男が案内したのは、宇宙船の部品を作る工場だった。
慢性的に人手不足だと、男は言った。
工場長に紹介され、必要な手続きが済み次第、労働の開始を約束させられる。
次いで飛行車で連れて行かれたのは、下層地域と呼ばれる地帯だった。ハルシャは危険だと言われて、一度も足を踏み入れたことがない。
そこにある狭い集合住宅の二階の一角。そこがこれから自分たちの住居だと告げられる。
頼りないほど小さな鍵が、ハルシャの手に乗せられた。
どうやって、生きていったらいいのか一瞬ハルシャは途方に暮れてしまった。
その後、一階の部屋に連れて行かれる。
でっぷりと太った女性が戸口に顔をのぞかせた。
大家だ。
と、男が紹介する。
頼れば、飯を喰わせてくれる。もちろん食費は借金に上乗せされる。
そう、男は静かに告げる。
解っていると思うが、家賃もそうだ。とりあえず、住める場所を与えてやる。このあと、どうするかは、自分たちで考えろ。
短く言ってから、男は、再び二人を飛行車に連れ戻した。
次に向かったのは、彼が経営する会社だった。
一目でまともな商売ではないと解る人々がたむろする部屋に、二人は通された。
そこで初めて、ハルシャは彼が、ジェイ・ゼルという名であるのを知らされる。
椅子に座った十五歳のハルシャの前に、たくさんの書類が並べられた。
今後必要になる書類だと、彼は言った。
署名してくれ、と。
ハルシャは、文言に目を通す。
ハルシャ・ヴィンドースは、一切の権利をジェイ・ゼルに譲る、というのが、大意だった。
邸宅と土地。事業一般。伴う設備、父親が保有していた権利。
ハルシャは確かめながら、一つ一つに、丁寧に自分の名を記す。
身から肉が引き剥がされていくようだった。
サインをすると、次の書類が前に出される。
横でサーシャは、ぎゅっとハルシャの服を握りしめて、口をつぐんで、静かにしていた。
幼いながらにも、懸命に兄の負担になるまいと努力しているようだった。
そんなサーシャに、大人たちの視線が向けられていた。
じっと品定めをするような眼差しだった。
居心地の悪さを感じたのか、サーシャがハルシャに身を寄せてくる。
サーシャは人形のように愛らしい容姿だった。それが注目を集めているらしい。
気になりながらも、ハルシャは見落としがないかと、懸命に文章を読む。
ふと、一文に目を止めた。
ハルシャ・ヴィンドースが生命を失った時は、借金の支払いはサーシャ・ヴィンドースに移譲される。という文だ。
はっと、ハルシャは顔を上げて、ジェイ・ゼルを見た。
何をハルシャが目にしたのか、彼は気付いたらしい。
静かな笑みを浮かべて、彼は口を開いた。
「もし君が死んだときは、妹に借金を支払ってもらう。金額は回収しなくてはならない。我々は手段を択ばない」
顔を青ざめさせながら、ハルシャはサインをする。
死ねば、サーシャが同じように苦しむ。
その事実が突きつけられる。
息が苦しかった。
全ての書類に署名を終える頃には、一時間標準時ほど経っていた。
ジェイ・ゼルは、書類を最後にきちんと確認する。
満足そうにうなずいてから、彼はハルシャを見つめながら呟く。
「さて、これから、いくつか君には、動いていただかなくてはならない」
父親の銀行の相続を終えること、と、指示を受ける。
数日のうちに、カイエンと弁護士と共に行くことになっていた。
ハルシャはそのことを告げる。自分はどうしたらいいのか、解らないと。
「そうだな。まず君を証明する書類を作成し、父親の息子であることを示さないといけない。最近は犯罪が増えているからな、銀行もチェックに余念がない」
他人任せでいけると思っていたハルシャは、うろたえた。
出来るだろうか、自分一人で。
だが、やるしかない。
不安を感じ取ったのか、ジェイ・ゼルの笑みが深くなる。
「安心しろ。私が一緒に行ってやる」
ふわっと漏らされた言葉だった。
だが、それは――
初めて見せられた、彼の優しさのような気がした。
ジェイ・ゼルの目が細められる。
「手続きを間違えて、金が手に入らないと、困るのはこちらだ」
ああ、そういうことか。
と、ハルシャは納得する。
優しさではない。実利的なのだ。
唐突に言葉が途切れ、ジェイ・ゼルの目がサーシャに行った。
びくっと、サーシャが身を震わせて、ハルシャの後ろに隠れるように身を寄せる。
「六歳か」
小さく、ジェイ・ゼルが呟いた。
「労働の種類が、限られてくるな」
独り言のような呟きに、慄然としてハルシャは悟る。
この男は、サーシャも働かせるつもりなのだ。
「妹は、まだ学問の基礎が入っていません」
懸命に、ハルシャは告げた。
「できれば、安価な学校へと通わせたいのです」
自分が仕事をしている間に、学んでもらえればいい。
そう思ってこぼした言葉は、ジェイ・ゼルによって、一笑に付された。
「まだ、上流階級のつもりなのか」
灰色の瞳が、ハルシャを射る。
「二人で働かないと、いつまで経っても借金は返せないぞ。お坊ちゃん」
ハルシャは、小馬鹿にしたような口調に、唇を噛み締める。
「ラグレンでは、無償の学校なんてものはないんだよ。教育は上流階級のものだ――独り占めするために、月謝が高く設定されている。知らないかもしれないがな、君が十日教育を受ける金額が、下層階級の一年間の給料だ。
解るか、それだけの金額をかけていては、借金はいつまでたっても返せない」
噛んで含めるように、彼は呟く。
目が細められた。
「そこまで学問にこだわるのなら、君が妹の勉強をみてやればいい。そうすれば、無料だ」
それで全てが解決したというように、彼は笑った。
あらゆる希望が、断ち切られていく音がハルシャの耳に聞こえるような気がした。
借金を返すまで、人としての幸せなど望んではいけないのだと――
目の前の男に告げられたようだった。
自分のことが話題に上がっていると解っているのか、サーシャが心細そうにハルシャを見上げる。
だめだ。
こんなことで動揺していては、とハルシャは自分を叱責した。
もう、自分にはこの体しか残されていないのだ。出来ることを、するしかない。
「解りました。妹の学業は私が責任を持ちます。ですが――まだ労働には耐えられない幼さです。妹がどうしても働かなくてはならないのなら、私が倍働きます」
きっぱりと言い切った言葉に、サーシャに視線を向けたまま彼は数度瞬きをした。
ゆっくりと、灰色の目がハルシャの方へ動いてくる。
しばらく見つめてから、彼は小さく笑いをこぼした。
「良い覚悟だ」
目を伏せてしばらく考えてから、彼は立ち上った。
「まずは、銀行の手続きに必要なことから始めようか」
そして、側にいた理知的な顔の男の人に
「ついてこい、マシュー」
と声をかけていた。
どうやらこのまま遺産相続のために動くようだ。
「行こう、サーシャ」
服を握っていたサーシャの手を取り、ハルシャも彼に続いた。
元来た道を戻り、ジェイ・ゼルは、再び二人を飛行車の中に座らせた。
「腹が空いていないか」
座席にもたれながら、彼は宙に呟いた。
「いいえ」
ハルシャはきっぱりと言い切る。
「空いていません」
静かに、ジェイ・ゼルが笑う。
「どうした――飯を喰えば、借金に上乗せされると思っているのか」
図星だった。
何かするたびに、それは借金に上乗せされる。
幾度となく、思い知らされた。
くっくと、小さくジェイ・ゼルが笑う。
「安心しろ。一緒に食事をするときは、食事代は私が持つ――餓死されて困るのは私だ」
意外すぎる言葉だった。
ハルシャは、じっとジェイ・ゼルを見つめる。
彼はまた、小さく笑った。
「どうした、信じられないか」
「先ほど、あなたに教えて頂きました」
ハルシャは、サーシャの手を握り締めながら、はっきりとした口調で言う。
「全てを、疑え、と」
破顔して、彼は笑い声を立てた。
「学習能力が高いな、ハルシャ」
砕けた調子で自分の名前を呼ばれ、ハルシャは内側にむっとしたものが広がる。
「だがな、疑うだけでは前に進まない。疑いが真実なのか、ただの思い過ごしなのか――体験しなくては解らない」
宙に、彼が呟く。
「私が君たちに嘘をついたのかどうか――確かめてみたら、どうだ」
それは、食事を一緒にしろということらしい。
ごくっと、ハルシャは唾を飲み込んだ。
この男は、よく解らない。
何を考えているのか――自分たちから全てを奪っておきながら、親切ごかして、言葉をかけてくる。
信頼できない。
だが。
サーシャを見る。
子どもは体力がない。空腹を口に出来ず、サーシャはじっと我慢していた。
その様子を目に留めて、ハルシャは心を決めた。
「解りました」
ハルシャは、ジェイ・ゼルへ顔を向ける。
「試してみます」
怒られるかと思った物言いに、彼は静かに笑っただけだった。
「ネルソン、『シェリボードン』へやってくれ」
運転手に目的地の変更を告げた後、口角を上げて彼は座席に身を沈めていた。
彼の言った通り――
食事代は、借金に上乗せされなかった。
それがわかるのは、その月から渡されるようになった、月ごとの借金の明細に記載されていなかったからだ。