ほしのくさり

第5話  五年前の記憶-02





 次の日までに、ハルシャは必死に打てる手を打った。
 弁護士に相談し、父親の銀行口座を確認し、家の価値を知り、親戚に借金のことを話し、援助を求めた。

 だが。
 知ったのは、大人の冷たい仕打ちだった。

 葬儀の時は、あれほど親切に声をかけてくれていた親戚たちは、火の粉が自分たちにかかると知ると、手の平を返した。
 ダルシャが勝手にしたことだ。私たちには関係ない。
 迷惑だと、はっきり告げられる。
 誰も、どこからも、助けの手は伸ばされなかった。
 絶望の中、一睡もできずに、ハルシャは借金取りの男を迎えた。

 昨日訪れたと同じ時間に、彼は玄関に姿を現した。
 ハルシャの憔悴しきった顔を見て、全てを悟ったらしい。
「金は用意できたか?」
 と、冷たい声で、ただ、彼は見下ろしながら告げる。

 ハルシャは、客間に彼を通した。
 彼が入ったことを確かめてから、鍵をかける。
 机を挟んで向かい合った彼に、今住んでいる邸宅と土地の権利書、父親の貯金。別荘地の権利書を示し、彼に告げる。権利書は古式ゆかしい惑星ガイアの方法を踏襲して、紙に記されている。最初期の移民であることを物語る、誇りとすべき品だった。
「弁護士に簡単に試算してもらった。これをすべて含めて八六万ヴォゼルになる」
 男は、机を見なかった。
 ただ、ハルシャを見つめる。
 冷徹な顔を微動だにさせず、彼は指摘した。

「簡単な、計算だな。一四七万引く、八六万。残りは、六一万」

 ハルシャは、唇を噛み締めた。
 視線を落とした耳に、冷たい声が響く。
「この、六一万は、どうしたのかな」

 昨日――父が借りたはずの一四七万ヴォゼルの行方を、必死に捜した。
 だが、父はどこにもその金額を残していなかった。もし、隠し口座に入れてあるのなら、お手上げだった。
 ハルシャは懸命に事情を説明する。
「昨日、探すことが出来たのは、これだけだった。もう少し時間を頂ければ、お借りしたはずの一四七万ヴォゼルの行方が分かると思う。そうすれば――」
 机が、無言で蹴り上げられた。
 ひどく緩慢に進む時間の中で、重い机がひっくり返り、上に置かれていた権利書が宙を舞う。
 男の眼は、ハルシャから動かなかった。
「足りないんだよ! 六一万!」

 腹に響くような、声だった。
 ハルシャは、床に散り敷いた、ヴィンドース家の財産の全てを見つめた。

 男は、足りないと、言う。
 必死にかき集めた金額ですら、足りないと――
 そうだ。
 それが、事実だ。
 父親は借金をし、命を失い、ハルシャは負の遺産も相続した。

「残りは、何としてでも、私がお支払する」
 一睡もせずに、考え抜いた言葉をハルシャは口にする。
 彼の目を見る。
「何としてでも」
 
 無言で、男はハルシャを見つめていた。
 ふっと、彼は笑った。
「十五のガキが、随分と偉そうな口調だな」
 机が取り払われたために、膝と膝の位置が、近く感じられる。
 身を守るものが何もない無防備さに、ぎゅっと手を握り締めながら、ハルシャは続ける。
「気に障ったのなら、詫びる。だが、ヴィンドース家を継いだのは私だ。父の負債も、返却するべきは、私だ」
 ハルシャは、男を見つめる。
「一生かかっても、必ず、返却をする」
 それが、ヴィンドース家の誇りだと、胸の奥に呟きながら、ハルシャは震える唇で、呟く。
「必ず」

 長い沈黙の後、男が口を開いた。
「六一万ヴォゼルという金額が、解っていないようだな。一生かかったとしても、払えるとでも思っているのか。
 それにな、坊や。
 借金っていうのは、利子がつくんだよ。一日借りれば、それだけ、利子が増える。
 解るか。
 君が払うのは、今なら六一万ヴォゼル。だが、三日後だと、六一万五十ヴォゼルだ」

 ハルシャの顔が凍り付く。
 暴利だ。
 だが、そういうところから父は借金をしたのだ。
 じわっと、絶望が広がる。
「事業を売れば……」
 ハルシャは、事業だけは手放さずに、何とかそれで金額を回収しようと考えていたが、今はそれどころではないと、思い至る。
 ふっと、男が笑う。
「赤字経営の会社など、誰も欲しがらない」
 冷たい言葉が、男の口から漏れる。
「悪いが、坊や。君の父親のことを調べ上げてから金を貸している。事業が行き詰っているのも、それを打開するために宇宙船を購入しようとしていたことも――全て。君たち兄妹のことも」
 人払いをした部屋に、男の言葉が響く。
「全て、知っているんだよ。ハルシャ・ヴィンドースくん」


 凍り付いた時間の中で、ハルシャは、目の前の男を見つめていた。
 自分は、この男のことを、何も知らない。
 名前も、彼の経営する金融業の名も。
 なのに。
 相手は、こちらを知り抜いている。

 口を開こうとしたハルシャの先を制して、男が言葉を発した。
「サーシャと、いったな。君の妹は」
 言葉にこもる響きに、さっと、ハルシャは緊張した。
「妹が、どうかしたのか」
 危険を察知して、尖る口調でハルシャが問いかける。
 にやっと、男が笑った。
「あの年頃の子どもを、愛好する人たちがいると、知っているか、ハルシャ。彼らに売れば、相当の金額になる」

 怒りのあまり、ハルシャは立ち上がっていた。
「無礼な」
 顔を上気させて、ハルシャは身が震えるのを止められなかった。
 身を売れと、彼は、言っていた。
 サーシャを売れと。
 怒りに震えるハルシャに、相変わらず笑いを張り付けた顔を向ける。
「まだ、ヴィンドース家のご令息のつもりか」
 彼の声は、鞭のようにハルシャの耳朶を打った。
「わかっていないようだな。君たちには、その身しか残されていないんだよ。
 借金を、返すためには、な」

 突き付けられた事実に、ハルシャの血が引いていく。
 何も、残されていない。
 この身、しか――
「妹には、手を出すな」
 絞り出すように、ハルシャは呟いた。
 低い、笑いが口から漏れた。
 それは次第に大きくなった。
 やがて、大笑いをしながら、彼は身を捩った。
「大した騎士殿だ。妹君を守ろうと、必死だな」
 笑いに喉を引きつらせる男を、ハルシャは無言で見つめていた。
 しばらくしてから、男は息をヒューヒューと言わせながら、
「その内、君は自分から妹を私に差し出すようになる。借金の苦に、耐えかねて、な」
 と、片目をつぶった。
「その時に、このセリフを君に聞かせてあげるよ。今言ったことをな」


 寂寞とした感情が、内側に盛り上がって来た。
 人の心を、平気で踏みにじる人だ、彼は。
 美しいものも、愛情も、彼にとっても、何の意味もない。意味があるのは、借金を回収することだけ。
 それで、人が死のうが苦しみ悶えようが、どうでもいいのだろう。


 どうして――
 ハルシャは、両手を握りしめたまま、唇を噛み締めた。
 どうして、父さまは、こんな男に、借金をしたのだろう。
 なぜ、宇宙船を新しく購入しようなど、思ったのだろう。
 物のように、人を冷たく見ることしか出来ない、者になど――

 ハルシャは、視線を床に落とすと、静かに動いた。
 ひっくり返った重い机を元に戻し、机の上に、落ちた書類を乗せる。
 丁寧に男に書類を向けてから、静かに椅子に腰を下ろした。

「私が今持つ、全ての資産を、借金の返済に当てます」
 淡々と、ハルシャは告げる。
「この屋敷と土地、別荘地を売り、使用人も解雇します」
 アークトゥルス銀行の貯金証を示す。銀行券は、十社あった。
「貯金も、全額払い戻しをし、お渡しします」
 一瞬言い淀んでから、ハルシャは続ける。
「事業も売却します。事業が売れなくても――今、抱えている在庫を売れば、いくばくかの利益になると思います」
 それでも、どれぐらいの金額になるのかは、おぼつかない。
「学校を退校し、私は働きます」
 よくあることだ。ラグレンには、読み書きが出来ない者もいる。自分は基本を学んでいる。もう十分だ。
「もし、身を売る必要があるというのなら」
 ハルシャはそこで、はじめて目を上げて、前の男を見つめた。
 さっきから、じっと彼はハルシャへ視線を注いでいたようだった。
 唇を噛み締めてから、ハルシャは口を開いた。
「私が、身を売ります」
 

 放った言葉の後、すぐに、ハルシャは続けられなかった。
 現実が、ずしっと、肩にのしかかったような気がした。
 男の表情は、動かなかった。
 言い淀んでから、ハルシャは何とか後を続けた。
「だから、妹には、何もしないでください――まだ、サーシャは六歳です」
 口に出した言葉に、ハルシャは胸が突かれた。
 幸せだった日々が、瓦解していく。
 両親を事故で失っただけではない――自分は、全てを失った。
 信じていたもの、全てを。
 向き合った男に、はじめてハルシャは頭を下げた。
「お願いします。妹だけは、どうか――」


 屈辱の中で、ハルシャは頭を下げ続けた。
 自分はどうなっても、妹だけは護りたかった。たった一つ、両親から残された大切な存在。
 頭を下げるハルシャの耳に、かさかさと、紙がまとめられる音が響いた。
 ゆっくりと顔を上げると、前に置かれた権利書を、男が集めていた。
「この家は、もらう」
 静かな声で、男が告げる。
「君の相続したもの全て、借金のかたとして、受け取らせてもらおう」
 まとめて、とんとんと、端を揃える。
 用意してきた袋に、男は全てを入れた。
「使用人は、今日付けで解雇しろ。給料の払っていない分は、払っておけ」
 服の中から、現金を掴みだすと、彼はポンと机の上に置いた。
「三百ヴォゼルある。これで支払を済ませろ」
 にやっと男は笑う。
「もちろん、この金は借金に上乗せしておく」

 ハルシャは意図が掴めずに、戸惑う。
「全ての始末を、今日中につけるんだ、ハルシャ」
 男の灰色の目が、ハルシャを見つめる。
「明日には、君たちはここを出なくてはならない。何も持ち出すな。母親の宝石類も、服も、書籍も、食器も、何もかも――全てを借金の返済に充てる。価値があるものが、あればあるほど、君の借金が減る」
 ゆっくりと、男が瞬きをした。
「さっき、弁護士と言っていたな。そいつの契約も今日中に切れ。今まで通っていた学校の退校手続きも、もちろん今日中だ。ライフラインも切るんだ。無駄金を使うな」
 鋭い男の言葉が、ハルシャの脳に沁み込む。
 テキパキと、指示していく言葉を、必死に記憶に刻む。
「明日、朝一で迎えに来る」
 指示が途切れた後、男が静かに言った。
「働くと言った君の言葉が本当なら、仕事と住む場所を与えてやる」
 男は、ゆっくりと微笑んだ。
「そして、妹の代わりにお前が身を差し出すというのなら――妹には、手だしをしない」
 ハルシャは、強い眼差しで、彼を見返した。
 
 彼は、ハルシャの腹を探っている。
 この男は、一切を自分から取り上げて、ハルシャとサーシャを、自分の監視下に置くと、言っていた。仕事が彼の息のかかったものであるのなら、労働に対して、正当な支払いは為されないかもしれない。
 それでも。
 もう、選ぶ道は、ないのだ。
 昨日、弁護士に相談した時、闇の金融機関に手を出したのなら、現状どうすることもできないと、匙を投げられた。
 父親の間違った判断の償いを、自分は為さなくてはならないのだ。
「働きます」
 ハルシャは強い言葉で告げる。
「身を売らなくてはならないのなら、私が売ります」
 だから、妹だけは。
 と、言葉にならない言葉で、懇願する。

 ふっと、彼は再び、小さく笑った。
「さて、その覚悟が、どこまでもつかな」
 口の中で、小さく彼が呟く。
 ハルシャは、短気を起こして反駁することは、しなかった。
 無言で、ハルシャは彼を見つめ返した。
 口元に、再び笑みを浮かべて、男は立ち上がる。
「明日、迎えに来る。それまでには、全て処理しておけ」
 ハルシャは瞬きをしてから、答えた。
「解りました。必ず」

 ふっと男は笑って、歩き出した。
 ハルシャは締めていた扉の鍵を、開ける。
 サーシャが入って来ないように、鍵をかけていたのだ。

 扉の前で、心配そうに使用人たちが立っていた。サーシャは別の場所に留めてもらっている。
 男は振り向くことなく、去って行った。
 見送ってから、ハルシャは不安を隠せない使用人たちを、呼び集めた。

「聞いて欲しいことがある。今日付けで、君たちを解雇しなくてはならなくなった。力不足で、すまない」
 一瞬、時間が凍り付いたように、皆が息を飲んだ。
 ハルシャは、感情を交えず、事実を皆に説明し、彼らの今までの働きを賞賛し、別れを惜しみ、最後に感謝を述べる。
 続く、悲鳴のような質問の中で、ハルシャは懸命に皆を説得する。
 どうしようもないのだと。
 明日にはここを引き渡さなくてはならない。もう、時間がないのだと。

 執事のカイエンが、全てを了解してくれた。
 解りました、お坊ちゃま。いえ。ご当主さま。
 父に対しての尊称で、自分を呼びながら、彼は為すべきこと確認し、皆に指示を飛ばす。
 心底ありがたかった。
 何一つ持ち出さないという言葉に、すぐさま、カイエンは各部屋を回り、扉に鍵をかけ、全てをハルシャに渡してくれた。
 鍵がかけられていないのは、使用人と自分たちの部屋だけだった。

 一切の停止する手続きも、カイエンの補助を受けて、こなしていく。
 今日付けでの弁護士、自分とサーシャの学校への退校届。流されていたライフラインの停止。
 明日になれば、屋敷の全ての機能が停止する。
 にわかに職を失う使用人たちのために、紹介状を、カイエンの指導を受けながら、ハルシャは懸命にしたためる。
 そして、その夜遅く、カイエンが計算してくれた給料表に基づき、ハルシャは十人いる使用人一人一人に、最後の給料と、紹介状を手渡しする。
 だが、使用人たちは、紹介状は受け取ったものの、給料は受け取ろうとしなかった。
 借金の返済に充て下さい。私たちは今まで、十二分に頂いております。
 給仕頭のイーデンが代表して、皆の言葉を述べる。
 投げ出された冷たい現実の中で、不意に示された温かさに、ハルシャは涙を必死にこらえた。
 その夜――
 私物の整理が忙しい使用人たちとは打って変わり、何も持ち出せないハルシャは、サーシャを誘って、鍵のかかった一室に向かった。
 両親の寝室だった。
 最後に両親が暮らしていた部屋の寝台で、ハルシャとサーシャは互いを抱きしめ合いながら、眠った。
 何も持ち出せないけれど、思い出だけは、胸の中にある。
 懐かしい両親の香りに包まれて、涙に濡れるサーシャを抱きしめて、ハルシャはただ、悲しみに耐え続けた。
 
 次の朝。
 言葉の通り、男はハルシャ達を迎えに来た。
 葬儀の時のように、使用人たちは荷物をまとめて、玄関にすでに整列している。
 使用人たちの見守る前で、ハルシャの手で玄関の鍵をかける。
 それを、ハルシャは男の手に渡した。
 にやっと、彼は笑って、服の中に入れる。
 そのまま、黒い飛行車の中に、二人は伴われた。
 ふわっと飛行車は浮き、静かに屋敷を後にする。
 いつもまでも、いつまでも、身じろぎもせずにカイエンたちがハルシャを見送ってくれているのが、見えていた。
 姿が見えなくなっても、まだ、ハルシャは見つめていた。
「名残りが、尽きないか」
 座席の横で、男が呟く。
 ハルシャは顔を戻した。
「昨日、お借りしたお金を、返却いたします」
 そして、三百ヴォゼルをそのまま、差し出す。
「三百ヴォゼルあります」
 男が眉を上げる。
「使用人に、給料を払っておけと言ったはずだが」
 ハルシャは静かに言葉を続けた。
「支払いました。ですが、彼らは、受け取りを拒否しました――自分たちは、必要ないと」
 男が、目を上げて、ハルシャを見た。
「そうか」
 黙って、男は三百ヴォゼルを受け取ると、飛行車の前に座る男に差し出した。
「金額を後で調べておいてくれ。本当に三百ヴォゼルあるかどうか」
 了解しました、と、小さな声が応え、受け取る。
 疑われた。
 と、ハルシャは悟る。
 憤りを悟ったのか、男が小さく笑う。
「この世界はな、坊や。誰も信じてはいけないんだよ。誰も、な。三百ヴォゼルと言って、二百九十九ヴォゼルを返したのかもしれない――そういうことだ。覚えておけ、ハルシャ。全てを、疑え」

 彼が生きている世界は、そういう世界なのだ。
 悟ると、ハルシャは黙って、座席に座る。
 傍らで震えるサーシャの手に、そっと触れた。
 大丈夫。兄さまがいる。
 昨日、幾度も、幾度もそう言って、妹を慰めた。
 実は――昨日、妹を引き取ってくれる親戚がいないかと、ハルシャは懸命に連絡を取った。
 だが。
 以前に告げた借金の金額の大きさに、何かあればそれが自分たちにまわってくるかもしれないと警戒したのか、親戚は頑なに妹の受け入れを拒否した。
 他人である使用人たちが示してくれた優しさに引き換え、身内は冷たかった。
 せめて彼女だけでも、安全な場所に居て欲しいという、ハルシャの願いは呆気なく潰えた。
 自分たちは、お互いしかない。
 触れた手を、サーシャが縋るように握り返してきた。
 ぎゅっと固く手を結びあう。
 嵐の中にもまれながら、互いを楔として必死に止め合うようだった。
 その様子に、一瞬目を止めてから、男は、前を向いた。

 目的の場所に着くまで、重い沈黙が車内に垂れこめていた。




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