ほしのくさり

第75話  波紋を呼ぶ石-01








「――様」
 柔らかな声が、思いに沈んでいたジェイ・ゼルを、静かに現実に引き戻した。
「ジェイ・ゼル様。バルキサス宇宙空港へ、直接向かう経路でよろしかったですか」

 ネルソンが、これから先のことを、問いかけている。
 ハルシャと別れた飛行車の中で、自分はそんな指示も出さずに、黙り込んでいたようだ。
「すまなかった、言っていなかったな」
 ジェイ・ゼルは髪をかき上げながら、虚空に呟いた。
「バルキサス宇宙空港に向かってくれ、ネルソン」
「はい。サジタウル・ゲートで、一度車両を乗り換えます。もうすでに申請が通っているので、お待たせすることはないと思います」
「助かる」
「お荷物はすでに、宇宙船に積み込んでおります。マシューとレグルが、バルキサス宇宙空港で、ジェイ・ゼル様をお待ち申し上げている、と伝言をたまわっております」
「そうか」
 いつもながら、自分の部下は手回しがいい。
 自分が不在の間、後のことは配下のローン・ダナドスに依頼してあった。
 ローンは野心家だが、ジェイ・ゼルには絶対服従だった。
 たった、二日。
 無茶はしないだろう。

 ふっと、息を吐く。
 これから、イズル・ザヒルの本拠地であるスペースコロニー『アイギッド』へ行かなくてはならない。
 出発時間が迫っていた。
 イズル・ザヒルに無理を言って会合の時間を伸ばしてもらっている。これ以上の遅滞は彼の機嫌を損ねる。
 それでも、会いたいというハルシャの懇願を、叶えずにはいられなかった。
 早くに呼び出すことも考えたが、初めて手掛ける種類の機械製造なら、定時まで作業をしたいだろうと勝手に気を回してしまったのだ。
 愚かだ、本当に。
 どうして、ハルシャの都合など、あれこれと考えなくてはならないのだろう。
 本当に、自分は愚かなことをしている。
 親ともいうべきイズル・ザヒルを待たせて逢瀬を楽しむなど。
 本来、ありえないことだ。
 
 ジェイ・ゼルは、窓の外を見つめる。
 深夜の都心ラグレンは、星々を撒き散らしたように輝いていた。
 きらめきの奥底、忘れられた様な最下層――オキュラ地域に、大切な命があることを、目を細めながらジェイ・ゼルは考える。
 掃き溜めに自分が落とした、気高く美しい天使のことを。

 『暗黒の砦』の続きをせがまれ、話しだそうとしたジェイ・ゼルは、どうしても言葉が出なかった。
 澄み切った黄金色の瞳を見つめながら、湧き上がった思いに沈黙を続ける。
 あの時。
 悪魔に捕えられ死ぬことを許されずに身に恥辱に塗れた暴行を与えられ続けていた天使と――
 目の前の、信頼に満ちた眼差しを自分に向けるハルシャの姿が――
 重なり合って、胸をえぐった。

 自分は、悪魔だ。
 何も知らない無垢な少年を、無理やり力で犯し自分の手元に性の相手として縛り付けた。
 恐怖を植え付け、羞恥に心を砕きながら、自分の愛撫に反応しないという理由で他人に無慈悲にも彼を抱かせようとした。
 眉を寄せる。
 後に残してきた、彼のいる方角を見つめる。

 ハルシャは、宇宙船乗りになりたかった。
 知っていた。
 競売のために、ジェイ・ゼルは再三、ヴィンドース家を訪れていた。
 彼の私室に残されていた、膨大な資料を前にジェイ・ゼルは彼の夢を知った。

 丁寧に使い込まれ、たくさんの書き込みのある資料。
 専門書、宇宙船の構造に関する書籍。小さな立体ナビゲーションシステム。
 シンクン・ナルキーサスの学府を目指していたのだろう。そこの資料もあった。
 逆に、宇宙に関すること以外のものは、彼の部屋に存在しなかった。
 年頃の少年がそっと部屋に隠すような、性にかかわる資料は、なにも。
 
 ひたむきに――
 純粋に。
 彼は、宇宙だけを追い求めてこれまで生きてきたのだろう。

 その彼の翼を奪い、大地に突き落としたのは自分だ。
 彼を契約で縛り付け、自分との性交を強いたのも。
 星々しか映っていなかった、美しい金色の瞳に、恥辱に塗れた行為を見せつけたのも、自分だった。
 こうしてしか君は生きていけないのだと。
 現実を、思い知らせ続けた。

 当たり前だ。
 自分の愛撫に反応しないことなど。
 身を合わせることで、自分はハルシャの全てを奪った。

 そうやって、五年間、彼の心と誇りと希望を打ち砕き続けた。
 甘い見通しを立てていたのは、自分だ。
 それで、ハルシャが反応を示すようになるなど。自分が見知る人々のように快楽におぼれていくようになるのだと。
 体さえ開いてくれれば心は自然とついてくるものだと、自分と同じように考えてしまった。
 五年――
 その間違いに、自分は気付くことすら出来なかった。

 あの時。
 ハルシャが震えながら、ジェイ・ゼルの本心を教えてくれ、望む行為に従うと懸命に言ってくれた時――
 不意に。
 目が覚めた。

 自分は、どうしたかったんだ。

 初めて、内側に問いかけた。
 ハルシャを返したいのか。
 残っていてほしいのか。
 問いは、そこからはじまった。
 残っていてほしかった。
 平静を装いながらも、ハルシャは、理不尽に他人に後孔を凌辱された苦痛に身を震わせていた。
 抱きしめて、詫びを呟きたかった。 
 許してくれと。
 ギランジュを受け入れることを、彼は全身で拒んでいた。
 解っていて、自分は行為を止めなかった。
 ハルシャの心を無視した自分の傲慢を、身を伏して彼に謝罪したかった。
 そんなことをすれば、より頑なに拒否されるかもしれないと、瞬間恐怖が湧き上がる。
 けれど。
 ハルシャは、懸命に理解しようとしていた。
 自分がなぜ、ギランジュにハルシャを与えるような行為をしたのか。
 五年間の自分の苦しみを、必死に解ろうと努力してくれていた。

 信じよう。

 ふと、そう思ったのだ。
 これまで、誰も信じずに生きてきたというのに。信頼に近いものを他人に勘違いさせながらも、決して自分は他に心を許さずに生きてきたというのに。
 それが、身を守るための、たった一つの手段だったというのに。
 目の前の、身を震わせて自分の言葉を待つ素直で傷つきやすい青年を。
 五年間、どんなに拒まれても、抱かずにはいられなかった、ハルシャ・ヴィンドースを。
 信じようと静かに心を決めた。

 彼が欲しかった。
 喉の渇きに、水を欲するように。
 憧れてやまないものに、懸命に手を差し伸べるように。
抱きたかった、彼だけを。

 その瞬間、ジェイ・ゼルは衝撃と共に悟った。

 欲しかったのは、自分の愛撫に反応する彼の身体ではない。
 今も、真っ直ぐに自分を見つめてくれている、彼の眼差しの奥。
 彼の。
 魂が――自分は欲しかったのだ。
 彼の心が、彼の想いが、彼の感情が。
 自分は、欲しかったのだ。

 気付いたときは、言葉が口からこぼれていた。

 君を、抱きたい。
 愛し合いたい――今すぐ。

 無意識に呟いた言葉が、自分の本心を余すことなく語っていた。
 愛し合いたい。
 そうだ。
 身を重ねるだけでは、自分は満足できなかった。
 彼の肉体が欲しかったのではない。
 彼の心を、自分は焼け付くほどに求めていたのだ。
 彼と、愛し合いたかった。
 肌と肌を触れ合わせ、一切の虚飾を廃して伝えたかった。
 どれだけ、君を愛しているのかを。

 愚かなことだ。
 借金の返済が終われば、自分との関係は解消されるとハルシャは無邪気に考えているというのに。
 借金を、早く返したいか、と問いかけたジェイ・ゼルに、ハルシャは迷いもなく答えた。

 借金を全額返却することが、今の俺の目的だ――と。

 その答えがジェイ・ゼルの心を鞭のように打ったと、知ることもなく。
 真っ直ぐな澄み切った金色の瞳で、彼はジェイ・ゼルを見つめながら言い切った。
 この行為はハルシャにとって、借金の返済のための契約に過ぎない。
 彼は真面目で律儀なので、与えられた行為を懸命にこなしているだけだ。
 ごまかすことを知らない、真っ直ぐな気性だ。
 最初に、ジェイ・ゼルが、求めることをどんなことでも拒むなと言ったから、彼は真摯に応え続けている。

 わかっている。
 借金が完済すれば、自分はハルシャの人生から、消える。
 過去の悪夢としてしか、残らない。
 それでも――
 借金でしか、結びつかないと解っていても。
 彼を早く自由にしてやりたいと、思ってしまう。

 身が傷つけば、それだけ返済が遅れる。
 ハルシャの健康を自分が必要以上に気遣うことを、彼はただ借金を健全に払わせるためだと思っている。
 それで良かった。
 自分は、彼に憎まれていればいい。
 この行為は、借金を仲立ちにしたただの契約に過ぎない。
 そう、思っていてほしかった。
 解っているのに、求めてしまう。
 今も、これからも。
 彼の心を。
 彼の、眼差しを。

 ジェイ・ゼルが疲労していると気づき、ハルシャは自分から快楽を与えようと懸命に努力をしてくれた。
 その時のことを、ジェイ・ゼルは静かに思い返す。

 自らの身にジェイ・ゼルを飲み込む、慣れない行為にためらっていた姿。
 想像に頬を染め、手の上のぬめりに困ったように眉を寄せる表情。
 気持ちが良いと、羞恥をにじませながら教えてくれた言葉。
 唇を噛み締めながら、身を動かしていた様子。
 自分の手の導くままに、落とした腰をうねらせていた、媚態。
 合わせた唇の、燃えるような熱。
 昇りつめたときの、艶やかな眼差し。
 誰も知らない彼の――本当の姿。
 
 手の中で、美しく咲き始めた花のようだった。
 慈しみ続けた想いをハルシャが受け取ってくれて、快楽を得る様は。
 自分を信じて身を委ねてくれる、愛しい命。
 契約でしか繋がれないと解っていても、この瞬間だけは、思いは真実でありたいと、願わずにはいられなかった。
 けれど――
 どんなに想いを注いでも。
 宇宙を羽ばたく翼を折り、彼を地上に堕としたのは自分だった。
 彼を汚し、無垢な体を、性に反応するように仕込んだのも。
 艶めく体に、変えていったのも。
 自分しか見させないように仕向けて行ったのも。
 彼の未来も希望も、全てを奪い去ったのは自分だった。

 その罪深さを、彼を抱くたびに思い知る。

「今日は」
 不意に、前のネルソンが口を開いた。
「ずっと、こちらを見送っておりましたね」
 何が、と問う前に、ジェイ・ゼルは思い至る。
 小さく、笑みがこぼれる。
「ハルシャが、か?」
「はい」

 サジタウル・ゲートの巨大な建造物を前に、必要な事以外は、ほとんど口にしない優秀な運転手が珍しく自分の意見を言っている。
 別れ際、いつもは、まるで悪夢から逃げるように、ハルシャはきっぱりと背を向けてさっさと立ち去っていく。
 振り向くことすらしなかった。
 サーシャの元へ帰ることが出来るのが、嬉しくて仕方がないというような態度だった。
 これまでネルソンは幾度も眼にして来たのだろう。
 だから。
 今日のハルシャの様子が違うことに、彼も気づいたのだ。

 別れた後も、ハルシャは飛行車をじっと見送っていた。
 三日後にしか会えないと言っても、わかったと、淡白な返事しか寄越さなかった。
 長い別離を悲しんでいるのは、自分だけなのかとジェイ・ゼルは思っていた。
 だが。
 ハルシャは、ずっと視線で、ジェイ・ゼルの姿を追い続けていた。
 その違いに、彼の胸が痛んだ。

「今日は、夕食を食べ損ねてしまってね」
 ジェイ・ゼルは、明るい声で言った。
「次会う時に、埋め合わせをしようと、約束をしたんだが――そのことが、気になっていたのかもしれないな。
 きちんと、約束を覚えていてくれるのか、と。ハルシャは、約束を守ることに、厳しいからね。一度約束を破ってしまってから、彼は私に疑いを抱いている」
 そんな風に、ごまかすようにジェイ・ゼルは言ってみた。
 ネルソンの返事はなかった。
 窓の外へ、ジェイ・ゼルは目を向ける。
「今のは、冗談だよ、ネルソン」
 沈黙の後、小さく、呟く。

 ネルソンは、ずっと使っている運転手だった。
 物静かで信頼できる人柄を、ジェイ・ゼルは高く評価していた。
「もう、五年、経ったのですね。ジェイ・ゼル様」

 ネルソンが静かに口を開いて、言った。
 そうだ。
 最初にハルシャを自分の会社に伴った時、運転を任せていたのは、ネルソンだった。

「そうだな」
 ここ数日のハルシャの態度の変化を、ネルソンも感じ取っているのだろうと、ジェイ・ゼルは思う。
 身を強張らせ屈辱に必死に耐えていた姿から、柔らかく彼に応えるように身を寄せるハルシャの変化を。
「五年、だ」

 十五歳の少年から、二十歳の青年へと彼は成長した。
 けれど。
 ジェイ・ゼルの中のハルシャは、まだ十五歳のまま。最初に彼が酷く抱いた痛みを抱えるいとけない少年の姿だった。
 愚かなことだ。
 再び、ジェイ・ゼルは思う。

「帰りは、もしかしたら早くなるかもしれない」
 ジェイ・ゼルは、話題を変えるように呟く。
「その時は、連絡を入れる」
 ネルソンは事務的に応える。
「はい、ご連絡をお待ちしております」
 そこで会話は終わった。

 ジェイ・ゼルが視線を向ける先に、外界ヴォードへの出口、サジタウル・ゲートの威容が迫っていた。











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