ほしのくさり

第59話  オキュラ地域にいきるということ-02







 定時よりも一時間前に、注文していたカーヴァルト鉱石が、工場に運びこまれた。
 思ったよりも、早い。
 ハルシャは、削り出しの機械の側に、巨大な鉱石の直方体を置いてもらった。
 削り出しには、二日はかかるだろう。
 何せ、カーヴァルト鉱石は恐ろしく硬いのだ。
 機械が見たいということで、運び込みの作業に、リュウジも付き合っていた。
 巨大な鉱石を、並んで見上げる。
 密度を確かめるハルシャの手元を、リュウジが見守っている。
 鉱石の中に空洞でもあったら大変なことになる。慎重に金属面に中の密度を計測する機械を当てて、ハルシャは可視化しながら、調べていく。
 そのデータを、リュウジも一緒に読んでいた。

「そいつが、あんたのお仲間か」
 不意に、後ろから声がした。

 厄介な時に――
 面倒なものがからんできた。

 声から、それがハルシャを快く思わない、トーラス・ラゼルであるのを、ハルシャは悟る。
 相手をするのはこの上なく面倒だが、相手をしないのも厄介なことになる。
「そうだ。ラゼル」
 言いながら、ハルシャは振り向いた。
 薄い茶色の髪のラゼルが、後ろで腕を組んでハルシャを見ていた。
 顔に薄笑いを浮かべて作業を睥睨している。
 彼らは決して、ハルシャの作業に手を貸さない。
 それでも、自分はきちんと彼らに礼儀は尽くしてきた。それが品位だと、思うからだった。

「オオタキ・リュウジだ。しばらく見習いとしてお世話になる。よろしく頼む」
 ハルシャの言葉に、リュウジは愛想よく立ち上がり、頭を下げる。
「はじめまして、オオタキ・リュウジです。解らないことだらけですが、よろしくお願いいたします」

 相手はふんぞり返って見下しているが、それも感じないように、リュウジは丁寧に挨拶をしている。
 ふんと、鼻が鳴る。
「俺たちでは仲間にならないから、新しい相手を引き込んだのか、ハルシャ」
 嫌味な言い方だ。
 不意に、カラカラとリュウジが笑った。
 さっと、トーラス・ラゼルの顔が紅潮した。
「何がおかしい」
「いえ。すみません」
 リュウジは、とても穏やかな笑みを浮かべて相手を見る。
「ハルシャは、あなた達を仲間として認めています。今も、丁寧に言葉をかけていました」
 はっと、相手がひるむような、強い口調の言葉だった。
「むしろ」
 彼の藍色の瞳が、真っ直ぐにトーラス・ラゼルを見つめる。
「ハルシャを仲間だと認めていないのは、あなたの方でしょう。トーラス・ラゼルさん」

 なぜ、自分の名が、と、彼は一瞬うろたえる。
「失礼。名札を見させていただきました」
 リュウジは、さらっと、彼の疑問を解く。
「仲間だとお認めなら、その証拠を見せて頂きたいものです」
 にこっと彼は笑う。
「お手すきなら、お手伝い願えますか。これから、このカーヴァルト鉱石を削り出すのですが、一緒に移動して頂きたいのです。見たところ、もうお仕事がないようですね」
 目が、彼を真正面から見据える。
「お願いします、トーラス・ラゼルさん。仲間に、手を貸してください」
 
 呆気にとられていたのだと、思う。
 ハルシャは、あまりの驚きに、咄嗟に、リュウジを制止することが出来なかった。
 今は忙しい、とか、ごにょごにょと言いながら、彼は足早に去って行った。

 すっと、リュウジはハルシャの側に座り、彼へ笑顔を向けた。
「うるさい犬を追い払っておきました。作業を続けましょう。定時に上がらないと、サーシャが悲しみます」
 まだ、ハルシャは何も言えなかった。
 そのハルシャに、静かなリュウジの声が響く。
「次は、トーラス・ラゼルは一人では敵わないと判断し、数を頼んで集団で来るでしょう。そうなれば、それ相応の処置の仕方があります」
 リュウジは、カーヴァルト鉱石を見上げる。
「削り出すとき、側を離れないほうが賢明ですね。彼らが削り出しの数値をいじるかもしれません。手間はかかりますが、完成するまでついていましょう」
 
「リュウジ……」
 ハルシャは、呻くように言った。
「ハルシャより、僕が謝らなくてはなりませんね。すいません。僕は意外と気が短いんです。無礼な態度は、許せなくて。特にあなたに対するのは」
 
 大丈夫ですよ、ハルシャ。意外と僕はタフなんです。

 そう言った言葉が、ハルシャの頭の中で、ぐるぐると渦巻く。
 確かに、彼はタフだ。
 そして――
 恐らく、思った以上に修羅場をくぐってきている。
 穏やかな外見に惑わされてはいけない。
 もしかしたら、オオタキ・リュウジは、とんでもない爆弾かもしれないと、ごくっと唾を飲み込みながら、ハルシャは考える。
 ハルシャは、これまで極力争わないようにして生きてきた。
 言いたいように言わせておけと、放置をしてきた。
 だが、リュウジは言わせなかった。
 彼の中には、炎のような激しさがあるような気がした。
 それをうまくコントロールしてこれまで生きてきただけで。
「さ。計測を終えましょう」
 リュウジが微笑む。
 ハルシャは大きく息を吐くと、彼に笑みを返した。
「ありがとう、リュウジ。私をかばってくれて」
 リュウジが首を振る。
「僕が、我慢できなかっただけです」


 *


 トーラス・ラゼルを怒らせた今、どんなデータも工場に放置するのは危険だとリュウジが主張し、ハルシャは、データの一切と電脳を鞄に入れて、持ち帰ることにした。
 そうしてもらうと、ハルシャ達が食事に行っている間に、自分に出来ることをしておくと、リュウジは請け合う。

 定時になり、工場長のシヴォルトに挨拶をして、早々に二人は工場を後にした。
 打ち込みのデータを確認して、大丈夫なら、明日から外枠の削り出しにかかれる。
 信じられない作業速度だった。
「リュウジが居てくれて、本当に助かる」
 ハルシャは、本音をもらした。
「独りだと、出来ることが限られてくる」
 リュウジは無言だった。
 彼は、夕暮れの大地を見つめていた。
「このまま、あの工場で働くのですか」
 背を向けたまま、リュウジが呟く。
「どう考えても、あなたの力が発揮できない環境です。外にはもっと好条件の職場がいくらでもあるのではないですか」
 
 彼の言葉に、すぐにハルシャは答えられなかった。
 借金の関係で、そこしか仕事が出来ないのだ、とも。
 ジェイ・ゼルの監視下に自分は置かれているのだ、とも。
 伝えられない。
 ようやく口に出来たのは
「結構気に入っているんだ。あの職場を」
 という、誤魔化す言葉だけだった。

 ふうっと、リュウジが息を吐いた。
「あなたが、気に入っているのなら、仕方がないですね」
 ようやく、彼はハルシャへ顔を向けた。
 優しい笑みが浮かんでいた。
「僕に出来ることを、させて頂きます。ハルシャが少しでも作業がしやすいように」
 もう。
 その一言で十分だ。
「ありがとう、リュウジ」
 ハルシャも窓の外に、視線を向ける。
 美しい珊瑚色の夕暮れだ。
 ふと、祖先の詩が、心をよぎる。
 千年も続いて欲しいと願った、無垢な願いを――
 今、ハルシャも感じていた。


 *


 迎えに行ったメリーウェザ医師のところで、サーシャは神妙な顔で、ハルシャを待っていた。
 いつものように、飛びついてこない。
 しかも、サーシャは見慣れぬ服を着ていた。

「サーシャ。どうしたんだ、その服は」
 問いかけたハルシャに、笑いながら、メリーウェザ医師が答えてくれる。
「なんでも、お呼ばれなんだって? 服を気にしていたから、私の古いものだが、貸してあげたんだよ」
 カラカラと彼女は笑う。
「私にはもう小さい。それによくサーシャに似合っているから、贈呈するよ。着てくれるといい」
 深い青の服だった。
 古いと言っていたが、丁寧に着こんでいるようだ。
 それに、今のサーシャにぴったりなサイズだ。
 どうみても、メリーウェザ医師の子どもの頃の服だ。
 もしかしたら、大切にしていたものかもしれないと、ハルシャは
「何か思い出のある服ではないのか、メリーウェザ先生」
 と、内側の疑問を問いかけた。

 ぴくっと、一瞬、彼女は痛みを得たように、目を細めた。
 図星だったかもしれない。
「いいんだよ、ハルシャ」
 すぱっと言ってから、メリーウェザ医師は、笑顔をサーシャに向ける。
「金色のきれいな髪に、その服の色が良く似合っている。もらっておくれ、サーシャ」
「ありがとう、メリーウェザ先生」
 うるうると、サーシャが感動して呟いている。

 二人で話が出来ているのなら、自分が口出しする事ではないのかも、しれない。
「すまない、メリーウェザ先生。ご迷惑をおかけして……」
 カラカラと、再びメリーウェザ医師が笑う。
「女の子だね。服が気になるなんて。せっかくの食事が楽しめなかったら可哀そうだ。ちょっとは良いことをした気分を、私も味わっていいだろう?」
 手を伸ばし、くしゃっと、金色の髪を撫でる。
「行っておいで、サーシャ」
「はい。メリーウェザ先生」

 少し、リュウジとメリーウェザ医師は話がしたいということで、彼に家の鍵を渡してその場に残し、ハルシャとサーシャは、二人で指定されていたロンダルド駅へと向かう。

 手を繋いで、オキュラ地域を歩いていく。
 メリーウェザ医師から服を借りて、サーシャはウキウキしているようだった。
 ハルシャはあまり服を気にしないので、その乙女心が理解できていなかった。
 気に病んでいたのだ、食事に相応しい服を身に着けていないことで。
 ぎゅっと、サーシャの手を握る。
 妹が、兄を見上げる。
「楽しみだね、お兄ちゃん」
 ハルシャも、視線を落とす。
「そうだね、サーシャ」
 手を握りしめたまま、駅に登る建物につき、二人は揃ってチューブに乗った。
 地上十五階が、ロンダルド駅だった。
 チューブから少し歩いた駐車場に、既に見慣れたジェイ・ゼルの黒の飛行車が停まっている。
 ハルシャは、サーシャの手を引っ張るようにして、ネルソンが待つ、車へと向かった。



 *


「引き留めて悪かったね、リュウジ。ちょっと、様子が聞きたくてね」
 診察用の椅子に深々と腰を下ろし、ミア・メリーウェザはリュウジの顔を見上げた。
「いえ」
 にこっと、リュウジが微笑む。
「いつもご心配頂いて、ありがとうございます」
 メリーウェザは、顎で、リュウジに椅子を勧めた。
「座ってくれないか」
 素直に、リュウジは指定された椅子に腰を下ろす。
 膝が触れ合うほどの距離で、二人は向き合った。

「調子はどうだい」
「良好です」
「めまいや、悪心とかはないか」
「はい、大丈夫です。サーシャが美味しい料理を作って下さるので、とてもありがたく食事もしています」
 メリーウェザは、微笑んだ。
「そのようだね。顔色もいいし、心なしか、顔がふっくらしてきたんじゃないか」
「美味しくて、つい食べ過ぎているかも、しれません」
 メリーウェザの手元には、リュウジのカルテがあった。
 指先で、静かに画面に触れる。
「今日は、ハルシャの職場に行ったんだな」
「はい」
「どうだった?」
「それは、僕のことをお伺いですか?」
 リュウジの眼が静かに光った。
「それとも、ハルシャの置かれている現状を、尋ねていらっしゃるのですか?」

 沈黙が、流れた。
「私が訊ねているのは、君の体調だが――」
 メリーウェザは目を細めて、にこにこと笑う、オオタキ・リュウジを見つめた。
「話したいのなら、ハルシャの置かれている現状を、言ってもらっても、別に私は困らない」

 ふうっと、リュウジがため息を吐いた。
「最悪ですね。ハルシャはよくあの状況の中で、駆動機関部を作り続けていますね。尊敬します」
 メリーウェザは静かに瞬きをした。
 歯を食い縛り沈黙してから、絞り出すように彼は呟く。
「なぜ、あんな場所で働いているのか、僕には理解出来ません」
 メリーウェザは、ゆっくりと、リュウジのカルテに触れている指先を動かした。
「ここではね、リュウジ」
 静かな声で、メリーウェザは呟く。
「色々な事情を抱えて、人は生きているんだよ」
 目を細めたメリーウェザの耳に、リュウジの静かな声が響いた。
「借金、ですか」
 
 はっと、メリーウェザは顔を上げて、オオタキ・リュウジの顔を見た。
 彼は真っ直ぐにメリーウェザを見返す。
「以前、ここであなたとハルシャが話をしていましたね。
 奥で寝ている僕の耳に、全て聞こえてしまいました――あなたの叔父さんの話も、ハルシャが一生かけても返せないほどの、借金を抱えていることも」
 リュウジの顔には、一切の笑みが無かった。
「僕は、耳が良いんです」

 
 途切れた言葉の後、二人は見つめ合ったまま、何も言わなかった。
 先に、口を切ったのは、リュウジだった。
「あの工場で働かされているだけでなく――ハルシャは、何をさせられているんですか」
 激しい口調で、迫るようにリュウジが言葉をほとばしらせる。
「あなたは、御存じなのでしょう、ドルディスタ・メリーウェザ」

 メリーウェザは、何も言わなかった。
 沈黙を守る彼女に、押し殺した声で、リュウジが呟く。
「数日前――」
 切り出した後、彼はしばらく黙していた。
 だが、目を閉じると、静かに呟いた。
「ハルシャの身体から、媚薬の匂いがしていました。惑星アマンダの『ラヴリー・ポーション』と呼ばれる催淫性の高い媚薬です。身に施されると、十二標準時は、効果が持続し、切れてから二十四時間以内に再び使用しないと、飢餓感のような劣情が生じる、卑劣な媚薬です」
 ぱっと目を開くと、リュウジは強い視線を、メリーウェザに注ぐ。
「そんな媚薬を使うような行為を――ハルシャは、させられているのですか」

 メリーウェザの眉が寄せられた。
 まだ沈黙する彼女に、リュウジが畳みかける。
「相手は、ジェイ・ゼルという、ハルシャの職場の上司ですか」
 真剣な眼差しで、彼はメリーウェザに問いかける。
「それが、借金返済のための、ハルシャが飲まなくてはならない、条件なのですか? 借金のかたに、男に身を任せることが……」

「リュウジ」
 静かな、声が治療室に響いた。
「世の中には、知らなくても良いことが、たくさんあるんだよ」
 真っ直ぐ見つめるリュウジへ、ミアは、やっと顔を向けた。
 唇を震わせ、一心に自分を見つめる黒髪の青年へ、優しく彼女は呟いた。
「そのことを、君に知られることが――ハルシャにとっては、死ぬよりも辛い」

 痛みをこらえるように、顔を歪ませながら、彼女は呟いた。
「知らないままで、居て上げてくれないか。頼む、リュウジ」
 
 二人は無言で、見つめ合った。
 リュウジの唇が、震え続けている。
 これは、怒りだ。
 彼は、ハルシャの運命に対して、どうしようもない怒りを抱えている。

「辛いのは君じゃない」
 静かに、ミア・メリーウェザは呟いた。
「ハルシャだ」


 ふいっと、リュウジは目を逸らした。
「わかっています。ドルディスタ・メリーウェザ」
 
 長い沈黙の後、リュウジが絞り出すように言う。
「あなたは、全てをご存じなのですね」
 横顔をメリーウェザにさらしながら、彼が呟く。
「知っていて、黙っているのですね」

 なじるような響きに、メリーウェザは目を細めた。

「誰も、他人の人生は生きられない」
 ミアは自分の内側の言葉を、滴らせた。
「厳しいようだが、彼らの人生を替わってやることは出来ない。
 親が爆死させられたことも、一生かかって払う金額の借金があることも。
 ハルシャと、サーシャの運命だ。
 彼らなら耐えられると、天が判断して背負わした重い荷物だ。二人は支え合いながら、懸命に生きている。
 私に出来るのは――」
 メリーウェザは目を閉じた。
「全てに気付かないふりをして、彼らと笑ってやることぐらいだ」

 人は、無力だ。
 それを、こんな瞬間に思い知る。

「外から見て、二人は不幸に見えるかもしれない。だが、何が幸福か、不幸かは、本人たちが決めることだ。
 私たちじゃない」

 メリーウェザはゆっくりと目を開いた。
 苦しげに、眉を寄せて、リュウジが身を震わせていた。
 ああ。
 この子は、こんなにもハルシャとサーシャのことを、自分のことのように考えているのだと、メリーウェザは胸の奥が痛くなった。
「リュウジ……」
 呼びかけは、鋭いリュウジの言葉で断ち落とされた。

「いつか」
 身を震わせながら、苦しげにリュウジが続けた。
「サーシャも、身を売らなくてはならないのですか」

 ぎこちない動きで、彼はメリーウェザへ視線を向けた。
「莫大な借金返済のために、あの子も、兄と同じように、身を売って生きていくのですか。人としての尊厳を踏みにじられて、肉体だけを貪られる未来が、サーシャを待っているのですか。
 それを、運命だと、あなたは仰るのですね、ドルディスタ・メリーウェザ」

 薄っすらと、リュウジの目に涙が浮かぶ。

「仕方がないことだと、あなたは受け入れられるのですね」


 ハルシャとサーシャの兄妹のために、オオタキ・リュウジは、心を震わせていた。
 悔しさに両手を握りしめながら、彼は、必死に涙をこらえている。

 ふと、胸を大きな鉄の棒で刺されたような気がした。
 鈍い先を、心臓の中にねじ込まれたような、引き裂かれる痛みだった。
 彼の目を見つめたまま、ミア・メリーウェザは呟いた。
「そうだ」
 腹を据えて、彼に応える。
「それが、オキュラ地域に生きるということだ」

 リュウジが歯を食い縛った。
 肩が震える。
 こんなこと、どこの世界にも転がっていることだ。
 そう、言ってしまうのは容易《たやす》い。
 けれど、深い藍色の瞳の奥にある、人として正しい憤りに、メリーウェザは胸を突かれた。
 彼の苦しみを見つめながら、メリーウェザは優しい口調で続けた。
「リュウジ。君は記憶を取り戻したら、ここを去る人間だ――何も、気付かないでいてあげてくれないか。ただ――彼らと一緒に、屈託なく笑ってあげてくれ。それが、一番ハルシャとサーシャのためになる。
 頼む」


 メリーウェザの懇願に、彼は答えなかった。
 視線を逸らすと、
「失礼します」
 と呟き、蹴るようにして席を立った。
 そのまま動き、サーシャが持ってきていた、ぬいぐるみ生物を、彼は離れた場所にある長椅子の上から取り上げた。
 食事に直接行くので、家に持って帰ってくれと、サーシャが去り際にリュウジに託していたのだ。
 持ち上げた後、彼はぬいぐるみ生物を、無言で見つめていた。
 サーシャが、宝物のように大切に扱っているものだ。
 目を細めると、そっとリュウジが優しく、ぬいぐるみ生物を腕に抱いた。
 虚空を睨んでから、彼は動いた。
 静かに医療室を去っていく。
 彼は、後ろを振り向かなかった。

 オオタキ・リュウジの姿が消えた後、ふうっと、ミア・メリーウェザは長い息を吐いた。
 結局、一番彼に聞きたかったことは、聞けずじまいだった。
 天を仰ぎ、メリーウェザは沈黙する。
 静かに、リュウジのカルテに目を落とす。
 彼の脳は、一切ダメージを受けていない。
 なのに、彼は記憶がない。
 メリーウェザはそのことを、一度きちんとリュウジに問いただそうと考え、引き留めたのだった。
 だが、違うことで彼は心を乱して、去って行った。
 汚い大人だと、蔑む目で自分を見ていた。
 ああ、そうだ。
 汚くないと、生きていけないことがある。
 それを、今のリュウジに言っても仕方がない。
 借金のことは、随分前から何となく、感じ取っていた。
 ハルシャの性格では、どんな援助も拒むだろう。解っていて、メリーウェザはあえて手助けをしなかった。
 ただ、考えていることはあった。
 それを今、リュウジに話しても、逆効果でしかない。
 判断を付けて、わざと泥をかぶってみた。
 これで、ハルシャが置かれている現状を、彼につきつけなければいいのだが、と、メリーウェザは危惧する。
 
 嘘ではない。
 ハルシャにとっては、男に抱かれている現実をリュウジに知られることが、死ぬよりも辛いことだ。

 ふうと、息が漏れる。

 メリーウェザはカルテを見つめる。
 リュウジの脳は、器質的に何の問題もない。
 なのに、記憶がない。
 そのことを、ずっとメリーウェザは考え続けて来た。
 二つの可能性に絞り込まれた。
 一つは、心因性のもの。心が記憶を失わせているという可能性。
 そして、もう一つ――
 メリーウェザは目を細めた。

 オオタキ・リュウジが、自分は記憶を失ったという――嘘を吐いているという可能性だった。
 




※リュウジは耳だけでなく、鼻も良いようですね。例の寝取られかけ事件の時、ハルシャの服に染みついていた媚薬の香りを、彼はかぎ取っていたようです。(すん、ってしていますね。すんって)








Page Top