「だだいまー! リュウジ!」
扉をあけ放ちながら、サーシャが弾んだ声で言う。
「おかえりなさい、ハルシャ。サーシャ」
にこにこと笑いながら、リュウジが応える。
リュウジはいつもの彼の席で、電脳を開いて作業をしているところのようだった。身を伸ばして玄関の自分たちをのぞき込んでいる。
「楽しかったですか?」
「うん、とっても!」
靴を脱いで、丁寧にそろえてから、足早にリュウジの側に駆け寄る。
頬を赤らめながら、サーシャは店で持たせてもらった箱を、嬉しそうにリュウジに差し出す。
「はい! これ、お土産だよ。リュウジ」
「僕に、ですか?」
きれいな白い箱を、彼は両手で受け取っている。
「甘いお菓子だよ、リュウジ」
「わざわざ、持ってかえって下さったのですか?」
微笑みを、リュウジに向ける。
「独りでお留守番をさせていたから。ごめんね、リュウジ」
そうか。
ハルシャは、靴を脱ぎながら、妹の心を静かに感じ取る。
お腹が一杯だという理由を付けて、サーシャはお菓子をリュウジのために、持って帰ってあげたかったのだ。
異郷の地で、記憶をなくして心細い思いをしている彼を一人で残し、自分たちだけが楽しんでいるのが、心苦しかったのだろう。
懸命にお菓子を持ち帰りたいと告げていた、サーシャの言葉が耳に蘇る。
きっと。
本当は食べたかっただろうに。
「二個あるの。お兄ちゃんと、リュウジの分だよ」
楽しそうに椅子に座りながら、サーシャが言葉を続ける。
「サーシャはもう、お店で食べてきたから」
耳にしたハルシャは目を細めた。
いつの間に、そんな優しい嘘をつくことを、妹は覚えたのだろう。
リュウジは、ありがたいです、と言ってから、箱を机の上に置いて、開いている。
扉の鍵をきちんとかけ終えて、二人の元へと、ハルシャは歩を進めた。
箱をのぞいてから、リュウジが声を上げる。
「サーシャ。お菓子は三つありますよ」
ああ、そうだ。
ジェイ・ゼルも断っていた。たぶん、彼の分のお菓子も入れてくれたのだろう。指示があったのかもしれない。
こんがりと焼き色のついた、甘い香りの焼き菓子が、白い箱の中に三つ、きれいに収まっていた。
四角い形のもので、上に白い粉砂糖がふんわりとかけられている。
その香りは、生前の母を思わせて、ハルシャの胸が重く痛んだ。
「ほ、本当だ」
サーシャが動揺している。
「ちょうど、三人分ありますね。サーシャも一緒に頂きましょうか。お店で食べていても、もう一つぐらい入るのではないですか?」
リュウジが笑顔をサーシャに向ける。
「で、でも。それなら」
サーシャは懸命に考えている。
「一つ、メリーウェザ先生に、持って行ってあげたいな」
ぽつんと、サーシャが呟く。
「だって、この服を貸して下さったお陰で、とても楽しくお食事が出来たから。サーシャはもうお店で食べてきたから、大丈夫」
ハルシャとリュウジは、服を撫でるサーシャの様子を、無言で見つめていた。
「僕はいいですよ」
「私ならいい」
同じタイミングで、ハルシャとリュウジの口から言葉がこぼれる。
え? と、サーシャが驚きに目を見開く。
「ごめんさい。重なって、よく聞き取れなかったの。もう一度お願いします」
リュウジとハルシャの視線が出会った。
サーシャに食べさせてあげたい、ということは一致している。
凄まじい速度で、二人の頭の中であらゆる可能性が渦巻く。
二人のどちらかが譲っても、自分は欲しくないと言い張って、サーシャが断ることは目に見えていた。
手立てを考える。
ふっと、リュウジが笑顔になった。
「なら、こうしましょう」
リュウジが提案を呟いたまま、席を立った。
慣れた様子で台所に向かい、手に包丁と三枚のお皿、そしてフォークを三っつ持って帰ってくる。
「この三つのお菓子を、みんなで上手く分けましょう」
包丁を手にした段階で、ハルシャは自分と同じ結論にリュウジが達したのだと、得心する。
あとは、彼に任せようと、椅子を引いてハルシャは腰を下ろした。
「一つは、ドルディスタ・メリーウェザへ」
そっと箱の中で、一つの焼き菓子を動かす。
「明日、サーシャが持って行ってあげてください」
こくんと、サーシャがうなずいている。
「では、この二つを、三人で分けましょう」
粉砂糖がかかる焼き菓子の上に、リュウジが軽く包丁で三等分の筋を付けた。下の茶色の生地がのぞき、きれいに筋が見える。
リュウジは二つの焼き菓子に線を刻み終えた。
「数学の問題みたいですね」
小さくリュウジが笑う。
「この二つの焼き菓子は、細長い直方体です」
「直方体って、四角い形のこと?」
「そうです。その表面に、今、三分の一の線をひきました。ここで、一つの焼き菓子から、三分の一、切り取ります」
リュウジは真っ直ぐに包丁を入れて、きれいな三分の一の形を、切り出した。
「もう一つの焼き菓子からも、三分の一、切り取ります。そうすると、三分の二の焼き菓子が二つと、三分の一の焼き菓子が二個できましたね」
「うん」
「では、この焼き菓子を、お皿に移しましょう」
リュウジは手早く、包丁に乗せて、三分の二に切られた焼き菓子を、一個ずつお皿に盛りつける。
「残ったこの三分の一を、二つ一緒にお皿に載せます。すると、ほら。サーシャ、二つ合わせて三分の二になります」
細長い三分の一のケーキ二個を寄せて、一つの塊にする。
「みんなが、三分の二の焼き菓子を、平等に食べることが出来ますね」
にこにこと、リュウジが笑う。
「不公平ではありませんよ、サーシャ」
サーシャが、リュウジを見つめる。
彼は静かに微笑んだ。
「サーシャが食べていないのに、僕だけ食べるのは辛いです。せっかくなので、みんなで、一緒に食べましょう」
やっと納得したのか、こくんとサーシャがうなずいた。
見事なリュウジの采配で、三分の二になった焼き菓子を、皆で一緒に頬張る。
リュウジはさりげなく、三分の二の焼き菓子を、サーシャと自分に渡してくる。
自分は二つの塊を寄せ合わせたもので、満足している。
気付いたが、ハルシャは何も言わずに、彼の心を受け取った。
焼き菓子は、カスタード生地を焼いたもので、中に木の実が入っている、上品な甘みのものだった。
「美味しいです、サーシャ」
笑みをこぼしながら、リュウジが言う。
「僕のために持って帰ってきてくれたお気持ちが、一番嬉しいです」
真っ直ぐなリュウジの言葉に、サーシャは、照れている。
お留守番させたから、と、口の中でごにょごにょ言っている。
サーシャは、幸せだよ。
必死に告げていた姿が、胸をよぎる。
かつての生活を失ったから、自分たちは不幸なのだと、ハルシャは思い込んでいた。
思うように勉学もさせられず、食事も満足に出来ない。その上、働かざるを得ない状況に、妹を追い込んでしまった。
自分の責任だと思い続けていた。
けれど。
その中で、サーシャは懸命に自分の幸せを手に掴もうとしていたのだ。
裕福で、何不自由のない生活が、幸せなのではない。
大切な人がいてくれることが、幸せだと。
サーシャが、教えてくれた。
しなやかに、大らかに――いつの間にか妹は成長していた。
無邪気に焼き菓子を口に運ぶ姿を、ハルシャは愛しげに見つめる。
もしかしたら、自分も幸せなのかもしれないと、ハルシャは、ふと思った。
これほど慕ってくれる妹が居て、自分を理解してくれるリュウジや、メリーウェザ医師が側に居てくれる。
そして。
見つめていたジェイ・ゼルの、瞳が浮かぶ。
自分を大切に想ってくれている、ジェイ・ゼルの存在があった。
今日も――サーシャを食事に招く必要など、彼にはなかった。
けれど。
極上の時間を、自分たちに与えてくれた。
「美味しかったね、お兄ちゃん」
満面の笑みで、サーシャがいう。
口元に、焼き菓子の欠片がついている。
「サーシャ。口に菓子がついている」
「え、どこ、どこ?」
「右の口元だ、そう。そこ」
笑いながら、サーシャが袖口で口元を拭う。
その仕草を見ながら、自分が慌ててジェイ・ゼルの口からこぼれたクラヴァッシュ酒を、拭いたことを思い出す。
すっと、頬が赤らむ。
「皿を下げよう」
「サーシャがやるよ! お皿を下げ終わったら、カードゲームをしようね、お兄ちゃん! サーシャも練習したから、負けないから」
サーシャの眼は、もうリベンジに向けて、燃えていた。
*
結局、裏返しにしてランダムにめくり、二枚の数字を合わせるトランプゲームで、サーシャは一勝も出来なかった。
ぐぬぬと、サーシャが歯を食い縛る。
「昨日よりも、正答率が上がっていますよ、サーシャ」
リュウジが取りなすように言う。
「昨日は二組でしたが、今日は最高五組も取りましたよ」
「お兄ちゃんは最高十四組で、リュウジは最高十七組だったよね」
「たまたま、運が良かっただけです」
膝の上に置いていた、ぬいぐるみ生物を、ぎゅっとサーシャは抱きしめる。
「どうやっても、リュウジ達にサーシャは勝てない気がする」
拗ねたように、彼女は呟き、ぬいぐるみ生物で顔を覆う。
リュウジが、オロオロとしていた。どう機嫌を取っても、サーシャはぬいぐるみ生物に顔を埋めて動かない。
あまり彼女が見せない、子どもらしい姿だった。
よほど悔しかったのだろう。
もしかしたら、今日一日、どこかで頑張って練習をしたのかもしれない。
困り切ったリュウジを見つめてから、ハルシャは動いた。
手を伸ばして、妹の髪をそっと撫でる。
「こうやって家族でするトランプは……勝つか負けるかが大切じゃない」
兄の言葉に、ちらりと、視線がむけられる。
「みんなで、楽しめるかどうか、だ。
ゲームをする時間を大切にするのなら、自分の勝ち負けは、それほど重要じゃない。自分が負けた時は、誰かが勝って気分が良くなるときだ。それで、いんじゃないか……サーシャ。負けることなど、些末なことだ」
髪から手を引く。
「自分が勝負にこだわるあまり拗《す》ねてしまったら、周りが嫌な思いをすると、考えてみてくれないか」
リュウジが困って、眉を寄せていることに、気付かせたかった。
「楽しく、トランプをしよう、サーシャ。忙しい中でせっかく持てた時間なんだ」
じわっと、サーシャは気持ちが落ち着いてきたようだ。
「ごめんなさい」
素直に、サーシャが言う。
「言う相手が、違うんじゃないのか、サーシャ」
ハルシャは、静かに呟いた。
まだ眉を寄せるリュウジに、ぬいぐるみ生物ごしに、サーシャが詫びを呟く。
「八つ当たりしてしまって、ごめんなさい、リュウジ」
くぐもった声に、
「負けず嫌いは良いことですよ、サーシャ」
と、リュウジが取りなしている。
そこから気分を切り替えたのか、サーシャはどうやったら、ゲームに強くなれるのか、をリュウジに訊ねている。
考えずに、画像で憶えるのです、とリュウジが説明していた。
その瞬間を、映像で記憶する。そうすると、どこにあるのかが、脳から引き出して解るのですよ、と。
ふうんと、サーシャがうなずいている。
その練習を、数枚のカードを使って始めたようだ。
ハルシャは二人のやり取りを、椅子に腰を下ろしたまま見つめていた。
不意に、左手の通話装置が振動した。
「マスター」と、表示が出る。
ジェイ・ゼルだ。
とっさに、ハルシャは振動する装置を押さえながら、玄関へと大股に進んでいた。
靴をひっかけ、鍵を開けて、廊下に出る。
そこでやっと、ハルシャは受信の文字を押した。
「私だ」
ジェイ・ゼルの声が通話装置から響く。
一瞬、息が出来なくなった。
理由は解らない。
「ジェイ・ゼル」
上ずった声しか出ない。
ふっと小さな笑い声がした。
「もうサーシャと、ドルチェは食べたか?」
「ああ。ジェイ・ゼルの分まで入れていてくれて、ありがとう」
「女の子は、甘い物が好きだからな。たくさん食べさせてあげてくれ」
それを、聞きたかったのだろうか。
まさか、と思いながら、
「今日、シヴォルトの異動を聞いた」
と、さきほどは出せなかった話題を口にする。
「ああ」
ジェイ・ゼルが笑いをはじけさせる。
「厄介な相手はね、ハルシャ。喜ばせるのが一番なんだよ」
秘策を授けるように、ジェイ・ゼルは笑いを喉に含みながら言う。
「三日後には、あの工場からシヴォルトは消える。もう少し辛抱していてくれ」
優しい声だった。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
そうじゃない。
もっと違う言葉で感謝を述べたかった。
だが、上手く、想いが言葉にならない。ことに、ただ、音声だけの時は。
繋がっているのに、遠い。
逢いたい。
顔を見て話をしたい。
心の底に、ふわりと想いが湧き上がってくる。
今日は会話を交わしながらも、一度もジェイ・ゼルはハルシャに触れなかった。
最後に伸ばしかけた手を、意志の力で彼は宙で止めた。
あの時、自分に触れたら、サーシャの目の前であっても、唇を合わせてしまうと瞬間判断したのかもしれない。
そんな、ぎりぎりの眼差しで、ジェイ・ゼルは自分を見ていた。
けれど。
触れて欲しかった。
会話が苦手なハルシャは、触れることで心が補えるような気がした。
ジェイ・ゼルは言っていた。
触れた肌から、全てが伝わってくるのだと。
彼が示してくれた優しさに、述べる感謝を触れた肌から伝えたかった。
それ以上に。
ただ、ジェイ・ゼルを、感じていたかった。
「ジェイ・ゼル」
絞り出すように、ハルシャは呟いていた。
「次は、いつ、逢える」
短い沈黙があった。
「ハルシャ」
微かに乱れた息で、ジェイ・ゼルが呟く。
「君は本当に、私を煽るのが上手だ」
煽るつもりなどない。
ただ、訊ねているだけだ。
言葉が喉の奥に凍る。
「ジェイ・ゼル教えてくれ。次は、いつ逢える」
同じ言葉を繰り返す。
「明日」
考えた後、言葉がこぼれる。
「夜七時過ぎに、『ヴェロニカ』で」
ハルシャは、無意識に首を振る。
「食事は後でいい。ジェイ・ゼル」
駄々っ子のように、呟いていた。
なんてことだ。
まるで行為だけが目的であるかのように。
いつから自分はこんな人間になったんだ。
ふと、気付く。
もしかしたら、これが、自分の本質なのか?
沈黙するハルシャの耳に、小さく笑うジェイ・ゼルの声が聞こえる。
「なら定時に、ネルソンを迎えにやる。それでいいか、ハルシャ」
午後六時に、ジェイ・ゼルの飛行車が迎えに来る。
「わかった、ジェイ・ゼル」
それが、自分なのかもしれない。
あられもなく、ジェイ・ゼルを求めるのが――
先ほど別れて来たばかりだというのに。
ジェイ・ゼルを身体の芯が求めている。
彼の温もりのある手に、心の波を鎮めてほしかった。
サーシャの言葉で、押し殺していた心が、中から沸き立って荒ぶる。
揺さぶられた自分の感情を、言葉と唇でなだめてほしかった。
限りない快楽の向こうにある、穏やかな心の静寂にその身で連れて行ってほしかった。
「待っている」
ハルシャは、小さく呟いた。
それだけでは愛想が無いと思い至り、今日の礼を、たどたどしく述べる。
「妹がとても喜んでいた。あれほど嬉しそうな姿は、久々だった。本当にありがとう、ジェイ・ゼル」
明るいジェイ・ゼルの言葉が通話装置から響く。
「私も楽しかったよ。サーシャにもよろしく伝えておいてくれ」
短い沈黙の後、
「おやすみ、ハルシャ。良い夢を」
と、優しい声で呟いてから、彼は通話を切った。
通話が途切れた後も、ハルシャは扉に背を預けたまま、動けなかった。
彼の声が響いていた場所を見つめる。
目を細めると、腕を引き寄せて、唇で白い通話装置に触れた。
「ジェイ・ゼル……」
目を閉じ、小さく呟く。
しばらく唇を押し当ててから、ゆっくりと目を開き、顔を離す。
明日。
逢える。
その事実を胸に抱きしめながら、ハルシャは踵を返して、部屋へと戻った。