ほしのくさり

第64話  リュウジの方策 


 



 昨日と同じように、朝一番のバスで工場へ向かう。
 リュウジは、今日は一人で戻らなくてはならないので、道順をきちんと記憶するように、ハルシャに確認しながら歩いていく。
 オキュラ地域も、朝は少しだけ穏やかな表情になる。
 ハルシャは、その静けさが好きだった。
 相変わらずゴミが散乱し、腐臭と淀んだ空気が満ちている場所だが、それでも馴染んだ場所だ。
 朝のオキュラ地域の空気はわずかだが、澄んでいるような気がする。

「そういえば」
 バスに揺られながら、リュウジが笑顔をハルシャに向ける。
「サーシャは、あのぬいぐるみ生物に、名前を付けたようですよ。昨日、ハルシャを待つ間に、ドルディスタ・メリーウェザの医療院で教えてもらいました」
 にこにこと笑いながら片目をつぶり、
「アルフォンソ二世、だそうです」
 と、とっておきの秘密を教えてくれるように言った。

 リュウジの笑顔を見ながら、ハルシャは、何も返せずに黙り込む。
 憶えていたのだ、サーシャは。
 かつて大事にしていた、帝星で作られた、ヴィンテージのウサギのぬいぐるみの名前を。
 ハルシャの沈黙に、リュウジが笑顔を消した。
「何か、僕は妙なことを言いましたか?」
 危惧のにじむ言葉に、やっとハルシャは笑みを浮かべて、首を振った。
「いや……」
 真っ直ぐに彼を見たまま、言葉が続けられなかった。

 窓に目を向けて呟く。
「昔、サーシャが大切にしていたウサギのぬいぐるみが、アルフォンソという名だった。その二代目という意味なんだろう。五年前のことを、覚えていたのだと思って。それだけだ。
 そうか」
 ハルシャは、やっと心からの笑いを浮かべて、リュウジに顔を戻す。
「アルフォンソ二世か。次からは、ぬいぐるみ生物でなくその名で呼ぶことにしよう。サーシャが喜ぶだろう」

 リュウジの深い藍色の瞳が、まっすぐにハルシャを見ている。
「五年前、ご両親を亡くされたそうですね」
 小さな声で彼は呟いた。
 爽やかな朝の光の射しこむバスの中で、あまり相応しい話題でもないような気がする。
 だが、別に隠すことでもない。
 ハルシャは、静かに言葉を滴らせた。
「そうだ。……爆発事故に遭って、二人同時に亡くなった」

 言った瞬間、あの時の混乱と動揺と悲しみが、不意打ちのように湧き上がって来た。
 思わず顔を逸らす。

「サーシャは、まだ六歳だった。あまり、事故で両親を失ったことは話していない」

 どんな状態で、両親が遺体安置室に横たわっていたかは、永遠に話すことが出来ないような気がした。
 それで、どうして今のような暮らしをしているのか、と、リュウジに問われるのが辛かった。聞かれれば父親の借金のことに触れなくてはならない。

「ところで、リュウジ、今日の作業だが――」
 ハルシャは、話題を変える。
 意図を、リュウジは感じ取ってくれたようだ。
「はい、ハルシャ。削り出しの作業に今日からかかれそうですね。僕もお訊ねしたいことがあります。工場は基本的に終日稼働可能なのですか?」
「終日というと?」
「夜も作業が出来るか、ということです」
「基本は定時までだが、納期が迫っていれば徹夜で作業をこなすこともある。どうした?」
「いえ。昨日見せて頂いた機械の能力なら、駆動機関部の削り出しに、三十二時間かかると試算しました。もし、連続して機械を動かすことが出来、夜間も通して削れば、明日には別の作業に移れます」

 ハルシャは、リュウジの言葉をじっと聞いていた。
「だが、妨害があるとリュウジは危惧していたのではないのか?」
 ハルシャの言葉に、彼は素直にうなずいた。
「その方策も、昨日の夜に立てておきました。機械のプログラムにプロテクトをかけて他からいじれないようにします」
 実に無邪気な笑みを浮かべながら、リュウジが言う。
「我ながら、素晴らしい防御プログラムが組めました。それを、今日はしっかりかけて定時に帰りましょう」
 やはり。
 オオタキ・リュウジの穏やかな外見に惑わされてはいけないと、ハルシャは心の中に呟いた。
 彼は炎のような激情を、内側に秘めているような気がする。


 *


 削り出しの機械は、巨大な部屋なようなものだ。
 五つの方位から高出力のレーザーが出て、五点がぶつかる場所が削られていく。
 内部からも削ることの出来るすぐれものだった。
 緻密に内側の形状を計算し、組んだデータを削り出しの機械に入れ込む。
 シミュレーターが、意図した図形をモニターに浮かび上がらせる。
 二人で首を並べて画面をのぞき込み、最終チェックをする。

「いいですね」
「いいな」

 リュウジと確認をする。
 やり直しはきかない。
 これほどのカーヴァルト鉱石をもう一個となると、三ヶ月分の給料が飛ぶ。
 三度目の確認を終えたあと、カーヴァルト鉱石を運び込み台座に据える。
 機械を使い、運び込みも二人で行った。
 今までほとんど単独の作業だったので、リュウジが居るだけでとてもありがたい。

 削り出しは、凄まじい音と熱と粉砕された破片の飛び散りを伴う。
 だから、巨大な部屋の台座に鉱石をセットして二人は作業場を出た。
 防音装置が施された外で、作業を見守る。
 入れたデータをもう一度確認してから、ハルシャは機械を始動させた。

 五つの腕が多方向から延びて来て、四角い塊のカーヴァルト鉱石に凄まじいエネルギーを注ぐ。
 鋳造では、どうしても冷える過程で金属に歪みが出る。
 だが、削り出しでは、均一な組織を削って形を作るので一番強固になる。
 過酷な宇宙空間では、わずかなひずみが命取りとなる時があるのだ。

「順調ですね」
 外から、モニターで作業を見守りながら、リュウジが呟く。
 みるみるうちに角が落とされ、リュウジが設計図を引いた通りに、丸みのある駆動機関部の姿が徐々に表れてくる。
 きれいな形をしている。
 高性能なものは美しいというのは、製作者全般の認識だ。
 機能性が高いものほど無駄がなくとても美しく感じる。本能と言ってもいいかもしれない。
 形が出来た後は、ハルシャが手作業で微調整を兼ねて削っていく。

「そうだな。とても順調だ」
 これが、どんな駆動機関部になるのか、今からハルシャは、楽しみで仕方がなかった。
「では」
 にこっと笑いながら、リュウジは自宅から持ってきた電脳を鞄から取り出した。
「プロテクト作業に入ります。ハルシャはどうぞ、のんびりしていてください」

 彼は電脳を立ち上げ、削り出しの機械に電脳をケーブルでつないだ。
 膝の上に電脳を置いたまま、彼は凄まじい速度で指を動かしている。

 リュウジは表情を消して、一心に画面を見つめている。
 駆動機関部を設計する時も、おそらくこんな顔で彼は作業をこなしていたのだろう。
 凄まじい集中力だ。
 今、彼には画面の中に繰り広げられる世界以外何も見えていない。
 ハルシャは、静かに彼の表情を見守っていた。

 十分ほど過ぎた時
「終わりました」
 と、不意に笑顔になってリュウジが言う。
「ハルシャ。今、その画面から、数値を操作しようとしてみてください」

 指示の通りに先ほどまで微調整をしていた画面に向かい、数値の場所に触れる。
 だが。
 何の反応もない。
 さっきまでなら、数値を細かく変更できた。

「動かせない」
 ハルシャに言葉に、にこっと笑みを深めて、リュウジが電脳を閉じた。
「成功です。これで、明日の朝まで、誰も数値を変更できません」

 リュウジは立ち上がり、ケーブルを抜く。
「この作業が終わったら、プロテクトを解除して元に戻しておくので、ご安心ください。ああ、でも電源に悪戯をする、たちの悪いネズミがいるかもしれませんね」 
 あっさりと、彼は不穏当なことを呟く。
「そっちの方の方策も考えてきました。電源を抜こうとすると、ショックが来るように部品を仕込んでおきます」
「まさか」
「まさか? そこまでする人はいないとお考えですか? ハルシャ」
 にこにこと、リュウジが笑う。
「やはりハルシャは、とても善良な人ですね」

 言いながら、彼は立ち上がり静かに電源へと歩いて行った。
 まさか。
 作業中の削り出しの機械の電源をオフにするような者がいるはずがない。
 そう言いたかった言葉を、やんわりとリュウジが否定した。
 電源の側に座り、しばらく作業をしている。
 服から、黒いワイヤーのようなものを出した。
 そっと絡めてから立ち上がる。
 何事もなかったかのように、ハルシャの横に座り、
「抜こうとすると、電源から直接手に電気が流れるようにしました――」
 と、静かに、ふふと笑う。
「知らずにこれに引っかかると、心臓ぐらい、止まるかもしれませんね」
 工場用の、凄まじいエネルギーだ。
「まさか」
 くすっと、リュウジが笑う。
「今度のまさか、は、僕がまさかそんなシステムを仕込んだのか、という疑問ですね、ハルシャ。
 本当です。僕は仕込みました」
 笑みを消して、彼は言う。
「僕は、作業を悪意で邪魔されるのが嫌いなのです」

 彼は、モニターに顔を向ける。
「安心してください。ちゃんと皆に忠告しておきます。それでも、敢えて電源を抜こうとするのなら、それは――自己責任です」

 リュウジが言っていた、忠告という意味を、昼ご飯になる時にハルシャは悟る。
 彼は、今日の昼食は、皆と一緒に食堂でとろうと、ハルシャに提案した。
 工場には、小さな食堂が併設されていて、作業員のほとんどは、そこで食事をする。ハルシャは、人間関係が煩わしいのと、サーシャが弁当を持たせてくれる関係上、いつも自分の席で一人食べるのが常だった。
 だが、今日はリュウジに連れられて、食堂へと進む。
 皆の眼が、鋭くハルシャたちに向けられる。
 リュウジは全く気にしていなかった。
 そして、ある人物を認めると、足早に進んで、空いていた彼の席の横に座る。

「こんにちは、トーラス・ラゼルさん!」
 明るいリュウジの声に、皆の視線が集中する。
 注目の中心に突然放り込まれた、トーラス・ラゼルは、面食らって、上げていた匙を凍り付かせている。
 リュウジは、彼に笑顔を向けながら
「昨日は、色々親切に教えて頂いて、本当にありがとうございます。とても助かりました。この職場に、トーラス・ラゼルさんのような方が居て、とても心強いです」

 突然、トーラス・ラゼルは、自分がハルシャ側の人間にさせられていることに、気付く。
「なっ!」
「作業をどうやったら中断しないか、色々僕も考えてみました」
 一方的に、リュウジが喋り続ける。
「機械が停止しないように、万が一のことを考えて、電源に、抜け落ち防止の策を、施しておきました。
 もし、万が一、間違って」
 リュウジの濃い色の瞳が、トーラス・ラゼルを見据える。

「電源を、抜くような、人が、いないように」
 静かに、リュウジが微笑む。
「電源に手を触れたら、ショックが来るようにしておきました。それなら、使っていない機械のものと間違えて、抜く人も居ないでしょうから」


 しんと、辺りが静まり返っていた。
 その中で一人、リュウジがにこにこと笑っている。
「色々、教えて頂いて、本当にありがとうございます、トーラス・ラゼルさん。心から、感謝を申し上げます。
 工場の発展のために、僕も微力ながら、頑張って参ります」
 
 最後の言葉は、戸口に現れた工場長と、隣の副工場長に向けて発せられたもののようだった。
「ご親切に、心から感謝します、トーラス・ラゼルさん」

 最後にしっかりと言い切ってから、リュウジは立ち上がった。
 トーラス・ラゼルに向けられる、皆の眼がどことなく変わっていた。

 今までハルシャに敵意を抱いていたはずじゃないのか、お前。いつの間に、あっち側に寝返ったんだ。
 という、疑いを含んだ、咎《とが》める眼だった。

「ち、違う。俺は何も言っていない」
 慌てて言う、トーラス・ラゼルに、去りかけたリュウジは足を止め、振り向いた。
「ご自身の手柄を、わざとそうやって公表しないなんて、とても謙虚なお人柄ですね。
 尊敬します。トーラス・ラゼルさん」

 満面の笑みで言ってから、リュウジはハルシャの側に、戻って来た。
「ハルシャ」
 彼は、静かな笑みを浮かべる。
「この食堂のお勧めのメニューは、何ですか」

 したたかに、毒を滴らせてから、彼は平然とハルシャと並んで、ぱくぱくと自分と同じBランチを食べ始めた。
 食べ終わる頃に、リュウジの横に、工場長のシヴォルトが静かに座った。
「慣れたか。新入り」
 シヴォルトが、どろんとした目でリュウジを見ながら、言う。
 彼は豪華な昼食メニューをとったようだ。すでに空になっているが、盆を埋め尽くすほどの皿が載っている。

 嫌な目つきだ。
 とハルシャは思いながら、全く気にしていないリュウジの言葉を、横で耳に挟む。
「はい。ハルシャさんが、丁寧に教えて下さるので、とてもありがたいです。
 あと、トーラス・ラゼルさんも、この工場でのことを、細かく教えてくださいました。本当にありがたいです」

 ち、違う。
 と小さな声が片隅で上がる。
 聞こえないふりをして、リュウジが続ける。

「とても働きやすい職場ですね、シヴォルト工場長。やはり上に立つ方の力量でしょうか」

 厄介な相手はね、ハルシャ――
 喜ばせるのが、一番なんだよ。

 不意に、昨日聞いたジェイ・ゼルの声が耳に響く。
 リュウジも、その処世術を知っているのだろうか。
 自分よりも、はるかにリュウジは修羅場をくぐってきているような気がした。

 彼は工場長に、さりげなく今、削り出しの工程に入っていること、そして、夜も通して連続で作業を行いたいことを、柔らかな言葉で交渉している。
 納期よりも早く仕上がるのは良いことだ、という、工場長の言葉を、リュウジは彼の口から引き出した。

「ありがとうございます、シヴォルト工場長」
 リュウジは優しい笑みを浮かべる。
 ふっと、シヴォルトは笑うと、空いている左の手を、すっと下に下げて、リュウジの膝に触れた。
「素直な子だな、君は」
 刺すような視線を、シヴォルトに送ったのかもしれない。
 リュウジが自分の前に顔を出して、だめだよ、ハルシャというように、静かに視線を遮った。
 やらせておいたらいい。
 実害はない。
 そんな言葉も、聞こえてきそうな眼差しだった。
 ハルシャが言葉を飲み込んだことを確認してから、リュウジはシヴォルトに顔を向けた。
「まだ作業が残っているので、これで失礼します。色々、ありがとうございました」
 食器の乗った盆を持って、彼は立ち上がる。
「行きましょう、ハルシャ」
 すとんと、シヴォルトの手が、彼の膝から落ちる。
 食器を戻すときも、リュウジは周りの人たちに、愛想よく挨拶をしている。
 戸惑いながらも、皆は押し切られるようにして、挨拶を返す。
 
 作業場に戻るまで、ハルシャは無言だった。
 自分たちが不在の間も、順調に削り出しが行われ、外観が随分現れてきている。
 楽しそうにモニター画面を見るリュウジに
「すまなかった」
 とハルシャは、詫びを呟く。
「工場長が、妙なことを……」
 それ以上が言えないハルシャに、ふふっと、リュウジが笑う。
「ハルシャに、妙なことをされるよりましですよ。彼は、随分ハルシャにご執心のようですから」

 思いもかけないことを、リュウジが言う。
「気づきませんでしたか? ひどい目で見ていますよ」
 リュウジの眼は、モニターから動かない。
「正直、異動になって良かったです。男の嫉妬は、結構陰湿で、質《たち》が悪いですからね」

 シヴォルトが、自分を?
 そんな、ばかな。

「順調ですね、ハルシャ。立派な駆動機関部が出来そうです」

 リュウジが、話題を変えた。
 なのに、ハルシャは先ほど告げられた言葉の衝撃から、抜け出せないでいた。
 立ち尽くす耳に、
「シヴォルトの心は、歪んで捻じ曲がっています」
 という静かな声が聞こえた。
「この駆動機関部を、ハルシャに作らそうとしたのは、シヴォルトの差し金かもしれませんね。悪意を感じます」
 削り出しの大きな音にかき消されるほど、小さな声でリュウジが呟く。
「彼が異動になるのは、僥倖《ぎょうこう》です」

 椅子に座り、彼は鞄からサーシャが持たせてくれた、お弁当を取り出した。
 さっきの会話など、何もなかったかのような、雰囲気だ。
「今日は、サンドウィッチですよ、ハルシャ。やはり、サーシャの作る料理が一番美味しいですね」
 ハルシャの分も手渡してくれながら、彼は言う。
「あまり食堂のご飯は量がありませんね。お陰でサーシャのお昼が食べられるので、まあ良しとしますか」


 定時まで、何事もなく時が過ぎる。
 モニターを見守りながら、今後の作業についても、リュウジと打ち合わせを行い、電脳を使い、計画を立てる。
 誰かに自分の考えを聞いてもらい、肯定し、あるいは修正してもらえるのは、とてもありがたく、心強いと、改めてハルシャは思った。
「ハルシャとの作業は楽しいです」
 遠い所を見ながら、リュウジがぽつんと呟く。
「ずっと、こうやっていけたら、僕は嬉しいです」

 昨日の話を蒸し返すつもりはなかった。
「そうだな。私もそう思う」
 と、だけ、ハルシャはリュウジに告げた。

 定時になる前に、リュウジは最終的にあちこちのチェックをし、放置しても大丈夫だと判断をつけて、モニター画面に大きく「作業中。触らないでください」という紙を、大きくぺたりと張り付けた。
「文字が読める人なら、きっと、触らないでしょうね」
 と、楽しそうに言う。

 本当に側に人が居なくて大丈夫か、と問うハルシャに、リュウジは笑って大丈夫だと請け合う。
 明日の朝を楽しみに、帰りましょう、と。

 定時に工場の入り口を抜けると、リュウジがハルシャに向き合った。
「それでは、僕はバスで帰りますね。サーシャのことは、お任せください。宿題も見ておきます」
「ありがとう、とても助かる。リュウジが居てくれると、本当に心強い」
 彼が微笑む。
「お役に立てて、光栄です」
 お仕事ご苦労様です、では、と言葉を残して、彼は足早にハルシャの側を去って行った。
 見送るハルシャの視界に、門を出て行くリュウジの姿と、その門の側で待機する、ジェイ・ゼルの黒い飛行車が映った。
 飛行車に乗り込む自分を、リュウジに何となく、見られたくない気がしていた。
 彼が側を離れてくれて、ある意味、ほっとしている。

 リュウジが十分飛行車から離れたことを確かめてから、ハルシャはやっと動いた。
 ネルソンがハルシャを認めて、扉を開けてくれる。
「ありがとう、ネルソン」
 ハルシャは丁寧に礼をする。
 車内に、ジェイ・ゼルの姿はなかった。
 彼は先に行って、待っているのかもしれない。

 食事は後でいい。

 なんてことを、言ってしまったのだろう。
 車内に身を潜り込ませながら、ハルシャは顔が赤くなっていく。
 せっかくジェイ・ゼルが『ヴェロニカ』での夕食を提案してくれたのに。
 断るなんて、ひどい所業だ。
 だが、あの時はそれほどまでに、切羽詰まっていた。
 幸いなことに、食堂での食事と、サーシャの昼食を食べたお陰で、今もまだ空腹ではない。
 ハルシャを中に取り込んで、ふわりとネルソンが飛行車を浮かせる。
 方向を変えながら、
「お友達ですか」
 と、珍しく、ネルソンの方から声をかけてきた。
「先程、工場の出口で別れられていた、黒髪の方は。あまりお見かけしない方ですね」

 どうして急に――と思うと、下にバス停に向かうリュウジの姿が見えた。
 彼は真っ直ぐに道を歩いていく。
 上の飛行車にハルシャがいることなど気付かないように、前だけを彼は見ていた。
 上空から見る彼は、ひどく頼りないように思えた。
 一人で帰すことに、きりっと胸が痛む。

「オオタキ・リュウジだ。オキュラ地域に越してきたばかりで、仕事を探していた。それで、この工場を紹介したんだ。作業を覚えがてら、一緒の場所で仕事をしている。今日で働き始めて二日目だが、物覚えも良く、優秀な青年だ」
 ネルソンが自発的に話しかけてくれたのが嬉しかったのか、自分でも驚くほど詳細に彼のことを語った。

「そうですか」
 ネルソンの短い言葉が、応える。
 そこで会話が終わったと思ったハルシャは、身を座席に預けて、小さくなるリュウジの姿を上から眺めていた。
 ああ見えても、彼は意外としっかりしている。オキュラ地域での身の処し方も、学んでくれた。
 大丈夫だ、無事に帰りつく。
 見つめながら、心に念じ続ける。
 短い沈黙のあと、不意にネルソンが呟いた。

「あまり、ジェイ・ゼル様に、彼と一緒のところを、お見せしない方がいいと思います」

「え?」
 思わず身を伸ばして、ハルシャは、ネルソンに問いかけた。
「それは、どういう意味だ、ネルソン」
 すぐに言葉が返ってこなかった。
「言葉通りです。他意はありません」
 短く、彼は断ち切る様に言う。

 どうして、リュウジと一緒のところを、ジェイ・ゼルに見せてはいけないのだ。
 意味が解らない。
 ただ、一緒に並んで歩いていただけだ。
 ハルシャは、ネルソンの言葉に混乱を隠せなかった。
「誰かと一緒に居てはいけないということか、ネルソン」

 長い沈黙の後、ぽつりとネルソンが言う。

「差し出がましいことを申しました。どうか、お聞き捨て下さい」

 彼は――
 最初にサーシャと自分がジェイ・ゼルに伴われて、借金の処理を行った時、飛行車で運んでくれた人だった。
 ずっと、自分を見てくれている。
 その彼の忠告の意味を、ハルシャはずっと考え続ける。
 ジェイ・ゼルが不快に思うということなのだろうか。
 だが。
 これまで、ジェイ・ゼルに借金と仕事以外のことで口出しされたことはない。
 自分が誰と居ようが、彼は気にしないと思う。
 けれど――
 きっと、ジェイ・ゼルの側で仕事をしているネルソンには、自分には解らないことが見えているのだろう。
 彼の忠告を、素直に受けることに、ハルシャは心を決める。

「ネルソンがそう言うのなら、これから気を付けるようにしよう」
 自分のために、わざわざ声をかけてくれたのだ。
 そう、思い至る。
「忠告を、ありがとう。ネルソン」

 ハルシャの言葉に、彼はふっと肩の力を抜いた。
「差し出口を……」
「いや。ありがとう」
 
 そこで、本当に会話が終わった。
 ハルシャは、運ばれていきながら、夕闇から夜に傾き始める空へ目を向ける。
 都心ラグレンが、輝き始めている。
 白、赤、青、黄色――
 天上に負けないほどの華やかな光が、大地を覆いだす。
 ぼんやりと、ハルシャは光を眺める。

 視線を転じると、向かう方角に光をまとって聳え立つ『エリュシオン』の姿があった。
 輝く建築物を、目を細めてハルシャは見つめた。
 あそこのどこかの部屋に、ジェイ・ゼルがいる。
 今、自分を待っていてくれている。

 とくん、と、心臓が鳴った。
 ぎゅっと唇を噛み締めると、ネルソンが操る飛行車に身を任せ、ハルシャは輝く『エリュシオン』の白い姿を見つめ続けた。





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