「ありがとう」
呟きをこぼして、ハルシャは、視線をリュウジに向けた。
懸命に自分に伝えようとしていた彼の姿が、脳裏をよぎる。
一緒に明日も仕事へ行くと、彼は必死に言葉をもらしていた。
「リュウジの記憶は、まだ、戻っていないのかい?」
見つめるハルシャの耳に、メリーウェザ医師の声が響いた。
「本人も、努力はしているようだが、まだだ」
ハルシャは、話題が変わったことに、少しほっとしながら続けた。
「リュウジも不安なようだ。もし、記憶がこのまま戻らなければ、一緒に暮らすことが出来るかと訊ねてきた。もちろんだと答えたが――今後の見通しが立たないことが心配なのかもしれない」
「そうか。仕事を一緒に始めたんだな」
「ああ。順調に行っている。正直、とても助かる」
そこで、メリーウェザ医師に、さきほどリュウジが、明日の仕事に一緒に行くと呟いていたことを告げた。
「職場での俺を心配してくれている。周りの協力が得られない状態を、とても気にしていて……」
「だろうね。リュウジはいつも、ここでハルシャの話をしているよ。君のことが本当に大切なんだろうね」
ふっと、ハルシャの顔が、なぜか赤らむ。
「俺も、リュウジを家族のように大切に思っている」
ハルシャは、必死に言葉をごまかした。
「もし記憶が戻らなければ、このまま、本当に三人で暮らしていけたらと考えてしまう。何より、サーシャが彼にとても懐いている」
メリーウェザ医師が静かに言った。
「そうなったら、リュウジは、ハルシャの借金を一緒に返そうと言い出すかもしれないね」
「そんなことはあってはならない。これは俺の親の借金だ。リュウジには、何の関係もないことだ」
メリーウェザ医師は、すぐに答えなかった。
口角を少し上げただけで、腕を組んで、ハルシャを見つめる。
「君は優しいから、他人を傷つけるのが嫌なんだね」
「優しさではなく、当然のことだ」
「サーシャにも、払わせるつもりはないんだろう? だから、何も彼女に言っていないんだね」
メリーウェザ医師の言葉が、耳朶を打つ。
ハルシャは、黙り込んだ。
彼女がゆっくりと、髪をかき上げて、ハルシャを見つめる。
「ハルシャ。君は、自分が思うほど強くはない。今も、リュウジの言葉に動揺しているのだろう。必死に私に悟らせまいとしているが――張りつめ続けた糸は、いつかは切れる。ハルシャ。君は緩みのない糸のようだ。
見ているこちらが恐くなる」
触れた、メドック・システムの振動を感じながら、ハルシャは目を伏せた。
淡々とした、メリーウェザ医師の声がしじまに響く。
「弱さを相手に見せることが出来るのは、弱いんじゃないよ。本当は強いんだ。
君だけが一人で泥をかぶり続けていることを、本当にサーシャが喜ぶと思うのか?
家族なら重い荷物を皆で担げばいいんだよ。
それが、相手を信じて一緒に生きていくということだよ、ハルシャ」
メリーウェザ医師が腕を解いた。
「今が適切かどうかわからないが、私も一つ考えていることがあってね」
ふっと、ハルシャは、視線をメリーウェザ医師に向けた。
彼女は静かに微笑んでいた。
「どうだ、ハルシャ。サーシャと一緒に私の養子にならないか」
メリーウェザ医師の唐突な言葉に、ハルシャは目を瞬かせた。
養子。
言っている意味が、ハルシャにはすぐに理解出来なかった。
動揺を見て取ったのか、なだめるように穏やかな声で、メリーウェザ医師が語り始める。
「私には、叔父の遺してくれた遺産と、両親が帝星に残してくれた家がある。家は今、人に貸してあるが売れば相当の値になる。
君の借金には足らないかもしれないが、そこそこの助けになるだろう。
私の養子になれば、遺産として引き継ぐことも出来るし、サーシャに対して私が扶養の義務を負うこともでき、きちんとした学校へと行かせてあげられる。
私は実は、まだ帝星に籍があるんだ。養子になれば、帝星に戸籍を移すことが出来る。そこで然るべき手当も補助されるかもしれない。
どうだ、ハルシャ。考えてみてくれないか」
あまりに意外な申し出に、ハルシャは固まって動けなかった。
「君たちに、何とか手を差し伸べたいと思っている人間は結構いるということだよ」
メリーウェザ医師の、茶色の瞳に視線を向ける。
彼女は優しく微笑んでいた。
「君が、自分の家名に誇りと責任を感じていることはよく理解できる。メリーウェザ姓にならなくてもいい。
だが、養子となれば、私が君の借金の補助を行う理由が出来る。
何の理由もない手助けは、君の誇りが許さないだろうからね。
色々考えた結果、出した結論なんだけどね。
そうすることを、キルドン叔父も喜んでくれると思う。
叔父が命がけて残したくれた遺産を、君の将来を守るために使うことを」
ハルシャは、すぐに断ることが出来なかった。
熟考の末、彼女が口に出してくれていると、理解できたからだった。
「少し、考えさせてほしい。でも、ありがとうメリーウェザ先生」
時間の猶予を願うハルシャの言葉に、メリーウェザ医師は静かに首を揺らした。
「いいよ、ハルシャ。よく考えて結論を出してくれ。
何度も言うようだが、君の人生だ。君の納得するようにしてくれたらいい。
私の思いなど考慮する必要はない」
譲ってくれている。
本当に、ありがたい申し出だ。
莫大な借金を抱えた者を戸籍に招き入れれば、メリーウェザ医師も借金を同時に背負うことになる。
それでも――
彼女は手を、差し伸べてくれたのだ。
思いが、痛かった。
「ありがとう、先生。本当に」
優しい声が応える。
「サーシャが、一生懸命だからね。君とサーシャが幸せになる方法を、私なりについつい考えてしまうんだよ」
ふと、言葉が途切れた。
考え込むハルシャの耳に、思慮を巡らせるようなメリーウェザ医師の声が響く。
「話は変わるが――リュウジの記憶がこのまま戻らないとしても、彼がどんな目に遭ったのか、彼の暴行を働いた人間は誰か特定しておく必要はないか?
最初、彼の身元がすぐに判明し、このオキュラ地域を出て行くと思っていたからあまり心配しなかったが」
ハルシャが目を向けると、彼女は再び腕を組んで虚空を睨んでいた。
「このままリュウジがオキュラ地域で生活を続けるとすれば、彼を痛めつけた人間たちと偶然すれ違うかもしれない。
リュウジは彼らを忘れているが、相手は彼のことを覚えているだろう。
下手をすれば、絡まれて連れ去られもう一度暴行を受けるかもしれない」
さあっと、ハルシャの血の気が下がった。
発見当時、傷つけられていたリュウジの姿が記憶に蘇る。
その可能性は、考えていなかった。
「どうすればいい、メリーウェザ先生。危険を避けるために、なるべくリュウジを出歩かさないようにすれば良いのか?」
そうだね、とメリーウェザ医師は口の中で呟く。
「相手が特定できれば、と考えていてね。実はハルシャ。このメドック・システムは遺伝子情報から、どんな形質を持つ人物かを立体化することが出来るんだ。
病気のいくつかは、遺伝性のものもあるからね、個人の遺伝子から病気の特定を行えるように、メドック・システムは開発されてきた。
その過程で、残された遺伝子情報から個人の形質を推理するシステムも発達したんだ。身体的特徴、面貌などをおおよそ再現できる。
これを利用すれば、リュウジの直腸内に残されていた精子の遺伝子から、相手の大体の身体的特徴を推理することが出来るんだ。
もちろん、精子は減数分裂しているから半分しか遺伝子情報を持っていないが、採取されたものの中から対になるものを見つけ出し、組み合わせて探ればいい。
時間は少しかかるが、どんな相手かが解れば警戒は出来る」
確かに。
大体どんな人物ががつかめれば、危険を避けることが、できるかもしれない。
「もし、お手数でなければ、お願いしてもいいだろうか、メリーウェザ先生」
「もちろんだ。ただ、人物が判明しても、リュウジには見せない方がいいだろうな。身に受けた恐怖が蘇ってくるかもしれない」
その通りだ。
今、記憶を失うことで心の均衡を保っているのだとしたら、悪夢のような記憶が蘇ることで、彼の心が壊れてしまう危険性がある。
「慎重にする。だが、何か手がかりがあるとありがたい」
「私も賛成だ。メドック・システムが空いたら、早速にデータを解析しよう」
自分たちは、随分長い間話し込んでいたようだ。
メドック・システムが治療終了のサインを上げた。
「おっと、言っている端から、出来ましたと言ってきたよ」
腕を解き、医師の顔に戻ると、彼女は操作盤の情報を読んだ。
「解毒が完了した。上々だ。熱も平熱に戻っている――あとは手の平の治療だけだな。よし。液剤を抜こう」
そう告げたものの、まだリュウジをメドック・システムに入れたまま、メリーウェザ医師は何かを取りに場所を離れた。
ハルシャは、再び、視線をリュウジに戻した。
忘れようにも、忘れることが出来ない。
リュウジは複数人に、性的な暴行を受けている。
その卑劣な犯人が、彼と道ですれ違う可能性もある事実に、ハルシャは心を痛める。無事なリュウジの姿を見たら、彼らが再び身体を目当てに下劣な行動に及ぶかもしれない。
一人でオキュラ地域に帰させたことも、配慮が足りなかったような気がする。
この先のことを考えると、もっと気を配ってあげなくてはならなかった。
考え込むハルシャの側に、メリーウェザ医師が戻ってきた。
機械をコロコロと運んできている。台の上に乗る機械には、先に細長いチューブがついていた。
「メドック・システムの解毒剤を抜いた後、このチューブで肺に詰まった液を取り除く」
肺から、そのチューブで?
少し、ハルシャの顔に動揺が浮かんだのかもしれない。
メリーウェザ先生が笑う。
「慣れているから、安心しろ、ハルシャ。
すこし、そこを退いてくれ。
今から液を排出する。作業を見るのが辛いなら、後ろの長椅子に座って目を塞いでいろ、ハルシャ」