そこから数日、ジェイ・ゼルに連れられて、手続きに追われた。
父親を失った息子と娘、そして子どもたちの後見人に、銀行の対応は優しかった。
相続したその場で、ハルシャは口座を解約し、父親の資産を現金に換える。
そうやって、十ある銀行を回り続けた。
出先で、ジェイ・ゼルは二人に食事を奢ってくれる。
労働の対価だと、彼は静かに告げた。
銀行から解約した金額の全てを、ハルシャはそのままジェイ・ゼルに手渡した。
彼は、会計係と呼ぶ男に、数えるようにと告げて預けている。
後に、ジェイ・ゼルが唯一会社で信頼するのが、会計係の彼、マシュー・フェルズなのだと知る。彼は金の管理は完璧だ。と、手離しで褒める。ハルシャが受け取る明細も、マシューの作だった。
全ての手続きを終え――相続した遺産の一切をジェイ・ゼルに渡した夜、ハルシャは彼に抱かれた。
最後の銀行は郊外にあった。
都心に戻るのに、随分と時間が必要だった。
続く銀行巡りに、サーシャは疲れ果ててしまったようだ。
夕食を食べた後、飛行車の中で寝てしまった。
正直、ハルシャも環境の変化と慣れない作業に、神経がすり減っていた。
ハルシャの膝に頭を預け、穏やかな寝息を立てるサーシャの髪を、ゆっくりと撫でる。この存在が居なければ、自分は命を絶っていたかもしれない。
それほどまでに屈辱的な日々だった。
指に絡みつく巻き毛の手触りに、心の中が穏やかになっていく。
「最後の銀行が終わったな」
ぽつりと、ジェイ・ゼルが呟いた。
うつらうつらとしかけていたハルシャは、はっと意識を戻した。
「ご同行頂いて、ありがとうございます」
ハルシャは、丁寧に礼を述べる。彼は手続きに慣れているようで、行政での申請も、てきぱきとこなしてくれて、ハルシャはとても助かった。
一人では、途方に暮れていた。
ハルシャの言葉に、すぐにジェイ・ゼルは答えなかった。
沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「これで、君が持つのは、その身一つになった訳だ」
さあっと、眠気が覚めていく。
かつて、彼に誓った言葉が蘇る。
身を売ることを、彼は言っているのだと、勘が働く。
すっと、息を吸うと、心を落ち着ける。
「そうです。この身しかもう残っていません」
言葉にすると、現実が鞭のように身を打つ。この手には、何も残っていない。
ハルシャ・ヴィンドースという名と、サーシャしか。
前を向いたまま、ハルシャは言葉を続ける。
「明日から、工場に行くことになっています」
一瞬の間の後、ハルシャは問いを発した。
「私が、身を売るのは、いつからですか」
不思議な沈黙が流れた。
ハルシャは視線を動かさなかった。
抗っても仕方がない。
ここまで流されてきたのなら、行くところまで行くしかない。
もう三日、あてがわれた部屋で、暮らしている。
下層階級の住む場所は、危険だと言われていた。だが、住んでみればそうでもなかった。
人情にあふれていた。兄妹二人の暮らしを、周囲の者が心配してくれているらしい。時折、差し入れを持ってきてくれる。
悩んでいるよりも、足を踏み入れた方が楽なのかもしれない。
そんなことも、思ってみる。
「君は」
不意に、ジェイ・ゼルが口を開いた。
「身を売るという意味が、解っているのか」
根本的なことを、彼は聞いてきた。
妙なプライドが邪魔をしかけたが、押し殺してハルシャは素直に返す。
「性的なことをするという意味だと、思っています」
言ってから、顔が赤くなった。
我ながら、情けない。ハルシャは内に叱責した。
再び、沈黙が続いた。
暗い夜を、飛行車が駆けていく。
「男と男が、どうやって性交するのか」
急に、ジェイ・ゼルがハルシャへ顔を向けた。
「君は、知っているのか」
男と男。
言葉に、ハルシャは戸惑う。
小さく首を振る。
「知りません」
灰色の目が、ハルシャを見つめていた。
ひどく気まずくなるほどの時間、彼はじっとハルシャを見つめる。
「知らずに、身を売ろうとしているのか」
柔らかな問いかけだった。
何をいまさらバカなことを。とハルシャは反発を覚えた。
そこへ追い込んだのは、自分だろう。
「選択肢は、それしかありませんでした」
ハルシャの言葉に、くっと喉の奥でジェイ・ゼルが笑う。
「なるほどな」
それで会話が終わったと、ハルシャは考えた。
顔を膝にもたれて眠る、妹に向ける。
無意識に、手を動かし続ける。たった一つ、この世で正しいものを、手繰り寄せようとするかの如く。
母も、同じような金色の見事な巻き毛だった。
見つめるハルシャの顎に、不意に指が触れた。
え。
と思う間もなく、顔がジェイ・ゼルの方へ向けられる。
柔らかだが、抗い難い力だった。向けられた場所に、顔を寄せた彼の灰色の瞳があった。
心の奥底をのぞき込むように、彼が自分を見つめている。
無言で彼が唇を寄せる。
ハルシャは目を大きく見開いた。
口が、覆われていた。
ジェイ・ゼルの唇によって。
息が、出来ない。
状況を判断する前に、すっと、彼の顔が離れた。
「キスも知らないのか、坊や」
ひどく近い場所で、ジェイ・ゼルが呟く。
「それで、身を売るなど、よくも考え付いたものだ」
穏やかだが、口調に籠る響きに、ハルシャの頬が緊張する。
灰色の目が見つめる。
「身を傷つけられて、使い物にならなくなるのが、目に見えている――わかっているのか、ハルシャ。君は工場で働かなくてはならない。君にはもう、その身しか残されていない。病で倒れれば、借金は妹に行く」
峻厳な響きに、口づけをされた衝撃が去っていく。
巻き毛を撫でる手が、止まる。
ジェイ・ゼルの目が、細められた。
「知らなければ、教えてやる。ハルシャ。男同士の性交には、肛門を使う。本来なら排泄に使う場所だ。しかも、雑菌にあふれている。
乱暴な扱いを受け、腸壁が傷つけば、たちまち雑菌が体内に入り込み、病を得る。高熱を発し、数日は働けない」
言葉が途切れる。
告げられた事実に、ハルシャの全身に衝撃が走る。
まさか。
そんな方法など――
考えたこともなかった。
驚きのあまり表情を消すハルシャに、痛みを覚えたように、ジェイ・ゼルが眉を寄せる。
「そうだ。それが、君が為そうとしていることだ――何も知らず男に身を差し出せば、嗜虐的な客なら、君が初心者なのを見抜き、準備をせずに行為におよぶかもしれない。君の無知を、いいことにしてな」
準備、というのが、何を指すのか、皆目ハルシャには、解らなかった。
だが。
身を売れと言ったのは、ジェイ・ゼルの方だ。
サーシャの年頃の子を好む者がいると。その人たちに売り渡せと。
それぐらいなら、自分が代わりになった方がいい。
そう、思い詰めて出した提案だ。
追い詰めたのは、彼だ。
なのに――なぜ、引き留める様なことを言うのだろう。
「けれど」
ハルシャは、動揺を押し隠しながら、必死に想いを告げる。
「それしか、私には選択肢がなかった」
ふっと、顔が離れた。
指が、去っていく。
彼は再び、座席に身を沈めた。
ジェイ・ゼルは、沈黙したまま、虚空を見つめていた。
解らない。
彼が何を考えているのか――客を取るのなら、彼が斡旋してくれるのだろうと、ハルシャは漠然と考えていた。
客からのお金も、全て手にするのだろう。
生かさず殺さず、自分は借金の返済が終わるまで、彼に飼い殺しにされる。
解っていて、選んだ道だった。
ハルシャは視線を、サーシャに戻す。
あどけない寝顔を、見つめ続ける。
胸の奥に、痛みがあふれる。
何も、知らなくていい、君は。
嫌なことは私がするから――私が盾となって、守るから。
だから。
ぐっと歯を、食い縛る。
沈黙したまま、都心が近づいていく。
きらめく街がやたらと眩しい。この光の中には人々の涙もあるのだと、初めてハルシャは知った。美しいだけではない、ラグレンの裏の顔。
いつの間にか、自分は頭の上まで深くその闇に身を浸していた。
「セイラメへ、やってくれ」
突然、ジェイ・ゼルが口を開いた。
運転手への指示のようだった。
はい、という小さな声が応える。
目を閉じて、彼は深く座席に身を沈めた。
セイラメ?
ハルシャはいぶかしがった。
セイラメは都心の一区画の名前だった。高級住宅がひしめき合っている。
なぜ、そんな場所へ。
何かを、ジェイ・ゼルが決めたことが手触りのように伝わる。
運命が流れていくのを感じる。
いくら視線を送っても、ジェイ・ゼルは目を開かなかった。
彫像のように黙している。
都心の宙を、飛行車が華麗に渡っていく。
やがて、光のひときわ強い一角、高級住宅街のセイラメへと、飛行車がたどり着いた。
慣れた様子で、運転手はその中の一つの建物の駐車スペースへとふわりと着地した。
「行くぞ」
短く呟くと、ジェイ・ゼルが、扉に触れる。駆動音と共に、扉が上に上がる。
「行くって、どこへですか」
戸惑い問いかけたハルシャへ、視線を向けず
「私の部屋だ」
と、短く、彼が応える。
「ネルソン。サーシャを守ってここで待機していてくれ。一標準時で戻る」
優しい笑みを浮かべて呟きながら、彼はするりと車から出る。
まだ動けないでいたハルシャに、外から身を屈めるようにして、ジェイ・ゼルがのぞき込む。
「出ろ。ハルシャ」
それは、命令だった。
ハルシャはそっとサーシャの頭を浮かせ、ゆっくりと膝を動かして場所を移動する。
さっきまでジェイ・ゼルが座っていたところまで動いてから、静かにサーシャの頭を降ろす。
サーシャは眠り続けていた。
ほっとして、ハルシャは、身をねじるようにして、車の外に出る。
途端に、ジェイ・ゼルに手首が握られた。
そのまま、引きずられるようにして、連れて行かれる。
駐車スペースの一角に、飛び出た空間がある。その壁にジェイ・ゼルが手を触れると
『認証完了』
と小さな声がした。瞬間、壁が崩れて二人を飲み込む。
移動装置らしい。
気付くと、部屋の中に立っていた。
恐らく指紋認証で、住人であることを確認すると同時に、部屋まで送り届けてくれたらしい。
さすがセイラメ。最新の装置が装備されている。
と、感心するハルシャの唇が、何の前触れもなくジェイ・ゼルによって覆われていた。
先ほどとは、全く比べ物にならない激しさだった。
喰らいつくすように、貪られる。
息が出来ないハルシャは、軽い酸欠になった。目の前に星が飛び、膝が崩れそうになる。
気付いたジェイ・ゼルが口を離した。
はっ、はっと、ハルシャは息を懸命に吸い込む。
くすっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「そういう時は、鼻で息をするんだ、ハルシャ」
呟きながら、再び唇が覆う。
自分は、一体何をされているのだろう。
解らずに、ハルシャは混乱の極みにあった。
先ほどとは違い、優しい口づけだった。
問いかける様な、何かを探すような、穏やかな触れ合い。
だが、それがジェイ・ゼルであるというだけで、心が硬く強張っていく。
やめてくれ。
叫びを懸命に、ハルシャは飲み込む。
ゆっくりと、ジェイ・ゼルの顔が、離れていった。
「提案だ、ハルシャ・ヴィンドース」
灰色の目が、自分を見ている。呟きの息が、近すぎるために唇に触れる。
「私が、君の客になってやる」
ひどく、傲慢な物言いだった。かちんと来そうなのを、ハルシャは抑える。
歯を食い縛って、彼を見つめる。
言葉はそこで終わりではなかった。静かに彼が呟く。
「報酬は」
目が、獲物を狙うように、ハルシャを見つめる。
「部屋代と、食費と相殺だ」
ハルシャは、瞠目した。
彼が客になってくれれば、部屋代と二人の食費が無料になる。
ありがたいことだった。
微かな喜びが浮かんだのかもしれない、不意に彼が優しく微笑んだ。
「その上、利子もなしにしてあげよう」
利子が、消える。
元金だけの支払いで良い。
あまりにも好条件だった。
だが、逆に条件が良すぎる。
何かあるかもしれない。示された条件の裏には、それに見合うものがあるはずだ。
一抹の疑惑が、ハルシャの心をかすめる。
全てを疑え。
教えらえたことが、頭をもたげる。
疑念を素直にハルシャは口にした。
「その代わりに、私は何をすれば、良いんだ。ジェイ・ゼル」
はっと、ジェイ・ゼルの表情が動いた。
それは。
ハルシャが初めて彼の名前を、口にしたからだろうか。
それとも、質問が核心を突いたからだろうか。
どちらとも判断がつきかねる顔で、ジェイ・ゼルがハルシャを見つめる。
顎を掴んでいた手が緩み、頬を滑りながら、髪に向かう。
彼は、ゆっくりとハルシャの赤い髪を撫でる。
「君は、賢いな。とても聡くて――鋭敏だ」
笑みが深くなる。
「もちろん、これには条件がある」
ジェイ・ゼルの目が弓なりになる。
「私が望む行為を、どんなことでも、君は拒んではならない。どんなに羞恥に満ち、痛みがあるとしても、私の言葉には従ってくれ」
あやすように、頭に置かれた手が滑る。
「それが我慢できるなら、君は私に抱かれるだけでいい。それが、借金返済への道になる。乱暴な客も、特殊嗜好の客も、取る必要がない」
するっと、手が再び頬を撫でる。
「もちろん、私は君が働き続けてくれることを望んでいる。病を得るような無謀な行為は、決してしない」
瞳の色が深くなる。
「決して」
あまりにも経験がないために、ハルシャは彼が提示する条件がどういうものなのか、皆目見当が取れなかった。
ヴィンドース家は名家であるゆえに、倫理観も厳しかった。結婚するまでは男女ともに、清い体でいなくてはならないという、特に母親の教えによって、ハルシャは全くと言っていいほど、知識が与えられていない。
精通した時に、父親から夢精について聞いたぐらいだった。
そんなあやふやな知識しか、無いというのに――
確実に今、自分は運命の岐路に立たされている。
ジェイ・ゼルの口調では、彼を拒めば、乱暴な客も特殊嗜好の客も、取る必要があるようだ。
借金返済とは、それだけ大変なことなのだろう。
だが、それと等価であるのが、ジェイ・ゼルが客になるということなのだ。
彼は、物の価値を良く知っている。
自分の示す条件を飲むことが、食費と家賃、そして借金の利子を相殺するに足るほどの価値がある。
この上ない好条件。
裏を返せば、それだけ、等価な厳しい条件を自分は飲まされるということだろう。
要するに。
覚悟が必要な決断を、自分は迫られているということらしい。
それだけのことを、ハルシャは瞬時に考えた。
熱を帯びた目で、ジェイ・ゼルが自分を見つめている。
拒んだ時――恐らく彼は報復行動に出るだろう。
さっき口にした通り、乱暴な客や、特殊嗜好の客を、わざとあてがってくる可能性がある。
身が傷つけば――仕事が出来ない。
その上、食費も住宅代も、利子も正規に支払わなくてはならない。
どう考えても、答えは決まっている。
そこへ、自分は追い込まれたのだと知る。罠を狭めて野生の獣を捕らえるように。
「あなたの提案を飲もう。ジェイ・ゼル」
ハルシャの口から、言葉がほとばしった瞬間、静かにジェイ・ゼルが微笑んだ。
しまった、早まったか、と思わずハルシャが思うほど、企みに満ちた笑みだった。
「では、誓え。ハルシャ・ヴィンドース」
正式な名で、彼はハルシャに迫った。
「君は、借金を返済する間、私を相手として迎え入れる。どんな私が示す行為にも、従うこと。拒否権はない。
その代わり、君と妹の部屋代と食費、そして借金の利子を、無しにしてあげよう」
触れそうな距離で、言葉が紡がれる。
「誓え、ハルシャ・ヴィンドース」
恥辱をぐっと飲み込みながら、ハルシャは
「誓う」
と、一言呟いた。
不意に、柔らかい笑みが、ジェイ・ゼルの顔に浮かんだ。
「いい子だ」
唇が近づく。
「これが、誓いの証文だ」
熱い唇が、触れる。
すぐさま深く抱き締められて、ハルシャの口が覆われた。
そして――ハルシャはその日、初めて男に抱かれた。