布団を三枚並べて敷き、ハルシャは暗い天井を見つめていた。
満腹し、そこそこ頭も使ったためか、リュウジのお話をほんの数分聞いたただけで、すーっと、サーシャは眠りに引き込まれたようだ。
穏やかな吐息が、闇に響く。
腕にぬいぐるみ生物を抱きしめて、屈託なくサーシャは眠っている。
上を見つめながら、ハルシャは妹の寝息に耳を傾けていた。
「楽しかったようですね。とても幸せそうな寝顔です」
小さな声が響く。
ハルシャは視線を向けた。
リュウジが腕を敷いて横を向き、自分の方へ顔を向けている。
静かな中に、優しさのこもる声で、リュウジが呟いていた。
「お土産まで、ありがとうございます」
良く聞き取ろうと、ハルシャも、リュウジへ顔を向けながら、微笑む。
「上司の配慮に感謝しなくてはな。サーシャまで、招待してくれるとは、思わなかった」
「ジェイ・ゼル、という人ですか」
妙な違和感を覚える口調で、リュウジが呟いた。
「ああ。工場にも時折顔を出す。また、紹介しよう」
いつもなら、はい、お願いします、と、素直な言葉が聞こえるはずが、彼は沈黙している。
話題に上がったことを機会と捉え、ハルシャは、ジェイ・ゼルのことを、リュウジに伝える決心をする。明日は呼び出しがある。そのことを、どうしても話しておく必要があった。
ハルシャは、懸命に考えた理由を、リュウジに話す。
「上司のジェイ・ゼルは多忙で……」
リュウジの今は黒に見える、深い色の瞳がハルシャを見つめていた。
水晶のように澄んだ瞳に向けて、ハルシャは、嘘を呟く。
「私は仕事の打ち合わせの都合上、時折、彼に会わなくてはならない」
身の内が毒に爛れていくような感覚を抱きながら、ハルシャは言葉を続ける。
「実は、明日も定時に上司の迎えが来ることになっている。――すまないが、明日は独りでオキュラ地域まで帰ってもらってもいいだろうか」
何とか理由を述べ終えた。
ほっとするハルシャの耳に、静かなリュウジの声が響いた。
「打ち合わせなら、僕も同席しましょうか」
ハルシャは、思いがけない言葉に、身が強張りかけた。
薄闇の中に、無邪気なリュウジの笑みが浮かぶ。
「これから先も、ハルシャと一緒に仕事が出来れば、と思っています。もし打ち合わせに参加させていただけたら、とてもありがたいです。質問も出来ますし、さらにスムーズに作業を進めることが出来ると思います」
穏やかに彼は言う。
「僕は、少しでも……ハルシャの力になりたいです」
何も言えずに、ハルシャは黙り込んだ。
必死に考えた理由が、簡単にリュウジに砕かれてしまった。
打ち合わせに、同席したい。
ハルシャの仕事の負担を減らすために、彼は親切に言ってくれているのだ。
だが。
彼を、連れて行くことは出来ない。
突発的な申し出に、局面をどう凌《しの》げばいいのか、ハルシャは解らなかった。
ジェイ・ゼルは気難しい。
打ち合わせは一対一で行う。
相手方も参加する。
色々な言うべき理由が頭を駆け巡る。
だが。
きっと、どれもリュウジには論破されてしまうのだろう。
しかし。
彼に本当の理由を知られる訳には、行かなかった。
ハルシャはただ、リュウジを見つめて、無言で固まり続けた。
黙り込むハルシャに、
「すみません、困らせてしまいましたか」
と、リュウジの静かな声が響いた。
「仕事を始めて数日で、責任ある立場の方と同席できると考える方が、間違っていますね。
つい、余計なことを言ってしまいました。ハルシャ。先ほどのことは、聞き流してください」
凍り付くハルシャに、どうやらリュウジの方が譲ってくれたようだ。
「上司との仕事の打ち合わせは、大変ですね」
思いやりに満ちた言葉が、リュウジの口からこぼれる。
「了解しました、ハルシャ。明日は、自分でちゃんとオキュラ地域まで帰ってきます。記憶力はいい方なので、道も大丈夫ですよ」
ふふっと、リュウジが笑う。
「ハルシャが遅くなるなら、宿題をした後、サーシャと一緒にまたトランプをして遊んでいますね」
どうやら――
ハルシャが何もしないうちに、自然と問題は解決してしまったようだ。
ほっと、息を吐く。
「勝手を言ってすまない」
「大丈夫ですよ。時間とバスの系統を間違えなければ、ちゃんと戻って来られますから。明日は、作業を頑張りましょうね」
と、リュウジは明るく言う。
先ほど、ハルシャ達が居ない間にリュウジが仕上げた仕事を、見せてもらっていた。
削り出しの準備が、万全に整っている。
明日はこのデータを掘削機に入れて、一日定時まで、削り出しの作業を続ければいい。
想像以上に、作業速度が速い。
会話が途切れ、もそもそとリュウジが動く気配がする。
ハルシャも、天井へと視線を戻す。
ずっとこうやって、三人で生きてきたような錯覚を覚える。
何より、サーシャがリュウジにとても懐いていた。
二人目の兄のように、彼女は記憶を失った青年を扱っている。
もし――
リュウジの記憶が戻り、生活の中から彼が消えたら……
きっと、サーシャはとてつもない喪失感を味わうのだろう。
最初に、危惧して覚悟を付けさせるために話はしてはあるが、いざ現実となると、人の心は柔らかく脆い。
それでも、リュウジの幸せのために、サーシャは懸命に辛抱をするのだろうと、ハルシャは思う。
涙を流さずに、さようなら、元気でリュウジと明るく見送ってから、一人で泣くのだろう。
そういう子だった。
もし――
リュウジの記憶が戻らなければ……
自分たちは、このまま三人で暮らしていけるのだろうか。
「辛くないですか」
ぽつっと、リュウジが呟く。
向けた視線の中に、背を向けたリュウジの姿があった。
彼は身を丸め、闇の中に低く静かな言葉を呟いていた。
辛いとは、この暮らしのことだろうか。
ハルシャは一瞬ためらってから、言葉を口にした。
「辛くない、と言えば嘘になる。正直きついとは思う」
けれど。
今日聞かされた、サーシャの素直な言葉が耳の中に、まだ、響いている。
「他人からどう見えるかはわからないが……私たちは、それなりに幸せに暮らしている。豊かとはいえない、つましい暮らしだが……」
ハルシャは言葉を途切れさせる。
サーシャは、メリーウェザ医師から預かった服を、大切に畳んでいた。
もう、ここ一年新しい服など、買い与えたことがなかった。
ひどい暮らしと、言われるかもしれない。
だが、サーシャはそれでも、幸せだと言ってくれた。
「貧しいかもしれないが、不幸ではない」
ぴくっと、リュウジの肩が震えたような気がした。
ハルシャは彼の背中を見守っていた。
「記憶を失って、ただでさえ不安であるのに、生活の心配までさせてすまない」
細い彼の背に、ハルシャは心の底からの詫びを述べる。
「リュウジが居てくれて、サーシャの心がとても落ち着いた。仕方がないこととは言え、仕事でサーシャを独りきりにさせることが多かった。
今日……勝負に負けて、あれほどごねる妹を初めてみた。思っても私に遠慮して、これまで本音を言えなかったのだと思う。リュウジだから、安心して内側の想いを吐露したんだろう。
妹には我慢をさせてきた。リュウジのお陰で、彼女は少しずつ、子どもらしい笑顔になってきている。
それは、どんなことよりも、私にとってありがたいことだ」
沈黙したまま、リュウジはその言葉を聞いていた。
あまりに長い静寂に、もしかしたら彼は眠ったのかもしれない、と、ハルシャは考えた。今日は慣れない職場で一日居て、くたびれたのかもしれない。
サーシャの布団を直し、自分も眠りにつこうとした耳に、リュウジの声が響いた。
「僕の記憶が戻らなければ」
静かな声だった。
「ずっと、ここに置いていただいても、いいですか」
自分の身の振り方を、心配していたのかもしれない。
安心させるように、ハルシャは虚空に呟く。
「もちろんだ、リュウジ。君一人ぐらい、何とかなる。工場での作業が認められれば、正規に雇ってもらえるかもしれない」
彼は借金を背負っている訳ではない。
働けば、それだけ給料が手に入る。
けれど。
それが、本当に彼の幸せなのだろうか、と、ハルシャは考える。
自分たちにとっては、都合のいい未来だ。
だが。
リュウジには、本来帰るべき家族と故郷があるはずだ。
「リュウジ」
ハルシャは、天井を見つめたまま呟く。
「もちろん、君の記憶が戻らなければ、ずっとここに居てもらってもいい。
だが――
本当は、記憶が戻って、君が家族の元へ帰るのが、一番いいことだ。
もし……万が一、サーシャが記憶を失い、行方が分からくなったとしたら、私は宇宙の果てまでも、彼女を探し続けるだろう。
君にも、そんな家族が、いるのかもしれない」
向けられた背中から、何も声は聞こえなかった。
「あまり先のことを、心配しないほうがいい。私も、もう終わりだと何度も思ったが、それでも何とかなってきた」
思い出に、唇をわずかにハルシャは噛み締める。
何の知識もなく、準備すら出来ていない身を、ジェイ・ゼルに蹂躙された時、このまま死ねたらどれだけ楽かと、何度も思った。
けれど。
サーシャのことを思い、辛うじてこの世に踏みとどまった。
「きっと、何とかなる。君が側に居てくれると言ってくれたように、君の側にも私とサーシャがいる。
大丈夫だ。リュウジ」
やはり、言葉はなかった。
ハルシャは、蘇った記憶に微かに眉をひそめながら、目を閉じた。
もし最初の時に、ジェイ・ゼルが思いやりを見せてくれていたら、自分はここまで頑なにならずに済んだのだろうか。
つい、そんなことを考えてみる。
二回目から、ジェイ・ゼルは優しさを示してくれたが、最初に粉々に砕かれた心は、ただ、行為を屈辱と欺瞞としか捉えられなかった。
その時感じた恥辱が、不意によみがえってくる。
彼を求める今の自分と、彼を拒否する過去の自分が、一瞬、身の内側で争った。
「あなたたちにお逢いできたことは、僕の幸運でした」
眠っていると思ったリュウジが、突然口を開き、ハルシャは驚きに目を見開いた。
「おやすみなさい、ハルシャ」
おやすみ、ハルシャ。良い夢を。
リュウジの言葉に、ジェイ・ゼルの呟きが重なる。
胸の奥の苦しい闘いの中に、ハルシャは思う。
ジェイ・ゼルを信じようと、あのとき決めたのだ。もう、迷うのはやめよう。
「おやすみ、リュウジ」
心の整理を付け、穏やかに言葉を返してから、ハルシャは目を閉じた。
ふと、『暗黒の砦』の話をジェイ・ゼルから途中までしか、聞いていなかったことを、思い出す。
明日、時間があったら、訊ねてみようと考えながら、いつしか、ハルシャも眠りの中に引きこまれていった。
*
穏やかにハルシャとサーシャの寝息が響く中、一人リュウジは目を開き、じっと、虚空を見つめ続けていた。
二人が寝入って一時間ほどしてから、リュウジは歯の中に仕込んでいた、高性能の通信装置のスイッチを、舌先で入れた。
骨の振動を通じて、声がリュウジに聞こえる。
『
リュウジは口の中で小さく呟く。
「明日の六時から、自由に動ける。バスで定時に工場を出る。落ち合って、情報を貰いたい」
『了解いたしました。それでは、ロンダルド駅へおいで下さい。お迎えに参ります』
くすっと、リュウジは笑う。
「人目がありすぎる。相変わらず、
『申し訳ありません。では、どこへお伺いしたらよろしいですか』
リュウジはしばらく沈黙していた。
「オキュラ地域に、廃材屋がある。そこに来てくれ」
『承知いたしました』
「現金を持ってきてくれ。買いたいものがある――」
ふっと彼は小さく笑った。
「レンドル・ヴァジョナ型の駆動機関部だ。素晴らしい状態で保管されている。あれだけはぜひ、手に入れておきたい」
『かしこまりました。現金をお持ちいたします』
一瞬、リュウジは沈黙した。
「この先、かなりの額の現金が必要になるかもしれない。明日指示するが、早急に手配できるようにだけ、しておいてくれ」
『はい、
「以上だ」
舌先で、リュウジは通信を切る。
ゆっくりと視線を転じ、彼は眠る兄と妹の姿を瞳に映す。
起きた様子はない。
しばらく、二人の寝顔を見つめる。
金色の巻き毛に囲まれた、天使のようなサーシャの寝顔へ視線を落とす。
目を細めると、再び背を向けて、リュウジは布団を身にかけた。
しばらく考えながら、虚空を見つめていたが、やがて、彼も静かに目を閉じた。
狭い部屋の中に、やがて、穏やかな寝息が、三つ響き始めた。