リュウジの言葉に、ハルシャは黙したまま、動けなかった。
『ダイモン』
聞いたこともない名前だった。
そもそも、ジェイ・ゼルが別の組織に属しているということすらハルシャは知らなかった。
だが。
なぜ、急に――
リュウジはこんなことを言うのだろう。
しばらくハルシャの表情を見守ってから
「今日。実は偶然人と知り合って、もう一度廃材屋へ行ってきました」
リュウジが手短に、説明をする。
出会ったのは、帝星の旅行者だった。
彼は駆動機関部のコレクターで話が合い、つい先日、レンドル・ヴァジョナ型の駆動機関部を見かけたと言うリュウジの言葉に、ぜひ案内して欲しいと、請われたのだと。
それで案内をしたのだと、彼は早口で言う。
「無事商談が成立し、打ち解けた雰囲気の中で、あなたの上司、ジェイ・ゼルの話になりました」
ハルシャは、話の跳躍について行けなかった。
「どうして、ジェイ・ゼルの話が出たんだ」
リュウジの目が、ハルシャに向けられる。
「ご存じないのですか? あのような廃材屋には、多く借金のかたに、強制的に取り上げられた家財道具などが払い下げられるのです。
廃材屋を経営するリンダ・セラストンは、オキュラ地域で名の知れた闇の金融組織と、いくつかつながりがあるのです。
サーシャがおまけにもらった、ぬいぐるみ生物も、そうやって強制的に売り払われたものの、一つです。
その話の流れから――」
一瞬、言い難そうに言葉を切ってから、視線を伏せて、リュウジは呟いた。
「あなたが、借金を背負わされている、ジェイ・ゼルの話に、なりました」
時間が、止まった。
呼吸も。
心臓も。
リュウジに、知られてしまった。
自分が抱える、借金のこと、を。
衝撃が、立ち去らない。
自分たちの汚点を、彼は知っている。
足が、震え出した。
ばっと、リュウジが顔を上げて、ハルシャを真っ直ぐに見つめた。
「あなたが、借金を抱えていることは、早くに知っていました。黙っていて、申し訳ありません」
衝撃が、上書きされる。
ハルシャは、どくん、どくんと身の内に流れる、血流の音を聞いていた。
「あなたが深夜に、ドルディスタ・メリーウェザのところへ、僕の様子を見に立ち寄って下さったとき――宇宙幽霊のお話をしたときです」
どきんと、ハルシャの心臓が、再び高く鳴る。
「眠ろうとした僕の耳に、ドルディスタ・メリーウェザとあなたが会話されている声が聞こえてきました」
記憶が蘇る。
そうだ。
話をした。
自分が奥で眠らせてもらっている時に、サーシャとメリーウェザ医師の声が聞こえていたことを、ハルシャは思い出した。
壁も何もない部屋だ。
声は筒抜けになる。
あの時は、奥のベッドにリュウジがいることをすっかり忘れていた。
その上で、彼女と話していた。
なら――
「聞いていたのか」
ぽつんと、呟いた。ハルシャの視線が虚空をさまよう。
「はい。申し訳ありません。立ち聞きするつもりはありませんでした」
けれど、リュウジの耳には、会話が伝わったのだ。
そうか。
ゆっくりと、ハルシャは息を吐いた。
「借金があるのは、事実だ」
かえって良かったかもしれない。
ふと、肩の荷が下りたような気がする。
これでもう、知られることに怯えなくても良いのだと、さばさばとした気持ちが湧き上がって来た。
ハルシャは瞬きをすると、言葉を続けた。
「知らせることもないと思って、黙っていただけだ」
「僕は――過去の記憶が蘇ったら、ここを去る人間だから、ですか」
静かな声で、リュウジが呟いた。
言葉にこもる想いに、はっと、ハルシャは胸を突かれた。
真っ直ぐな目が、自分を見ていた。
ゆっくりと、ハルシャは、首を振った。
「借金のことは、サーシャにも、話していない」
リュウジの表情が動いた。
驚きのような、悲しみのような、切ない表情になって、彼は眉を寄せる。
その顔を見守りながら、ハルシャは続けた。
「できれば、一生サーシャには、伝えたくない。この借金は、私一人が背負っていくものだ」
視線が、落ちる。
「父親がジェイ・ゼルに多額の借金をして、負債を抱えたまま死亡した。
ヴィンドース家の家長として、私に出来ることは、一生をかけて父の汚名を雪《すす》ぐことだ」
言いながら、現実をもう一度、直視する。
そうだ。
どれだけ身を合わせ、心が触れ合ったように思っても、自分は借金をジェイ・ゼルにしている身分だ。
対等ではない。
たとえ目に見えなくても、やはり自分はジェイ・ゼルに隷属している者なのだ。
厳しい現実を、きちんと受け止めてから、ハルシャは目を上げた。
「覚悟はしていても、やはり、借金を負うことを恥ずかしいと、私は思っているのだろうな。話してあげられなくて、すまなかった、リュウジ。のけ者にするつもりなど、なかった。
前にも言ったように、記憶が戻らなければ、ずっとここに居てもらっていい。私は――」
ふと、ジェイ・ゼルとの別れの寂寥が、胸の中で、渦となって巻いている。
その淋しさを埋めるように、ハルシャは呟いていた。
「三人で、このまま暮らすことが出来ればいいと、思ってしまっている。君が記憶を取り戻して、本当のご家族の元へ、帰ることが幸せだと解りながら――」
苦しい心に、そっと寄り添って支えてくれる、リュウジの存在を。
もう、自分は手放せなくなっている。彼が微笑んで待ってくれている家の心地良さに、自分は、甘えているのだ。
「君とサーシャと、三人で暮らしたいと、願ってしまう」
サーシャに覚悟を決めさせるように、自分は言葉をかけた。
でも。
本当は、あれは自分に言い聞かせていたのだ。
リュウジは去る人間だ。
彼が、元の生活に戻った後――残された自分は、きっと、サーシャ以上に、辛いだろう。
リュウジの藍色の瞳が、じっと自分を見つめている。
「僕も」
小さな声が、思いを告げる。
「ハルシャとサーシャを、家族のように思っています」
静かに、ハルシャは笑った。
メリーウェザ医師に言われたことだ。
意識を取り戻して、最初に見たのが自分だったからか、リュウジは無条件で信頼してくれていると。
確か、惑星ガイアのカルガモ、という生物の名を上げて、例に引いていた。
「家族だよ、リュウジ」
縋りつくような、彼の瞳に向けて、ハルシャは呟く。
「借金のことを、黙っていてすまなかった」
リュウジが、静かに首をふる。
さっきから気になっていたが、リュウジの顔が、赤い。
「ハルシャが言いたくないことを、無理に言わせてしまって、本当に申し訳ないです。誰にも、触れられたくないことは、あるのに……僕は……」
「それだけ、心配してくれたんだな」
はっと、彼が顔を上げる。
藍色の瞳に、ハルシャは微笑みをこぼす。
「私のことを――ありがとう、リュウジ」
ジェイ・ゼルに言われたように、ハルシャは想像してみた。
なぜ、彼が自分の借金のことを知りたがったのか。
リュウジの性格を考えた時、それが、単に興味本位ではなく、自分の負担を少しでも軽くしてあげたいという、彼の優しさだと、気付いた。
リュウジの瞳が、揺れた。
「あなたが借金をしているジェイ・ゼルは、イズル・ザヒルを
『ダイモン』は、法に触れる行為でもなんでもしてしまう、闇の組織です。
彼らは、目的のために手段を選びません――廃材屋のリンダ・セラストンが、そう言っていました」
深い宇宙を宿すような、リュウジの瞳がハルシャを見つめる。
「あなたが借金の存在を告げられた時、何かおかしなことはありませんでしたか」
リュウジの言い方に、ハルシャは、心がかき乱された。
「おかしなこと、とは、どういうことだ」
動揺をにじませるハルシャの言動を、包むようにリュウジが続ける。
「借金の負債額が、あまりに多すぎる――そんなことは、なかったですか」
どうして。
そんなことを、リュウジは知っているんだ。
ドキン、ドキンと、心臓が痛いほどに、鳴る。
最初の頃に感じていた、拭いきれない疑念が、胸を打ち付ける。
父母を狙って、爆弾は仕掛けられていた。
誰かが、母と父を殺した。
その可能性のある、人物は――
ジェイ・ゼルだった。
「何もなかった!」
ハルシャは、叫んでいた。
「借金の契約書も、法的な効力のある、正式なものだった!」
深夜の静寂の中に、血を絞るような、ハルシャの声が響いた。
息を荒げながら、ハルシャはリュウジへ、苦しい視線を向けた。
「父の借金は、きちんと月々の支払いをすれば、返済できる金額だ。
心配してくれて、ありがとう。リュウジ――だが、大丈夫だ」
止めてくれ。
疑いを抱かせないでくれ。
彼を信じると決めた心を、揺さぶらないでくれ。
頼む。
頼む、リュウジ。
私に、ジェイ・ゼルを憎ませないでくれ。
お願いだ。
口に出来ない想いをにじませて、ハルシャはただ、リュウジを見つめた。
彼は、無言だった。
静かな眼差しで、ハルシャを見返している。
傷を負った手が、すっと自分の方へ差し伸ばされた。
頬に、触れる。
リュウジの手から、血とファグラーダ酒のにおいが漂う。
暴力的な香りが、鼻孔を突く。
リュウジは傷ついている。
手と、そして心が。
そんな気がした。
傷ついた手のひらを、ハルシャの頬に当てたまま、リュウジが呟いた。
「籠で飼われている鳥は、入り口が開けられても、そこから逃げないようになるそうです。飼い主に――しつけをうけていますから」
宇宙を宿す、深い、深い瞳がハルシャを包む。
「本当は、天を高く飛ぶ翼があるのに――飛ぶことが出来ないと、思い込まされて」
静かな言葉が、ハルシャの中に沁み通っていく。
「どうして、あなたとサーシャが、多額の借金を背負わなくてはならないのか」
どきんと、胸が痛む。
「あなたは、もう真実に気付いている。ただ」
眉を寄せて、リュウジが微笑んだ。
「見つめるのが、恐いだけです」
違う。
ジェイ・ゼルは、両親を殺してはいない。
そんな卑怯な人ではない。
私の知っている、ジェイ・ゼルは――
優しく緑に瞳の色を変える、彼は。
私の両親を殺したりは、しない。
両親の血に塗れた手で、私を抱きはしない。
違う、リュウジ。
唇を震わせながら、ハルシャはリュウジを見つめ続ける。
その眼差しを受け止めてから、痛みを得たように、リュウジは微笑んだ。
「ジェイ・ゼルが――」
呟きが近くなる。
「好きなのですね、ハルシャ」
違う。
そうじゃない。
彼とは、ただ、契約上の関係だ――
答えようとした唇が、そっと優しく、リュウジに覆われていた。
全てが、停止した。
脳が動きを止めて、現実を認めることを、拒否する。
今、何が起こっている?
ひどく熱い唇が、自分に重ねられている。
荒い息が、合わせた場所から漏れている。
リュウジ?
今、何が起こっているんだ?
熱い息遣いを、触れ合う場所に感じる。
自分はリュウジと、唇を合わせている。
はっと、現実を受け止めた瞬間、ぐらりとリュウジの身体が揺れた。
「リュウジ!」
ハルシャは叫んで、床に倒れようとする体を、直前で両腕に抱きとめた。
熱い。
服越しにも、彼の高い熱が感じられる。
「リュウジ! しっかりしろ!」
何かを彼は呟いたが、混濁した意識の中でのうわ言のようだった。
とっさに、ハルシャはリュウジの額に手を触れた。
炎に触れたように熱かった。
ひどい熱だ。
手の怪我と、ファグラーダ酒を飲んだことと。
そして、おそらく一晩中、自分の帰りを扉の外で待っていたことと。
慣れない生活での疲労の全てが、今、熱となって、リュウジの身体を蝕んでいるのだろう。
あまりにも平然と自分と会話をしていたので、ハルシャは彼の異変に気付けなかった。
リュウジを腕に抱いたままハルシャは手を伸ばし、部屋の扉を確認する。
施錠されている。
リュウジに鍵は渡してあったはずだ。
熱く熟れるようなリュウジの服を探り、ハルシャは、ポケットから鍵を見つけ出す。自分の服に鍵を入れると、リュウジの身体を抱え直した。横抱きにして、立ち上がる。
ちらりと、部屋の扉に目を向ける。
サーシャは、中で眠っているはずだ。
部屋に入ることも考える。
だが、彼女を起こす必要はないと、結論付ける。
ハルシャは心を決めると、ぐったりと腕に身を預けるリュウジを、しっかりと抱え直した。
リュウジの、息遣いが荒かった。頬も、赤い。
いつから、こんなに熱を出していたのだろう。
歯を食い縛ると、ハルシャは歩き出した。
「すぐに、メリーウェザ先生のところに連れて行ってやる。もう少し、辛抱してくれ、リュウジ」
闇の深いオキュラ地域の路地を、熱で意識を失うリュウジを抱えたまま、メリーウェザ医師の医療院へと、ハルシャは懸命に歩を進めた。