深夜になっても、ハルシャは家に戻ってこなかった。
サーシャは、慣れているのか、別段不安を口にすることなく、今日のアルバイト先である飲食店から貰ってきた残り物を、夕食としてリュウジの前に並べる。
家に戻った時、サーシャはすでに帰り着いていて、彼を笑顔で迎えてくれた。
だが、手の傷と、身から漂い出すファグラーダ酒のにおいに、盛大に彼女は眉を寄せた。
「どうしたの、リュウジ?」
止血剤が施された右の手の平とリュウジの顔とを、サーシャのきれいな青の瞳が往復する。
「一人で帰る道中、転んでしまいました」
手の平を隠しながら、リュウジは特上の笑顔で言う。
「そうしたら、親切な方が通りかかって、簡単な治療をして下さったのです」
にこにこと笑い、力技でリュウジはサーシャを説得する。
「その方となぜか気が合ってしまって、お酒までご馳走になってしまいました。
遅くなってすみません、サーシャ」
本当は、お家でお迎えしてあげようと思っていたのですが、と、リュウジは優しく付け加えた。
サーシャはまだ眉を寄せたまま、じっとリュウジを見つめる。
言っていることが本当かどうか、懸命に検討している顔だ。
彼ら兄妹は、善良すぎる。
相手の言っていることを、とりあえず信じるという美徳を持っていた。
「――もう、手は痛くないの?」
悩んだ末に、サーシャは疑いよりもリュウジへの気遣いを口にした。
心の底がほのぼのと温かくなり、彼は静かに微笑んだ。
「小さな傷です。今は、全然痛くありません」
ずきんずきんと、打ち寄せる様な痛みを無視して、リュウジは穏やかに彼女の危惧を解いた。
サーシャの形のいい眉がほどける。
「気を付けないと、ダメだよ、リュウジ」
保護者のような口ぶりになり、サーシャが明るい口調で言う。
「小さい傷でも、化膿したら危ないよ。明日、メリーウェザ先生に診てもらったほうが良いよ。明日はサーシャも、先生のところでアルバイトだから」
うわべだけではなく、心から心配するサーシャの言葉に、素直にリュウジはうなずいた。
「はい。明日、お仕事からの帰りに、ドルディスタ・メリーウェザのところへ寄ります」
それで安心したようだ。こくんとサーシャがうなずいた。
「そうしたら、リュウジたちが来るまで、先生のところで待っているね」
「了解いたしました。明日にすることはそれほどないので、あまり遅くならないと思います」
笑顔が、サーシャの顔にこぼれた。
金色の髪の天使のような子。
リンダ・セラストンの表現した通りだ。
間違って暗黒の街に降り立ってしまった、無邪気な天使のようだ。
彼女の周りだけが、ほのかに明るい気がした。
ハルシャは、懸命に妹を守り慈しんでいる。
それと同じように、サーシャもまた兄の心の拠り所として、必死に彼を支えていた。
「ご飯にしようか、リュウジ。お兄ちゃんは、今日は要らないって言っていたから。先に食べようね。大将が残り物を持たせてくれたの。鳥のから揚げ風で、とっても美味しいよ」
「それは、嬉しいです」
リュウジは言いながら靴を脱ぐ。
「お酒のにおいを部屋に持ち込んで、申し訳ないです」
自分は感じないが、相当きつい匂いだろう。なにせ、ファグラーダ酒だ。
「お兄ちゃんは全然飲まないから、慣れていないだけ。大丈夫だよ、リュウジ」
心を軽くしてくれるように、サーシャが言う。
「なんてお酒なの?」
「ファグラーダ酒です」
サーシャの顔が引きつった。
「メリーウェザ先生が言っていた、とってもきついお酒?」
リュウジは思わず笑ってしまった。
「そうです。大人になっても、僕は飲むのをお勧めしません。その方が健康に良いですよ。サーシャ」
そんなお酒をなぜ飲むのだろう? と、サーシャは引きつった笑いを浮かべる。
「それなのに、飲んだんだね、リュウジ」
にこっと、笑って、サーシャの配膳を手伝いながら、小さくリュウジは呟く。
「勧められたら、杯を断れないのが大人の流儀なのです」
ふうんと、サーシャは眉を寄せて言う。
「大変なんだね、大人って」
半分納得し半分腑に落ちない顔で、サーシャは貰ってきた料理をお皿に丁寧に盛り付けていく。
サーシャの指示に従って、机の上に、きちんとお皿を配置し食事の準備を終える。
ずっと、こうしてこの兄と妹と暮らしているような錯覚が生じる。
彼らは、こんな底辺の街にあっても、一流の食マナーを崩すことなく日々の生活を営んでいる。
ハルシャの心がけなのだろう。
どんな場所にあっても、彼は誇り高く気品があった。
そして、彼が慈しむ妹も、愛らしく上品だった。
どんな醜いものも、彼らの心を冒せないかのように。
美しいものを見たと思った。
信頼に満ちた視線を、静かに交わして微笑む兄と妹を目にした時に。
両親を失ってからの五年間を、互いだけを支えに生き抜いてきた強い絆を感じた。
もし、サーシャが記憶を失って行方不明になったら――
ハルシャは、宇宙の果てまで彼女を探すと言い切った。彼ならそうするだろう。どこまでも妹を求めて探し続けるだろう。
引き離せないほどに、二人を結ぶものは強かった。
かぐわしい香りの立ち上がる料理を前に、サーシャが祈りを捧げる。
天地への感謝だった。
「いただきます」
丁寧に天地に謝辞を述べた後、頭を深々と下げてからサーシャは食事を始めた。
リュウジも習って、静かに食事を始める。
「美味しいです、サーシャ」
彼の言葉に、にこっとサーシャが笑った。
「大将の料理は、最高だよね、リュウジ」
宿題を見終えトランプで遊んだ後も、ハルシャは戻らなかった。
サーシャはぬいぐるみ生物の扱い方をどこかで学んだのか、丁寧にブラッシングをしてあげていた。
床にぺたりと座り込んで、毛の先のもつれを梳く。
指の動きを見守りながら、椅子に座ったままリュウジはにこやかに声をかけた。
「アルフォンソ二世は、ご機嫌ですね」
リュウジの言葉に、頬を赤らめながらサーシャは嬉しそうに微笑んだ。
「校長先生にも、昨日よりも毛の艶が良くなったって褒めて下さったの」
茶色のぬいぐるみ生物の目を、じっとサーシャが見つめている。
「前に持っていた人は、どんな人かな……。その人のためにも、アルフォンソ二世を大事にしなくてはならないって思うの」
小さな声で、サーシャが呟いた。
深く、リュウジの胸が痛んだ。
前の持ち主は身を売られて、大切なぬいぐるみ生物を手離すしかなかった。
それは、サーシャの身にも起こりうる未来だった。
「今、アルフォンソ二世はサーシャのものなのですから」
苦しい胸の内を悟られないように、明るい声でリュウジは言った。
「あまり前の持ち主のことをなど考えずに、大切にしたらいいと思いますよ。アルフォンソ二世も、サーシャのことだけを考えているのではないでしょうか」
そうだね、と、すぐにサーシャは答えなかった。
じっと、ウサギ型のぬいぐるみ生物を見つめる。
「でもね、リュウジ」
消えそうな声でサーシャが呟く。
「前のご主人のことが、恋しそうだよ。アルフォンソ二世は」
不意に、ぎゅっと、サーシャは茶色のウサギを抱きしめた。
「大切に育ててくれた人の側に、本当は居たいって言っているよ」
恒星ラーガンナの光をたっぷりと吸い込み、ふかふかとするぬいぐるみ生物に、サーシャは顔を埋めて動かなかった。
「サーシャには、わかるの――同じだから」
押し付けた場所から、滴るような声が響く。
リュウジは、深い藍色の瞳に、顔をぬいぐるみ生物に押し付けて、必死に内側の想いに耐える小さな肩を映していた。
サーシャは、まだ十一歳だった。
まだ甘えたい盛りの年ごろだ。
なのに、このオキュラ地域で、彼女は急いで大人にならなくてはならなかった。
懸命に兄を支え、日々の食糧を確保し、二つの仕事を掛け持ちし働いている。
リュウジは椅子から立ち上ると、サーシャの傍らの床に腰を下ろした。
「サーシャは、六歳の時に、ご両親を亡くされたのですね」
こくんと、頭が揺れた。
「覚えていますか、その時のことを」
ゆっくりと、サーシャは首を振った。
「あまり、覚えていないの」
ぬいぐるみ生物越しの、くぐもった声が聞こえる。
「お父さまのことも。お母さまのことも」
忘れてしまったことに罪悪感を抱くように、サーシャが呟く。
「でも、お兄ちゃんが――」
ぎゅっとぬいぐるみ生物に絡める腕の力を強くして、彼女は続ける。
「サーシャの顔はお母さまにそっくりだから、逢いたくなったら、鏡を見たらそこにお母さまがいらっしゃると教えて下さったから」
だから。
鏡を見るのですか。
サーシャが時折、表面が曇った鏡を一生懸命に覗いている姿を、リュウジは眼にしていた。
鏡で自分の髪を確認しているのかと最初は思ったが、どうも様子が違う。
自分を通して、遠い所を見つめる眼差しだった。
あれは――
たった一つ、彼女が失った母親に近づくことが出来る方法だったのだ。
懸命に失った母の姿を求めて、サーシャは鏡を見つめていたのだ。
大人びた行動と言動をしながらも――
彼女は両親のことを、今でも恋い慕っていた。
決して言葉には出さずに。出せずに。
言わしてあげた方が、良いかもしれない。
押し込めた想いは口に出した方が楽になることがある。
「お母さまに、逢いたいですか」
リュウジは静かに問いかけた。
一瞬の間の後、
「鏡を見たら、お逢いできるから」
と、小さな声で、サーシャが呟いた。
長い沈黙の後、ぽつんと彼女は言葉をこぼした。
「お兄ちゃんも我慢しているから、サーシャも我慢しなくちゃ。サーシャが泣いたら、お兄ちゃんが悲しむから――」
ぎゅっとぬいぐるみ生物を抱きしめて、サーシャは身を震わせながら言った。
「サーシャは、平気だよ。リュウジ」
逢いたいと。
寂しいと。
本当は、泣き叫びたいのだ。
なのに、兄の前で言ってはならないと、サーシャは必死に我慢し続けている。
泣かないで、サーシャ。
眠りの中で、ハルシャがうわ言のように小さく呟いていたのを、リュウジは聞いていた。
ずっと、ハルシャはサーシャにそう言ってきたのだろう。眠りの中でも、妹を心配するほどに。
だから――サーシャは泣くことが出来なかった。
廃材屋で素直に涙を流したとき、ひどくハルシャはうろたえていた。
サーシャは、兄の前では泣いてはいけないと思っているのだろう。
リュウジは、彼女の水晶の欠片のような透明な涙を見つめながら思った。
泣けば、兄が悲しむ。
毎日元気で明るく振る舞うことが、幼い彼女に出来るたった一つ、兄を慰める方法だったのだろう。無意識に彼女は兄の求めるように行動していた。
大丈夫だよ、お兄ちゃん。
サーシャは、嬉しいよ。
いつも、いつも。
兄の前で、サーシャは笑顔で気丈に振る舞っている。
けれど。
彼女は六歳の時に両親を失って、まだ、十一歳になったばかりなのだ。
必死に涙をこらえる肩を見つめながら、リュウジは呟いた。
「愛してくれた人を、失うのは辛いですね」
手を伸ばして、優しく金色の髪を撫でる。
「アルフォンソ二世も、懸命に我慢しているのですね。声も出せずに、動きもできないから。でも――」
サーシャの耳に、優しく言葉をこぼす。
「その見えないアルフォンソ二世の想いに、サーシャは気付いてあげたのですね」
なだめるように、髪を撫でる。
同じだとサーシャは言った。
自分とアルフォンソ二世は一緒だと。
ぬいぐるみ生物のように、目に涙をためることをせず、心の中だけで彼女は泣いているのだろう。愛しい人たちに一目だけでも逢いたいと。
だから、ぬいぐるみ生物の無表情な中に、想いを汲み取ってあげたのかもしれない。
「サーシャには、アルフォンソ二世の想いが解るのですね。同じなのですね、サーシャと」
うっ、うっ、と、小さな嗚咽が聞こえた。
必死に涙をこらえるサーシャに、とんとんと背中を優しく慰撫するように叩く。
「我慢しなくていいですよ。ハルシャはまだ帰ってきません。涙を流せないアルフォンソ二世の代わりに、サーシャが泣いてあげてください」
小さな体が、震え出した。
嗚咽が大きくなった。
震える彼女の小さな体を、ぬいぐるみ生物越しにリュウジは腕に包んだ。
片手を離して、サーシャがリュウジの服を掴む。
ぎゅっとつかむ力の強さに、ふとリュウジは胸を突かれた。
「大丈夫ですよ。誰も聞いていません。ここにいるのは、サーシャと、僕と、ぬいぐるみ生物だけです」
身の温もりであやしながら、リュウジは小さく呟いた。
「誰も聞いていません。安心してください。思いっきり泣いたらいいですよ」
震える身を、優しく包む。
「本当は、お父さまとお母さまに、逢いたいのですね、サーシャ」
突然、サーシャが声を放って泣き始めた。
懸命にこらえ続けて来た涙を、今、サーシャが流している。
「辛かったですね」
とんとんと、背中を慰撫する。
「サーシャは、えらかったですね」
おいおいと泣きじゃくる身を抱きしめて、静かにリュウジは揺すってあげた。
「よく頑張ってきましたね、えらかったですよ、サーシャ」
遠い昔にそうやって自分も慰められたように、労りに満ちた言葉をサーシャにリュウジはかける。
「一人で、お留守番も、ずっとして来たのですね。寂しかったですね」
リュウジの言葉に、身を震わせてサーシャが号泣する。
たくさん泣いたらいいです。
流せる涙は、流したらいいのです。
我慢しなくていいですよ、サーシャ。
何度も、何度も、リュウジは小さな体に向けて静かに語り続けた。
泣き続け、苦しげにしゃくりあげながら、リュウジの腕の中に、こらえ続けた日々をサーシャが吐き出していた。
黙って、リュウジは彼女の悲しみを受け止めていてあげた。
次第に、声が小さく、すすり泣きに変わった。
ひっく、ひっくと、喉を引きつらせていたが、やがて静かになっていった。
とんとんと、リュウジは背をなだめるように静かに手でたたいていた。
泣き声が収まると同時に、不意にサーシャの身が重くなった。
ぎゅっとリュウジの服を握りしめたまま、彼女は泣き疲れて寝てしまったようだった。
身を預けるサーシャの背中を、眠りが深くなるまで、一定のリズムで静かにリュウジはとんとんと優しく叩き続けた。
幼子にするような動作に心が慰められたのか、サーシャから、すーっ、すーっと、穏やかな寝息が漏れ始めた。
サーシャは、生きるために、大人になるしかなかった。
甘えることが出来ない中で、どこかに心が置き去りにされてきたのだろう。
廃材屋で、ぬいぐるみ生物をじっと見つめていた眼差しが記憶に蘇る。
欲しいと言うことすら、彼女は自分にきっぱりと禁じていた。
眠りが深まったことを確認すると、リュウジはそっとサーシャの手から自分の服を外して、静かに床に彼女を横たえた。
机を片付けて、眠る準備を一人でこなす。
手の平が、ずきんずきんと痛かった。
布団を持ち上げたことで、止血した場所がまた開いたようだ。
リュウジは自分の状態を無視した。
三枚の布団を敷き終え、たわいなく眠るサーシャの身を、いつもの場所に静かに横たえた。
枕に頭を預けさせ、薄い上布団をふわりとかける。
涙の跡を、リュウジは手の指で頬から拭った。
いとけない寝顔を見つめてから、彼は静かに呟いた。
「アルフォンソ二世の、以前の持ち主と同じ運命を、あなたにはたどらせません」
小さな声で、静寂の中にリュウジは言葉をこぼしていた。
「決して――」
ぬいぐるみ生物を抱きしめる姿へ視線を向けてから、ゆっくりとリュウジは立ち上がった。
歯の奥の通信装置の機能を、舌先で入れる。
『
切羽詰まった
「今日はご苦労だった。見事な演技だった」
リュウジは口の中で呟く。
「駆動機関部は、無事運び終えたか」
一瞬息を詰まらせてから、彼の冷静な声が響いた。
『はい、
「さすがだ、
彼が何かを言う前に
「今、どこにいる」
と、短くリュウジは問いかけた。
予想した通りの答えが素早く返ってきた。
『
やはり、彼は自分の部屋の戸口を見つめながら、待機をしてくれていたようだ。
「今から、出る。そこで待っていてくれ」
『了解いたしました。
舌先で通信を切る。
ハルシャから預かった鍵を手に、リュウジは部屋を出ようとした。
ふと、泣き疲れて眠るサーシャに視線を向ける。
少しためらってから、歩を戻すと、身を屈め手を伸ばして金色の髪を静かに撫でる。
彼女の眠りの安らぎを、祈るように。
手を浮かせると、想いを振り切り、リュウジは立ち上がった。
物音を立てないように、静かな動きで玄関に向かい、靴を履いて外へと出る。
部屋の中のサーシャが危険でないようにきちんと鍵を閉めて、顔を建物の外の闇へと向けた。
そこに、
リュウジは軽くうなずきで答えると、素早く動いた。
ハルシャが戻る前に、彼から必要な情報を入手する必要があったからだった。
軽い動きで側に寄り、歩を緩めずに歩き続ける。
「情報をもらえるかな、
リュウジは目を細めた。
「五年前の、ハルシャの両親の爆破事故についての情報を」
静かに黒髪の青年がうなずいた。
「わかる範囲で、調べて参りました、
たどり着いた建物の裏で、リュウジは彼が依頼した調査の詳細にひたすら耳を傾けた。