ほしのくさり

第65話  与える行為ー01






 『エリュシオン』の告げられた部屋番号の扉を軽く叩く。
 自分の心臓も、叩かれているようだった。
 すぐに扉が開かれた。

 扉の向こうに、ジェイ・ゼルの姿があった。
 彼を認める前に、腕に包まれる。
 そのまま、さらわれるように、扉の中に導かれた。
 背後で、自動で扉が閉まる。ジェイ・ゼルの片手が動き、ぴっと鍵がかかる。
 鍵が彼の手から滑り落ち、床で軽い音を立てた。

「ハルシャ……」
 耳元で、低く呟く声がする。
 髪に指が差し込まれ、柔らかい動きで上をむかされると、そっと唇が重ねられた。
 ハルシャは、無意識にジェイ・ゼルの背に腕を回し、彼を抱きしめる。
 身をぴたりと合わせたまま、二人は別離の空隙を埋めるように、互いの口を味わった。
 髪を、手が滑る。
 優しく、なだめるように。
 柔らかな口づけで、互いの存在を確かめ合ってから、静かにジェイ・ゼルが唇を離した。
 距離を取り、ハルシャを見つめる。
 灰色の瞳が、自分を映している。
「いい子にしていたか?」
 手を頬に滑らせて、ジェイ・ゼルが問いかける。
 微笑みが、彼の顔に浮かぶ。
「随分、おねだりが上手になったものだ、ハルシャ」
 愛しげに、彼が呟く。
「もう少し、間隔を空けてあげようと思っていたが……」
 触れた手の、親指が頬を滑る。
「私の忍耐を、君は試してくるね」
 唇が寄せられる。
「あまり煽られると、私の忍耐も焼き切れる……手加減してくれないか、ハルシャ」
 ハルシャが応える前に、唇が覆われて、言葉を飲み込む。

 首に腕を預け、ハルシャは身を伸ばすようにして、ジェイ・ゼルを迎え入れる。
 舌が触れ合う。
 甘い痺れに、声が上がる。
「うっ、ううっ……んっ」
 それが、ジェイ・ゼルの何かを煽りたてたようだ。
 不意に荒々しい動きで、彼はハルシャを抱き寄せて、舌で口内を貪る。
 ジェイ・ゼルがしてくれるように、ハルシャは彼の黒髪に指を差し入れた。

 髪は、柔らかい絹のような手触りだった。
 彼のいつもつけている香水の微かな香りがする。
 爽やかな軽い匂い。
 身を寄せないと感じない香りを、今日は強く嗅ぎ取る。
 感覚が鋭敏になっているようだ。

 ハルシャに触れていることで、荒れたものが鎮まってきたかのように彼の口づけが優しくなった。
 しばらくして顔を離すと、頬を赤らめるハルシャを見つめてから静かに微笑み、ジェイ・ゼルは黙ってハルシャを腕に包んだ。
 肩に頭を引き寄せ、ハルシャの髪に頬を当てる。

「少し――このままで、居させてくれないか。ハルシャ」

 ただ、腕に包んでいたいと、彼が言っている。
 こくんと、ハルシャはうなずきを、彼に触れている場所に与える。
 すっと、髪に手が滑る。
 ハルシャは首に回した腕を自分で掴み、ジェイ・ゼルに身を預けた。
 黙って、彼は佇み、静かに互いの呼吸を聞いている。
 いつもと、何かが違うことをハルシャは合わせた身から、感じ取る。
 彼は――
 ひどく、疲労しているような気がした。
 仕事が、きつかったのだろうか。
 ハルシャの存在を腕に包むことで、心を落ち着けようとしているようにも、思えた。
 長い静寂の後
「何かあったのか、ジェイ・ゼル」
 と、ハルシャは、彼の服に問いかける。
 ぎゅっと、ジェイ・ゼルの腕の力が強くなった。
「なにも」
 こぼれた答えが、優しかった。
 違う。
 何かがあったんだ。
 ハルシャは、瞬きをしながら、考える。
 本当は、来られないところを、自分のために時間を作ってくれたのかもしれない。ハルシャがわがままを言ったから、ジェイ・ゼルは無理矢理に都合をつけただろうか。
「無理をさせたのか、ジェイ・ゼル」
 ハルシャの呟きに、小さく彼は笑った。
「君が逢いたいと言ってくれた。私も逢いたかった。それだけだ。君が気にすることは何もない」
 ジェイ・ゼルが頬を、髪に押し当てる。
「逢いたかった、ハルシャ」
 絞り出すような言葉に、ハルシャの身が震える。
 彼に回していた手に、ぎゅっと力を込めた。
「私も……逢いたかった。ジェイ・ゼル」
 
 優しく髪が撫でられる。
「私……と、言ってくれるんだね。ハルシャ」
 耳元深くで、彼の声が響く。
「今聞いているのは、本当の心なんだね」
 唇が、髪に触れる。
「嬉しいよ、ハルシャ」

 それだけのことで。
 ジェイ・ゼルが喜んでくれる
 しばらく無言でジェイ・ゼルはハルシャを腕に包んでいたが、
「ベッドへ行こう、ハルシャ」
 と小さく耳元で呟き、巧みに誘導して、ハルシャを白い清潔なシーツの上に、服のまま横たえた。
 めくりあげた布団の中に、服を着たままの状態で、ハルシャはジェイ・ゼルの腕に包まれていた。
「もう少し……こうやって、君を感じていてもいいかな、ハルシャ」
 目を閉じて、ジェイ・ゼルが呟く。

 いつものジェイ・ゼルとは違う、ひどく、危うい感じをハルシャは受けた。
 冷めた笑いを浮かべる彼とも、恐いほど真剣な眼差しの彼とも違う。
 触れた場所から、不安定な心の揺らぎを感じる。
 はじめてみる、ジェイ・ゼルの姿だった。

 眉を寄せて、ジェイ・ゼルは目を閉じていた。
 いつも、自分に据えられている灰色の瞳が、開かない。
 ジェイ・ゼルの腕を枕に、向き合って横たわりながら、ハルシャは問いかけた。
「仕事が、きつかったのか?」
 労わるような言葉に、ふっとジェイ・ゼルが笑った。
 ゆっくりと、瞼が上がり、灰色の瞳が、ハルシャを映す。
 彼の瞳の中にある、底知れない闇のようなものの存在に、はっと、ハルシャは胸を突かれた。
 彼の口がほころび、静かな言葉を呟く。
「きつくない仕事など、ないよ――ハルシャ」

 微笑みを浮かべるジェイ・ゼルを、ハルシャは見つめる。
 そうだ。
 彼は借金を返済させる仕事を、生業にしている。
 最初に見た時、自分も彼を忌まわしい、地獄の使いだと思った。
 お金が無いから、人は借金をする。
 その人々から、有無も言わさず、返済を迫るのがジェイ・ゼルの仕事だ。暴力で、卑劣な言葉で……人を恫喝し、期限までに金額を支払わせる。
 人々に憎まれ、嫌われる仕事。
 それを日々、彼は行っている。

 見つめ続けるハルシャの視線に、ゆっくりとジェイ・ゼルが瞬きをする。
「借金を返済する側の気持ちなら、君もわかるだろう。ハルシャ」
 笑みが深まり、視線が動いた。
「やはり、先に食事にしようか。ハルシャ」
 少し、気分を変えたいというように、彼が呟く。
 彼は、傷ついているような気がした。
 ハルシャが、平然とした態度で自分を必死に守っているように、余裕にあふれた態度で、ジェイ・ゼルも自分を保とうとしているのかもしれない。
 その一角が崩れて、素の彼が見えたような気がした。
 とても繊細で、柔らかな心をもつ、彼自身が――

 食事を頼もうと、身を起こそうとしたジェイ・ゼルの腕を、ハルシャは掴んでいた。
 ほとんど、無意識だった。
 少し驚いたように自分を見つめるジェイ・ゼルを、自分に引き寄せる。
 横たわったまま、彼を腕に包んで、唇を寄せた。
 近くで見る彼の目は、まだ微かに驚きに、見開かれていた。
 ジェイ・ゼルの灰色の瞳を、ハルシャはのぞき込んだ。彼が抱える痛みの核を、探すように。
 優しく唇が触れ合う。
 自分から求めたことに、微かにジェイ・ゼルが目を細めた。
「ジェイ・ゼル」
 わずかに唇を離し、ハルシャは呟く。
「横になっていてくれ。私が動く」
 

 再び、ジェイ・ゼルの目が驚きに瞠《みは》られる。 
「ハルシャ……」
 呟きが、唇に触れる。
「以前に、ジェイ・ゼルに教えてもらった……出来ると思う」
 ジェイ・ゼルの上に乗る方法を、ハルシャは一度教えられた。
 だが、その時はあまりに難易度が高く、懸命にこなそうとしたが、時間ばかりがかかり、上手く動けなかった。
 翌日凄まじい筋肉痛になった、苦い思い出しかない。
 けれど、今なら、彼を受け入れて動けそうな気がした。
「ジェイ・ゼルは、くたびれているのだろう」
 瞳に問いかける。
「私が、わがままを言って、今日無理に付き合ってもらっている。ジェイ・ゼルがいつも与えようとしてくれているものを、私も、ジェイ・ゼルに与えたい」
 どう考えても技量は違うが、受け取るばかりでは、心苦しかった。
 せめて出来ることをしようと、ハルシャは思い至る。
 想いを、懸命に伝える。
「今日は、横になっていてくれ。私が、ジェイ・ゼルのために動く」
 

 ジェイ・ゼルが、無言でハルシャを見返している。
 ふと、疑念が生じる。
「嫌か? ジェイ・ゼル」

 もしかして、嫌なのだろうか。
 今日は食事だけにしたいのだろうか。
 だから最初に『ヴェロニカ』を指定したのだろうか。
 ぐるぐると、ハルシャの中で想いが渦巻く。
 不意に、切なげにジェイ・ゼルが微笑んだ。
「ハルシャ……」

 言葉を途切れさせると、彼は眉を寄せて、ハルシャを腕に抱きしめて優しく唇を覆った。
 触れ合う肌から、何かが流れ込んでくる。
 ああ。
 これが、全てが伝わるということなのだろうか。
 優しいものが、ハルシャの中にゆっくりと沁みとおってくる。
 先ほど感じたジェイ・ゼルの中の不安が、溶けるように消えていく。
 唇を離すと、髪を撫でながら彼が呟く。
「ハルシャ。今日はこの身体を、君の好きにしていい。君が与えたいものを、私に与えてくれ――それがどんなことでも、私は受け入れる」

 どんなことも拒んではならない。
 最初に彼はそう言った。
 拒まれるのを、彼は恐れていたのだと、改めてハルシャは気付く。
 信頼関係のないところに生み出すことの出来る、一番信頼関係に近いものが、絶対的な服従なのだろう。
 どんな自分でも、受け入れてくれ――以前感じた、彼の裏返しの心を再び思う。

 ――私を信じて、受け取っておくれ。

 かつて、快楽を与えようと、ジェイ・ゼルが呟いた言葉と。

 ――君が与えたいものは、どんなことでも受け入れる。

 そう言ってくれた、今の言葉と。
 二つの言葉から、ハルシャは悟る。

 彼は、こんな風になりたかったのだ。
 互いに信頼し合い、与え合う関係に――
 深い愛情と信頼の絆の上に成り立つ、情愛に満ちた関係を……
 最初に出会った時から、彼はハルシャに求め続けていたのだ。


 この震えは、自分のものなのか、それとも、触れ合う肌から伝わるジェイ・ゼルのものなのか、ハルシャには解らなかった。
 ただ――
 ジェイ・ゼルが、自分を信じて、身を任せてくれようとしているのだけは、理解出来た。
 性技に長《た》けたジェイ・ゼルにとって、ぎこちないハルシャに身を委ねるのは、歯がゆいだろうに。
 それでも、意を汲んで、ハルシャの意志を尊重してくれている。

 唇を引き結ぶと、ハルシャは受諾を込めて、静かにうなずいた。

 ジェイ・ゼルが微笑み、身の力を抜くように、背中をベッドに預けた。
 どうぞ、というように、視線をハルシャに送る。
 とても真剣なハルシャの申し出だったが、横たわるジェイ・ゼルはなんだか楽しそうで、少し、早まったかと、ハルシャは思ってしまった。
 けれど。
 ハルシャの気持ちが、ジェイ・ゼルの心を変えたような気がした。
 なら、いいか。
 と思い、横たわるジェイ・ゼルをまたいで、足で身を支えながら、ハルシャは上から、彼を見下ろす。
 あまりない状況だ。
 妙にドキドキする。
 ジェイ・ゼルは、微笑みながら、ハルシャがどう出るのかを楽しみにするように、見つめている。
 彼なら、いつもこういう時は、口づけから始める。
 しかも、目を開いたままで。
 決して、自分の快楽に耽溺せずに――
 それに倣《なら》おうと、ハルシャは彼の肩に手を委ねて、身を寄せる。
 形のいい唇を、そっと自分の口で覆う。
 ふと、クラヴァッシュ酒を、必死に口移しに飲ませようとしていた時の感覚が、蘇る。
 あれほど、ぎゅっと押し付けなくても良いだろう。
 心に呟きながら、ハルシャはジェイ・ゼルの口を探る。
 彼が応える。
 その瞬間、何とも言えない愉悦が、身の中に湧き上がった。
 何だ、これは。
 ハルシャは、目を開きながら、戸惑った。
 行為の前の口づけなど、いつものことだ。
 ただ、一つ違うことは――
 主導権を自分が握っている、ということだった。
 自分の行為に相手が応えてくれる、それが、これほどに嬉しい。
 こんなに内側に快楽を引き出すとは、知らなかった。
 ためらいがちに差し込んだ舌にも、ジェイ・ゼルが絡めてくれる。
「ん、んんっ」
 思わず、ハルシャは口の中に呻きを漏らす。
 彼は巧みだ。
 主導権はこちらにあるはずなのに、翻弄される。
 いつの間にか、背中にジェイ・ゼルの腕があり、深く身を合わせながら、ハルシャの口の中を、ジェイ・ゼルが味わっている。
「んっ! んんっ!」
 抗議の呟きを合わせた口にもらしながら、ハルシャは身を引く。やんわりと、ジェイ・ゼルの腕がハルシャを解き放つ。
 ふーふーと、息をしながら、燃える様な熱を頬に帯びて、ハルシャはジェイ・ゼルを見下ろす。
「ジェイ・ゼル。私の好きにしていいのでは、なかったのか」
 突っかかるように、ハルシャは言う。
「そうだよ、ハルシャ」
 しれっとジェイ・ゼルが言う。
「だが、私がハルシャに、何もしないとは言っていない」

 まただ。
 こうやって、ジェイ・ゼルは煙に巻く。
 少ない言葉で相手に誤解を与え、自分の良いように誘導していく。
 
「懸命な君の姿に、つい、我を忘れてしまった。すまなかった、ハルシャ」
 詫びを呟きながら、ジェイ・ゼルが腕を伸ばしてハルシャの頬に触れる。
「本当に君は……私を煽るのが、上手だ」
 褒めているのか、言い逃れをしているのか、解らない口調で彼が言う。
 彼のペースに巻き込まれないように、違うことに着手しようと、ハルシャは心を決める。

「ジェイ・ゼル」
 知らず知らずに、顔が赤くなる。
「服を、脱がせても……良いか?」
 頬に触れている手が、そっと優しくハルシャを撫でる。
「どうして、こんなに頬が赤くなっているんだ、ハルシャ」
 優しくジェイ・ゼルが問いかける。
「な……慣れていない、からだ」
 懸命に申し開きをする。
 この前、恥ずかしがってペナルティを与えられたことを、ハルシャは忘れていなかった。

「そうか」
 ジェイ・ゼルの微笑みが、優しく深まる。
「初めてすることに対して、ハルシャは必要以上に身構えるからね」
 なるほど、と彼は微笑む。
「どうぞ。ハルシャ」
 服を脱がせていいか、という問いに対する、それがジェイ・ゼルの答えらしい。
 身を任せるように、ジェイ・ゼルは脱力する。
 微笑みながら、ハルシャを見つめている。
 少し小馬鹿にしたような表情に、ハルシャはむっとする。
 幼い子を育ててきたハルシャは、服を脱がせることなど、何万回もやって来た。
 自分が手間取ることを予想しているのなら、大間違いだと、むきになって脱がせにかかる。
 事務的に、ジェイ・ゼルの服の金具を解放し、テキパキと服を身体から取り去る。
 腕の角度にちょっとしたコツがあるのだ。
 それさえ守れば、さっと脱がせることが出来る。
 脱がせた服を、傍らに畳んでおく。
 下ばきにも手を伸ばし、ジェイ・ゼルに腰を浮かせてもらいながら、取り去る。

 くすくすと、ジェイ・ゼルが笑った。
「色気のない脱がせ方だ」
「え?」
 ハルシャは、自分も服を脱ごうとしていた手を、宙で留めた。
「いけなかったか、ジェイ・ゼル?」
 まだ彼は、くすくすと笑っている。
「いや。行為の最中の服の脱がせ方は、まだ教えていなかったからね……」
 額に手を当てて、懸命に笑いをこらえているように、腹筋が揺れている。
 ついでに下で一緒に揺れているものに、ハルシャはちょっと顔が赤くなる。
「本当に、ハルシャは可愛いな」




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