『エリュシオン』でも、この深夜の時間帯では、食事を取り扱っていなかった。
さて、どうしようかと呟くジェイ・ゼルに、ハルシャは、今夜の食事は気にしないでくれと、丁寧に言葉を尽くした。
食事に誘ってくれていたのに、断ったのは自分だ。
勝手を言ったのはハルシャの方なので、食事が出来なくても構わない。
それに、サーシャと二人、過分な供応をすでに受けている。
もう、十分だ、と、真心と共に、ジェイ・ゼルを説得する。
心配してくれて、ありがとう。
と、懸命に告げるハルシャに、しばらくジェイ・ゼルは無言で考え込んでいた。
なら、次の機会に埋め合わせをしよう。
そう呟いて、彼は自分の中で結論をつけたらしい。
ハルシャは、ほっとした。
言い出したが最後、ジェイ・ゼルは自分の意見を中々引かなかった。
恐らく、口に出す前に相当考えているのだろう。
彼の考えを翻すのは難しいと、ハルシャは五年の間に学んでいた。
「実は、二日ほど外へ出かける用事があってね」
一緒に風呂を浴びた後、ジェイ・ゼルが服を着ながらハルシャに言う。
「次、君に逢えるのは、三日後になると思う」
ハルシャは、その言葉を、身の内に刻み付ける。
「わかった、ジェイ・ゼル」
こくんとうなずく。
「三日後だな。教えてくれて、ありがとう」
自分も服を着ながら、ハルシャは言葉をこぼす。
外、というのは、惑星トルディアの外ということだ。
仕事の関係で、どこかの星に彼は出張しなくてはならないのだろう。
「大変だな、ジェイ・ゼル。道中、気を付けて」
三日後なら、シヴォルトがもう工場を去っているだろう。
その礼も、ジェイ・ゼルに今度会う時に言おう。
考えながら、袖口を留める。
不意に――
ハルシャの手首が、つかまれた。
あっと、思う間もなく引き寄せられて、ジェイ・ゼルの腕に包まれていた。
何の前触れもなく、唇が重ねられた。
しっとりとした熱を帯びた口づけだった。
醒めたはずの熱が、再び内側にともりそうになる。
しばらくそうやって無言で身を合わせてから、ゆっくりとジェイ・ゼルが口を離した。
穏やかな口調で、彼が言葉を紡ぐ。
「今度会う時まで――」
はっと、ハルシャは聞き覚えのある言葉に彼を見上げる。
そうだ。夜明けまで初めて一緒に居た時、別れ際に彼はこれと同じ言葉を言った。
あの時――そのまま続けようとして不意に言い淀み、苦い笑いと共に、怪我をするなと違う言葉にとっさにすり替えていた。
本当は何を言いたかったのだろうと考えたことを、ハルシャは覚えていた。
見つめる金の瞳に向けて、ジェイ・ゼルが呟いた。
「私の唇の温もりを、忘れないでくれ。ハルシャ」
意外すぎる言葉に、恐らく自分は驚いていたのだろう。
小さく、ジェイ・ゼルが微笑んで、顎を捉えると、親指でハルシャの唇をゆっくりと撫でた。
「私は、君の温もりを忘れない」
神聖な誓いのように呟いてから、彼は顔を寄せて、もう一度ハルシャの唇を覆った。
これを、飛行車の中で彼は言いたかったのだ。
忘れないでくれと。
次に会う時まで、自分の存在を――
唇に残した、温もりを。
心が触れ合った、あの朝に。
「忘れない」
微かに離れた瞬間、ハルシャは呟いた。
「私も忘れない、ジェイ・ゼル」
ぐっと、ジェイ・ゼルの眉が寄せられた。
「君は――」
熱い息と共に、静かに呟く。
「私を煽るのが、本当に、上手だ――もう一度、君の中に入りたくなってしまう」
苦しげに、ジェイ・ゼルが言葉を滴らせる。
「君が……君だけが、私を狂わせる」
抱きしめる力が、強くなる。
「――ハルシャ」
再び唇が重ねられる。
熱を、ハルシャの中に刻み込もうとするかのように。
ジェイ・ゼルが、馴染んだ形で触れ合う。
舌を絡め、命を与えるように、口を覆っている。
背中にあった彼の手が動き、二人の間に滑り込む。
左腕にハルシャを捕えながら、右の手が今日も十分な愛撫を受けた胸の尖りを刺激し始めた。
「んっ、んんっ……ふうんっ……」
優しい動きに、ハルシャは合わせた口の中に喘ぎを漏らす。
もう出る準備を整え、部屋を立ち去るばかりだというのに、燠《おき》のような情交の残滓を、再び掻き立てるかのように、ジェイ・ゼルが体を愛撫する。
知り尽くされている身体の敏感な部分を、彼の左の手が緩やかに撫であげる。
「んはっ、んっ」
刺激に、身が揺れる。
「可愛い声だ」
瞳をハルシャに据えながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「いつまでも、聞いていたくなる」
息が、荒くなる。
細めた眼にしばらくハルシャを捕えてから、ジェイ・ゼルは静かに再び唇を重ねた。
たっぷりと口づけを交わした後、ジェイ・ゼルが身を引いた。
頬を赤らめるハルシャを、細めた眼で見つめる。
「ハルシャ」
静かな声が、耳に響く。
「その身に与えた熱も、忘れないでくれ――私が掻き立てた、君の内側の熱を」
三日間の間に、自分を思い出してくれと、彼は言っているのだ。
内の熱い疼きと共に。
ハルシャも、何かを言おうとした。
「ジェイ・ゼル――」
言いかけて、言葉を途切れさせ、ただ、眼差しを向ける。
ジェイ・ゼルも、逢えない間、私を想っていてくれるか?
言おうとした言葉が、口から出ない。
理由は解らない。
ただ、問いに答える彼の言葉を聞くのが恐かった。
見上げるハルシャの髪を、優しくジェイ・ゼルが撫でた。
「また、連絡をする」
左の腕につけ続けている、白い通話装置を強く意識する。
「待っている」
ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
手が、髪を滑り、彼は静かにハルシャを解放した。
床から鞄を拾い上げたハルシャを見て、ジェイ・ゼルが問いかけた。
「今日は、ボードを持ってきていないんだね、ハルシャ」
ジェイ・ゼルは、かなり観察力が鋭い。わずかな変化も見逃さない。
「ああ」
小さな鞄を背中に回しながら、ハルシャは短く答える。
「今日は、バスを使った」
「それは、良いことだ」
思いもかけない言葉を、ジェイ・ゼルが呟く。
ハルシャは、とっさに視線を向けた。
彼も鞄を持ち上げながら、静かに言葉を続ける。
「君は運動神経が卓越しているから、ボードも難なく乗りこなすが、本来ボードはあまり安全とは言えないからね」
黒い鞄を小脇に抱え、彼は大股にハルシャの側に歩いてきた。
「万が一転倒でもして怪我を負えば、君は順当に仕事が続けられなくなる」
ああ。
それを心配しているのか。
と、ハルシャは納得する。
ここ最近、彼がとても優しいので忘れそうになる。
だが――
自分は彼に、多額の借金を返さなくてはならない身だった。
ふと、厳しい現実に引き戻される。
そもそも彼との行為は、借金の利子と食費と家賃のための契約に基づくものだった。
目を逸らしてきた現実が、今もそこにある。
苦いものを、飲み込んだような気分になった。
ハルシャの、わずかな表情の変化に、彼は気付いたようだった。
「どうした、ハルシャ」
身の熱が感じられるほど近くで、ジェイ・ゼルが呟く。
「やはり空腹で、気分が悪いのか?」
そうじゃない、ジェイ・ゼル。
自分たちの関係の現実を思い出しただけだ。
心を飲み込んで、ハルシャは首を振った。
「大丈夫だ、ジェイ・ゼル」
明るい顔を彼に向ける。
「心配をさせてすまない。食事は本当に大丈夫だから」
ハルシャの瞳を見つめてから、彼はゆっくりと瞬きをした。
大きな手が、ハルシャの背に当てられる。
「行こうか、ハルシャ」
促されるままに歩き出す。
ジェイ・ゼルは落としたままの場所に横たわる、部屋の鍵を取り上げると扉を解放した。
並んで、扉を出る。
深夜のために廊下に人影は全くなかった。
皆、眠りについているのだろう。
その中を、ジェイ・ゼルと並んで歩く。
彼はいつものように、左の手の平でハルシャの肩を包んだ。
まだためらいはあるものの、ハルシャは心に決めたように、そっと彼の背中に腕を回した。
ふんわりと、彼の胴に手を触れる。
瞬間、ぎゅっと、ジェイ・ゼルの手に力が籠り身に引き寄せられた。
顔が、やはり、赤くなる。
それでも手は離さずに、身を寄せ合ったまま深夜の廊下を歩いていく。
高級な床は音を吸い込む。
ほとんど無音でチューブまでたどり着き、ジェイ・ゼルは下へと降りるボタンを押した。
手を引きながら彼が呟く。
「家まで、送って行こう」
ボードが無い今、ジェイ・ゼルの申し出はありがたかった。
「ありがとう、とても助かる」
ハルシャの言葉に、ちいさくジェイ・ゼルが笑う。
「だが、どうした心境の変化だ? 君がバスに乗るなんてな」
どこへでも、ボードで突っ込んでいくことを揶揄《やゆ》するように、彼は言う。
「ラグレンの夜明けを、高い場所から眺めたくなった」
色々考えた結果、ぽつんとハルシャは言ってみた。
ふっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「今のはなかなか詩的な表現だったね、ハルシャ」
ちんと音が響いて、二人の前で、チューブの扉が開いた。
こんな時間なので、先客はいなかった。
狭い空間に向けて一歩を出しながら、ジェイ・ゼルが笑って続ける。
「てっきり私は、夕食を食べ過ぎて体重が重くなってしまい、ボードに乗りにくくなったのかな、と。思ってしまったよ」
は?
と、ハルシャは、驚きを顔に出しながら、ジェイ・ゼルに並んで、チューブに乗り込む。
彼はまだにこにこ笑いながら、総合受付の階のボタンを押した。
「健気に私の上で動こうと言ってくれたのも、もしかしたら、ダイエットのためかな……とまで、考えてしまった」
そ。
そんなことを、考えていたのか。
思いやりを踏みにじられたようで、若干傷つく。
わなわなと身を震わせるハルシャに、ジェイ・ゼルが微笑みながら視線を向ける。
「冗談だよ、ハルシャ」
軽い圧がかかる。
降下するチューブの壁にもたれて、ジェイ・ゼルが手を伸ばし、ハルシャの髪を撫でた。
「私のことを心配して、自分で動こうとしてくれたんだね。わかっているよ」
頭の後ろに当てた手で、ゆっくりと自分の胸にハルシャを引き寄せる。
柔らかい動きで、腕に包まれた。
「君が可愛い反応をするので、つい、からかってしまった。すまないね」
髪に、頬が触れる。
「君の気持ちが、とても嬉しかった」
言葉が、髪に降り注ぐ。
「とても――」
優しい呟き一つで、ハルシャはからかわれた怒りが、収まっていくのを感じた。
少しためらった後、ぎゅっと、彼の身を抱きしめ返す。
ジェイ・ゼルが請うたように、自分の熱を彼にも覚えていてほしかった。
三日――彼に逢えない。
身を寄せながら、努めて冷静になろうと、必死にハルシャは自分に言い聞かせる。
ジェイ・ゼルは、用事があるのだ。
会えないのは、仕方がないことだ。
寂しさをこぼしても、ジェイ・ゼルが困るだけだ。
「なるべく早く、帰ってくる」
深い声が、耳元で響く。
「予定が決まり次第、連絡をする。待っていてくれ、ハルシャ」
ジェイ・ゼルの言葉に、ハルシャは静かに肯いた。
「待っている」
*
いい子にしていたら、お土産を買ってきてあげるよ。
そんな、まるで子どもに対するような言葉だけをかけて、ジェイ・ゼルは、ハルシャをオキュラ地域に残して、去っていった。
今まで感じたことのない、寂しさが胸の中に滲み出してくる。
どうして――
彼と別れたばかりなのに。
次に顔を見るのは三日後なのに。
自分は今すぐ、ジェイ・ゼルに逢いたいとなど思ってしまうのだろう。
黒い飛行車が消えるまで、ハルシャはじっと見つめていた。
ふっと息を吐いて、踵を返す。
もう夜明けが近いオキュラ地域を、不思議な寂寥感を抱きながら歩いていく。
ためらいがちに指を上げて、そっと唇に触れる。
彼の残した熱を、確かめるように。
もう。
自分の温もりしか、感じないというのに――
ハルシャは小さく息を吐き、思い切るように手を下げた。
サーシャの兄に、戻らなくてはならない。
あと少しで自宅だ。
薄い街灯の光を頼りに、ハルシャは細い路地を辿って自宅の集合住宅へとたどり着いた。
五年間続けてきた習慣で、静かに音を立てずに、二階に上がる階段を踏みしめる。
上がり切った廊下でハルシャは足を止めた。
自分たちの部屋の前に、誰か、いる。
警戒をにじませて、ハルシャは様子をうかがう。
闇に慣れてきた目に、扉の前の人物がはっきりと認識できた。
目を驚きに見開くと、ハルシャは止めていた足を素早く動かし、部屋の前の人物の元に急いだ。
「リュウジ――」
夜中であるのをはばかって、低めた声で、ハルシャは扉にもたれてしゃがみ込む、姿に声をかけた。
扉の前に居たのはリュウジだった。
膝を抱えるようにして、自分たちの部屋の前に座り込んでいる。
「どうしたんだ、一体……鍵を無くして、部屋に入れなかったのか?」
座るリュウジの横に、ハルシャは、膝を折った。
「おかえりなさい、ハルシャ」
屈託ない笑顔を、リュウジが自分に向けてくる。
だが。
彼の息にこもるにおいに、はっと表情が動く。
「どうしたんだ、ファグラーダ酒を飲んだのか?」
銀河帝国最低最悪のお酒の名を、ハルシャは呟いていた。独特のにおいがリュウジの身体からあふれだしている。
「気付かれましたか?」
リュウジがにこにこと笑う。
冗談ではない。
「相当の量を飲んのだろう。解毒しないと危険だ」
それほど、恐ろしい酒だった。
身の外に漂い出すなら、グラス三杯以上は飲んでいるはずだ。
「ハルシャたちのお部屋に、このにおいを染みつかせては悪いと思って――」
「それで、外に居たのか? 何て危険なことを」
ハルシャは、血の気が下がりそうになった。
オキュラ地域で、壁の外で長時間いるなど正気の沙汰ではない。
「においなど、どうでもいい。部屋に入ろう、リュウジ」
眉を寄せて、解毒剤があっただろうか、とハルシャは部屋の中の薬剤を思い浮かべる。
なかった、と。思う。
どうしたらいいだろう。
悩みながら立ち上がろうとしたハルシャの腕に、引き留めるようとするかのごとく、リュウジの手が触れた。
その右の手の平に、止血剤が貼られているのにハルシャは気付いた。
しかもかなり血を吸っている。
「手を、どうしたんだ、リュウジ」
ああ、と彼は気付いたように微笑んだ。
「こけて、少々怪我をしてしまいました」
少々というレベルではない。
素早く止血するはずのものが、溢れた血を吸いきれずに色を変じている。
「まだ、血が止まっていない」
ファグラーダ酒を飲むと、血が止まりにくくなるという話をハルシャは思い出した。
怪我人がファグラーダ酒を飲んでいたら、止血よりも先に、アルコールの解毒を行うという話も。
これはもしかしたら、自分が思っている以上に危険な状態かもしれない。
「メリーウェザ先生の所に行こう」
とっさに、ハルシャは判断を下した。
「手の傷を診てもらおう。ファグラーダ酒の解毒もして下さるはずだ」
「ドルディスタ・メリーウェザに、ご迷惑をおかけしてしまいます」
リュウジの静かな声が響く。
「だが――」
「ハルシャ」
思わぬ強い口調で、リュウジが言った。
その言葉に気圧されるように、ハルシャは黙り込んだ。
リュウジの黒に近い深い色の瞳がハルシャを見つめていた。
「僕がここに居たのは、あなたをお待ちしていたからです。サーシャのいないところで、どうしてもお話したいことがあります」
そんな理由で――
危険なオキュラ地域の外で、彼は待っていたというのか。
「話は聞く。だが部屋に入ろう。外は危険だ。リュウジ、ここはオキュラ地域なんだ」
ハルシャの言葉が聞こえなかったように、リュウジは話を続けた。
「今日あなたが会合を持った、上司のジェイ・ゼルという人物ですが」
真っ直ぐな、きれいな瞳がハルシャを見つめる。
「彼の後ろには、『ダイモン』という質の悪い組織があることを存知でしたか」