「何をお考えですか、お兄さま」
透明なグラスに満たされた、上質なクラヴァッシュ酒を差し出しながら、エメラーダが問いかける。
彼女の声は、優美で音楽的だった。
受け取りながら、ジェイ・ゼルは微笑みを浮かべる。
「ありがとう、エメル」
二人だけの時、ジェイ・ゼルは妹を愛称で呼んだ。
イズル・ザヒルがエメラーダと正式名で呼んでいる以上、親しげに振る舞うのは、個人的な時だけにしている。
彼女の問いに、ジェイ・ゼルは笑みを深めて答える。
「つまらないことだよ。気にしないでくれ」
『アイギッド』の中のイズル・ザヒルの私的なスペースに、妹エメラーダの部屋がある。
そこで、二人は食後、くつろいでいるところだった。
先程、ゆったりと時間を取った食事を終えたばかりだった。
イズル・ザヒルは、賭場の見回りがあるので、席を外すよと二人に声をかけた。
この後は、エメラーダと一緒に過ごしてくれればいい。仕事関係の事務処理は終わったと、ジェイ・ゼルに優しい声で告げてから、彼は立ち去って行った。
エメラーダの誘いのままに、ジェイ・ゼルは彼女の私室のソファーに腰を下ろし、赤い液体を受け取っているところだった。
にこっと、エメラーダが微笑みをジェイ・ゼルに向ける。
「今日のお兄さまは、とてもご機嫌が良くて、私も嬉しくなってしまいますわ」
自分のグラスを手に、彼女は優雅な動きで、ジェイ・ゼルの傍らに腰を下ろした。
イズル・ザヒルに、エメラーダの私室に入ることを許されている男性は、ジェイ・ゼルただ一人だった。
他の男性が入るのを、一切彼は許可していない。
もしその禁を破れば、命を失うことになると、誰もが知っている。
エメラーダの私室は、いわば『アイギッド』の聖域ともいえた。
「そんなに、機嫌がいいかな?」
「はい」
こくんと、頭を揺らして、エメラーダは静かに微笑む。
「先程、お兄さまが何をお考えだったか、当ててみましょうか」
小才の効いたことを、妹が言う。
珍しかった。
ジェイ・ゼルは微笑みながら
「言ってごらん、エメル」
と微笑みと共に言葉を返す。
目を細めてから、
「お兄さまがお世話をしている、ハルシャ・ヴィンドースのことでしょう」
と、穏やかな声で、告げる。
ジェイ・ゼルは笑みを浮かべたまま、静かに瞬きをした。
「いつから、そんなに鋭くなったのだね、エメラーダ」
「お顔に書いていらっしゃいますわ。今、ハルシャ・ヴィンドースは何をしているのだろうか、と。
残してきた子のことが、心配ですか?」
「そうだね。あの子は、器用な子ではないからね――人間関係で悩まされることが多い。大丈夫かなと、少し考えていただけだよ」
ジェイ・ゼルは、グラスをエメラーダに掲げる。
「せっかく二人だけの時間なのに、つまらないことで、心を煩わせたね」
エメラーダが静かにジェイ・ゼルのグラスと縁を合わせて、微かな音をさせた。
「いいえ。それほど楽しそうなお兄さまのお顔を、見ていられるだけで嬉しいです」
灰色のつぶらな瞳を細めて、妹が本当に嬉しげに言う。
ジェイ・ゼルは小さく声をたてて笑った。
「そんなに私は普段、つまらなそうな顔をしているのかな」
「ええ」
はっきりと、エメラーダが言う。
「苦い虫でも、お口にされているようなお顔ですわ」
二人で、くすくすと笑う。
生まれた時から寄り添ってきた妹は、一番心が許せる存在だった。
「ハルシャ・ヴィンドースと仲良くなられて、本当に良かったですね、お兄さま。ご機嫌の理由は、彼なのでしょう?」
柔らかな口調で言ってから、エメラーダは静かにグラスを口に運んだ。
優雅な動作だった。
ジェイ・ゼルは、目を伏せた。
「そうだね。結果としては――だが。私のしたことは、とても卑怯なことだ」
グラスを手に包み、ジェイ・ゼルは懺悔するように呟いた。
「強制的に他人に身を開かせるなど、彼の尊厳を踏みにじり、心と身体を手ひどく傷つける行為だ」
呟きの後、ジェイ・ゼルは微笑みを、エメラーダに向けた。
「自分の醜さを、思い知らされる。それに」
小さく付け加える。
「借金が清算されれば、彼との関係は終わる。それだけの間柄に過ぎない。私の心配など、ハルシャにとっては、余計なことだろうにね。つい、色々考えてしまうのだよ」
自嘲気味にジェイ・ゼルは笑った。
「全く、愚かなことだ」
再び虚空を見つめるジェイ・ゼルに、潤みを帯びた瞳を、エメラーダは向け続けていた。
「お兄さまは――」
静かな声が響いた。
「ハルシャ・ヴィンドースを、愛しているのですね」
ジェイ・ゼルはすぐに、応えなかった。
ただ、虚空へ眼差しを向ける。
長い沈黙の後、やっとジェイ・ゼルは口を開いた。
「人を愛してはいけないと、私たちは、教えられてきた」
遠い所に漂い出す意識のままに、ジェイ・ゼルは呟いていた。
「相手に愛されても、自分は愛するな。それが、身を守る唯一の方法だと。
なのに、そうだな」
ジェイ・ゼルは、穏やかに微笑んだ。
「私は恐らく、愛しているのだろうね。ハルシャ・ヴィンドースを」
微笑みを、エメラーダへ向ける。
「ただの借金相手としか、私を思っていないというのに……本当に、愚かなことだ」
呟いてから、彼は視線を、手元のグラスに戻した。
クラヴァッシュ酒を飲ませようとして、頬を赤らめていた、ハルシャの顔が、ふと胸に蘇って来た。
笑みがこぼれる。
「エメル。私たちは、身を合わせれば、心がそれについてくると、教えられてきた。肉体を思い通りにすれば、心もおのずから手に入る。
私もそう思って、ハルシャに接してきた。
快楽を与えれば、心が添ってくれる。
当時、彼は思春期の少年だったからね、肉体の誘惑に一番弱い年ごろだ。
一年もかからぬうちに、彼は自分の物になるだろう。そう、甘い見通しを立てていた。
いくら心の中で反抗していても、長くはもたない。容易く篭絡出来ると高をくくっていたんだよ」
グラスを揺らしながら、ジェイ・ゼルは微笑んだ。
「自分が根本的に間違えていることに、私は五年間も気付けなかった」
揺らしたグラスを、ジェイ・ゼルはゆっくりと口に運ぶ。
クラヴァッシュ酒が、絹のように喉を滑り落ちて行く。
素晴らしい香りが鼻の奥に広がった。
「とてもおいしいよ、エメル」
呟きに、妹が微かに笑いを浮かべた。
「お兄さまにお出ししようと思って、イズル様に特別に取り置いて頂いていました」
「それはありがたい、嬉しいよ」
眼差しを、触れ合わせる。
かつて――こうやって視線を絡めながら、二人は運命の渦に耐えてきた。
生まれる前から寄り添ってきた、大切な存在。
潤みを帯びた大きな瞳が、じっと自分を見つめている。
その眼に向けて、ジェイ・ゼルは心の内に秘め置いた、素直な言葉を続けた。
「意図に反して、ハルシャ・ヴィンドースは肉体の欲望に負けなかった。
与える行為に対して、一切の感覚を閉じ、何も感じないようにして、頑なに私を拒み続けた。
私は彼にとって、借金を理由に身を蹂躙する、理不尽な存在だったからね。
だから、契約通りに身を自由に私に弄ばせさせながらも、一番大切な場所は、決して明け渡してくれなかったんだよ。
与えられる、どんな過酷な肉体の責めにも耐え続けて」
灰色の瞳が、自分を映す。自分の瞳の中にも、エメラーダが映っているのだろう。互いを見つめながら、言葉を滴らせる。
「彼の魂に――私は、触れることすら、許されなかった」
ジェイ・ゼルは、不意に視線をそらして、虚空を見つめた。
「いや。私が彼の魂を見ていなかっただけかもしれない。
私が見ていたのは、目の前にある肉体だけ。自分が与える行為による、彼の反応だけかもしれない。
それが全てだと、私たちは教えられてきたからね。
目に映るこの世界だけが全てだと。それ以外の存在を求めてはいけないと――形のない物を求めれば、不幸になると思い込んでいた。
出来ることはし尽したはずなのに、彼の肉体は、私に応えてくれなかった。
いくら愛撫を与えても、拒み続けるハルシャに、私はいい加減、痺れを切らしてしまったのだろうね」
優しく微笑みながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「自分が蒔いた種なのに、本当に、情けないことだ」
言葉が、途切れる。
去来する想いが、胸の奥で渦を巻く。
ジェイ・ゼルは黙し続けた。
エメラーダが、ジェイ・ゼルの沈黙に耳を澄ましている。
兄が自分から話す気になるまで、忍耐強く、彼女は待っていてくれた。
もう一口、クラヴァッシュ酒を飲んでから、ジェイ・ゼルは口を開いた。
「人には――」
ぽつんと、ジェイ・ゼルは呟いた。
「魂がある。心とも呼ぶのかもしれない」
不意に、遠い目になると、ジェイ・ゼルは内側に問いかけるように、言葉を続けた。
「知っていたが、私はそのことの、真の意味を、理解していなかったのかもしれない。
魂がどれだけ、大切なものなのか。
見えないものを信じないように、教えられてきたからね」
睫毛を伏せて、床を見つめる。
エメラーダが静かに、ジェイ・ゼルの言葉に耳を傾けていた。
無限の許容を感じながら、ジェイ・ゼルは想いを滴らせる。
「ハルシャと接して、私は思い知った。
どんなに肉体を支配しても、人の内側に存在する魂までは、拘束することは出来ない。
人には、魂があって、肉体がそれに従う。
一番大切なのは、身体の内側にあるものなのだと――求めるべきは彼の肉体ではなく、魂だったのだと」
優しい笑みを浮かべると、彼は静かにエメラーダに顔を向けた。
「私は五年をかけて、ハルシャ・ヴィンドースから教えられた」
エメラーダが眉を寄せて、苦しみに耐えるように、唇を引き結んだ。
「己の間違いに気づいた時、私は、ただ、彼の心を……乞うしか出来なかった。
今まで身に着けたどんな技術も、彼の前では意味がなかった。
拒否される恐怖に怯えながら、愛し合いたいと、私はただ、彼に願った」
首を傾げながら、ジェイ・ゼルは微笑みを浮かべる。
「私の無様な請願に、ハルシャは――応えてくれた。
身を持って、私に許しを与えてくれたんだ。
彼の魂に触れ、快楽に身を委ねてくれた時――」
ジェイ・ゼルは眉を寄せて、絞り出すように呟いた。
「このまま、ここで殺されても良いと、思った」
ふっと、眉を解くと、ジェイ・ゼルは手を伸ばして、エメラーダの頬に触れた。
「どうして、君が泣くんだ。エメル」
透明な涙をこぼしながら、小さくエメラーダは首を振った。
「お兄さまの――お辛さと、今のお幸せを思うと、涙がこぼれたのです」
とぎれとぎれに、呟く言葉に、ジェイ・ゼルは指で涙をぬぐった。
「ありがとう、エメル。けれど、これは借金が完済するまでの関係だ。
永遠ではない。
教えられたとおりだね。
誰も愛してはいけない。
愛は、与えられるもの、与えるものではない――愛したほうが、負けなのだと。
私は負けたのだよ、ハルシャ・ヴィンドースに」
目を閉じると、エメラーダは小さく首を振った。
「相手をより愛することが敗北なら、私は甘んじて、敗者となります」
たおやかな彼女から、思わぬ激しい言葉がほとばしり出た。
「イズル様がいなければ、私は死んでいました。あのお方は、私の全てです――私は」
目を開くと、涙を流しながら、エメラーダは静かに呟いた。
「イズル様を愛しています。お兄さまよりも、自分よりも。
愚かなことです。それでも、私は幸せです」
ジェイ・ゼルは、静かに妹の灰色の瞳を見つめ続けた。
イズル・ザヒルは――
『ダイモン』の先代|
彼はダハットが手にしていた全てを奪い、自分のものとした。
賭博事業。
そして、ナダル・ダハットの所有物だった、エメラーダ。
地位と莫大な利益を欲して、イズル・ザヒルは先代を殺したと世間では言われている。
だが。
真実は違う。
イズル・ザヒルが本当に手に入れたかったもの――
それは、ナダル・ダハットの愛玩物だった、エメラーダだった。
ダハットは、複数の愛人がいたにもかかわらず、エメラーダがお気に入りで、決して彼女を手離そうとしなかった。
先代の命を奪うことでしか、エメラーダを自分の物と出来ないと悟った彼は、知略を巡らした。ダハットの地位を奪うべく、気付かれないよう工作をし続けた。
二十年前、彼はついにナダル・ダハットを殺害し、
そして、醜悪な支配者であった、ナダル・ダハットの手からエメラーダを奪還し、自分の愛人としたのだ。
爾来、片時も自分の側から離さず、彼はエメラーダを慈しみ愛情を注ぎ続けている。
イズル・ザヒルを、愛してはいけない。
エメラーダは誰よりもそれを知っていた。
愛してしまえば、自分を護ることが出来なくなる。彼のために、身を捨ててしまう。
それが解りながら――
エメラーダは、世界の誰よりも、深くイズル・ザヒルを愛していた。
ナダル・ダハットの手からエメラーダを救い出すために、イズル・ザヒルは、先代の
先代の血に濡れたイズル・ザヒルの腕の中に、エメラーダは真っ直ぐに飛び込んでいった。
まだ少女ともいうべき年齢だったが、その眼は、愛を知る女のものだった。
彼女は深く理解している。
自分よりも大切な存在を持つことの、危険と苦しみとそして身を切り裂くような幸福を――
今のジェイ・ゼルの心を、誰よりもエメラーダは理解をしてくれていた。
だから。
涙をこぼしているのだ。
ジェイ・ゼルのために。
報われない、想いのために。
恋愛という戦いの場では――
より深く多く、相手を愛した者が、負けなのだ。
「愚かな、兄と妹だな」
小さなジェイ・ゼルの呟きに、エメラーダが微笑んだ。
「それでも、幸せな兄と妹です。お兄さま」
細めた眼に、新しい涙をこぼしながら、彼女が呟く。
「愛を覚えて初めて、私は生きることの意味を知りました」
決して他人を愛さずに――
人に愛でられるために、自分たちは生まれてきた。
それでも。
この内に、魂は込められていたのだ。
たった一つの命を、慟哭するように求め続ける。
愛しさに、身を捩りながら。
報われぬ想いに、引き裂かれながら。
自分にも、人を愛する魂があったのだと――
ハルシャ・ヴィンドースが教えてくれた。
快楽に震える彼の身を腕に抱くだけで、この瞳の色が変じてしまうほどに。
今も、ただ、彼が恋しかった。
「早く、ハルシャ・ヴィンドースの元に、帰りたいのですね。お兄さま」
涙を拭いながら、エメラーダが優しい声で、問いかける。
ジェイ・ゼルは微笑んだだけだった。
彼女が顔を寄せて、唇で頬に触れる。
「イズル様にお話ししてみます。お兄さまを、早く彼の元に戻してあげられるように――私も」
灰色の瞳がジェイ・ゼルを近くで見つめる。
「イズル様と、離れている時間がとても、辛いです。お兄さまも、同じですね。私とお兄さまは――双子ですから」
「エメル」
「大丈夫です。イズル様は、お兄さまのお気持ちを、きちんと理解して下さっています。お兄さまが、イズル様に精いっぱい尽くしてらっしゃることも。その上で、止むにやまれぬ気持ちで、ハルシャ・ヴィンドースをかばったことも」
艶やかな笑みが、エメラーダの顔に浮かんだ。
「全てご存知ですわ、お兄さま」