ほしのくさり

第85話  明け方の夢







 

――ジェイ・ゼル。
 
 ハルシャは、闇の中に、彼を求めて名を呼んでいた。
 独りだった。
 ジェイ・ゼルを――
 探しているのに、見つからない。
 指先が溶け込むような闇の中で、懸命にもがき続ける。

――どこにも行かないと、約束してくれたのではないのか!

 ハルシャは闇に、叫んでいた。
 彼は約束をしてくれたのに。
 それでも。
 ジェイ・ゼルは、自分の都合で約束を破る。
 いつも、いつも。
 足らない言葉を信じたハルシャを、軽やかに欺きながら、微笑みを浮かべて見つめてくる。
 信じているのに。
 信じていたいのに。
 どうして――
 信じさせてくれないんだ。
 探し続けて疲れ果て、ハルシャは途方に暮れたように立ち尽くしていた。

――どこにも、行かないよ。ハルシャ。

 優しい声が聞こえた。

――ジェイ・ゼル!
 
 ハルシャは叫びながら、声の方に一心に駆けていく。
 闇の向こうに、佇むジェイ・ゼルの姿があった。
 走りながらハルシャは、懸命に彼に両腕を差し伸べた。
 気付いた彼が振り向き、笑顔でハルシャを抱きとめようと、腕を開く。
 そこを目指して、ハルシャは身を躍らすようにして駆け込んだ。
 温もりが、自分を抱きしめてくれる。

――ジェイ・ゼル。
 
 強い力に身を包まれて、安堵が内側に広がる。
 温かい。

――置いて行かないでくれ。独りにしないでくれ、ジェイ・ゼル。
 
 触れ合った場所から声が響く。

――独りにしないよ、ハルシャ。ずっと一緒に居よう。

 かけられた言葉に、全身が安らぎに包まれ、ハルシャは身の力を抜いた。
 小さく彼の名を呼ぶと、頭が撫でられた。
 ほっと、心がほぐれ、そのまま温もりに身を委ねる。
 子どものように、彼の温かさに、甘え続けた。


 *


 朝の気配に、ハルシャは、ゆっくりと目を開いた。
 恒星ラーガンナの光が、斜めに差し込んでいる。
 朝だ。
 起きなくてはならない。
 一日が、また、始まる。
 
 目の前に、何かがあった。
 とても、近いところに。
 爽やかな光に照らされながら、目に映っているものが理解出来ずに、しばらくぼんやりとハルシャは眺めていた。
 ようやく、理解する。
 リュウジだった。
 彼は眠っている。
 黒い睫毛がぴちりと閉じて、静かな寝息が彼の口から漏れている。
 それにしても――
 リュウジの顔が、ひどく近い。
 ほんの鼻先に、彼の穏やかな寝顔がある。
 瞬きを数度する。
 ふと、横を向く自分の脇腹に、彼の手が乗っていることに気付く。
 そして、自分が枕にして寝ていたのは――リュウジの腕だった。
 はっと、意識が覚醒する。
 自分はどうやら、リュウジの腕に包まれて眠っていたようだ。

 一体これは、どういう状況だ?

 戸惑いが、ハルシャの中に渦巻いた。
 昨夜、ハルシャとサーシャの間に、彼を招き入れたのは覚えている。
 顔が近いのは狭い空間に身を寄せ合っているからだ。
 そこまでは、理解できる。
 だが。
 どうして自分は、リュウジの腕の中に居るのだろう。

「リュウジ」
 混乱したまま、ハルシャは、ためらいがちに声をかけてみた。
 ぴくっと、睫毛が震えて、彼がゆっくりと目を開いた。
 深みのある藍色の瞳が、瞼の向こうに姿を現わす。
 恐ろしく真剣な表情でハルシャを見つめた後、弛緩するように彼は笑みを浮かべた。

「おはようございます、ハルシャ」
「ああ、おはよう、リュウジ」
 いや。
 のんきに挨拶をしている場合ではない。
「すまない、リュウジ」
 身を動かすことが出来ずに、ハルシャは彼に言葉をかける。
 それにしても、顔が近い。
「君の腕を、勝手に枕にしていたようだ」
 ああ、と気付いて、リュウジの腕の力が緩んだ。
「すいません、ハルシャ。なんだか不安になったのか、側へ近寄ってしまいました。寝苦しかったですか?」
 
 そうか。
 不安だったのか。
 その一言で、ハルシャは全てを許した。

「いや、別に構わない」
 それよりも。
「腕を枕にしてしまってすまない。痺れていないか?」
 サーシャをよく腕に包んで眠った時に、彼女の頭の重さに腕がいつも痺れていたのを、ハルシャは思い出していた。
 にこっと、リュウジが笑う。
「大丈夫ですよ、ハルシャ」
 それにしても。
 顔が近い。
「ハルシャのお陰で、僕はぐっすり眠れました」
 微笑んだまま、リュウジが言う。
「それは良かった」
 ハルシャは言いながら、リュウジの腕が乗っている体を起こした。
 するりと、リュウジの腕が身を滑り落ちる。
 ぴきっと、身体が強張った。
 両足が、ひどい筋肉痛になっている。
 どうしてこうなったかの記憶が瞬時に蘇り、ハルシャはリュウジから顔をそむけるようにして、起き上がった。
 どうしようもなく、顔が赤らむ。
 足がぎしぎしと、きしんで動きがぎこちなくなってしまう。
 それでも無理矢理に立ち上がり、ハルシャは布団を踏んで回って、サーシャを起こした。
「朝だ、サーシャ。起きてくれ」
 んーと、妹が目を開き、ぱちぱちと瞬きをする。
「おはよう、サーシャ」
「おはよう、お兄ちゃん」
 腕を伸ばして、ハルシャをぎゅっと抱きしめてくる。
 そこから、彼女は元気よく起き上がった。
 まだ布団に居たリュウジをみると、
「朝だよ、リュウジ! 早く起きて支度しないと。バスに乗り遅れるよ」
 と、明るい声で言う。
「はい、サーシャ。すぐ起きますね」
 笑いながら、彼は身を起こす。
 何事もなかったように、一日が始まる。
 その幸せを、ふと、ハルシャは思った。


「リュウジの服を、買う必要があると思うの」
 朝の食卓を一緒に囲みながら、サーシャがきちんと食器を置いて、ハルシャを見て言う。
「お兄ちゃんのは、リュウジには大きすぎるから、作業の時に危険だと思う」
 ちらっと、今も着ているリュウジの様子に目を向ける。
「服が余っていると、機械にはさまったりするから、危ないって以前に、お兄ちゃんが言っていたから」
 と、眉を寄せてサーシャが言う。
 たしかに。
 体格が違うので、自分の服ではリュウジには大きい。ウエストなどが余って、とりあえずベルトで締めている状態だ。
「サーシャのアルバイト代で、リュウジに服を買ってあげるよ」
 大乗り気でサーシャが言っている。
「服一着ぶんぐらいは、あると思う」
「ですが、サーシャ。それはあなたが働いた、大切なお金でしょう」
 リュウジが、申し訳なさそうにサーシャに言葉をかけている。
「僕のより、サーシャの物を買って下さい。あなたは女の子なのですから」
「サーシャは、メリーウェザ先生から、素敵な服を頂いたから、大丈夫」
 鼻を膨らませて、自慢げに彼女が言う。
「食器はあるのに、リュウジの服がお家に無いのは、かわいそうだよ」
 サーシャなりに、いろいろ考えているらしい。
「そうだな」
 二人の言葉を聞いていたハルシャは、やっと言葉をかける。
「服を買うのは良いことだな。作業の安全性のこともある」

 その一言で、サーシャは笑い、リュウジは申し訳なさそうに眉を寄せる。
「ですが――」
「サーシャの気持ちを受け取ってあげてくれ」
 ハルシャは、優しくリュウジに笑みを向ける。
「誰かの世話をするのが、嬉しくて仕方がないんだ」
 それなら、と、リュウジも折れてくれた。
 おそらく。
 サーシャなりに、ぬいぐるみ生物と棚の礼をリュウジにしたいのだろう。
 ハルシャは気付いたが、それは言葉にしなかった。

「でも、夜だと路上市場はやっていないね」
 サーシャがぽつんと呟く。
 日が落ちると、オキュラ地域はぐっと危険度が上がるので、路上に出している店を皆は畳んでしまう。
「少し足を延ばして、ロンダルまで行ってみるか?」

 ロンダルは、オキュラ地域のはずれにある場所で、比較的治安がいいので、店は路上ではなく、きちんとした建物の中にある。
 そこでは、遅くまで店を営んでいた。
「そうだね。ロンダルなら、古着屋さんが遅くまでやっているね」
 サーシャの顔が明るくなる。
 今日の彼女のアルバイト先は、メリーウェザ医師のところだった。
 リュウジの手の消毒もあるので、帰りにメリーウェザ医師の医療院で合流し、一緒に買い物に行くことに決める。
 なるべく早く、仕事を終えると彼女に約束をする。
 もう、それだけでサーシャは、うきうきとしていた。
 勉強に手がつかなくては困る、と、ハルシャは浮足立たずに、きちんと日課に励むこと、と、一応サーシャに釘を刺しておいた。
 はいっ、と真面目な顔でサーシャが応える。
 
 食事を終え、サーシャが二人を送り出してくれる。
 昨夜のことなど夢だったように、穏やかに一日が始まろうとしていた。
「服まで気にして頂いて、申し訳ありません」
 リュウジが、バスまで歩く道中に、横で小さく呟く。
「この先のことを考えたら、服があったほうがいい」
 ハルシャは、前を向いたまま、言葉をかける。
 一瞬の間の後、
「はい、ハルシャ」 
 と、温かな言葉が、返ってきた。
 この先――
 ずっと三人で暮らしていくのなら。
 短い沈黙の後、リュウジが静かに言った。
「今日は体調がとても良いです。お仕事を、頑張りましょうね、ハルシャ」


 *


 リュウジの取った策が功を奏したのか、何のトラブルもなく駆動機関部の外枠が削りあがっていた。
 ただ。
 リュウジが触らないでください、と書いてあった紙がわずかに動いていたらしい。彼は何かのトラップを仕掛けていて、動かされた形跡がある、と小さくハルシャに告げる。
 あらゆる状況を想定して、リュウジは手を打っていた。
 その用意周到さに、ハルシャは改めて彼の凄さを思い知る。
 削りあがった部品を作業場へ動かし、その日は一日内部の部品の製造を続ける。
 誰かと協力できることは、本当にありがたいと、ハルシャは作業を行いながら痛感した。
 昨日――あれほどの熱を帯びながらも、リュウジが懸命に自分のことを心配してくれていた理由を、噛み締める。
 設計者と一緒に作業をすることほど、効率が良いことはない。
 なぜ、ここにこの部品が必要なのか、ハルシャが疑問を抱くと、すぐさまリュウジが明確な答えを与えてくれる。
 これほどありがたいことはなかった。
 
 作業に没頭して、一日が過ぎた。
 リュウジは食堂へと足を運ぼうともせず、その場でサーシャが持たせてくれた弁当を一緒に食べる。その後も、黙々と二人で部品製造を続ける。
 
 定時少し前に、シヴォルト工場長が、二人の元へとやって来た。
「順調そうだな、ハルシャ」
 彼は、ゆったりとした歩容で近づき、少し距離をとって止まる。
「明日で、この工場を移る」
 彼は、短く、ハルシャに言葉をかける。
 ハルシャは、立ち上がって、彼に礼を尽くした。
「長い間、お世話になった。シヴォルト工場長。異動先での清祥を祈念している」
 礼は礼だと、ヴィンドース家のものは教えられている。
 ハルシャの言葉に、ふっと、彼は笑った。
「立派な技術者になったもんだ。あの少年がな」
 どんよりとした目で、ハルシャを見つめてから、シヴォルトが呟く。
「世間知らずの、お坊ちゃんが、な」
 言い方にむかつくが、ハルシャは表情に出さなかった。
 すっと、シヴォルトは、右手をハルシャの前に差し出した。
「お別れだ、ハルシャ。いい部品を作れよ」
 この手を、握れということらしい。
 別れ際の挨拶だ。
 仕方がない。
 ハルシャは、彼の手を取った。
 ぎゅっと、湿った手の平が、ハルシャの手を握り締める。
 握っている親指が、するりと動いて、手の甲を撫でる。
 するすると、執拗にハルシャの手触りを確かめるように、親指が動く。
 生気のない目が、自分を見つめている。
 不意に、ハルシャの内側に、不快感が巻き起こった。
「お世話になりました、シヴォルト工場長」
 唐突に、横からリュウジが入ってきて、怪我をした右手をシヴォルトに差し出す。
「短い間ですが、本当にありがとうございます」
 ハルシャからむしり取るようにして、リュウジはシヴォルトの手を取り、握手を強引に交わした。
「次のお仕事場でも、素晴らしい采配を振るわれると、僕は信じて疑いません」
「あ、ああ」
 リュウジに押し切られるようにして、彼は握手をしている。
 今。
 リュウジが自分から、シヴォルトを引き離してくれたのか?
 ハルシャは、握った手をぶんぶんと上下に振って、シヴォルトを翻弄するリュウジの様子を見つめる。
「お元気で、シヴォルト工場長。これで僕たちは仕事が一段落したので、定時に帰ります。本当に、ありがとうございました」
 ぎゅうっと、リュウジはまだ、手を握りしめている。
 ハルシャに触れさせないと、言わんばかりに。
「ああ、ああ――」
 勢いに飲まれたまま、シヴォルト工場長はリュウジの手を離した。
 何かを言いたそうだったが、言葉を切ると静かに踵を返した。
 もう。
 彼と会うことはないのかもしれない。
 背を見送ってから、リュウジが眉をひそめる。
「さっさと帰りましょう。これ以上ここに居ると、また彼が来るかもしれません」
 テキパキと帰り支度を始める。
 ハルシャは知っていた。
 リュウジは意外と、気が短かった。


 *


「お帰りなさい! お兄ちゃん!」
 ぼふっと、ぶつかる様にしてサーシャが飛びついてくる。
「今日も一日、無事に過ごせたか?」
 金色の髪を撫でながら、ハルシャは問いかける。
「うん」
 ぎゅっと胴を抱きしめたまま、サーシャが顔を上げる。
「今日はね、アルフォンソ二世のことで作文を書いたら、校長先生が褒めて下さったよ」
「そうか」
 頬を赤らめるサーシャを、ハルシャは目を細めて見つめた。
「ジェイ・ゼルさんが、また話を聞きたいと言っていた。今度会った時に、話すといい」
「うん、お兄ちゃん」
 青い瞳が、自分を真っ直ぐに見上げている。
「それとね、メリーウェザ先生が、ロンダルに服を買いに行くと言ったら、アルバイト代を繰り上げて渡して下さったの」
 ハルシャは、その言葉に眉を上げる。
「それだけでなくてね、リュウジに自分から一着服を進呈するからって、多めに頂戴したの」
 どうしよう、と、サーシャが尋ねる眼差しになっている。
 隣で聞いていたリュウジが
「そうですか。僕からドルディスタにお礼を申し上げておきます」
 と、さらりと言った。
 ハルシャが目を向けると、彼は優しく微笑んでいた。
「ありがたいお志ですね。感謝と共に、お受けいたしましょう」
 サーシャが、ハルシャを見上げてくる。
 いいの? お兄ちゃんと、眼差しが問いかける。
 リュウジが腰をかがめると、サーシャの目をのぞき込む。
「この感謝は、別の形でドルディスタにお返しすればいいのですよ、サーシャ。せっかくのお心を、お断りしたら、かえってご無礼になります」
 そうなの?
 と、サーシャがまた、眼差しで問う。
「良かったな、サーシャ」
 ハルシャの言葉で、サーシャは笑顔になった。
「ドルディスタは、まだ医療室ですか?」
 言いながら、リュウジが立ちあがる。
「うん。リュウジを待っていたよ。手を消毒しないといけないって」
「お待たせしてはいけませんね。参りましょう」
 サーシャとリュウジが並んで歩いていく。
 二人はまるで、兄と妹のように仲良く会話を交わしていた。
 ハルシャもゆっくりと後を追う。

 ふと。
 沈黙する通話装置に、目が向かう。
 一日経った。
 あと。
 二日、ジェイ・ゼルに逢えない。
 
 今朝方の夢が、記憶に蘇る。
 夢にジェイ・ゼルを見ることは、ほとんどなかった。あっても、酷薄そうな笑みを浮かべて、自分を弄んでいる姿だけだった。
 あんなに――切実に名を呼び、求めたことなどなかった。
 温もりの中で、安らいだ記憶だけが今も残っている。
 首を振ると、ハルシャは暗い廊下から、明るいメリーウェザ医師の医療室へと歩を進めた。











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