私に応えてくれなかった。
 いくら愛撫を与えても、拒み続けるハルシャに、私はいい加減、痺れを切らしてしまったのだろうね」
 優しく微笑みながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「自分が蒔いた種なのに、本当に、情けないことだ」

 言葉が、途切れる。
 去来する想いが、胸の奥で渦を巻く。
 ジェイ・ゼルは黙し続けた。
 エメラーダが、ジェイ・ゼルの沈黙に耳を澄ましている。
 兄が自分から話す気になるまで、忍耐強く、彼女は待っていてくれた。

 もう一口、クラヴァッシュ酒を飲んでから、ジェイ・ゼルは口を開いた。
「人には――」
 ぽつんと、ジェイ・ゼルは呟いた。
「魂がある。心とも呼ぶのかもしれない」

 不意に、遠い目になると、ジェイ・ゼルは内側に問いかけるように、言葉を続けた。
「知っていたが、私はそのことの、真の意味を、理解していなかったのかもしれない。
 魂がどれだけ、大切なものなのか。
 見えないものを信じないように、教えられてきたからね」
 睫毛を伏せて、床を見つめる。
 エメラーダが静かに、ジェイ・ゼルの言葉に耳を傾けていた。
 無限の許容を感じながら、ジェイ・ゼルは想いを滴らせる。
「ハルシャと接して、私は思い知った。
 どんなに肉体を支配しても、人の内側に存在する魂までは、拘束することは出来ない。
 人には、魂があって、肉体がそれに従う。
 一番大切なのは、身体の内側にあるものなのだと――求めるべきは彼の肉体ではなく、魂だったのだと」
 優しい笑みを浮かべると、彼は静かにエメラーダに顔を向けた。
「私は五年をかけて、ハルシャ・ヴィンドースから教えられた」


 エメラーダが眉を寄せて、苦しみに耐えるように、唇を引き結んだ。
「己の間違いに気づいた時、私は、ただ、彼の心を……乞うしか出来なかった。
 今まで身に着けたどんな技術も、彼の前では意味がなかった。
 拒否される恐怖に怯えながら、愛し合いたいと、私はただ、彼に願った」
 首を傾げながら、ジェイ・ゼルは微笑みを浮かべる。
「私の無様な請願に、ハルシャは――応えてくれた。
 身を持って、私に許しを与えてくれたんだ。
 彼の魂に触れ、快楽に身を委ねてくれた時――」
 ジェイ・ゼルは眉を寄せて、絞り出すように呟いた。
「このまま、ここで殺されても良いと、思った」


 ふっと、眉を解くと、ジェイ・ゼルは手を伸ばして、エメラーダの頬に触れた。
「どうして、君が泣くんだ。エメル」
 透明な涙をこぼしながら、小さくエメラーダは首を振った。
「お兄さまの――お辛さと、今のお幸せを思うと、涙がこぼれたのです」
 とぎれとぎれに、呟く言葉に、ジェイ・ゼルは指で涙をぬぐった。
「ありがとう、エメル。けれど、これは借金が完済するまでの関係だ。
 永遠ではない。
 教えられたとおりだね。
 誰も愛してはいけない。
 愛は、与えられるもの、与えるものではない――愛したほうが、負けなのだと。
 私は負けたのだよ、ハルシャ・ヴィンドースに」
 
 目を閉じると、エメラーダは小さく首を振った。
「相手をより愛することが敗北なら、私は甘んじて、敗者となります」
 たおやかな彼女から、思わぬ激しい言葉がほとばしり出た。
「イズル様がいなければ、私は死んでいました。あのお方は、私の全てです――私は」
 目を開くと、涙を流しながら、エメラーダは静かに呟いた。
「イズル様を愛しています。お兄さまよりも、自分よりも。
 愚かなことです。それでも、私は幸せです」

 ジェイ・ゼルは、静かに妹の灰色の瞳を見つめ続けた。

 イズル・ザヒルは――
 『ダイモン』の先代|頭領ケファル、ナダル・ダハットを謀殺して、現在の地位を手に入れた。
 彼はダハットが手にしていた全てを奪い、自分のものとした。
 頭領ケファルの地位。
 賭博事業。
 そして、ナダル・ダハットの所有物だった、エメラーダ。
 地位と莫大な利益を欲して、イズル・ザヒルは先代を殺したと世間では言われている。
 だが。
 真実は違う。

 イズル・ザヒルが本当に手に入れたかったもの――
 それは、ナダル・ダハットの愛玩物だった、エメラーダだった。

 ダハットは、複数の愛人がいたにもかかわらず、エメラーダがお気に入りで、決して彼女を手離そうとしなかった。
 先代の命を奪うことでしか、エメラーダを自分の物と出来ないと悟った彼は、知略を巡らした。ダハットの地位を奪うべく、気付かれないよう工作をし続けた。
 二十年前、彼はついにナダル・ダハットを殺害し、頭領ケファルの地位を手に入れた。
 そして、醜悪な支配者であった、ナダル・ダハットの手からエメラーダを奪還し、自分の愛人としたのだ。
 爾来、片時も自分の側から離さず、彼はエメラーダを慈しみ愛情を注ぎ続けている。

 イズル・ザヒルを、愛してはいけない。
 エメラーダは誰よりもそれを知っていた。
 愛してしまえば、自分を護ることが出来なくなる。彼のために、身を捨ててしまう。
 それが解りながら――
 エメラーダは、世界の誰よりも、深くイズル・ザヒルを愛していた。
 ナダル・ダハットの手からエメラーダを救い出すために、イズル・ザヒルは、先代の頭領ケファルを殺した。自身が傷つくことすら、恐れずに。
 先代の血に濡れたイズル・ザヒルの腕の中に、エメラーダは真っ直ぐに飛び込んでいった。
 まだ少女ともいうべき年齢だったが、その眼は、愛を知る女のものだった。
 彼女は深く理解している。
 自分よりも大切な存在を持つことの、危険と苦しみとそして身を切り裂くような幸福を――
 今のジェイ・ゼルの心を、誰よりもエメラーダは理解をしてくれていた。
 だから。
 涙をこぼしているのだ。
 ジェイ・ゼルのために。
 報われない、想いのために。
 恋愛という戦いの場では――
 より深く多く、相手を愛した者が、負けなのだ。

「愚かな、兄と妹だな」
 小さなジェイ・ゼルの呟きに、エメラーダが微笑んだ。
「それでも、幸せな兄と妹です。お兄さま」
 細めた眼に、新しい涙をこぼしながら、彼女が呟く。
「愛を覚えて初めて、私は生きることの意味を知りました」
 

 決して他人を愛さずに――
 人に愛でられるために、自分たちは生まれてきた。
 それでも。
 この内に、魂は込められていたのだ。
 たった一つの命を、慟哭するように求め続ける。
 愛しさに、身を捩りながら。
 報われぬ想いに、引き裂かれながら。
 自分にも、人を愛する魂があったのだと――
 ハルシャ・ヴィンドースが教えてくれた。
 快楽に震える彼の身を腕に抱くだけで、この瞳の色が変じてしまうほどに。
 今も、ただ、彼が恋しかった。

「早く、ハルシャ・ヴィンドースの元に、帰りたいのですね。お兄さま」
 涙を拭いながら、エメラーダが優しい声で、問いかける。
 ジェイ・ゼルは微笑んだだけだった。
 彼女が顔を寄せて、唇で頬に触れる。
「イズル様にお話ししてみます。お兄さまを、早く彼の元に戻してあげられるように――私も」
 灰色の瞳がジェイ・ゼルを近くで見つめる。
「イズル様と、離れている時間がとても、辛いです。お兄さまも、同じですね。私とお兄さまは――双子ですから」
「エメル」
「大丈夫です。イズル様は、お兄さまのお気持ちを、きちんと理解して下さっています。お兄さまが、イズル様に精いっぱい尽くしてらっしゃることも。その上で、止むにやまれぬ気持ちで、ハルシャ・ヴィンドースをかばったことも」
 艶やかな笑みが、エメラーダの顔に浮かんだ。
「全てご存知ですわ、お兄さま」














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