毒が、メリーウェザ医師の言葉から滴り落ちていた。
身の内の醜さを恐れげもなく曝しながら、彼女は静かに佇んでいた。
何かを越えてきた者の強さが、ミア・メリーウェザの中から滲む。
自分の内側を見つめたまま彼女は言葉を続けた。
「自分では上手く隠しているつもりだった。だが、叔父はお見通しだったんだ。
私が、叔父を愛していることを。
叔父しか愛していないことを。だから――このまま同じ宇宙船に居たら、私が不幸になると思ったのだろう。
叔父は優しかった。
醜いことをすべて背負ってくれた。
私がおかしくなるほど叔父を愛していることに気付きながらも、その事実を私に悟らせまいとしてくれた。だから、言ってくれたんだ。自分の意思が弱く、このままだと姪の私に手を出してしまう。こんな叔父の
優しく、ミア・メリーウェザは微笑んだ。
「本当に、優しく大らかで強い人だった。私の叔父、キルドン・ランジャイルは――私のために、彼は泥をかぶってくれようとした」
不意に言葉を途切れさせると、ゆっくりと、ミア・メリーウェザは瞬きをした。
沈黙の中に、ごぼごぼと水音が響く。
リュウジの身体の毒素を取り除いてくれているメドック・システムに、一瞬ハルシャは意識を向けた。
その耳に、長い沈黙を破ってメリーウェザ医師の声が聞こえた。
「身を捨てて示してくれた叔父の優しさを……若くて愚かだった私は理解出来なかった。
恐らく、秘め続けた想いを叔父に見抜かれた恥ずかしさと、女性として叔父が自分を見てくれていたという喜びと、あまりにたくさんの感情が湧き上がってきて心が振り切ってしまったんだろう。
宇宙船を降ろされるという、恐怖も私の精神を追い込んだ。
身をソファーに叔父の手で押し付けられながら、私は、不意に開き直ってしまったんだ。
叔父が、自分を襲いたいなら襲えばいい。
私は、嫌ではない。
むしろ嬉しいと、叔父の目を見ながら言い切ってしまったんだ」
苦い笑いが、メリーウェザ医師の顔に浮かんだ。
「必死に私を護ろうとしてくれている叔父に対して、くそ生意気にも、私は、自分を抱けと宣言したんだ。叔父と男女の関係になるのなど恐くなかった。だから、叔父に交渉を持ちかけた」
毒を身にまといながら、彼女は、艶やかに微笑んだ。
「私は叔父に迫ったんだ。今ここで叔父が自分を抱いてくれたら、叔父の本気を認めて諦めて船を降りる。
もし、抱いてくれなければ叔父は本気ではない。私を脅しているだけだ。
そんな言葉に自分は従わないと、懸命に訴えた。
何としてでも叔父の側に居たくて、かすかな可能性にもすがってしまった。
私は必死だったんだ。
その言葉で私は――叔父を、どうしようもないところまで追い詰めてしまった――本当に、愚かだろう?」
メリーウェザ医師の、茶色の瞳が、ハルシャへ向けられた。
「あの時の、叔父の驚愕の眼差しを、私は一生忘れない」
手の平に、低いメドック・システムの駆動音を、感じる。
柔らかな茶色の瞳が、ハルシャを包むように、優しく向けられている。
「激しく動揺した後、叔父は一切の表情を消して私を見た。
しばらくそうしてから、彼は小さく呟いたんだ。
ミア。君の幸せだけを私は祈っている、と。
そして――彼は顔を寄せて、額に優しく唇を触れた。
幼い時によくしてくれた、親愛を表す口づけだった。
しっとりとした口づけを額に与えた後、叔父は不意に手を離してそのまま身を起こした。
何も言わずに部屋の隅に置いてあった小さな鞄を手に取ると、無言で部屋を出て行ったんだ。
私は一人、ソファーに残されてしまった。
追いかけることが私には出来なかった。限界まで追い詰めて、叔父は私から、逃げてしまったと悟ったからだ――その後、もう叔父は部屋に帰ってこなかった。
叔父に私は、見捨てられたんだ」
ゆっくりと、ミア・メリーウェザは虚空へと眼差しを向けた。
「叔父はその足で宇宙船に向かい、緊急招集を乗組員にかけた。半日で休暇を切り上げさせて、叔父は自分の宇宙船でその寄港地を去った。
私は取り残された。
宿泊施設に叔父の伝言が残されていた。
叔父のホームベースだった惑星アキュラに戻りなさいという言葉と、そこまでの潤沢すぎる旅費。
自分は、叔父から地上に留まるように命じられたんだ。
従うしかなかった。
私は、自分の愚かさを呪いながら、便を探して惑星アキュラの懐かしい家に戻った。
そこで、叔父が帰るのをずっと待ち続けた。
けれど――叔父は、一度も惑星アキュラに戻らなかった。どこで何をしているのかも、一切音信不通になってしまった。
ただ、こまめに多額の生活費が私の口座に振り込まれていた。どこかで仕事をして、そのお金を、私が生きるために入れてくれていたんだ。
叔父は、私を忘れてはいなかった。
しかし。
決して会ってはくれなかった。居場所すら教えてくれなかった」
遠い目が、過去の苦しかった記憶をたどる。
「惑星アキュラで、私は医師の資格を活用し、民間医療施設でそれなりに働き始めた。
何かをしていないと、気が狂いそうになっていたからね。
毎日、毎日、星を見つめて暮らしていた。
もし、自分が惑星アキュラを動いたら叔父は私を見つけられない。そう思うと、恐くて自宅から住む場所を移ることすら出来なかった。
逢いたかった。
叔父と姪のままでいい。何も望まない。
だた、私は――
キルドン・ランジャイルに、もう一度だけでも逢いたかった」
不意に、彼女は目を細めて、一瞬、口ごもった。
これから先の事実に、懸命に耐えるように。
気持ちを強く持ち直すと、再び彼女は口を開いた。
「ある日。医院で診療しているときに、ふっと、叔父に呼ばれたような気がしたんだ。
『ミア』と。
振り向いても、叔父の姿はなかった。
気のせいかと思ったんだが、何かが引っ掛かった。
その理由を、十日後――叔父の乗組員だった、デイルズ・ホランの口から聞かされた」
細めた眼のまま、ミア・メリーウェザは、静かに呟いた。
「叔父は、宇宙船の事故で亡くなった。デイルズ・ホランは、唯一の肉親である私に、訃報と叔父の遺品を渡しに来てくれたんだ」
彼女は長い茶色の髪を、さらっと掻き揚げた。
「私を降ろしてから、叔父は仕事の内容を変えた。リスクのある仕事も平気で引き受け、実際危険な目に遭うことも多かったらしい。
乗組員の何人かは、そんな遣り口について行けずに、自主的に船を降りたらしい。そんな中でも、叔父は宇宙を飛び続けた。
最後の仕事は、かなり危険な荷物と、訳ありの客を運ぶものだったらしい。
それを宇宙海賊が察知して、叔父の船は攻撃を受けたんだ。
凄腕の船長だった叔父は、亜光速航法で何とか宇宙海賊を振り切ったが、駆動機関部が損傷を受けていたらしい。自力で走行が出来ず、宇宙を漂うことしか出来なかった」
唇を噛んでから、彼女は言葉を続けた。
「救難信号を受け取った定期航路の宇宙船が、救助に駆け付けてくれた。
叔父は、駆動機関部が暴走寸前の自分の宇宙船から、積み荷と客、そして乗組員を定期航路の船に乗り移らせた。
その時に、デイルズ・ホランに手紙を託したんだ。
ミアに、渡してくれ、と。
船長! 船長も乗り移って下さい! とホランは言ったらしい。だが、船長は船と運命を共にするものだ、と言って、ホランを突き落とすように向こうの船に移動させると、自分の宇宙船のハッチを閉じた」
彼女の眼差しが、ハルシャに向けられた。
「ハルシャも知っているだろう。宇宙船の駆動機関部は核融合を利用している。
制御が出来ずに暴走すれば、核爆発を起こしてしまう。
叔父は歴戦の宇宙の勇者だから、その危険性を良く知っていたんだ。
自分の船は凄まじい爆発をする。
理解していた叔父は、最小の被害で食い止めるために船に残ったんだ。
自分の乗組員と積み荷と客を引き受けてくれた定期航路の船に被害が及ばないように。叔父は自分の宇宙船に一人残り、暴走しかける駆動機関部をなだめながら、亜光速航法に入った。
自殺行為だ。
そんな状態で最大出力まで上げるなんて。
だが、爆発に定期航路の宇宙船を巻き込まないためにはそうするしかなかった。救助してくれた船は、速度が出なかったからね。
亜光速航法に入って数十分後、ホランたちは、叔父が愛機と共に、遠い彼方で光となったことを目撃したそうだ」
きれいな、透明な涙が、ミアの目から静かにこぼれ落ちた。
「叔父は、真の宇宙の勇者だった。
自分の為すべきことを心得、勇気をもって自分の始末をつけた。
あれほど愛した宇宙に、叔父は抱きしめられたんだ――幸せな人生だったと、ホランは言ってくれた。
叔父は、宇宙と一つになることが出来たのだと」
ぽつっと、涙が頬を伝って、床に落ちた。
「叔父が死んだのは、私が呼ばれた気がした同じ時だった」
真っ直ぐ前を見たまま、彼女は言葉を続ける。
「残された私は、どうしていいのか解らなかった。
もう、待っても叔父はこない。
その事実が、どうしても理解できない。
叔父が残してくれた手紙を読むのにも、長い時間がかかった。
ようやく、読む気になるまでに、一ヶ月以上が経っていた。
手紙は、長い間持ち運ばれたように、やけにくたびれた様子をしていた。
手紙は『ミアへ』という、懐かしい叔父の文字で始まっていた。
内容を読むうちに、それが、死期を悟った叔父が、急いで書き残したものではないと、気付いたんだ。
恐らく、私が叔父を求め、それを彼が拒んだ直後に書かれて、出す宛もなく叔父がずっと身に着けて持ち運んでいたものだったのだろう。
柔らかな叔父の文字を見ながら、私は涙が止められなかった。
叔父は――
両親を失った私を、引き取った時の思い出から、書き起こしていた。
宇宙で気ままに暮らしてきた叔父にとって、地上の暮らしが不慣れだったこと、その中で、自分を待ってくれている存在がとても嬉しかったこと。
ミアと一緒に見上げる宇宙は、今まで自分が見ていた宇宙とは違って見えたこと。
宇宙飛行士を目指してくれて、本当に嬉しく、一緒の船に乗ることが出来た時は、これ以上の喜びはないほど感激したこと。
実際、叔父は涙を流して、喜んでくれていた」
まだ、新しい涙をこぼしながら、彼女は続けた。
「けれど。ひたむきに愛情を向けてくれる姪が、いつしか自分の中で特別になっていくことに、恐れと戸惑いを覚え始めたのだと手紙は綴られていた。
他の乗務員と仲良くしているところを見ると、胸が痛んだこと。
酔いつぶれた自分を、部屋に運んで衣服を緩めて上げる度に、姪に対するだけでない感情が湧き上がりそうで戸惑ったこと。
必死に打ち消し、否定し続け、十五標準年を過ごしたとき、ソファーで隣に座る私の存在に、それ以上平静を保てないことを不意に悟ったこと。
朴訥な言葉で、手紙は綴られていたんだ。
だから、叔父は、自分に宇宙船を降りろと言ったのだと。
理由を迫られて、自分の醜さを突き付けられているようで、苦しかった。
とっさにひどい行動をとって、すまなかったと詫びの言葉があった。私が叔父を愛し抜いていたことに、確実に叔父は気付いていた。
だが、手紙の中で、一言も叔父は私の醜さに触れていなかった――ただ自分の想いだけを、彼は綴っていた」
静かな顔を、メリーウェザ医師が、ハルシャへ向けた。
「手紙の最後に、叔父は書いていた。
『ミアと、一緒に見上げた宇宙の深さが、今も心の中にある。その時、宇宙がとても優しく感じられた。君も今、同じ宇宙を見つめているだろうか。
ミアの幸せだけを、今も、これからも祈り続けている。
最後に、叔父として君に決して伝えてはならない言葉を、ここに書き記す』」
言葉を切ると、彼女は目を閉じて、キルドン・ランジャイルが、最後に書き残した想いを呟いた。
「『愛している、ミア。永遠に』」
水晶のような涙が、はらはらと散る。
「叔父は、この手紙を、私に渡すつもりはなかったのだろう。けれど、肌身離さずに持ち歩いていた。最後の瞬間、彼は私のために、ホランにこの手紙を託してくれた。私が、この先も生きていけるように」
ゆっくりと、ミア・メリーウェザは目を開いた。
「私が、気が狂わんばかりに叔父を愛していたように、叔父も、私を、愛してくれていた――けれど、その思いは、叔父を責め続けていたんだ。
間違っている、自分とミアは、叔父と姪だ。この思いは正しくない。自分はミアを不幸にしてしまう。
叔父は、私と別れた後、姪と会うことを自分に禁じ、敢えて危険を伴う仕事を受け続けた――まるで自分自身に罰を与えるように。
叔父を殺したのは、私だ。
自分の思いを押し付けて叔父を追いつめ、危険な航宙に走らせた」
静かに、彼女は微笑んだ。
笑った目から、静かに涙が落ちる。
「私が、この惑星トルディアに住もうと思ったのはね、ハルシャ。この宙域で、叔父は命を散らしたからだよ。叔父が最期を迎えた一番近い場所に、私は居たかったんだ」
すっと、視線が、上がる。
「空を見たら、そこに、叔父が船長として責任を果たした場所が見える。だからなんだよ――いつも、愛した人と一緒に居られるからね。
叔父は、最期の瞬間、きっと私の名を呼んでくれた。遙かな空間を越えて、私はその声を聴いたんだよ。ハルシャ。
『ミア』――と。いつものように、優しい声で」
凛と背を伸ばして、彼女は思いを滴らせる。
一片の後悔もない、清々しい眼差しがハルシャの心を射た。
最後の手紙を、彼女は幾度も、幾度も、読み返したのだろう。
キルドン・ランジャイルが胸の内に秘め続けた、彼女への真実の言葉を。
「オキュラ地域で暮らすと決めたら、叔父の仕事仲間が心配してくれてね、いつもキルドン叔父が、ミアに立派なメドック・システムを買ってやりたいと言っていたからと、お金を出し合ってこいつを持たせてくれたんだ。
これがあったら、何とか医者としてやっていけるだろう、と」
ふと、言葉を切ると、彼女は切なげに微笑んだ。
「その時、聞かされた。
酔った私を、叔父は誰にも触らせなかったと。まるで守るように、いつも彼は私を自室に運んでいたと――
一度も、唇すら、触れ合わせたことがなかったけれど、私は叔父を愛している。
今も、これからも、ずっと」
微笑みに、涙が、こぼれる。
「どうして――キルドン・ランジャイルと、私は――叔父と姪として、生まれてきてしまったんだろうね、ハルシャ」
愛している。
愛している。
愛している。
慟哭のような声が、ミア・メリーウェザから聞こえる。
幼い頃から宇宙を目指した少女は、宇宙へ眼差しを向ける、叔父を見つめ続けてきたのだ。
もしかしたら、それは男女の愛とは、少し質が違ったかもしれない。
それでも。
ミア・メリーウェザにとって、キルドン・ランジャイルは世界の全てだった。
かつても、今も、これからも――
きっと、永遠に。
「叔父が、私の幸せを願い続けてくれたから、私は、幸せになろうとしている。
懸命に、どうあっても。それが、叔父のたった一つの願いだったからね」
ふっと息を吐くと、ミア・メリーウェザは両手で顔を覆うようにして、涙をぬぐった。
「私は、幸せだよ。ハルシャ」
小さく、彼女は呟いた。
「私が愛し抜いた人も、私を愛してくれていた。その思い出だけで生きていける。それだけで、どんな苦しみにも笑っていられる」
ぐいっと、涙を拭き取る。
「それに、可愛い助手と、その兄が私を慕ってくれる。幸せだよ、ハルシャ」
涙で乱れた顔を、恥じることなく、ハルシャに向ける。
「この上なく、ね」
ふっと、彼女は息を再び吐くと、虚空を見上げた。
「自分が信じることを信じたらいい。どんなに醜くても、愚かでも――人に後ろ指を刺されることでも。
自分の人生なんだ。悔いのないように生きればいい。
君が、ジェイ・ゼルを信じたいのなら、何を言われても信じ抜けばいい。
私は、それで良いと思うよ。ハルシャ」
メリーウェザ医師は、全てを知ってくれている。
最初に、ジェイ・ゼルに抱かれた時、傷を得たため熱を発した。
その身を、必死にサーシャが支えて、この医療院に転がり込んだのが、彼女との出会いだった。
大家に教えてもらったのだ。安い値段で診てもらえるところだと。
ハルシャの状態を悟ると、彼女は黙ってメドック・システムに入れてくれた。
彼女は、何も訊かなかった。ただ、もし同じことがあったらすぐにおいでと、言ってくれただけだった。
それからも、過酷な肉体労で熱を出したときも、サーシャはメリーウェザ医師を頼ってハルシャを運んだ。
彼女は余計なことは何も言わなかった。
子ども二人でどうして、オキュラ地域に暮らしているのか。
言いたくないことを、言わせない優しさを持っている人だった。
それは。
自分自身が、内側に傷を持つ人だったからだった。
その優しさに、自分たちはずっと救われてきた。
「ありがとう、メリーウェザ先生」
やっと、ハルシャはそれだけを、口に出来た。
「つまらない過去を、聞かせてしまったね」
ふふと、メリーウェザ医師が笑う。
「だが、君に知って欲しかったんだ。汚れているのは君だけじゃない。みんな相応に泥と傷を持ちながら、生きている。ハルシャは立派だよ。胸を張っていればいい。
自分を恥じなくていいんだよ。ハルシャ」
叔父を愛している。今も、これからも。
誇り高く頭を掲げて、彼女は言い切った。
それが、自分だと、しやなかに彼女は胸を張る。
その強さが、眩しかった。