――ジェイ・ゼル。
ハルシャは、闇の中に、彼を求めて名を呼んでいた。
独りだった。
ジェイ・ゼルを――
探しているのに、見つからない。
指先が溶け込むような闇の中で、懸命にもがき続ける。
――どこにも行かないと、約束してくれたのではないのか!
ハルシャは闇に、叫んでいた。
彼は約束をしてくれたのに。
それでも。
ジェイ・ゼルは、自分の都合で約束を破る。
いつも、いつも。
足らない言葉を信じたハルシャを、軽やかに欺きながら、微笑みを浮かべて見つめてくる。
信じているのに。
信じていたいのに。
どうして――
信じさせてくれないんだ。
探し続けて疲れ果て、ハルシャは途方に暮れたように立ち尽くしていた。
――どこにも、行かないよ。ハルシャ。
優しい声が聞こえた。
――ジェイ・ゼル!
ハルシャは叫びながら、声の方に一心に駆けていく。
闇の向こうに、佇むジェイ・ゼルの姿があった。
走りながらハルシャは、懸命に彼に両腕を差し伸べた。
気付いた彼が振り向き、笑顔でハルシャを抱きとめようと、腕を開く。
そこを目指して、ハルシャは身を躍らすようにして駆け込んだ。
温もりが、自分を抱きしめてくれる。
――ジェイ・ゼル。
強い力に身を包まれて、安堵が内側に広がる。
温かい。
――置いて行かないでくれ。独りにしないでくれ、ジェイ・ゼル。
触れ合った場所から声が響く。
――独りにしないよ、ハルシャ。ずっと一緒に居よう。
かけられた言葉に、全身が安らぎに包まれ、ハルシャは身の力を抜いた。
小さく彼の名を呼ぶと、頭が撫でられた。
ほっと、心がほぐれ、そのまま温もりに身を委ねる。
子どものように、彼の温かさに、甘え続けた。
*
朝の気配に、ハルシャは、ゆっくりと目を開いた。
恒星ラーガンナの光が、斜めに差し込んでいる。
朝だ。
起きなくてはならない。
一日が、また、始まる。
目の前に、何かがあった。
とても、近いところに。
爽やかな光に照らされながら、目に映っているものが理解出来ずに、しばらくぼんやりとハルシャは眺めていた。
ようやく、理解する。
リュウジだった。
彼は眠っている。
黒い睫毛がぴちりと閉じて、静かな寝息が彼の口から漏れている。
それにしても――
リュウジの顔が、ひどく近い。
ほんの鼻先に、彼の穏やかな寝顔がある。
瞬きを数度する。
ふと、横を向く自分の脇腹に、彼の手が乗っていることに気付く。
そして、自分が枕にして寝ていたのは――リュウジの腕だった。
はっと、意識が覚醒する。
自分はどうやら、リュウジの腕に包まれて眠っていたようだ。
一体これは、どういう状況だ?
戸惑いが、ハルシャの中に渦巻いた。
昨夜、ハルシャとサーシャの間に、彼を招き入れたのは覚えている。
顔が近いのは狭い空間に身を寄せ合っているからだ。
そこまでは、理解できる。
だが。
どうして自分は、リュウジの腕の中に居るのだろう。
「リュウジ」
混乱したまま、ハルシャは、ためらいがちに声をかけてみた。
ぴくっと、睫毛が震えて、彼がゆっくりと目を開いた。
深みのある藍色の瞳が、瞼の向こうに姿を現わす。
恐ろしく真剣な表情でハルシャを見つめた後、弛緩するように彼は笑みを浮かべた。
「おはようございます、ハルシャ」
「ああ、おはよう、リュウジ」
いや。
のんきに挨拶をしている場合ではない。
「すまない、リュウジ」
身を動かすことが出来ずに、ハルシャは彼に言葉をかける。
それにしても、顔が近い。
「君の腕を、勝手に枕にしていたようだ」
ああ、と気付いて、リュウジの腕の力が緩んだ。
「すいません、ハルシャ。なんだか不安になったのか、側へ近寄ってしまいました。寝苦しかったですか?」
そうか。
不安だったのか。
その一言で、ハルシャは全てを許した。
「いや、別に構わない」
それよりも。
「腕を枕にしてしまってすまない。痺れていないか?」
サーシャをよく腕に包んで眠った時に、彼女の頭の重さに腕がいつも痺れていたのを、ハルシャは思い出していた。
にこっと、リュウジが笑う。
「大丈夫ですよ、ハルシャ」
それにしても。
顔が近い。
「ハルシャのお陰で、僕はぐっすり眠れました」
微笑んだまま、リュウジが言う。
「それは良かった」
ハルシャは言いながら、リュウジの腕が乗っている体を起こした。
するりと、リュウジの腕が身を滑り落ちる。
ぴきっと、身体が強張った。
両足が、ひどい筋肉痛になっている。
どうしてこうなったかの記憶が瞬時に蘇り、ハルシャはリュウジから顔をそむけるようにして、起き上がった。
どうしようもなく、顔が赤らむ。
足がぎしぎしと、きしんで動きがぎこちなくなってしまう。
それでも無理矢理に立ち上がり、ハルシャは布団を踏んで回って、サーシャを起こした。
「朝だ、サーシャ。起きてくれ」
んーと、妹が目を開き、ぱちぱちと瞬きをする。
「おはよう、サーシャ」
「おはよう、お兄ちゃん」
腕を伸ばして、ハルシャをぎゅっと抱きしめてくる。
そこから、彼女は元気よく起き上がった。
まだ布団に居たリュウジをみると、
「朝だよ、リュウジ! 早く起きて支度しないと。バスに乗り遅れるよ」
と、明るい声で言う。
「はい、サーシャ。すぐ起きますね」
笑いながら、彼は身を起こす。
何事もなかったように、一日が始まる。
その幸せを、ふと、ハルシャは思った。
「リュウジの服を、買う必要があると思うの」
朝の食卓を一緒に囲みながら、サーシャがきちんと食器を置いて、ハルシャを見て言う。
「お兄ちゃんのは、リュウジには大きすぎるから、作業の時に危険だと思う」
ちらっと、今も着ているリュウジの様子に目を向ける。
「服が余っていると、機械にはさまったりするから、危ないって以前に、お兄ちゃんが言っていたから」
と、眉を寄せてサーシャが言う。
たしかに。
体格が違うので、自分の服ではリュウジには大きい。ウエストなどが余って、とりあえずベルトで締めている状態だ。
「サーシャのアルバイト代で、リュウジに服を買ってあげるよ」
大乗り気でサーシャが言っている。
「服一着ぶんぐらいは、あると思う」
「ですが、サーシャ。それはあなたが働いた、大切なお金でしょう」
リュウジが、申し訳なさそうにサーシャに言葉をかけている。
「僕のより、サーシャの物を買って下さい。あなたは女の子なのですから」
「サーシャは、メリーウェザ先生から、素敵な服を頂いたから、大丈夫」
鼻を膨らませて、自慢げに彼女が言う。
「食器はあるのに、リュウジの服がお家に無いのは、かわいそうだよ」
サーシャなりに、いろいろ考えているらしい。
「そうだな」
二人の言葉を聞いていたハルシャは、やっと言葉をかける。
「服を買うのは良いことだな。作業の安全性のこともある」
その一言で、サーシャは笑い、リュウジは申し訳なさそうに眉を寄せる。
「ですが――」
「サーシャの気持ちを受け取ってあげてくれ」
ハルシャは、優しくリュウジに笑みを向ける。
「誰かの世話をするのが、嬉しくて仕方がないんだ」
それなら、と、リュウジも折れてくれた。
おそらく。
サーシャなりに、ぬいぐるみ生物と棚の礼をリュウジにしたいのだろう。
ハルシャは気付いたが、それは言葉にしなかった。
「でも、夜だと路上市場はやっていないね」
サーシャがぽつんと呟く。
日が落ちると、オキュラ地域はぐっと危険度が上がるので、路上に出している店を皆は畳んでしまう。
「少し足を延ばして、ロンダルまで行ってみるか?」
ロンダルは、オキュラ地域のはずれにある場所で、比較的治安がいいので、店は路上ではなく、きちんとした建物の中にある。
そこでは、遅くまで店を営んでいた。
「そうだね。ロンダルなら、古着屋さんが遅くまでやっているね」
サーシャの顔が明るくなる。
今日の彼女のアルバイト先は、メリーウェザ医師のところだった。
リュウジの手の消毒もあるので、帰りにメリーウェザ医師の医療院で合流し、一緒に買い物に行くことに決める。
なるべく早く、仕事を終えると彼女に約束をする。
もう、それだけでサーシャは、うきうきとしていた。
勉強に手がつかなくては困る、と、ハルシャは浮足立たずに、きちんと日課に励むこと、と、一応サーシャに釘を刺しておいた。
はいっ、と真面目な顔でサーシャが応える。
食事を終え、サーシャが二人を送り出してくれる。
昨夜のことなど夢だったように、穏やかに一日が始まろうとしていた。
「服まで気にして頂いて、申し訳ありません」
リュウジが、バスまで歩く道中に、横で小さく呟く。
「この先のことを考えたら、服があったほうがいい」
ハルシャは、前を向いたまま、言葉をかける。
一瞬の間の後、
「はい、ハルシャ」
と、温かな言葉が、返ってきた。
この先――
ずっと三人で暮らしていくのなら。
短い沈黙の後、リュウジが静かに言った。
「今日は体調がとても良いです。お仕事を、頑張りましょうね、ハルシャ」
*
リュウジの取った策が功を奏したのか、何のトラブルもなく駆動機関部の外枠が削りあがっていた。
ただ。
リュウジが触らないでください、と書いてあった紙がわずかに動いていたらしい。彼は何かのトラップを仕掛けていて、動かされた形跡がある、と小さくハルシャに告げる。
あらゆる状況を想定して、リュウジは手を打っていた。
その用意周到さに、ハルシャは改めて彼の凄さを思い知る。
削りあがった部品を作業場へ動かし、その日は一日内部の部品の製造を続ける。
誰かと協力できることは、本当にありがたいと、ハルシャは作業を行いながら痛感した。
昨日――あれほどの熱を帯びながらも、リュウジが懸命に自分のことを心配してくれていた理由を、噛み締める。
設計者と一緒に作業をすることほど、効率が良いことはない。
なぜ、ここにこの部品が必要なのか、ハルシャが疑問を抱くと、すぐさまリュウジが明確な答えを与えてくれる。
これほどありがたいことはなかった。
作業に没頭して、一日が過ぎた。
リュウジは食堂へと足を運ぼうともせず、その場でサーシャが持たせてくれた弁当を一緒に食べる。その後も、黙々と二人で部品製造を続ける。
定時少し前に、シヴォルト工場長が、二人の元へとやって来た。
「順調そうだな、ハルシャ」
彼は、ゆったりとした歩容で近づき、少し距離をとって止まる。
「明日で、この工場を移る」
彼は、短く、ハルシャに言葉をかける。
ハルシャは、立ち上がって、彼に礼を尽くした。
「長い間、お世話になった。シヴォルト工場長。異動先での清祥を祈念している」
礼は礼だと、ヴィンドース家のものは教えられている。
ハルシャの言葉に、ふっと、彼は笑った。
「立派な技術者になったもんだ。あの少年がな」
どんよりとした目で、ハルシャを見つめてから、シヴォルトが呟く。
「世間知らずの、お坊ちゃんが、な」
言い方にむかつくが、ハルシャは表情に出さなかった。
すっと、シヴォルトは、右手をハルシャの前に差し出した。
「お別れだ、ハルシャ。いい部品を作れよ」
この手を、握れということらしい。
別れ際の挨拶だ。
仕方がない。
ハルシャは、彼の手を取った。
ぎゅっと、湿った手の平が、ハルシャの手を握り締める。
握っている親指が、するりと動いて、手の甲を撫でる。
するすると、執拗にハルシャの手触りを確かめるように、親指が動く。
生気のない目が、自分を見つめている。
不意に、ハルシャの内側に、不快感が巻き起こった。
「お世話になりました、シヴォルト工場長」
唐突に、横からリュウジが入ってきて、怪我をした右手をシヴォルトに差し出す。
「短い間ですが、本当にありがとうございます」
ハルシャからむしり取るようにして、リュウジはシヴォルトの手を取り、握手を強引に交わした。
「次のお仕事場でも、素晴らしい采配を振るわれると、僕は信じて疑いません」
「あ、ああ」
リュウジに押し切られるようにして、彼は握手をしている。
今。
リュウジが自分から、シヴォルトを引き離してくれたのか?
ハルシャは、握った手をぶんぶんと上下に振って、シヴォルトを翻弄するリュウジの様子を見つめる。
「お元気で、シヴォルト工場長。これで僕たちは仕事が一段落したので、定時に帰ります。本当に、ありがとうございました」
ぎゅうっと、リュウジはまだ、手を握りしめている。
ハルシャに触れさせないと、言わんばかりに。
「ああ、ああ――」
勢いに飲まれたまま、シヴォルト工場長はリュウジの手を離した。
何かを言いたそうだったが、言葉を切ると静かに踵を返した。
もう。
彼と会うことはないのかもしれない。
背を見送ってから、リュウジが眉をひそめる。
「さっさと帰りましょう。これ以上ここに居ると、また彼が来るかもしれません」
テキパキと帰り支度を始める。
ハルシャは知っていた。
リュウジは意外と、気が短かった。
*
「お帰りなさい! お兄ちゃん!」
ぼふっと、ぶつかる様にしてサーシャが飛びついてくる。
「今日も一日、無事に過ごせたか?」
金色の髪を撫でながら、ハルシャは問いかける。
「うん」
ぎゅっと胴を抱きしめたまま、サーシャが顔を上げる。
「今日はね、アルフォンソ二世のことで作文を書いたら、校長先生が褒めて下さったよ」
「そうか」
頬を赤らめるサーシャを、ハルシャは目を細めて見つめた。
「ジェイ・ゼルさんが、また話を聞きたいと言っていた。今度会った時に、話すといい」
「うん、お兄ちゃん」
青い瞳が、自分を真っ直ぐに見上げている。
「それとね、メリーウェザ先生が、ロンダルに服を買いに行くと言ったら、アルバイト代を繰り上げて渡して下さったの」
ハルシャは、その言葉に眉を上げる。
「それだけでなくてね、リュウジに自分から一着服を進呈するからって、多めに頂戴したの」
どうしよう、と、サーシャが尋ねる眼差しになっている。
隣で聞いていたリュウジが
「そうですか。僕からドルディスタにお礼を申し上げておきます」
と、さらりと言った。
ハルシャが目を向けると、彼は優しく微笑んでいた。
「ありがたいお志ですね。感謝と共に、お受けいたしましょう」
サーシャが、ハルシャを見上げてくる。
いいの? お兄ちゃんと、眼差しが問いかける。
リュウジが腰をかがめると、サーシャの目をのぞき込む。
「この感謝は、別の形でドルディスタにお返しすればいいのですよ、サーシャ。せっかくのお心を、お断りしたら、かえってご無礼になります」
そうなの?
と、サーシャがまた、眼差しで問う。
「良かったな、サーシャ」
ハルシャの言葉で、サーシャは笑顔になった。
「ドルディスタは、まだ医療室ですか?」
言いながら、リュウジが立ちあがる。
「うん。リュウジを待っていたよ。手を消毒しないといけないって」
「お待たせしてはいけませんね。参りましょう」
サーシャとリュウジが並んで歩いていく。
二人はまるで、兄と妹のように仲良く会話を交わしていた。
ハルシャもゆっくりと後を追う。
ふと。
沈黙する通話装置に、目が向かう。
一日経った。
あと。
二日、ジェイ・ゼルに逢えない。
今朝方の夢が、記憶に蘇る。
夢にジェイ・ゼルを見ることは、ほとんどなかった。あっても、酷薄そうな笑みを浮かべて、自分を弄んでいる姿だけだった。
あんなに――切実に名を呼び、求めたことなどなかった。
温もりの中で、安らいだ記憶だけが今も残っている。
首を振ると、ハルシャは暗い廊下から、明るいメリーウェザ医師の医療室へと歩を進めた。