ほしのくさり

第74話  言いかけた言葉の続き






 
 『エリュシオン』でも、この深夜の時間帯では、食事を取り扱っていなかった。
 さて、どうしようかと呟くジェイ・ゼルに、ハルシャは、今夜の食事は気にしないでくれと、丁寧に言葉を尽くした。
 食事に誘ってくれていたのに、断ったのは自分だ。
 勝手を言ったのはハルシャの方なので、食事が出来なくても構わない。
 それに、サーシャと二人、過分な供応をすでに受けている。
 もう、十分だ、と、真心と共に、ジェイ・ゼルを説得する。
 心配してくれて、ありがとう。
 と、懸命に告げるハルシャに、しばらくジェイ・ゼルは無言で考え込んでいた。

 なら、次の機会に埋め合わせをしよう。

 そう呟いて、彼は自分の中で結論をつけたらしい。
 ハルシャは、ほっとした。
 言い出したが最後、ジェイ・ゼルは自分の意見を中々引かなかった。
 恐らく、口に出す前に相当考えているのだろう。
 彼の考えを翻すのは難しいと、ハルシャは五年の間に学んでいた。



「実は、二日ほど外へ出かける用事があってね」
 一緒に風呂を浴びた後、ジェイ・ゼルが服を着ながらハルシャに言う。
「次、君に逢えるのは、三日後になると思う」

 ハルシャは、その言葉を、身の内に刻み付ける。
「わかった、ジェイ・ゼル」
 こくんとうなずく。
「三日後だな。教えてくれて、ありがとう」
 自分も服を着ながら、ハルシャは言葉をこぼす。

 外、というのは、惑星トルディアの外ということだ。
 仕事の関係で、どこかの星に彼は出張しなくてはならないのだろう。
「大変だな、ジェイ・ゼル。道中、気を付けて」
 三日後なら、シヴォルトがもう工場を去っているだろう。
 その礼も、ジェイ・ゼルに今度会う時に言おう。
 考えながら、袖口を留める。

 不意に――
 ハルシャの手首が、つかまれた。
 あっと、思う間もなく引き寄せられて、ジェイ・ゼルの腕に包まれていた。
 何の前触れもなく、唇が重ねられた。
 しっとりとした熱を帯びた口づけだった。
 醒めたはずの熱が、再び内側にともりそうになる。
 しばらくそうやって無言で身を合わせてから、ゆっくりとジェイ・ゼルが口を離した。
 穏やかな口調で、彼が言葉を紡ぐ。

「今度会う時まで――」

 はっと、ハルシャは聞き覚えのある言葉に彼を見上げる。
 そうだ。夜明けまで初めて一緒に居た時、別れ際に彼はこれと同じ言葉を言った。
 あの時――そのまま続けようとして不意に言い淀み、苦い笑いと共に、怪我をするなと違う言葉にとっさにすり替えていた。
 本当は何を言いたかったのだろうと考えたことを、ハルシャは覚えていた。
 見つめる金の瞳に向けて、ジェイ・ゼルが呟いた。

「私の唇の温もりを、忘れないでくれ。ハルシャ」

 意外すぎる言葉に、恐らく自分は驚いていたのだろう。
 小さく、ジェイ・ゼルが微笑んで、顎を捉えると、親指でハルシャの唇をゆっくりと撫でた。
「私は、君の温もりを忘れない」
 神聖な誓いのように呟いてから、彼は顔を寄せて、もう一度ハルシャの唇を覆った。
 
 これを、飛行車の中で彼は言いたかったのだ。
 忘れないでくれと。
 次に会う時まで、自分の存在を――
 唇に残した、温もりを。
 心が触れ合った、あの朝に。

「忘れない」
 微かに離れた瞬間、ハルシャは呟いた。
「私も忘れない、ジェイ・ゼル」

 ぐっと、ジェイ・ゼルの眉が寄せられた。
「君は――」
 熱い息と共に、静かに呟く。
「私を煽るのが、本当に、上手だ――もう一度、君の中に入りたくなってしまう」
 苦しげに、ジェイ・ゼルが言葉を滴らせる。
「君が……君だけが、私を狂わせる」
 抱きしめる力が、強くなる。
「――ハルシャ」

 再び唇が重ねられる。
 熱を、ハルシャの中に刻み込もうとするかのように。

 ジェイ・ゼルが、馴染んだ形で触れ合う。
 舌を絡め、命を与えるように、口を覆っている。
 背中にあった彼の手が動き、二人の間に滑り込む。
 左腕にハルシャを捕えながら、右の手が今日も十分な愛撫を受けた胸の尖りを刺激し始めた。
「んっ、んんっ……ふうんっ……」
 優しい動きに、ハルシャは合わせた口の中に喘ぎを漏らす。
 もう出る準備を整え、部屋を立ち去るばかりだというのに、燠《おき》のような情交の残滓を、再び掻き立てるかのように、ジェイ・ゼルが体を愛撫する。

 知り尽くされている身体の敏感な部分を、彼の左の手が緩やかに撫であげる。
「んはっ、んっ」
 刺激に、身が揺れる。
「可愛い声だ」
 瞳をハルシャに据えながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「いつまでも、聞いていたくなる」
 息が、荒くなる。
 細めた眼にしばらくハルシャを捕えてから、ジェイ・ゼルは静かに再び唇を重ねた。
 たっぷりと口づけを交わした後、ジェイ・ゼルが身を引いた。
 頬を赤らめるハルシャを、細めた眼で見つめる。
「ハルシャ」
 静かな声が、耳に響く。
「その身に与えた熱も、忘れないでくれ――私が掻き立てた、君の内側の熱を」
 三日間の間に、自分を思い出してくれと、彼は言っているのだ。
 内の熱い疼きと共に。
 ハルシャも、何かを言おうとした。
「ジェイ・ゼル――」
 言いかけて、言葉を途切れさせ、ただ、眼差しを向ける。

 ジェイ・ゼルも、逢えない間、私を想っていてくれるか?
 
 言おうとした言葉が、口から出ない。
 理由は解らない。
 ただ、問いに答える彼の言葉を聞くのが恐かった。

 見上げるハルシャの髪を、優しくジェイ・ゼルが撫でた。
「また、連絡をする」
 左の腕につけ続けている、白い通話装置を強く意識する。
「待っている」
 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
 手が、髪を滑り、彼は静かにハルシャを解放した。
 
 床から鞄を拾い上げたハルシャを見て、ジェイ・ゼルが問いかけた。
「今日は、ボードを持ってきていないんだね、ハルシャ」
 ジェイ・ゼルは、かなり観察力が鋭い。わずかな変化も見逃さない。
「ああ」
 小さな鞄を背中に回しながら、ハルシャは短く答える。
「今日は、バスを使った」
「それは、良いことだ」

 思いもかけない言葉を、ジェイ・ゼルが呟く。
 ハルシャは、とっさに視線を向けた。
 彼も鞄を持ち上げながら、静かに言葉を続ける。

「君は運動神経が卓越しているから、ボードも難なく乗りこなすが、本来ボードはあまり安全とは言えないからね」
 黒い鞄を小脇に抱え、彼は大股にハルシャの側に歩いてきた。
「万が一転倒でもして怪我を負えば、君は順当に仕事が続けられなくなる」

 ああ。
 それを心配しているのか。
 と、ハルシャは納得する。
 ここ最近、彼がとても優しいので忘れそうになる。
 だが――
 自分は彼に、多額の借金を返さなくてはならない身だった。
 ふと、厳しい現実に引き戻される。
 そもそも彼との行為は、借金の利子と食費と家賃のための契約に基づくものだった。
 目を逸らしてきた現実が、今もそこにある。
 苦いものを、飲み込んだような気分になった。

 ハルシャの、わずかな表情の変化に、彼は気付いたようだった。
「どうした、ハルシャ」
 身の熱が感じられるほど近くで、ジェイ・ゼルが呟く。
「やはり空腹で、気分が悪いのか?」

 そうじゃない、ジェイ・ゼル。
 自分たちの関係の現実を思い出しただけだ。
 心を飲み込んで、ハルシャは首を振った。

「大丈夫だ、ジェイ・ゼル」
 明るい顔を彼に向ける。
「心配をさせてすまない。食事は本当に大丈夫だから」
 ハルシャの瞳を見つめてから、彼はゆっくりと瞬きをした。
 大きな手が、ハルシャの背に当てられる。
「行こうか、ハルシャ」
 促されるままに歩き出す。
 ジェイ・ゼルは落としたままの場所に横たわる、部屋の鍵を取り上げると扉を解放した。
 並んで、扉を出る。

 深夜のために廊下に人影は全くなかった。
 皆、眠りについているのだろう。
 その中を、ジェイ・ゼルと並んで歩く。
 彼はいつものように、左の手の平でハルシャの肩を包んだ。
 まだためらいはあるものの、ハルシャは心に決めたように、そっと彼の背中に腕を回した。
 ふんわりと、彼の胴に手を触れる。
 瞬間、ぎゅっと、ジェイ・ゼルの手に力が籠り身に引き寄せられた。
 顔が、やはり、赤くなる。
 それでも手は離さずに、身を寄せ合ったまま深夜の廊下を歩いていく。

 高級な床は音を吸い込む。
 ほとんど無音でチューブまでたどり着き、ジェイ・ゼルは下へと降りるボタンを押した。
手を引きながら彼が呟く。
「家まで、送って行こう」
 ボードが無い今、ジェイ・ゼルの申し出はありがたかった。
「ありがとう、とても助かる」
 ハルシャの言葉に、ちいさくジェイ・ゼルが笑う。
「だが、どうした心境の変化だ? 君がバスに乗るなんてな」
 どこへでも、ボードで突っ込んでいくことを揶揄《やゆ》するように、彼は言う。

「ラグレンの夜明けを、高い場所から眺めたくなった」
 色々考えた結果、ぽつんとハルシャは言ってみた。
 ふっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「今のはなかなか詩的な表現だったね、ハルシャ」

 ちんと音が響いて、二人の前で、チューブの扉が開いた。
 こんな時間なので、先客はいなかった。
 狭い空間に向けて一歩を出しながら、ジェイ・ゼルが笑って続ける。
「てっきり私は、夕食を食べ過ぎて体重が重くなってしまい、ボードに乗りにくくなったのかな、と。思ってしまったよ」
 は?
 と、ハルシャは、驚きを顔に出しながら、ジェイ・ゼルに並んで、チューブに乗り込む。
 彼はまだにこにこ笑いながら、総合受付の階のボタンを押した。
「健気に私の上で動こうと言ってくれたのも、もしかしたら、ダイエットのためかな……とまで、考えてしまった」
 そ。
 そんなことを、考えていたのか。
 思いやりを踏みにじられたようで、若干傷つく。
 わなわなと身を震わせるハルシャに、ジェイ・ゼルが微笑みながら視線を向ける。
「冗談だよ、ハルシャ」

 軽い圧がかかる。
 降下するチューブの壁にもたれて、ジェイ・ゼルが手を伸ばし、ハルシャの髪を撫でた。
「私のことを心配して、自分で動こうとしてくれたんだね。わかっているよ」
 頭の後ろに当てた手で、ゆっくりと自分の胸にハルシャを引き寄せる。
 柔らかい動きで、腕に包まれた。
「君が可愛い反応をするので、つい、からかってしまった。すまないね」
 髪に、頬が触れる。
「君の気持ちが、とても嬉しかった」
 言葉が、髪に降り注ぐ。
「とても――」

 優しい呟き一つで、ハルシャはからかわれた怒りが、収まっていくのを感じた。

 少しためらった後、ぎゅっと、彼の身を抱きしめ返す。
 ジェイ・ゼルが請うたように、自分の熱を彼にも覚えていてほしかった。
 三日――彼に逢えない。
 身を寄せながら、努めて冷静になろうと、必死にハルシャは自分に言い聞かせる。
 ジェイ・ゼルは、用事があるのだ。
 会えないのは、仕方がないことだ。
 寂しさをこぼしても、ジェイ・ゼルが困るだけだ。

「なるべく早く、帰ってくる」
 深い声が、耳元で響く。
「予定が決まり次第、連絡をする。待っていてくれ、ハルシャ」
 ジェイ・ゼルの言葉に、ハルシャは静かに肯いた。
「待っている」


 *


 いい子にしていたら、お土産を買ってきてあげるよ。
 そんな、まるで子どもに対するような言葉だけをかけて、ジェイ・ゼルは、ハルシャをオキュラ地域に残して、去っていった。
 今まで感じたことのない、寂しさが胸の中に滲み出してくる。
 どうして――
 彼と別れたばかりなのに。
 次に顔を見るのは三日後なのに。
 自分は今すぐ、ジェイ・ゼルに逢いたいとなど思ってしまうのだろう。

 黒い飛行車が消えるまで、ハルシャはじっと見つめていた。
 ふっと息を吐いて、踵を返す。
 もう夜明けが近いオキュラ地域を、不思議な寂寥感を抱きながら歩いていく。
 ためらいがちに指を上げて、そっと唇に触れる。
 彼の残した熱を、確かめるように。
 もう。
 自分の温もりしか、感じないというのに――

 ハルシャは小さく息を吐き、思い切るように手を下げた。
 サーシャの兄に、戻らなくてはならない。
 あと少しで自宅だ。

 薄い街灯の光を頼りに、ハルシャは細い路地を辿って自宅の集合住宅へとたどり着いた。
 五年間続けてきた習慣で、静かに音を立てずに、二階に上がる階段を踏みしめる。
 上がり切った廊下でハルシャは足を止めた。

 自分たちの部屋の前に、誰か、いる。

 警戒をにじませて、ハルシャは様子をうかがう。
 闇に慣れてきた目に、扉の前の人物がはっきりと認識できた。
 目を驚きに見開くと、ハルシャは止めていた足を素早く動かし、部屋の前の人物の元に急いだ。
「リュウジ――」
 夜中であるのをはばかって、低めた声で、ハルシャは扉にもたれてしゃがみ込む、姿に声をかけた。

 扉の前に居たのはリュウジだった。
 膝を抱えるようにして、自分たちの部屋の前に座り込んでいる。

「どうしたんだ、一体……鍵を無くして、部屋に入れなかったのか?」
 座るリュウジの横に、ハルシャは、膝を折った。
「おかえりなさい、ハルシャ」
 屈託ない笑顔を、リュウジが自分に向けてくる。
 だが。
 彼の息にこもるにおいに、はっと表情が動く。

「どうしたんだ、ファグラーダ酒を飲んだのか?」
 銀河帝国最低最悪のお酒の名を、ハルシャは呟いていた。独特のにおいがリュウジの身体からあふれだしている。
「気付かれましたか?」
 リュウジがにこにこと笑う。
 冗談ではない。
「相当の量を飲んのだろう。解毒しないと危険だ」
 それほど、恐ろしい酒だった。
 身の外に漂い出すなら、グラス三杯以上は飲んでいるはずだ。
「ハルシャたちのお部屋に、このにおいを染みつかせては悪いと思って――」
「それで、外に居たのか? 何て危険なことを」

 ハルシャは、血の気が下がりそうになった。
 オキュラ地域で、壁の外で長時間いるなど正気の沙汰ではない。

「においなど、どうでもいい。部屋に入ろう、リュウジ」
 眉を寄せて、解毒剤があっただろうか、とハルシャは部屋の中の薬剤を思い浮かべる。
 なかった、と。思う。
 どうしたらいいだろう。
 悩みながら立ち上がろうとしたハルシャの腕に、引き留めるようとするかのごとく、リュウジの手が触れた。
 その右の手の平に、止血剤が貼られているのにハルシャは気付いた。
 しかもかなり血を吸っている。

「手を、どうしたんだ、リュウジ」
 ああ、と彼は気付いたように微笑んだ。
「こけて、少々怪我をしてしまいました」
 少々というレベルではない。
 素早く止血するはずのものが、溢れた血を吸いきれずに色を変じている。
「まだ、血が止まっていない」
 ファグラーダ酒を飲むと、血が止まりにくくなるという話をハルシャは思い出した。
 怪我人がファグラーダ酒を飲んでいたら、止血よりも先に、アルコールの解毒を行うという話も。
 これはもしかしたら、自分が思っている以上に危険な状態かもしれない。

「メリーウェザ先生の所に行こう」
 とっさに、ハルシャは判断を下した。
「手の傷を診てもらおう。ファグラーダ酒の解毒もして下さるはずだ」
「ドルディスタ・メリーウェザに、ご迷惑をおかけしてしまいます」
 リュウジの静かな声が響く。
「だが――」
「ハルシャ」
 思わぬ強い口調で、リュウジが言った。
 その言葉に気圧されるように、ハルシャは黙り込んだ。
 リュウジの黒に近い深い色の瞳がハルシャを見つめていた。

「僕がここに居たのは、あなたをお待ちしていたからです。サーシャのいないところで、どうしてもお話したいことがあります」
 
 そんな理由で――
 危険なオキュラ地域の外で、彼は待っていたというのか。

「話は聞く。だが部屋に入ろう。外は危険だ。リュウジ、ここはオキュラ地域なんだ」
 ハルシャの言葉が聞こえなかったように、リュウジは話を続けた。

「今日あなたが会合を持った、上司のジェイ・ゼルという人物ですが」
 真っ直ぐな、きれいな瞳がハルシャを見つめる。
「彼の後ろには、『ダイモン』という質の悪い組織があることを存知でしたか」
 






Page Top