『エリュシオン』の告げられた部屋番号の扉を軽く叩く。
自分の心臓も、叩かれているようだった。
すぐに扉が開かれた。
扉の向こうに、ジェイ・ゼルの姿があった。
彼を認める前に、腕に包まれる。
そのまま、さらわれるように、扉の中に導かれた。
背後で、自動で扉が閉まる。ジェイ・ゼルの片手が動き、ぴっと鍵がかかる。
鍵が彼の手から滑り落ち、床で軽い音を立てた。
「ハルシャ……」
耳元で、低く呟く声がする。
髪に指が差し込まれ、柔らかい動きで上をむかされると、そっと唇が重ねられた。
ハルシャは、無意識にジェイ・ゼルの背に腕を回し、彼を抱きしめる。
身をぴたりと合わせたまま、二人は別離の空隙を埋めるように、互いの口を味わった。
髪を、手が滑る。
優しく、なだめるように。
柔らかな口づけで、互いの存在を確かめ合ってから、静かにジェイ・ゼルが唇を離した。
距離を取り、ハルシャを見つめる。
灰色の瞳が、自分を映している。
「いい子にしていたか?」
手を頬に滑らせて、ジェイ・ゼルが問いかける。
微笑みが、彼の顔に浮かぶ。
「随分、おねだりが上手になったものだ、ハルシャ」
愛しげに、彼が呟く。
「もう少し、間隔を空けてあげようと思っていたが……」
触れた手の、親指が頬を滑る。
「私の忍耐を、君は試してくるね」
唇が寄せられる。
「あまり煽られると、私の忍耐も焼き切れる……手加減してくれないか、ハルシャ」
ハルシャが応える前に、唇が覆われて、言葉を飲み込む。
首に腕を預け、ハルシャは身を伸ばすようにして、ジェイ・ゼルを迎え入れる。
舌が触れ合う。
甘い痺れに、声が上がる。
「うっ、ううっ……んっ」
それが、ジェイ・ゼルの何かを煽りたてたようだ。
不意に荒々しい動きで、彼はハルシャを抱き寄せて、舌で口内を貪る。
ジェイ・ゼルがしてくれるように、ハルシャは彼の黒髪に指を差し入れた。
髪は、柔らかい絹のような手触りだった。
彼のいつもつけている香水の微かな香りがする。
爽やかな軽い匂い。
身を寄せないと感じない香りを、今日は強く嗅ぎ取る。
感覚が鋭敏になっているようだ。
ハルシャに触れていることで、荒れたものが鎮まってきたかのように彼の口づけが優しくなった。
しばらくして顔を離すと、頬を赤らめるハルシャを見つめてから静かに微笑み、ジェイ・ゼルは黙ってハルシャを腕に包んだ。
肩に頭を引き寄せ、ハルシャの髪に頬を当てる。
「少し――このままで、居させてくれないか。ハルシャ」
ただ、腕に包んでいたいと、彼が言っている。
こくんと、ハルシャはうなずきを、彼に触れている場所に与える。
すっと、髪に手が滑る。
ハルシャは首に回した腕を自分で掴み、ジェイ・ゼルに身を預けた。
黙って、彼は佇み、静かに互いの呼吸を聞いている。
いつもと、何かが違うことをハルシャは合わせた身から、感じ取る。
彼は――
ひどく、疲労しているような気がした。
仕事が、きつかったのだろうか。
ハルシャの存在を腕に包むことで、心を落ち着けようとしているようにも、思えた。
長い静寂の後
「何かあったのか、ジェイ・ゼル」
と、ハルシャは、彼の服に問いかける。
ぎゅっと、ジェイ・ゼルの腕の力が強くなった。
「なにも」
こぼれた答えが、優しかった。
違う。
何かがあったんだ。
ハルシャは、瞬きをしながら、考える。
本当は、来られないところを、自分のために時間を作ってくれたのかもしれない。ハルシャがわがままを言ったから、ジェイ・ゼルは無理矢理に都合をつけただろうか。
「無理をさせたのか、ジェイ・ゼル」
ハルシャの呟きに、小さく彼は笑った。
「君が逢いたいと言ってくれた。私も逢いたかった。それだけだ。君が気にすることは何もない」
ジェイ・ゼルが頬を、髪に押し当てる。
「逢いたかった、ハルシャ」
絞り出すような言葉に、ハルシャの身が震える。
彼に回していた手に、ぎゅっと力を込めた。
「私も……逢いたかった。ジェイ・ゼル」
優しく髪が撫でられる。
「私……と、言ってくれるんだね。ハルシャ」
耳元深くで、彼の声が響く。
「今聞いているのは、本当の心なんだね」
唇が、髪に触れる。
「嬉しいよ、ハルシャ」
それだけのことで。
ジェイ・ゼルが喜んでくれる
しばらく無言でジェイ・ゼルはハルシャを腕に包んでいたが、
「ベッドへ行こう、ハルシャ」
と小さく耳元で呟き、巧みに誘導して、ハルシャを白い清潔なシーツの上に、服のまま横たえた。
めくりあげた布団の中に、服を着たままの状態で、ハルシャはジェイ・ゼルの腕に包まれていた。
「もう少し……こうやって、君を感じていてもいいかな、ハルシャ」
目を閉じて、ジェイ・ゼルが呟く。
いつものジェイ・ゼルとは違う、ひどく、危うい感じをハルシャは受けた。
冷めた笑いを浮かべる彼とも、恐いほど真剣な眼差しの彼とも違う。
触れた場所から、不安定な心の揺らぎを感じる。
はじめてみる、ジェイ・ゼルの姿だった。
眉を寄せて、ジェイ・ゼルは目を閉じていた。
いつも、自分に据えられている灰色の瞳が、開かない。
ジェイ・ゼルの腕を枕に、向き合って横たわりながら、ハルシャは問いかけた。
「仕事が、きつかったのか?」
労わるような言葉に、ふっとジェイ・ゼルが笑った。
ゆっくりと、瞼が上がり、灰色の瞳が、ハルシャを映す。
彼の瞳の中にある、底知れない闇のようなものの存在に、はっと、ハルシャは胸を突かれた。
彼の口がほころび、静かな言葉を呟く。
「きつくない仕事など、ないよ――ハルシャ」
微笑みを浮かべるジェイ・ゼルを、ハルシャは見つめる。
そうだ。
彼は借金を返済させる仕事を、生業にしている。
最初に見た時、自分も彼を忌まわしい、地獄の使いだと思った。
お金が無いから、人は借金をする。
その人々から、有無も言わさず、返済を迫るのがジェイ・ゼルの仕事だ。暴力で、卑劣な言葉で……人を恫喝し、期限までに金額を支払わせる。
人々に憎まれ、嫌われる仕事。
それを日々、彼は行っている。
見つめ続けるハルシャの視線に、ゆっくりとジェイ・ゼルが瞬きをする。
「借金を返済する側の気持ちなら、君もわかるだろう。ハルシャ」
笑みが深まり、視線が動いた。
「やはり、先に食事にしようか。ハルシャ」
少し、気分を変えたいというように、彼が呟く。
彼は、傷ついているような気がした。
ハルシャが、平然とした態度で自分を必死に守っているように、余裕にあふれた態度で、ジェイ・ゼルも自分を保とうとしているのかもしれない。
その一角が崩れて、素の彼が見えたような気がした。
とても繊細で、柔らかな心をもつ、彼自身が――
食事を頼もうと、身を起こそうとしたジェイ・ゼルの腕を、ハルシャは掴んでいた。
ほとんど、無意識だった。
少し驚いたように自分を見つめるジェイ・ゼルを、自分に引き寄せる。
横たわったまま、彼を腕に包んで、唇を寄せた。
近くで見る彼の目は、まだ微かに驚きに、見開かれていた。
ジェイ・ゼルの灰色の瞳を、ハルシャはのぞき込んだ。彼が抱える痛みの核を、探すように。
優しく唇が触れ合う。
自分から求めたことに、微かにジェイ・ゼルが目を細めた。
「ジェイ・ゼル」
わずかに唇を離し、ハルシャは呟く。
「横になっていてくれ。私が動く」
再び、ジェイ・ゼルの目が驚きに瞠《みは》られる。
「ハルシャ……」
呟きが、唇に触れる。
「以前に、ジェイ・ゼルに教えてもらった……出来ると思う」
ジェイ・ゼルの上に乗る方法を、ハルシャは一度教えられた。
だが、その時はあまりに難易度が高く、懸命にこなそうとしたが、時間ばかりがかかり、上手く動けなかった。
翌日凄まじい筋肉痛になった、苦い思い出しかない。
けれど、今なら、彼を受け入れて動けそうな気がした。
「ジェイ・ゼルは、くたびれているのだろう」
瞳に問いかける。
「私が、わがままを言って、今日無理に付き合ってもらっている。ジェイ・ゼルがいつも与えようとしてくれているものを、私も、ジェイ・ゼルに与えたい」
どう考えても技量は違うが、受け取るばかりでは、心苦しかった。
せめて出来ることをしようと、ハルシャは思い至る。
想いを、懸命に伝える。
「今日は、横になっていてくれ。私が、ジェイ・ゼルのために動く」
ジェイ・ゼルが、無言でハルシャを見返している。
ふと、疑念が生じる。
「嫌か? ジェイ・ゼル」
もしかして、嫌なのだろうか。
今日は食事だけにしたいのだろうか。
だから最初に『ヴェロニカ』を指定したのだろうか。
ぐるぐると、ハルシャの中で想いが渦巻く。
不意に、切なげにジェイ・ゼルが微笑んだ。
「ハルシャ……」
言葉を途切れさせると、彼は眉を寄せて、ハルシャを腕に抱きしめて優しく唇を覆った。
触れ合う肌から、何かが流れ込んでくる。
ああ。
これが、全てが伝わるということなのだろうか。
優しいものが、ハルシャの中にゆっくりと沁みとおってくる。
先ほど感じたジェイ・ゼルの中の不安が、溶けるように消えていく。
唇を離すと、髪を撫でながら彼が呟く。
「ハルシャ。今日はこの身体を、君の好きにしていい。君が与えたいものを、私に与えてくれ――それがどんなことでも、私は受け入れる」
どんなことも拒んではならない。
最初に彼はそう言った。
拒まれるのを、彼は恐れていたのだと、改めてハルシャは気付く。
信頼関係のないところに生み出すことの出来る、一番信頼関係に近いものが、絶対的な服従なのだろう。
どんな自分でも、受け入れてくれ――以前感じた、彼の裏返しの心を再び思う。
――私を信じて、受け取っておくれ。
かつて、快楽を与えようと、ジェイ・ゼルが呟いた言葉と。
――君が与えたいものは、どんなことでも受け入れる。
そう言ってくれた、今の言葉と。
二つの言葉から、ハルシャは悟る。
彼は、こんな風になりたかったのだ。
互いに信頼し合い、与え合う関係に――
深い愛情と信頼の絆の上に成り立つ、情愛に満ちた関係を……
最初に出会った時から、彼はハルシャに求め続けていたのだ。
この震えは、自分のものなのか、それとも、触れ合う肌から伝わるジェイ・ゼルのものなのか、ハルシャには解らなかった。
ただ――
ジェイ・ゼルが、自分を信じて、身を任せてくれようとしているのだけは、理解出来た。
性技に長《た》けたジェイ・ゼルにとって、ぎこちないハルシャに身を委ねるのは、歯がゆいだろうに。
それでも、意を汲んで、ハルシャの意志を尊重してくれている。
唇を引き結ぶと、ハルシャは受諾を込めて、静かにうなずいた。
ジェイ・ゼルが微笑み、身の力を抜くように、背中をベッドに預けた。
どうぞ、というように、視線をハルシャに送る。
とても真剣なハルシャの申し出だったが、横たわるジェイ・ゼルはなんだか楽しそうで、少し、早まったかと、ハルシャは思ってしまった。
けれど。
ハルシャの気持ちが、ジェイ・ゼルの心を変えたような気がした。
なら、いいか。
と思い、横たわるジェイ・ゼルをまたいで、足で身を支えながら、ハルシャは上から、彼を見下ろす。
あまりない状況だ。
妙にドキドキする。
ジェイ・ゼルは、微笑みながら、ハルシャがどう出るのかを楽しみにするように、見つめている。
彼なら、いつもこういう時は、口づけから始める。
しかも、目を開いたままで。
決して、自分の快楽に耽溺せずに――
それに倣《なら》おうと、ハルシャは彼の肩に手を委ねて、身を寄せる。
形のいい唇を、そっと自分の口で覆う。
ふと、クラヴァッシュ酒を、必死に口移しに飲ませようとしていた時の感覚が、蘇る。
あれほど、ぎゅっと押し付けなくても良いだろう。
心に呟きながら、ハルシャはジェイ・ゼルの口を探る。
彼が応える。
その瞬間、何とも言えない愉悦が、身の中に湧き上がった。
何だ、これは。
ハルシャは、目を開きながら、戸惑った。
行為の前の口づけなど、いつものことだ。
ただ、一つ違うことは――
主導権を自分が握っている、ということだった。
自分の行為に相手が応えてくれる、それが、これほどに嬉しい。
こんなに内側に快楽を引き出すとは、知らなかった。
ためらいがちに差し込んだ舌にも、ジェイ・ゼルが絡めてくれる。
「ん、んんっ」
思わず、ハルシャは口の中に呻きを漏らす。
彼は巧みだ。
主導権はこちらにあるはずなのに、翻弄される。
いつの間にか、背中にジェイ・ゼルの腕があり、深く身を合わせながら、ハルシャの口の中を、ジェイ・ゼルが味わっている。
「んっ! んんっ!」
抗議の呟きを合わせた口にもらしながら、ハルシャは身を引く。やんわりと、ジェイ・ゼルの腕がハルシャを解き放つ。
ふーふーと、息をしながら、燃える様な熱を頬に帯びて、ハルシャはジェイ・ゼルを見下ろす。
「ジェイ・ゼル。私の好きにしていいのでは、なかったのか」
突っかかるように、ハルシャは言う。
「そうだよ、ハルシャ」
しれっとジェイ・ゼルが言う。
「だが、私がハルシャに、何もしないとは言っていない」
まただ。
こうやって、ジェイ・ゼルは煙に巻く。
少ない言葉で相手に誤解を与え、自分の良いように誘導していく。
「懸命な君の姿に、つい、我を忘れてしまった。すまなかった、ハルシャ」
詫びを呟きながら、ジェイ・ゼルが腕を伸ばしてハルシャの頬に触れる。
「本当に君は……私を煽るのが、上手だ」
褒めているのか、言い逃れをしているのか、解らない口調で彼が言う。
彼のペースに巻き込まれないように、違うことに着手しようと、ハルシャは心を決める。
「ジェイ・ゼル」
知らず知らずに、顔が赤くなる。
「服を、脱がせても……良いか?」
頬に触れている手が、そっと優しくハルシャを撫でる。
「どうして、こんなに頬が赤くなっているんだ、ハルシャ」
優しくジェイ・ゼルが問いかける。
「な……慣れていない、からだ」
懸命に申し開きをする。
この前、恥ずかしがってペナルティを与えられたことを、ハルシャは忘れていなかった。
「そうか」
ジェイ・ゼルの微笑みが、優しく深まる。
「初めてすることに対して、ハルシャは必要以上に身構えるからね」
なるほど、と彼は微笑む。
「どうぞ。ハルシャ」
服を脱がせていいか、という問いに対する、それがジェイ・ゼルの答えらしい。
身を任せるように、ジェイ・ゼルは脱力する。
微笑みながら、ハルシャを見つめている。
少し小馬鹿にしたような表情に、ハルシャはむっとする。
幼い子を育ててきたハルシャは、服を脱がせることなど、何万回もやって来た。
自分が手間取ることを予想しているのなら、大間違いだと、むきになって脱がせにかかる。
事務的に、ジェイ・ゼルの服の金具を解放し、テキパキと服を身体から取り去る。
腕の角度にちょっとしたコツがあるのだ。
それさえ守れば、さっと脱がせることが出来る。
脱がせた服を、傍らに畳んでおく。
下ばきにも手を伸ばし、ジェイ・ゼルに腰を浮かせてもらいながら、取り去る。
くすくすと、ジェイ・ゼルが笑った。
「色気のない脱がせ方だ」
「え?」
ハルシャは、自分も服を脱ごうとしていた手を、宙で留めた。
「いけなかったか、ジェイ・ゼル?」
まだ彼は、くすくすと笑っている。
「いや。行為の最中の服の脱がせ方は、まだ教えていなかったからね……」
額に手を当てて、懸命に笑いをこらえているように、腹筋が揺れている。
ついでに下で一緒に揺れているものに、ハルシャはちょっと顔が赤くなる。
「本当に、ハルシャは可愛いな」