ジェイ・ゼルが食事の場所として選んだのは『リストランテ・ベッラフォレスタ』という有名な料理店だった。
店名の『ベッラフォレスタ』は、惑星ガイアの地方言語で『美しい森』を意味している。
昨日、どうしてジェイ・ゼルがこの店を予約していたのか、ハルシャは店の名前を目にした途端、悟る
幻のように、紫色の美しい森の風景が、目の前に広がる。
同じ空間で、黙したまま身を寄せ合った記憶までが、蘇ってくる。
彼は――
共に見つめた森の記憶を、食事と共に語りたかったのかも、しれない。
何気ないことが、ふと、胸を突く。
サーシャの手を握り締めて、しばらくハルシャは無言で店の名前を見つめていた。
「ヴィンドース様ですか」
中々入らないハルシャ達に、黒服の支配人らしき人物が、戸口まで出て、礼をとる。
「そうです」
ハルシャは、はっと我に返り、返事をする。
「お待ちしておりました。ジェイ・ゼル様が奥にいらっしゃいます。どうぞ、お席までご案内いたします」
彼は恭しく、ハルシャ達の前を、先導するように歩いていく。
その後ろについて、二人は店内へ進んだ。
ここは惑星ガイアの地方料理を出す店で、とても美味しいと評判の店だった。
老舗らしく、落ち着いたしつらえの調度品が、品よく配されている。
店の中の煌びやかな空間に、少しおじるように、サーシャがぎゅっとハルシャの手を握り締める。
ハルシャは、無言で彼女の手を、握り返した。
堂々としていよう。
自分たちは、丹念に日々を生きている。
何も恥じることはない。
前を向いて、静かに歩いていく。
そんな兄の姿に、サーシャも落ち着きを取り戻し、メリーウェザ医師から着せてもらった服も手伝ってか、きちんと頭を立てて歩を進める。
ハルシャは仕事からそのまま来たので、作業着だった。
どんな場所でも、ハルシャは基本的に服装を気にしない。
服が食事をするのではない、と思っていたからだ。
フロアに配置されたテーブルの間を抜け、ハルシャたちは奥まった個室へと案内された。
ジェイ・ゼルは、ほとんど個室でハルシャを迎える。
いつもなら、扉の前で待機している護衛達の姿が見えない。ハルシャは、周囲を探る。
やはり、誰も居ない。
もしかしたら、サーシャが怯えると思って、彼はわざと下げさせたのだろうか。
ハルシャが、ジェイ・ゼルの意図を考えている間にも、支配人らしき黒服は、個室の扉にたどり着き、
「ジェイ・ゼル様。ヴィンドース様をご案内して参りました」
と、丁寧に声をかけている。
ご苦労だった、という声を合図に、そっと、黒服の男はハルシャ達の前に扉を開く。
丸いテーブルに椅子が三つ配置され、扉から向き合う場所に、既にジェイ・ゼルが座っていた。
相変わらず、真っ黒の服をまとっている。
彼は自分とサーシャを認めると、静かに椅子を引いて立ち上がった。
「急なことで、申し訳なかったね。ハルシャ、そして、サーシャだね」
ジェイ・ゼルの灰色の瞳がサーシャに向けられる。
「随分、大きくなったのだね」
サーシャがハルシャの手を離した。
ジェイ・ゼルの前で、彼女は優雅に礼をとる。
「本日はお招きにあずかり、本当に、ありがとうございます」
ハルシャは、横で驚きに目を見開きそうになった。
サーシャは身を立てると、ジェイ・ゼルを澄み切った青い瞳で、真っ直ぐに見つめた。
「いつも、兄がお世話になっております」
ひどく大人びた言葉を述べてから、サーシャはまた頭を下げた。
「私たちの学校へ寄付を頂いたことを、ダーシュ校長から、いつも感謝の言葉とともに、私たちは聞いています。
お陰で、安心して授業を受けられています。心から、感謝申し上げます。ジェイ・ゼルさん」
サーシャの口上に、ジェイ・ゼルが小さく笑った。
「君たちからもらった、感謝の手紙は今も大切に置いてあるよ」
ハルシャは、視線を、ジェイ・ゼルに向けた。
どうやら、ハロン・ダーシュ校長は、私設学校に多額の寄付をしてくれた篤志家へむけて、生徒たちに感謝の手紙を書いてもらい、届けたようだ。
ジェイ・ゼルの微笑みが深まる。
「サーシャ。君の詩は、素晴らしかった」
かあっと、サーシャの頬が赤くなった。
「子どもの手遊《てすさ》びの拙い作品を……すみません」
ハルシャに少し近寄って、もじもじとする。
サーシャは、詩を書いたのだ。
ふっと、祖先が綴った言葉が胸をよぎる。
もしかしたら。
どんなに財産を失っても、この身の内には、まだ大切なものが、残っているのかもしれない。ファルアス・ヴィンドースが自分たちに伝えてくれたもの。
何かに心を震わすことが出来る、美しい感性を。
「いや」
静かなジェイ・ゼルの声がする。
「いい詩だった」
言葉を途切れさせると、ジェイ・ゼルは笑みを浮かべて、二人へ視線を向けた。
「このまま立ち話を続けてもいいが、せっかく料理を用意したのだから、席に座ってくれないか。ハルシャ、サーシャ」
『リストランテ・ベッラフォレスタ』は、惑星ガイアの旧国名でイタリアという地方の料理を出す店だった。
軽い飲み物がはじめに出されて、食事に入る。
最初の前菜から、サーシャは歓声を上げた。
向こうが透けて見えるほど薄くスライスされた生ハムと、エメラルドのような緑の瑞々しい果物。それに赤いトマトと白いチーズがサイコロ状に切られて絡められたもの。薄切りの魚の切り身が酸味のある味付けで、白いお皿の上に、絵画的に配置されている。
「とっても、きれい。食べるのがもったいないね、お兄ちゃん」
とろけそうな笑顔で、サーシャが言う。
ひとしきり眺めてから、嬉しそうに口に運んでいる。
その顔を見ているだけで、ハルシャは幸せになってきた。
マナーを気にしたサーシャに、支配人らしい男性が、楽しんで食べて頂けたら、当店としては大満足でございます、と明るく言ってくれたので、心置きなく、食べている。
格式ばらない店を、もしかしたら、選んでくれたのかもしれないと、ハルシャは考える。
ジェイ・ゼルとサーシャは、楽しそうに会話を交わしていた。
意外と気が合うらしい。
二人が和やかに話してくれているお陰で、沈黙していても目立たない。ジェイ・ゼルと二人きりだと、口の重いハルシャには、少し苦痛の時がある。
何か話さなくてはならないと、思うのだが、上手く言葉のラリーが出来ない。
サーシャが、ジェイ・ゼルと話す言葉を聞いているだけで、妙に楽しかった。
前菜が終わり、トマトベースで、中に四角い賽の目状の野菜が入ったスープが供される。
それを口にしながら
「そう言えば、サーシャの作文がコンクールに出されたそうだね」
と、ジェイ・ゼルが優しい口調で語り掛ける。
「ハルシャから聞いたよ。とても素晴らしいね」
褒められて、サーシャは嬉しそうに頬を赤らめる。
「ありがとうございます。ジェイ・ゼルさん」
ジェイ・ゼルは優雅に匙を口に運ぶ。
「もしよければ、どんな作文なのか、教えてもらっても良いかな。少し、興味があってね」
言い方に、ハルシャはふとジェイ・ゼルへ視線を向けた。
ハルシャはこれまで理数系に特化して勉学に励んできたので、文学の奥深い味わいが、今一つ理解できない。
だが、ジェイ・ゼルには、文学的な深い教養があるような気がする。詩的な表現を、言葉の端々によく使う。
それもあってか、彼はとてもサーシャの作文に関心を抱いているようだ。
刷毛ではいたように、頬に赤みを宿しながら、サーシャがジェイ・ゼルへ顔を向ける。
「校長先生から『大切な時間』について書くようにと、ご指示があったんです」
「それは、また」
ジェイ・ゼルが眉を上げる。
「哲学的な命題を、作文にしたのだね」
サーシャは、小さく笑った。
「時間を大切にすること、について書くのか、大切にしている時間、について書けばいいのか、しばらく迷ったのですが、私は『自分が大切に思っている時間』について、書いてみたんです」
「ほう」
ジェイ・ゼルがスープから顔を上げて、サーシャの青い瞳へ視線を向ける。
「サーシャは、どんな時間について、書いたのかな?」
すぐに、サーシャは答えなかった。
じっと、考えをまとめるように沈黙してから、おもむろに口を開いた。
「食事の時間、についてです」
そこから、彼女は静かに内側の想いを言葉に換えながら、ジェイ・ゼルに語る。
「五年前、私たちは両親を失いました」
ハルシャは、手を止めた。
そこから、動けなくなった。
一点を見つめたまま、身が強張って動かせない。
突然、サーシャは食事中に相応しくない話題を振ってきた。
六歳だった妹は、五年前のことを、やはり覚えていたのだ。
先を続けようと口を開きかけたサーシャに、
「サーシャ」
と、ハルシャは止めるように言葉をかけた。
「いいよ。ハルシャ」
やんわりと、ジェイ・ゼルが制止しようとするハルシャを、止める。
「続きを聞かせてくれないか、サーシャ」
ハルシャは、咄嗟に視線を上げて、ジェイ・ゼルを見た。
彼の灰色の瞳は、サーシャに注がれている。
眼差しを感じたのか、一瞬、彼はハルシャへ目だけを向けた。
優しく、ジェイ・ゼルが微笑む。
大丈夫だよ、ハルシャ。サーシャに話させてあげなさい。
ジェイ・ゼルの眼差しが、ハルシャに語り掛ける。
ハルシャが何とか言葉を飲み込んだことを確認してから、静かにジェイ・ゼルが言う。
「それで? サーシャ」
ちらっと、兄を見てから、彼女は続けた。
「その時から――生活が激変しました。今まで周りにたくさんの人がいて世話をしてくれていたのに、突然、兄と二人きりになりました。
最初は、両親が恋しくて、どうして急に二人きりで、知らないところで過ごさなくてはならないのか解らなくて、泣いてばかりでした。
そんな私を、一言も兄は叱ることなく、ずっと兄さまが側に居るから、大丈夫だと、言い続けてくれたのです」
サーシャは視線を落とした。
「今から思えば、兄も両親を失ったことは同じであるのに、一度も兄がそのことを嘆いている姿を、見たことがありません。
私のために、泣けなかったのだと思います。
幼い妹を支えて生きていくために、自分の辛さを捨てたのだと、思うのです」
ハルシャは、ゆっくりと、ジェイ・ゼルから視線を、サーシャに向けた。
彼女は真っ直ぐに、ジェイ・ゼルを見つめていた。
凛とした表情で、静かに語り続ける。
「きつい仕事をしているのは、なんとなくわかりました。それでも、私のために、兄は懸命に帰ってきて、食事を作ってくれました。
そして、二人で食卓を囲み、両親が存命だったときと同じように、きちんとマナーを守って、食事をしたのです。
両親が生きていたころからすれば、信じられないほど貧しい食事だったのでしょう。
でも、私にとっては、この世で最高の食事でした。
美味しいかい、サーシャと、優しく話しかけてくれる兄の言葉と、微笑みと、自分のために、必死に食材を確保して、慣れない作業をこなして、作ってくれた料理。
私への想いのこもった食事は、とてつもなく美味しかったのです。
今も、その味は忘れません」
ハルシャは身が震えそうになってきた。
まさか。
サーシャが、覚えていたとは、思わなかった。
想いを、受け取ってくれていたとは、少しも、思わなかった。
懸命に、走り続けてきた日々の中で、おいしいね、お兄ちゃまと、自分に向けられるサーシャの笑顔だけが、支えだった。
「私を育てるために、ひたむきに努力をしてくれる兄を、何とか支えたいと、大家さんにお願いして、料理を教えてもらいました。
まだ小さかったので、上手く調理器具も扱えませんでしたが、仕事で疲れた兄が戻ってきて、机に食事が並んでいると笑顔になってくれる。それが嬉しくて、料理を作り続けました」
そうだ。
七歳になる頃から、サーシャは自分で料理を作り、家に帰ると食事が用意してあることが頻繁になった。
正直、嬉しかった。
何とか二人で生きていこうとする、妹の心が、何よりもありがたかった。
「その時、気付いたのです。料理を作るということは、相手の命を想うことだと」
細い首をすんなりと伸ばして、サーシャが静かに言葉を続けている。
母親によく似た妹が、心の中に秘めていた想いを、はじめて口に出している。
ハルシャは、机の上の、真っ白なテーブルクロスを、ただ見つめ続けていた。
「生きていて欲しい、元気でいて欲しい。美味しいと笑って欲しい。
一番苦しい時に兄が作り続けてくれた、あの料理にはとても及びませんが、私なりに想いを込めて、それから料理を作るようになりました。
私にとって、一番大切に思うのは、大事な人と一緒に囲む、食事の時間です。
自分の料理が、身体の組織になって、命を支えて生きていて欲しい。
幸せに笑っていて欲しい。
そうやって、相手を思う時間なのです」
言い切ったように、サーシャは一瞬唇をきゅっと、結んだ。
不意に、顔を赤らめる。
「と、言うようなことを、作文に書きました」
明らかに照れた顔で、もじもじと、指遊びをしている。
「す、すいません。支離滅裂なことを……たくさん喋ってしまって」
ますます顔が赤くなる。
ジェイ・ゼルが静かに首を振った。
「よく、君の心が伝わったよ。サーシャ」
穏やかなジェイ・ゼルの言葉に、ゆっくりとサーシャが顔を上げる。
まだ頬に朱を散らしたままで、真っ直ぐにジェイ・ゼルを見つめる。
「兄は、いつも、ジェイ・ゼルさんがいてくれたから、自分たちは暮らしていけると、私に教えてくれていました」
はっと、ハルシャは、サーシャへ顔を向ける。
驚きに、ジェイ・ゼルの眉が上がる。
言わなくても良いことを、サーシャが口にしている。
「サーシャ」
つい、ハルシャは、サーシャの言葉を止めようと、きつい口調で言う。
制止の言葉が聞こえなかったかのように、サーシャが続ける。
「今日もこうやって、兄だけでなく私もお招きいただいて、本当にありがとうございます」
ジェイ・ゼルが、静かにサーシャを見つめていた。
ふっと、彼が微笑む。
「今日の料理も、君にとって大切な時間になればいいと、心から思うよ」
優しい口調に、サーシャが満面の笑みを浮かべた。
「とっても大切な時間になっています。ジェイ・ゼルさん。どのお料理も、言葉に尽くせないぐらい、美味しいです」