遙かなアルデバランの光を見つめながら、ハルシャは過去を思い起こしていた。
あれから、五年間。
ハルシャの体は、ジェイ・ゼルに開発され、様々な行為を覚え込まされてきた。
彼のものを口で達するまで追い込むことも、自慰も、今彼が熱心に舐めている、乳首で感じることも、ゆっくりと、パズルを解いていくように、時間をかけて覚えさせられた。
赤く濡れた胸の尖りを舐めていたジェイ・ゼルが、口を離してハルシャへ顔を近づける。
「集中していないな、ハルシャ」
不満げな口調に、ハルシャはわずかに眉を寄せた。
「あまり、寝ていない」ぽつりと、ハルシャは呟く。「そのせいだ」
ああ、とジェイ・ゼルが理解を示して、うなずきを与える。
「睡眠不足で、意識が朦朧としているのだね、ハルシャ」
ちゅっと軽く唇をついばむ。
「納期を焦ってそんな状態で作業をしたら、危ないな。君が工場でしているのは、極めて危険な作業だ」
だから、高給をもらえる。
とは、ハルシャは言わなかった。かわりに
「気を付ける」
と、呟く。
どうでも良かった。早く終わってくれと、心で呟く。
「君の体が傷つけば、それだけ借金を返すのが遅くなる」
ちゅっと、再び唇が触れ合う。
「それは、お互いにとって、不幸なことだ」
死んで楽になる道は、最初に閉ざされている。
サーシャを人質にして。
ハルシャは、天へ目を転じた。
ジェイ・ゼルが彼の視線に気づいた。
ふっと、笑みが浮かぶ。
「奇麗だろう」
わずかに身を伸ばして、同じ場所へ視線を向ける。
「君は空を見上げるのが好きだからね――今日は特別だ」
特別。
という言葉に、ハルシャは視線をジェイ・ゼルに戻した。
彼の灰色の瞳の中に、自分が映っている。
ジェイ・ゼルが柔らかく微笑んだ。
「五年前の今日、私たちは出会った」
覚えているかい?
というように、彼は首を傾げて笑う。
どうでもいい。
という言葉を飲み込んで、ハルシャは視線をアルデバランに向けた。
「そうだったな。覚えている」
忘れることなどできない。
運命が、激変してしまったあの瞬間を――
結局。
父と母を殺したのが誰だったのか、警察は突きとめることが出来なかった。
誰にも怒りをぶつけることが出来ないまま、自分はここまで来てしまった。
五年前の不幸な出会いを記念して、ジェイ・ゼルは、わざわざこんな高級な部屋をとってくれたらしい。
再び軽く唇に触れてから、彼は身を滑らせ、先ほどまで貪っていた赤い尖りに、舌先で触れる。
感覚を締め出す。
何も感じない。
体の内側は、空虚だ。
そう、思い込む。
最初の行為で与えらえた痛み以外、もう、何も感じたくなかった。
ハルシャは全ての感覚を、自分の中から締め出した。
早く終わってくれ。
それだけを考える。
乳首の右から左へとジェイ・ゼルは動き、反対側を指でつまむ。
全く関係のないことを、ハルシャは考える。
ああ、アルデバランだ。
ここから六十六光年先の光。
今見ているのは、恒星から発されて六十六標準年前の、光。
アルデバラン。
五つの恒星が取り巻く多重星。
その様を、実際に見るのが夢だった。遙かな宇宙の彼方――自分が所有する宇宙船で。
空隙を突かれたように、ぴくんと、体が反応してしまった。
考えにふけり過ぎたようだ。
ジェイ・ゼルがいつの間にか場所を動き、ハルシャの敏感な部分を舌でなぞっていた。一瞬向けた視線が、彼と出会う。
舌を伸ばして、ジェイ・ゼルはじっとハルシャを見つめている。煽情的な赤い舌が、つうっと、昂ぶりの裏側に這わされる。
ぴくっと、体が揺れる。
感覚を切り離すと、再び星へ目を向ける。
今の自分を母が見たら、きっと、嘆くだろう。
男同士で抱き合う、自分など。
ジェイ・ゼルによって熱を与えられながらも、どうしてもハルシャは行為におぼれることが出来なかった。
心の奥底が、凍ったような、いや、むしろ、干からびたような感覚がある。
きっと。
ここに居るのは、ハルシャ・ヴィンドースではないのだろう。
皮一枚内側は、別の存在だ。
無邪気に宇宙に憧れていた少年は、死んでしまった。
ジェイ・ゼルの手の中で。
執拗な愛撫が、ハルシャに与えらえる。おぞましいもののように、ハルシャは自分の変化を感じ取る。
五年間、何とか自分の愛撫を感じさそうと、ジェイ・ゼルは努力を続けていた。
けれど。
決してハルシャは応えなかった。
行為を拒むなとは言われた。
だが。
愛撫に反応しろとは、言われていない。
ジェイ・ゼルにそう言った時、ハルシャは気を失うまで、彼に抱かれた。
追い詰めるように、様々な行為を、否が言えないハルシャにジェイ・ゼルは強制した。
ハルシャは、黙々と応え続けた。
拒むことはしなかった。
それが、契約だったからだ。
サーシャと自分の生活を守るため――その一念で耐え続けた。
ハルシャが約束を守る限り、ジェイ・ゼルも誓いを破らなかった。
借金は順調に減っていた。
もし利子を取られていたら、これほど返却が出来なかっただろう。
その思いも込めて、ハルシャはただ、彼の要望に応え続けた。
反応しないハルシャの体に、ジェイ・ゼルが諦め始めたのが、一年ほど前だった。
君は、私に慣れないね。
そう、静かに彼は呟く。
慣れないのではない。
慣れたくないだけだった。
それでも行為を切られれば、たちまち自分は借金の返済に苦慮しなくてはならない。
だから――自分は反応しないが、ジェイ・ゼルには、極上の快楽を与えられるように、日々努力をしていた。
行為の最初にいつも、ジェイ・ゼルは口で奉仕をするように求める。
彼の反応を必死に探り、ハルシャは好みの手法を身に着けた。
作業だと、割り切って。
考えにふけるうち、抗い難い感覚にさらわれるように、不意に絶頂が訪れた。
先から白濁した液がこぼれ落ちる。
そのさまをじっとジェイ・ゼルが見つめているのを感じる。
声一つ上げないように、ハルシャは歯を食い縛った。
敏感な先を、ジェイ・ゼルが舐め上げる。
それにも、ただ、ひたすら耐える。
腕で、目を覆う。
くすっと小さな声が響く。
「相変わらず、素直ではないね」
ハルシャは、腕を上げなかった。
閉じた目の奥に、アルデバランが見える。
輝く、赤色の星。
たった、六十六光年先にある、美しい恒星。
ぬめりのあるものが、後ろの孔に塗り込められる。
丁寧に、ジェイ・ゼルがほぐしていく。
この場所に痛みを与えられたのは、最初の行為の時だけだった。
あまりの恐怖に、ハルシャが身を捩り、抑えつけようとしたのか、彼は手荒くしてしまったのだ。
乱暴な行為の後、ぼろくずのように横たわる彼に、小さくジェイ・ゼルが詫びを呟いていた。
呟きながら、彼の手が髪を滑り落ちていく。
けれど。
触れられたくなど、なかった。
彼に。
その時のことを、後悔するかのように、ジェイ・ゼルは他の場所には痛みを与えても、後孔は決して乱暴に扱わなかった。
どうでもいいことだった。
他の場所に痛みを与えるのなら、同じことだ。
彼の思考には、理解しきれないところがある。
侵入する指が、二本になった。
ハルシャは、足を開いたまま、行為に耐える。
「膝を立ててくれないか、ハルシャ」
ジェイ・ゼルの指示に素直に従う。
腰の下に、クッションが入れられた。
ベッドから腰が浮く。
「君のここは、とてもきれいだよ」
歌うような口調で、静かに彼は呟く。
「私を、待ちかねている」
ハルシャは唇を噛み締めた。
くすっとまた小さく笑いが、ジェイ・ゼルの口からこぼれる。
「悔しいか」
ぐっと、指が深い所を突く。
びくっと体が反応する。
「五年間で、君は随分変わった――口ではつれない言葉を吐きながらも、身は私を受け入れる」
ちゅっと、軽く太ももに唇が触れる。
「いつになったら、君から私を求めてくれるのだろうね」
そんな日は、一生来ない。
と、言葉に出すのは、ハルシャは、止めておいた。
夢は大切だ。
捨てたはずの夢でも、生きるよすがになる。
借金を全て払い終えて、自由になり――宇宙を自在に駆けることが、今のハルシャを内側から支えている。
ハルシャが求める時が来ると、彼が夢想しているのなら、それはそれでいい。
叶えられないことほど、胸を深くえぐる。
ベッドに下ろしていたハルシャの足が、片方ずつ、ジェイ・ゼルの肩に乗せられる。右と左の足を肩に担がれ、自分は今、恥ずかしい場所を全て彼の目にさらしている。
腕で目を覆ったまま、ハルシャは奥歯をきつく噛み締めた。
透明なこの部屋が外から見えるとしたら――ラグレン中にも。
この痴態がさらされる。
「挿れるよ」
小さく、ジェイ・ゼルが呟く。
詫びるように、許しを乞うように。
ハルシャは、言葉を一言も返さなかった。
ずっと、体の中に、異物が入り込む感覚が広がる。
最初の頃から、不快感しか抱かない。
その内よくなると、ジェイ・ゼルは言っていたが、五年経っても快感からは程遠い。
ただ、ジェイ・ゼルが果てるまで耐え忍ぶ行為。
内側にめりこむ圧を、ハルシャは必死に辛抱する。
そのうち終わる。
永遠には続かない。
苦しくなるたびに、ハルシャは自分に言い聞かせた。
砕けてしまうほどに歯を食い縛る。
「ハルシャ」
切羽詰まった声がする。
「もう少し、力を抜いてくれないか」
途中で腰を止め、達したばかりのハルシャの局部を、静かに捌く。
「大丈夫だ。痛くはしない」
何度も、彼は同じことを言う。
痛くしない。
大丈夫だ。
私に任せてごらん。
体の痛みは少ない。
だが。
それよりももっと、もっと心が痛いのだ。
借金のかたに、身を弄《もてあそ》ばれることが――
今でも受け入れられないのだ。
そんなことを、ジェイ・ゼルに言っても仕方がない。理解してもらいたいとも思わない。
ただ。
痛いだけだ。
彼に見えない場所が。
擦られて与えられた弛緩を狙って、ゆっくりと彼が侵入を開始する。
「入っていくよ、ハルシャ」
穏やかな声で彼が呟く。
「随分、私の形に馴染んできたね」
恥ずかしいことを、平気でジェイ・ゼルは言う。
「ハルシャの中が、一番心地良い」
頼む。
そのセリフは、他人に言ってくれ。自分にではなく。
ハルシャは歯を食い縛る。
内臓をえぐられる感覚に、耐える。
ぐっと身を押し込んでから、ジェイ・ゼルが体を倒してくる。
ハルシャが目を覆う腕に、優しく唇で触れる。
「君の中に、私が全て入ったよ。見てご覧」
そう言われれば、逆らうことが出来ない。
ハルシャは腕を上げて、彼を見る。
肩に担ぎあげられていた足が、腹に触れるほど折り曲げられている。
「ほら、ここだよ。きちんと私を全て飲み込んでいる」
接合部分を、示す。
ジェイ・ゼルの下草が、ハルシャの臀部に触れあっている。
「動くよ」
ゆっくりと身を起こし、それにつれて静かに彼の血管の浮いたものが姿を現す。
ハルシャは指示されたように、見つめる。
ジェイ・ゼルの視線は、ハルシャへ注がれていた。
緩やかに、彼は自身を出し入れする。
それを、ハルシャに見せつける。
「君のここは、私を飲み込んで、震えているよ」
優しい笑みが、浮かぶ。
「最初の時から比べたら、見違えるようだ。いい子だ。ハルシャ」
唇が、担ぎ上げられている足に、触れる。
「いい子だ」
局部から、ハルシャはジェイ・ゼルに、視線を向ける。
眼差しが、触れ合う。
絡めるように視線を捕えたまま、彼が不意に余裕をかなぐり捨てて、動き出した。
真っ直ぐに、ハルシャを見つめる。
灰色の目が、楔のように中央に自身を打ち込みながらも揺るがない。
目の奥に炎があった。
「この五年間」
打ち込みながら、彼が呟く。
「私の体しか、君は知らない」
静かな言葉の奥に、熱があった。最初に契約を迫った時と同じ、押し殺したような、熱。
「君が五年でどう変わったのか」
ぐっと腰をねじ込んでから、不意に彼は身を近づけてハルシャに顔を寄せる。
「私しか、知らない」
呟きと共に、口が覆われる。
舌が、ハルシャの中を探る。
そのまま、彼は抽挿を続けた。
教えられたように、ハルシャは彼の舌に自分の舌をからめる。
そうすると、ジェイ・ゼルが喜ぶからだった。
低い呻きが、断続的に彼の口から漏れる。
口と後部に自身を押し込むことで、彼は高まりへと向かっている。
わずかに離したジェイ・ゼルの唇から、不意に言葉がこぼれ落ちた。
「ハルシャ……」
重く、熟れた呼吸と共に、呟かれた自分の名前。
彼の目の中にある、熱。
どくっと、何かがハルシャの中でざわめいた。
何。
変化にハルシャは戸惑った。
反応してはならない。それは、自分の誇りを捨てることだ。
ハルシャは、彼が二度と名前を呼べないように、自分から彼の唇を覆った。
一瞬、ジェイ・ゼルの目が見開かれた。
これまで、命じられていないのに自分から動くことなどしなかった。
触れた唇が、微笑みの形になる。
彼の歓喜を無視し、ハルシャはさらなる手段に出る。
左の腕を彼の首の後ろに回し、身に引き寄せながら、右の手でジェイ・ゼルの乳首の頂を弄んだ。
あっと、小さく彼が息を飲んだ。
親指で転がすたびに、彼の中のものが、さらに大きくなる。
ハルシャは、貪るように唇を合わせながら、小さな突起をいじり続ける。
手がつりそうになるが、こらえて無心に作業を続ける。
「ああ!」
急に唇を離し、身を反らしながら、びく、びくっとジェイ・ゼルの体が震えた。
ハルシャの中に、熱いものが注がれる。
達した。
自分がみじめに反応をする前に、彼を絶頂へと持って行けた。
安堵が広がる。
がくっと、力が抜けた体を、彼はハルシャに預けてきた。
体中から、汗がにじんでいる。
疲労の極みにあったハルシャは、達成感から一瞬意識が薄れかけた。
さわっと、髪に指が入り込む。
「少し、感じたのか。ハルシャ」
身を起こしながら、ジェイ・ゼルが問いかける。
汗に濡れた額に、黒い髪が張り付いていた。
それも気にせずに彼の真剣な目が、ハルシャを見つめていた。
「私が、名を呼んだ時に――内側が、反応していた」
ハルシャは表情を変えなかった。
見抜かれたことを、彼に悟られたくなかった。
「済んだのか」
尖りのない声で、ハルシャは彼に問いかける。
ふっと彼は笑う。
「済むというのが、君の中で果てるという意味なら、そうだ」
「なら」
ハルシャは、身を起こした。
「もう、抜いてくれ」
ジェイ・ゼルはまだ、ハルシャの中に収めたままだった。
くすっと、彼は笑った。
「つれないね」
ジェイ・ゼルが動き、ずるりと柔らかくなったものが、抜かれる。
瞬間、奇妙な快楽が襲いそうになり、ハルシャは歯を食い縛った。
そのまま、背を向けるように身を返す。
力を入れて立ち上がると、後ろから流れ落ちるものがあった。それは内太ももを伝い落ちていく。
注がれたジェイ・ゼルの精液だった。
入れたままだと、腹部が痛くなる。
ハルシャは、真っ直ぐにバスルームに向かった。
彼が用意してくれていた直腸を洗う道具を使い、自分で彼の精液を腸の中から、出す。
この部屋は、壁が全て透明になっている。
ハルシャが行っている行為も、ジェイ・ゼルに筒抜けだった。
彼は、ベッドに腹ばいになり、腕を組んだ上に顎を乗せて、静かに視線を注いていた。
原始的な道具だ。
ハルシャは舌打ちがしたくなった。
腸内を清める道具なら、もっと進化したものがいくらでもある。実際、あらかじめジェイ・ゼルに呼ばれることが解っているときは、ハルシャは自分で準備を行っていた。
消しゴムで消すように、大腸内の不要物を除去してくれるものが、安価で売っている。
どうして、ジェイ・ゼルが大時代的なものをわざわざ選ぶのか、ハルシャには理解できなかった。
少し冷たくなった液体を注いだ後、腸内の液を全て出す。
時間はかかったが、液は透明になった。
後部をぬぐい、温風で乾かしてからハルシャはバスルームを出た。
服を脱ぎ捨てた場所に向かう。
ラグレンの街に目を向ける。闇が街を包んでいた。
あまり、時間は経っていない。
夜明けまでに、もう一仕事出来そうだ。
考えながら服をまとい終えた時、
「ハルシャ」
と、静かにジェイ・ゼルが彼を呼んだ。
声をかけられれば、彼の側に行かなくてはならない。
しゅっと、服を整え、今はベッドの端に腰を下ろすジェイ・ゼルの前に立った。
彼は静かにハルシャを見上げる。
「『ヴェロニカ』に出していた酒は、上質なものだったんだがな」
微笑みながら、彼は言う。
「五年を祝おうと思って――だが」
笑みを消すと、口調はそのままで彼が呟く。
「君は、あまり祝いの気分ではなかったようだね」
ハルシャは次の言葉がすぐに出なかった。
「仕事が残っている。納期が遅れれば、ペナルティがある」
ハルシャは、同じ説明を繰り返す。
「そうなれば、俺たちの借金の返済が遅れる」
不意に、静寂が広がった。
ジェイ・ゼルが、ハルシャを見上げている。
「いつから君は――」
静かな言葉が、唇から漏れる。
「自分のことを、私から、俺と言うようになったんだろうね。ハルシャ」
お前が、俺を、変えたんだ。
投げつけたい言葉を飲み込んで、ハルシャは短く呟いた。
「俺、のどこがおかしい」
ゆっくりと、ジェイ・ゼルが瞬きをした。
「おかしくはないよ。今の君に似合っている。だが」
ふっと彼は笑った。
「俺という時、君は自分を蔑むような顔をする」
くだらない。
ハルシャは踵を返した。
「飯は美味かった。用意してくれた酒を、口にしなくて悪かったな」
背を向けたまま、ハルシャは呟く。
「上等な部屋を借りてくれたのに、さっさと帰ってすまない」
一歩を進めようとして、ハルシャは動きを止めたまま
「アルデバランが眺められて、嬉しかった」
と、ぽつんと呟き、何かを吹っ切るように歩き始める。
後ろに、視線が突き刺さる。
その視線の理由を、出入り口の前に立ってから、ハルシャは悟る。
入り口に立てかけてあったボードを掴み、扉の前に立つ。
だが。
開かなかった。
そう言えば、入る時に鍵を彼は閉めていた。
「ジェイ・ゼル」
ハルシャは立ち尽くしたまま、彼へ視線を向ける。
「扉を開けてくれ」
笑いながら彼は近づき、虹色のカードを扉にかざす。
キンと、金属音が鳴り、扉がすうっと開く。
安堵して進もうとしたハルシャの顎が捕えられ、ジェイ・ゼルの方を向かされる。
彼は柔らかく唇を合わせた。
「ハルシャは、可愛いな」
呟きながら唇が離れる。
「――今日は、痛くなかったか」
目が、ハルシャを探る。
行為が苦痛を与えなかったかと、彼は問いかけている。
「ああ」
短く答えたハルシャへ、優しくジェイ・ゼルは、笑みを与える。
「それは、良かった」
恐らく。
彼の中では、自分はまだ十五歳の少年のままなのだ。
最初に手荒い扱いをしたことを、彼はまだ、悔いているようだった。
後孔から血を流し、涙をこらえて歯を食い縛るハルシャの姿が、彼は忘れられないのかもしれない。
もう自分は、記憶の中に埋没してしまっているというのに。
ジェイ・ゼルの顔が近づき、軽く唇が触れた。
今度は、額にだった。
子どもにするような口づけだ。
「怪我をするなよ」
呟いて、ジェイ・ゼルが身を離した。
この行為は、借金を軽くすためのものだ。
サーシャと自分の身を守るための、行為。
傷つくことなど何もない。
心が痛むなど、本当に、どうかしている。
「ああ、怪我はしない。借金を返さなくてはならないからな」
彼の言葉は、全て目的があっての発言だと、突き付けるように、ハルシャは呟く。
そうやって塗りつぶす。
彼の微かな好意も、自分の戸惑いも。
ハルシャは黙って、開いた扉の向こうに歩を進めた。
入り口の壁によりかかり、ジェイ・ゼルはハルシャを見送っていた。
扉を出れば、中の様子はわからない。
壁で覆われているようにしか見えない。
やはり、偏光性があり、中からは外が見えるが、外からは中が見えないのかもしれない。
ハルシャは、システムに考えを及ぼしながら、階下に降りるチューブに乗る。
最上階は二百十五階だった。
そこから、一気に地上に降る。
上空のにぎやかさに比べて、地上は静かだった。
手にしていたボードの駆動部を入れ、ハルシャは片足を乗せる。
すっと蹴りながら、両足でバランスをとる。
もう一仕事、しなくてはならない。
危険で高額な仕事。
ジェイ・ゼルが、自分のために用意した、肉体労働。
方向を変える時に、腰部に鈍い痛みが走る。
痛みのない行為などない。
どれだけ細心の注意を払っても、彼が中を引き裂くことで、身は傷を受ける。
肛門は生殖器ではない。排泄のための器官だ。出すためのものであって、入れるための部位ではない。
痛くなかったかと、問いかけられるたびにハルシャは嘘を吐く。
少しも痛みを感じなかったと。
そうしなければ、次の行為がないかもしれない。
自分は借金のために、ジェイ・ゼルに、抱かれなければならない。
だから、次につながるように、五年間、彼に反応しないように努力を続けてきた。彼が、自分の中心に火を点そうと努力する限り、未踏の星を人々が求めるように、彼は自分を征服しようと抱き続ける。
ハルシャは、唇を噛み締める。
今日も、ハルシャが自分から唇を合わせただけで、彼は狂喜した。
飽きられてはいけない。
それが、ハルシャが精一杯できる彼への抵抗でもあり、彼を繋ぎとめる手段だった。
あの酷薄な男は、あらゆることを知っている。
いつか――自分が、誇りを手離してしまった時、ジェイ・ゼルによって、乱れさせられるのだろうと、ハルシャは考えていた。
そうならないように、ハルシャは母のことを思う。
美しかった、母。
優しかった、母。
それが、肉の塊へと、変えられてしまった。
悪意のある爆薬のために。
サーシャに決して見せられなかった、母の最期の姿。
ハルシャは、記憶に眉を寄せる。
父母を狙って爆弾は仕掛けられていた。
誰かが、母と父を殺した。
両親を殺す理由がある犯人――
ハルシャは、ジェイ・ゼルを疑っていた。
借金の取り立てが、鮮やかすぎる。
命が失われた時に、全額を返却しろというあの借用書。結ばれたのは、ほんの半年前だった。
たった半年で一四七万ヴォゼルの金が消えるはずがない。
作為的だ。
あまりに辻褄が合いすぎる。
たった一枚の証書で、彼は由緒あるヴィンドース家の全ての財産を巻き上げた。
そして、自分を奴隷のように縛り付けている。
もし、ジェイ・ゼルが、両親を殺したのなら――
ハルシャは、夜の静かな街を見つめる。
この手で、ジェイ・ゼルを殺してやる。
そう思いながら、彼に抱かれ続ける日々。
決して反応しないと心に決めたのは、彼の欲情を引き出すためと。
そして――
復讐のためだった。