全ての処置を終え、リュウジは奥の医療用ベッドに寝かされていた。
ハルシャは近くの丸椅子を引き寄せて、眠る彼の顔を見守る。
穏やかな寝息の淀みない音に耳を傾ける。
メリーウェザ医師は、卓越した医療技術を持っている。
リュウジの肺から、速やかに高酸素含有の液剤を取り去り、肺呼吸へと移行させ、手の傷も麻酔を施して手際よく縫合を済ませる。
きれいに身を拭い服を着せてベッドに寝かせるまでに、ほんの数十分しかかかっていなかった。
このままリュウジを、一晩預かってあげてもいいよ。家に戻るのだろう、ハルシャ。
と。
メリーウェザ医師は言ってくれた。
家に残してきたサーシャのことを、彼女は心配してくれている。
けれど、リュウジが目覚めた時、側に居て上げたいとハルシャはとっさに思ってしまった。
ギリギリの状態で、自分のことを心配していた彼の言葉が辛かった。
譲るように、メリーウェザ医師は言葉をかけてくれる。
じゃあ、リュウジの目が覚めたら教えてくれ。向こうで、さっき言っていた仕事に取り掛かるよ、と。
ハルシャは黙したまま、眠るリュウジの顔を見守る。
静寂の中、想いが巡る。
メリーウェザ医師が教えてくれた、内に秘められていた真実が抑えようもなく身を震わせる。
毒をさらしながら彼女は伝えてくれた。
醜くても、愚かでも、それでいいのだと。
叔父を愛した自分を、彼女は恥じていなかった。
血の繋がった、叔父と姪。
愛し合うことは倫理にもとることだと、言い捨てることはたやすい。
メリーウェザ医師は、医者だ。
その意味を誰よりも知っている。
それでも、惹かれずにはいられなかったのだ。
最期の瞬間、空間を越えて、想いが声となり相手に届くほどに。
一度も身を触れ合わせなくても、二人は深く愛し合っていた。
慟哭のように、身の内から彼女が叫んでいた、キルドン・ランジャイルへの愛がハルシャの心を打った。
ジェイ・ゼルと、自分の関係も――
間違っていると、言い捨てることは、簡単だ。
けれど。
彼の緑の瞳で見つめられる時、心の深い場所がどうしようもなく震える。
触れられる手に、肌が歓喜を叫ぶ。
彼の存在を体の芯が求めてやまない。
その真実を――
どう名付ければ良いのか、ハルシャには解らなかった。
乱れた心のまま、ハルシャは、ただ黙する。
ジェイ・ゼルのことが、好きなのですね、ハルシャ。
リュウジが意識を失う直前に呟いた言葉が耳に響く。
違う。
と。
否定しきれない自分が、辛かった。
もしも。
リュウジの言うように、ジェイ・ゼルが自分の両親の死の原因だとしたら。
彼が爆発事故を偽装して両親を葬り、何食わぬ顔をして借金の返済を迫っていたのだとしたら――
その時は。
ハルシャは、静かに眼差しを、リュウジに向けたまま心に呟く。
ジェイ・ゼルを殺して、自分も死のう。
ふっと息を吐く。
借金を全額返済し終えた時に――彼を殺してその場で自分も命を絶とうと、ハルシャは静かに決意をする。
借金を返すまでは、歯を食い縛って生き続けよう。自分が死ねばサーシャに負債が引き渡される。
それが何よりもハルシャには辛かった。
両親を殺した相手に抱かれているとしても――自分はきっと、耐えられる。
それまでは、何も考えずにいたかった。
黙したまま、ハルシャは考え続ける。
最期の瞬間、ジェイ・ゼルも、自分の名を呼んでくれるだろうか。
たとえそれが命を奪う存在だとしても。
ジェイ・ゼルは、自分の名を、宝物のように大切に口にしてくれるのだろうか。
ハルシャは視線を床に向けた。
メリーウェザ医師は――
叔父への、身を焦がすような思いを秘めながら今も生き続けていた。
彼が命を散らした空を見つめながら、ひたむきに恋い慕っている。
どうして、キルドン・ランジャイルと私は――
叔父と姪として、生まれてきてしまったんだろうね、ハルシャ。
ミア・メリーウェザの、魂から絞り出したような言葉が胸に響き続けている。
叔父と姪でなければ、二人は愛し合うことが出来た。
たった一親等違う従兄弟であったならば、帝国法で結婚が認められている。
けれど。
三親等という壁が、禁忌の掟として二人を引き裂いた。
でも――
叔父と姪でなければ、二人はこれほど深く心を通わせなかったかもしれない。
両親を失った少女と、姉の代わりに、何とか姪を育てようとした年若い叔父と。
互いに懸命に向き合った二人だからこそ、これほど深く深く互いを想い合った。
同じ宇宙を見つめながら、互いを支えに、身を寄せ合ってきたのだろう。
たとえそれが、許されないことであっても。
二人は強く深く、惹かれ合った。
永遠の愛を誓うほどに。
どうしようもない、人の想いが辛かった。
自分も――
ジェイ・ゼルと違う出合い方をしていたら、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。
借金のかたに抱かれるので無ければ、素直に彼に向き合えたのだろうか。
いや。
それなら、自分はジェイ・ゼルに身を開かなかっただろう。
この出会いで無ければ、自分の人生は永遠にジェイ・ゼルと触れ合うことはなかった。
彼に身を任せることは、極限状態でしかありえなかった。
ふと、その事実が、ハルシャの胸を打った。
どうして。
こんなに苦しいのだろう。
人の想いが、生き様が、運命が。
どうしてこんなに辛いのだろう――
目を伏せて考えにふけるハルシャの耳に、微かな呻きが聞こえた。
はっと顔を上げると、リュウジが苦しそうに眉を寄せて身を捩っていた。
「リュウジ……」
腰を浮かして、ハルシャは、彼の元へ駆け寄る。
「気が付いたのか?」
だが、そうではなかった。
「いや……です」
リュウジはもがきながら、言葉を滴らせている。
同じだ。
前に、眠りながらうなされていた時と。
「止めて……くだ、さい……もう……こんなことは……」
「リュウジ」
ハルシャは、リュウジの肩を捉えて、軽くゆすった。
反射的にリュウジは身をかばうようにして、その手を拒もうとした。
かつて身に加えられた、卑劣な暴行の記憶が表層に蘇ってきているのだ。
「リュウジ。大丈夫だ。私だ、ハルシャだ」
揺すりながら、ハルシャは落ち着かせようと、言葉を絞る。
だが、彼は眉を寄せたまま、歯の間から絞り出すように、苦しい言葉を叫んでいる。
「いやです……離して、離して下さい!」
リュウジは懸命に、身を守る。
「止めてください!」
腕を振り払おうとするリュウジの肩を、ハルシャは揺さぶった。
「リュウジ!」
ハルシャの強い力が引き金だったのか、リュウジの全身が強張った。
身を反らしながら、不意にリュウジが叫ぶ。
痛みを得た様な声だった。
「あぁっーっ!」
眉を寄せて叫ぶリュウジを、ハルシャは強い力で身を起こし、腕の中に抱きしめた。
「大丈夫だ、リュウジ!」
遠くから、走ってくる足音が響く。
「どうした、ハルシャ!」
メリーウェザ医師だった。
リュウジの鋭い叫び声を聞きつけたようだ。
髪を乱しながら走って来た彼女は、両腕に固くリュウジを抱きしめるハルシャをみて足を止めた。
目を細めて、状況を察知している。
「大丈夫です。なんでもありません」
努めて冷静にハルシャは答えた。
触れ合ったリュウジの心臓が、ばくばくと強く脈打っている。ガタガタと、リュウジの身が震えていた。
ハルシャは、彼の身を抱きしめたまま、
「大丈夫だ、リュウジ。ここは安全だ」
と、言い続けた。
震える手が、ハルシャの服を掴む。
リュウジがうっすらと目を開けながら、ハルシャを視界に捉える。
まだ現状を把握していない、深い藍色の瞳に向けて、穏やかにハルシャは言葉をかけた。
「わかるか、リュウジ。私だ。ハルシャだ」
少ししてから、小さく、彼の頭が揺れる。
「恐い夢を見たんだな。大丈夫だ。私が側に居る」
震えていたリュウジの身から、ゆっくりと強張りが消えていった。
脱力して、自分に身を預けてくる。
ハルシャは、リュウジの黒い髪を、ゆっくりとなだめるように撫でた。
「もう大丈夫だ」
ぐうっと呻きのような息を漏らして、リュウジはハルシャに腕を回すときつく抱き締めてきた。
何かにすがるような懸命な力だった。
力の強さが、ハルシャの胸を打った。
「ハル……シャ」
喉に何かがつっかえた様な言葉を、リュウジが呟く。
「そうだ、私だ。大丈夫だ、リュウジ」
触れるリュウジの鼓動が収まらない。
じっと、メリーウェザ医師がリュウジを腕に包む、ハルシャを見つめ続けている。
「調子はどうだ。メリーウェザ先生が、解毒と手の平の縫合をして下さった」
ハルシャは、冷静な声で、リュウジに語り続ける。
「熱も平熱に戻っている」
解毒の液剤がまだ残っているため、湿り気を帯びる髪をハルシャは優しく撫で続ける。
「辛い状態で、外で待たせてすまなかったな。熱で苦しかっただろう。
だが、もう大丈夫だ」
ハルシャの語り口に、リュウジの心臓がゆっくりと静まってきた。
「すぐに、元の通りに元気になれる。大丈夫だよ、リュウジ」
リュウジの荒い息遣いが、次第に穏やかに変わっていく。
髪に触れる手と静かな口調に、リュウジは落ち着きを取り戻してきた。
瞬きを数度してから、腕から力が抜け、静かにハルシャから身を離した。
「ハルシャ……」
今、はじめて彼の存在に気付いたように、はっきりとした口調でリュウジが言った。
「体調はどうだ」
髪を撫でながら、ハルシャは彼の瞳を見つめて微笑む。
「大丈夫、です」
リュウジは、ようやくまともな返答をハルシャにする。
「そうか」
そこでやっと、メリーウェザ医師が背後から、動いた。
「気が付いたか、リュウジ」
はっと、彼は目を上げて、メリーウェザ医師へ視線を向ける。
「ドルディスタ・メリーウェザ」
「ファグラーダ酒を、一瓶空けただろう」
片目をつぶって、彼女は言う。
優しい声だった。
「無茶をするんじゃないよ。ここは帝星とは違う。簡単に解毒錠が手に入るわけじゃないからね」
どれ、と、彼女はリュウジの様子を診ようとする。
彼女に場所を譲り、動こうとしたハルシャの服を、まだ、リュウジはしっかりと掴んでいた。
「ああ、いいよ、ハルシャ。動かなくても。この隙間から入るから。私は意外とスリムなんだよ」
冗談のように言いながら、彼女はハルシャの座る横からリュウジの目の下や喉の奥を診ている。
「熱もないし、脈も良いようだね。どうだ。何か変なところはないか? リュウジ」
「大丈夫です。ドルディスタ・メリーウェザ。ご迷惑をおかけいたしました」
カラカラと、彼女は笑った。
「礼なら、お姫様抱っこで家から走ってきたハルシャに言うんだな」
お姫様抱っこ。
「メリーウェザ先生!」
不要な情報をリュウジに与える必要もないのに、と、ハルシャは咎めるように言う。
顔を真っ赤にしながら、リュウジが詫びを呟いた。
「すいません、ハルシャ」
「気にしないでくれ、リュウジ。不可抗力だったんだ。ファグラーダ酒なんて、私は一嘗めしただけで気絶をしてしまう」
取りなすようなハルシャの言葉に、カラカラとまたメリーウェザ医師が笑う。
「あり得るな。君は本当に酒に弱い」
会話をこなしていくうちに、リュウジは次第にいつもの彼に戻っていった。
落ち着いていて、思慮深く穏やかな、彼に。
だが。
その奥には、複数の人間に無理矢理に暴行を受けた傷が厳然としてあるのだと、ハルシャは思い知る。
笑顔の奥で、彼は、眉を寄せて懸命に暴力から逃れようと傷つき怯えていた。
「どうする、リュウジ。このままここで夜明けまで寝ていても良いし、ハルシャと一緒に家に戻ってもいい。ハルシャから聞いたが、今日も一緒に仕事に行きたいんだろう? ここで身を休めて、朝方ハルシャに迎えに来てもらう方法もある。
君次第だよ、リュウジ」
メリーウェザ医師が、選択肢をリュウジに委ねる。
「ただ、家でサーシャが一人になっているからね。あの子が目を覚ますまでには、兄としては家に戻ってやりたいんじゃないか」
違うか、ハルシャ? と、彼女が自分に顔を向ける。
ハルシャは、瞬きだけをした。
「妹は私の仕事に慣れている。目が覚めていない時は、すでに仕事に行ったと思うはずだ」
リュウジが気を遣わないように、ハルシャは言ってみた。
彼はじっと考え込んでいる。
「あと少し、ここで休ませていただいても良いですか。その後、家に戻ります」
リュウジは考えた末、言葉を口にした。
にこっと、メリーウェザ医師は微笑んだ。
手を伸ばして、リュウジの黒い髪を撫でる。
「了解」
すっと手を引くと、彼女は立ち上がった。
「ハルシャ。向こうで作業を続けているから、リュウジが戻れそうになったら声をかけてくれ」
「ありがとう、メリーウェザ先生」
「本当に感謝しています、ドルディスタ・メリーウェザ」
二人の言葉に、彼女は小さく笑い声を上げた。
「『惑星ファングーラの泡立つ海風味』のパウチの礼だよ。気にするな二人とも。あれを処理してくれようという心遣いに、こちらが感謝で一杯だ」
サーシャから聞かされたのかもしれない。
笑いを残して、大股に立ち去るメリーウェザ医師を見送ってから、奇妙な沈黙が辺りを支配した。
二人とも、何かを言わなくてはならないと思っていた。
だが。
話し始めるきっかけが、妙につかみにくい。
気にしてないと思っても、気を失う直前、リュウジが自分にした行動に対し、ほんのりと頬が赤らむのが止められない。
長い沈黙の後、
「もう少し、横になっていた方がいい」
と、ハルシャは、やっと声をかけてみた。
「ほんの数時間前まで、ひどい熱を出していたんだ。熱が下がったと言っても、まだ本調子ではないだろう?」
優しいハルシャの口調に、リュウジの肩の力が抜けてきた。
「はい。ありがとうございます、ハルシャ」
もそもそと横になるリュウジを手伝い、ハルシャは身を布団で覆ってあげる。
「外で、待っていてくれたんだな、リュウジ」
彼が身を落ち着けてから、ハルシャは静かに話し始めた。
リュウジは、ゆっくりと瞬きをする。
「色々、失礼なことを申し上げて、すみません」
熱で記憶が飛んでいるかと思ったが、そうでもないらしい。リュウジは直前までの会話をしっかりと覚えているようだった。
ハルシャは丸椅子に腰を下ろすと、彼に向き合った。
「いや。リュウジが言っていたのは、本当のことだ」
眠るリュウジを見つめながら、覚悟を決めていた。
彼が見せてくれた優しさと、思いやりに報いる術を。
自分の抱える弱さを、リュウジにさらそうとハルシャは心を決めた。
さっき、メリーウェザ医師が、自分の内側の醜さを勇気を振り絞って見せてくれたように――。
「両親が死んだのは、五年前。ちょうど今頃だった。ラグレンの創立を祝う記念式典がこの時期あるんだ。惑星トルディア開拓の功労者の末裔として、両親は毎年式典に招かれていた。
その式典の最中、母の近くで爆発が起こり、父も巻き込まれて二人とも絶命した。
突然の出来事だった。
葬儀から三日後――突然、ジェイ・ゼルが自宅にやって来たんだ。父は、彼に一四七万ヴォゼルの借金をしていたらしい。
借入者が死亡した時は、即刻全額返金するべしという一文が借用書にあった。
それを盾に、彼は一四七万ヴォゼルをすぐさま返せと迫ったんだ」
ハルシャは、当時のことを思い出して、微かに唇を噛み締めた。
恐怖が蘇ってくる。
全身黒づくめのジェイ・ゼルは、地獄の使者のように見えた。
足の震えをリュウジに悟られないように、膝を両手で包んでからハルシャは話しを続けた。
リュウジは横たわったまま、黙って耳を傾けている。
なるべく感情を入れないように、ハルシャは淡々と語り続けた。
「父の銀行にも家のどこにも、一四七万ヴォゼルなどという大金は見当たらなかった。返済には全ての財産を売り、父の銀行口座を解約する必要があった。
それでも、まだ、五八万ヴォゼル近くが負債として残されてしまった」
全ての財産を売り払った時、予定していたよりも三万ヴォゼルほど高い金額がついたらしい。
六一万から、五十八万。とてもありがたかったのをハルシャは覚えていた。
「一切の財産を失った後、ジェイ・ゼルは、私たちにはもうこの身しか残っていないと告げた。
その通りだった。
私は、働くしかなかった。
ジェイ・ゼルは、身を売ることを私に指示した。
それも仕方がないと、私は飲もうとした。
だが、ジェイ・ゼルは、身を売りながら肉体労働をするのは私にとって過酷だと判断したらしい。
彼は――専属の契約をすることで、他の客をとらなくてもいいと提案してくれた。
彼が示してくれたのは破格の好条件だった。今後のことを考え、私は彼の申し出を受けざるを得なかった」
ハルシャは、目を伏せた。
「そうやって、私は五年間、生きてきた」
メリーウェザ医師の言葉が、心をよぎる。
弱さを見せるのは、弱いのではない。強さだと。
その意味が、はっきりと解る。
自分の身の内の毒を聞きながら、今、リュウジがどんな顔をしているのかを、ハルシャは直視することが出来なかった。
彼の顔に、侮蔑が浮かんでいたらどうしようと思うと、膝の震えがきつくなる。
それでも、ハルシャは懸命に言葉を続けた。
「ジェイ・ゼルと会うというのは、打ち合わせではない。私は知られたくなくて、君に嘘をついた。
私は」
膝の上に置いた手が、細かく震える。
「借金のために、ジェイ・ゼルに抱かれてきた。五年間、ずっと」
言い切った後、頬が赤らむ。
リュウジに知られるのが、身が切られるように、辛かった。
けれど。
それが自分だった。
恥辱に塗れながらも、なんとか生きてきた。
ヴィンドース家の直系にもかかわらず、借金を抱え込み男に抱かれる。
偽りのない、それが自分の真実だった。
「軽蔑してくれ、リュウジ。私の本性はこれだ。妹にも隠しながら、私は――男に抱かれている」