ほしのくさり

第82話  蘇る悪夢 







 必死に告げた自分の醜い現実。
 言葉をかける代わりに、リュウジの温かな手がハルシャの震える手の甲に重ねられた。
 触れられた瞬間、ぴくっと身がわななく。
 ハルシャは、膝の上に置かれた彼の白い手だけを見つめた。
 ぎゅっと、リュウジが上から手を握り締める。

「軽蔑など、しません。ハルシャ」
 その力強い言葉に、ハルシャはゆっくりと顔を上げた。
 必死にハルシャに手を伸ばしながら、リュウジは自分を見つめていた。
 宇宙を宿したような、深い色の瞳から、不意に涙があふれた。
「言い難いことを、教えて下さって、ありがとうございます」

 横たえていた身を起こして、リュウジはハルシャに向き合った。
 彼の目から、涙がこぼれおちる。
 きれいだ。
 ハルシャは、ふと思った。
 透明で、澄み切った、清らかな涙。
 真っ直ぐに、頬を滑り落ちて行く。

 手の平でハルシャの手を包んだまま、彼は呟いた。
「あなたは、サーシャを身をもって守ってきたのですね」
 はらはらと、涙がこぼれ落ちる。
「身を売るのなら、サーシャの方が先に対象になるでしょう。ですが、あなたは、自分自身を盾にして彼女をかばったのですね。傷つくことを、恐れずに」
 リュウジの手が、膝を離れた。
 彼は両腕にハルシャを包むと、自分に引き寄せた。
「あなたは、立派です。本当に勇気のある優しい人です」
 触れ合った場所に、声が響く。
「僕は、あなたを誇りに思います」

 かすかに、リュウジの身が、震えていた。
 その震えを止めたくて、丸椅子から腰を浮かせると、ベッドの端に席を占めて、身を捩るようにしながらその身を腕に包んだ。

 告げた自分の真実を、彼は懸命に受け入れようとしてくれている。
 ふっと、心のどこかが、楽になるのを覚えた。
 弱さをみせるのは強さだと、メリーウェザ医師は言った。
 そして。
 自分が必死に伝えた弱さを、相手が受け入れてくれた時――これほどまでに、安らぐのだとハルシャは初めて知った。

「ありがとう、リュウジ」
 ハルシャは、静かに、彼の髪に呟いた。

 身を寄せ合ったままの長い沈黙の後、ぽつりとリュウジが呟いた。
「さきほど、恐い夢をみました」
 小さい声が、ハルシャの耳に響いた。
「無理やりに、複数の男性に強姦される夢です」

 ハルシャは、身が強張らないように意識して身の力を抜き、彼の言葉を受け入れる。
「もがいても、もがいても――強い力で封じられ、どんな懇願も無視されて、身を引き裂かれました」
 再び、彼は沈黙した。
「夢だと、思おうとしました――」
 ぎゅっと、リュウジの力が、強くなった。
「ですが」
 押し当てた場所から、彼の静かな言葉が、響く。
「それは、夢ではないのでしょう、ハルシャ」

 ハルシャは、静かに、目を細めた。

 顔を上げずに、リュウジが呟く。
「きっと助けて下さったとき、ハルシャは僕の状態から全てを推察されていたのでしょうね」

 ハルシャは、腕の力を強めた。
「出来れば、思い出さなければいいと思っていた」
 呟きに、すぐにリュウジは反応しなかった。
 しばらくしてから、ぽつんと、言葉が滴る。
「その恐怖を忘れたくて、僕は自分自身の記憶を手離してしまったのかもしれません」
 もしかしたら、過去の記憶が、リュウジによみがえってきたのだろうか。
 考えるハルシャの耳に
「その時の恐怖だけしか、今はまだ、思い出せません」
 と、リュウジの声が聞こえる。
「僕は――」
 そのハルシャの耳に、苦しげなリュウジの声が聞こえる。
「この身を男たちに、自由に弄ばれたのですね」

「リュウジ」
 思い出して欲しくない、記憶だった。
 けれど、彼の中に蘇ってきてしまった。

 過去は変えられない。
 生きるためには、辛くて苦しい記憶と向き合っていくしかない。
 それを覚悟して、ハルシャは彼を助けようと心に決めたのだ。

 蘇った記憶に、小刻みに震えるリュウジの身を抱きしめて、ハルシャは静かに話し始めた。
「最初に路上に倒れる君を見つけた時、暴行を受けているのは自明だった。私も初めて男に抱かれた時、相当に身を傷つけられた。
 君がどんな状態なのか、一目で理解した」

 腕に包んだまま、ハルシャは、静かに言葉を続ける。

「一瞬、ここにこのまま君を放置しておいてあげるのが、親切かもしれないと考えた。
 意識を取り戻した君が、自分の身に与えられた暴行の記憶に耐えられるのかどうかわからなかったからだ。
 オキュラ地域では、弱った者の命を奪うのが日常だ。弱者はすぐに暴力のはけ口となる。見て見ぬふりをしてこのまま通り過ぎたら、君はすぐに命を奪われるだろう。
 けれど――」
 リュウジの頭を自分に引き寄せて、手の平で包みながら、ハルシャは言葉を紡ぐ。
「私は、君に生きていて欲しかった。旅行者の君が、家族の元へも帰ることが出来ずに不幸な死を遂げて欲しくなかった。
 私の愛する故郷で――君が、命を失うのが辛かったんだ。
 意識を取り戻したとき、君を全力で助けようと覚悟を決めて、私はメリーウェザ先生のところへ君を運んだ」
 ふと、言葉を途切れさせる。
「ひどく、傲慢な物言いですまない。君の命は君のものであるのに、勝手な私の考えでどうこうしようなど間違っている」
 リュウジは静かに首を振った。
「ハルシャが助けた僕に対して、責任を負ってくれているのは感じていました。だから、あなたの家に僕を招き入れてくれたのですね」
「記憶が戻らない不安を、少しでも和らげて上げたかった」
 ぎゅっと、リュウジがハルシャを抱きしめる手に力を籠める。
「このオキュラ地域で、助けてくれたのがあなたで良かった」
 
 胸が痛んだ。
「リュウジ。どんなことがあっても、君は君だ。リュウジが私を軽蔑しないと言ってくれたように、どんなリュウジでも私は受け入れる。
 今、私が目にしている君が、私の大切なリュウジの全存在だ。
 与えられた不当な暴力のせいで身を恥じないでくれ」
 ぎゅっと、ハルシャは彼の身体を抱きしめた。
「君は被害者だ。何も身を責めることはない」

 借金のかただとわかっていた行為であっても、自分は深く傷ついた。
 力づくで身を蹂躙される恐怖と屈辱は、全人格の否定に等しい。
 それを、リュウジは複数の人間から受けてしまった。
 怒りが、腹の底から湧き上がる。
 彼を不当に扱った者たちに対して、ハルシャは激しい憎しみを抱いた。

「リュウジは悪くない。何一つ」
 呟きを、彼の髪にこぼす。
 震える体を、ハルシャは黙って腕に包み続けた。
 



 リュウジはほどなく落ち着きを取り戻し、短い会話の後、メリーウェザ医師に断りを言って二人で自宅へ戻ることにする。
 別れ際、医師はリュウジに手の傷の痛みが出た時用の鎮痛剤を渡し、明日、消毒に来るようにと約束をさせていた。
 
 夜明けに近いオキュラ地域を、二人で並んで家路を急ぐ。
 ハルシャはつい、路上の人影に警戒の視線を向ける。
 彼の記憶が蘇るなら、と倒れていた場所に連れて行こうかと思っていたが、考えを改める必要がありそうだ。

 自宅からメリーウェザ医師の医療院は、歩いて十分ほどの距離だった。
 
 戻った部屋の中では、サーシャが屈託なく眠り続けていた。
 ぎゅっとぬいぐるみ生物を抱きしめて、あどけない寝顔で横たわっている。
 どうやら、一度も起きていないようだ。
 明日もあるので、それぞれの布団に横たわりとりあえず眠ることにする。
 だが。
 横になるリュウジの様子が、おかしかった。
 彼は布団の中で、身を丸めている。その体が小刻みに震えていた。
 ハルシャは、視線を向けた。
 蘇って来た記憶が彼を蝕んでいるのかもしれない。

「眠れないのか、リュウジ」
 小さくかけた言葉に、びくっと、彼は身を引きつらせた。
「だ、大丈夫です。ハルシャ」
 声に、恐怖がにじんでいる。
 処理しきれないものが、彼の中で、渦巻いているようだ。
「リュウジ」
 ハルシャは、彼にそっとよびかけた。
「私とサーシャの間に、来るか?」
 リュウジが顔を上げて、自分を見た。
 一人で、彼を震えさせておくのが、辛かった。
 ハルシャは言葉を示すように、身を動かして、自分とサーシャの間の空間を開けた。
「狭いが、もしよかったら今日はここで寝たらいい。誰かが近くにいた方が落ち着くだろう」
 
 リュウジの背中が、両親を失って震えていた幼い頃のサーシャと重なる。
 どうしても、見逃すことが出来なかった。
 
 しばらく沈黙した後
「良いのですか、ハルシャ。寝にくくないですか?」
 と、嬉しげにリュウジが問いかける。
 悪夢のような体験のせいで、もしかしたら身体的接触が嫌かもしれないと思ったが、そうでもないらしい。
 彼の喜びがにじむ言葉に、ハルシャは薄闇の中で微笑んだ。

「大丈夫だ。それで落ち着くなら、ここへ来るといい」
 ためらってから、彼は枕と布団を手にハルシャとサーシャの間に移動してきた。
「すみません」
 と、顔を赤らめ、詫びを呟きながら、二人の間に身を横たえる。

 狭い空間に三人並んでいると、窮屈だが温かだった。
「申し訳ないです、サーシャ」
 と、寝ている妹にも、彼は詫びをこぼす。
「気にせずにさっさと寝るといい。夜明けまで間がない。少しでも身を休めていた方が良い」
「はい、ハルシャ」
 素直にそいう言うと、彼はもそもそと布団を身にかけて横になり、に頭を預けた。
「今日は、ありがとうございました、ハルシャ」
 こちらを見たまま、リュウジが呟く。
「こちらこそ、いろいろ私のことを考えてくれて、ありがとう」
 ハルシャは天井へ目を向ける。
「リュウジが居てくれて、私は本当に助かっている」
 彼は何かを言いかけたが、黙り込んだ。

 しばらく沈黙した後
「自由に――なりたくは、ないですか。ハルシャ」
 と、小さく呟いた。
 自由、というのが、借金を清算する意味だと、ハルシャは理解する。
「いつかは、自由になるさ」
 天井の荒い造りを見上げながら、呟く。
「この状態は、永遠には続かない。いつか私は借金を全額、ジェイ・ゼルに払い終えることが出来る」
 そう、希望を口にしてみる。
「いつかは、終わる」

 リュウジは沈黙していた。
「辛く、ないのですか」
 ふと、彼は問いかけた。
 ハルシャは、視線をリュウジに向けた。
 かつて。
 彼は同じ言葉をハルシャに呟いた。
 生活が苦しくはないのかと、訊かれているのだと、自分は解釈して返事を戻した。
 だが。
 彼は違うことを、本当は尋ねていたのだ。

 借金のために、ジェイ・ゼルに抱かれていることは辛くないのですか。

 深い藍色の瞳が、自分を見つめている。
 ハルシャは、答えられなかった。
 男に無理やりに体を開かされた悪夢が彼を蝕んでいる。
 その中で、ジェイ・ゼルに抱かれる自分を心配してくれているのだと、ハルシャは感じ取る。
 長く迷った末、ハルシャはやっと口を開いた。

「この関係は、私が借金を払い終えるまで、続く」
 どこか、感情が遊離したような言葉をリュウジに呟く。
「そのことについて、あまり考えないようにしている」

 違う。
 考え続けている。
 だが。
 そう答えるしかなかった。

 リュウジは苦しげに、眉を寄せた。
「言いづらいことを、言わせて申し訳ありません」
 そのまま、彼は目を閉じた。
「おやすみなさい、ハルシャ」

 ぎゅっと布団を身に巻き付けて、彼は横向けのまま眠りに入る。
 ハルシャも天井に目を戻す。
 布団の中で、手を動かして、ジェイ・ゼルが渡してくれた通話装置に触れる。

 彼の声が聞きたかった。
 ハルシャが赤面することを平気でさせながら、楽しむように微笑む彼の顔が見たかった。
 大丈夫だよ、と。
 深く優しい声で呟いてほしかった。
 自分の迷いを、身の熱でなだめてほしかった。
 命そのもののような熱い口づけで、全てを忘れさせてほしかった。
 唇を噛み締めると、ハルシャは目を閉じた。
 そうすると、泥のような疲労が身を覆う。
 心を千々に乱しながらも、ハルシャはいつしか眠りに入っていた。


 *

 
 薄闇の中に、ハルシャとサーシャの柔らかな寝息だけが響く。
 リュウジは目を閉じ続けていた。
 二人の熱に守られる狭い空間が、思いのほか、リュウジに安らぎを与えてくれる。
 安寧の中で、しばらく、兄と妹の息遣いに耳を澄ます。
 長い沈黙の後、彼は動いた。
 そっと舌で、歯に埋め込んだ通話装置を入れる。

竜司リュウジ様!』
 すぐさま、吉野の声が骨を介して響く。
『お具合はいかがですか』
「君が危惧していたように、高熱を発してしまった。だが、安心してくれ。ドルディスタ・メリーウェザのメドック・システムの優秀さに救われた。
 手の縫合も受けた。心配をかけたな、吉野ヨシノ。僕はもう大丈夫だよ」
 ほっと、吐息が聞こえた。
「今日、ハルシャから具体的なことをきいたが、やはり、ジェイ・ゼルの借金には裏があるようだ。引き続き調査をしてくれ」
『はい竜司リュウジ様』
 凛とした声が、答える。
「ディー・マイルズ警部と連絡はついたか」
『はい。間もなく帝星を出発されるそうです』
「だとすれば、少なくとも、到着は明後日か」
『はい。時空航法を使う宇宙船でお招きしています。二日後には惑星トルディアにお見えになるかと』
「わかった。ありがとう、吉野ヨシノ。彼が来たら教えてくれ。チャンネルをオープンにしておく」
『ありがとうございます、竜司リュウジ様』
 何よりも、それが嬉しいように、彼は丁寧に言葉を呟く。
「また、連絡する」
 それだけを言うと、リュウジは通話を切った。
 
 ハルシャに目を向ける。
 彼の眠りは深いようだ。穏やかな寝顔をリュウジはしばらく見つめる。
 ゆっくりと腕を立てて、身を起こした。
 眠る彼に、顔を寄せる。
 息遣いに耳を澄ませる。

「あなたは」
 小さく呟きながら、リュウジはさらに顔を近づける。
「優しい方ですね」

 形のいいハルシャの唇に、リュウジは自分の口を、そっと重ねた。
 ぴくっと、ハルシャが応える。
 眠りの中にあっても、合わせた唇をハルシャが優しく探るように動かす。
 触れたら反応するように慣らされた動きだった。
 目を細めると、リュウジは口を引いた。
 離れた熱を求めるように、ハルシャが微かに眉を寄せた。

「ジェイ・ゼル――」

 無意識に、ハルシャが小さく呟く。
 リュウジを、ジェイ・ゼルと間違えているようだ。
 借金のかたとして、ジェイ・ゼルの相手しかしていないとハルシャは言っていた。
 それが特別なことだと、きっとハルシャ自身も知らないのだろう。
 世間が彼とジェイ・ゼルの関係をどう見ているのかも。
 闇の金融業者が、彼の人生を縛り付けていることも、ジェイ・ゼルの監視のもとに、五年間の時を過ごしてきたことも――
 彼は何も知らずに、生きてきたのだ。

 リュウジは静かにハルシャの寝顔を見つめた。
「自由に、してさしあげます」
 傷を負った手を伸ばして、ハルシャの頬に触れる。
「あなたの背には、翼があるのですよ、ハルシャ。宇宙を飛ぶ強く大きくしなやかな翼が――忘れないでください」
 優しく、頬を撫でる。
「ジェイ・ゼルに、あなたの背の翼をもぎ取らせはしません。決して――」

 呟きに、ハルシャは動かなかった。
 彼の眠りは深いのだ。
 頬の熱を手の平に感じながら、無言でリュウジは、ハルシャを上から見つめる。
 静かに、顔を寄せる。
「あなたに触れているのは、私です。ハルシャ。ジェイ・ゼルではありません」
 細めた眼で、穏やかな寝顔を見つめる。
「私なのです、ハルシャ」
 そして、静かに、彼の口を覆った。

 わずかにハルシャは反応を示す。
 優しく唇を触れ合わせてから、リュウジは身を引いた。

 薄闇の中に浮かぶ、ハルシャの顔をしばらく黙したまま見つめる。
 頬を一撫でしてから彼は静かに身を動かし、自分の布団に潜り込んだ。
 眠るハルシャの横顔を見つめてから、彼は目を閉じた。

「おやすみなさい、ハルシャ」
 小さな呟きが、薄闇の中に、響いた。









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