ほしのくさり

第56話  白い通話装置





 

 きっちり一時間後に、ハルシャはジェイ・ゼルに揺り起こされた。
「時間だよ、ハルシャ」
 
 熟睡していた。
 夢も見ない眠りは、久々だ。

「良く寝ていたね」
 ジェイ・ゼルの言葉が響き、さらっと髪が撫でられた。
「だが、もう起きる時間だ。ハルシャ」

 ぎゅっと目を一度つぶってから、ハルシャは頭を振りながら起き上がった。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
 んーっと、拳を天に突き上げて、身を反らすように伸びをする。
 大きなあくびが、ついでのように出た。

 ぷっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「そうしていると、二十歳の若者にしかみえないな」
 腕を組んで、ハルシャを見下ろしている。
 伸びから腕を降ろし、ハルシャは、手櫛で、寝乱れた髪を必死に直しながら、ジェイ・ゼルへ視線を向けた。
 ジェイ・ゼルは片頬を歪めた。
「いつもは、平然としていて、年齢不相応な落ち着きがある」
 瞬きの後、静かな声で彼は続けた。
「それが、君がいつもまとっている、自分を護るための鎧なんだね」

 起き抜けに、不穏当なことを、彼は突き付けてくる。
 返事はしなかった。
 盛大な寝ぐせを手で撫でつけて、ハルシャは腰をひねって、床に足を降ろした。
 やんわりとした疲労が、身の奥にあったが、これまでの行為の後に感じた、むしり取られたような喪失感がない。
 むしろ、内側が満たされたような、充足感が身体の中にあふれている。

 楽しい旅行と、美味しい料理と、深い睡眠と――そして。

 視線を上げると、静かに微笑むジェイ・ゼルの姿がある。
 ハルシャは唇を無意識に噛み締めた。

 ジェイ・ゼルの、緑色の瞳を、見ることが出来たお陰だ。

 靴を履こうとした動きを止めて、じっとハルシャはジェイ・ゼルを見つめていた。


 ハルシャの眼差しに気付き、ジェイ・ゼルが不意に笑みを消した。
 目が細められる。
 ハルシャは、ぼんやりと、彼が緑の瞳だったことを思い描いていた。
 思索にふけっていたハルシャの頬に、ジェイ・ゼルの手が伸びてきた。
 はっと気づくと、温かな手の平に、頬が捕えられている。
 口を寄せながら、ジェイ・ゼルが呟いている。
「私を――誘っているのか、ハルシャ」
 
 誘う?
 そんなことはしていないと、抗議をしようとしたハルシャの口が、ジェイ・ゼルの唇で覆われた。
 微かに、クラヴァッシュ酒の残り香が漂う口づけだった。
 身を屈め、ベッドのわきに腰を下ろす、ハルシャの口をジェイ・ゼルが味わっている。
 優しく、穏やかに、問いかけるように。
 寝起きでぼんやりとしていたハルシャは、目を閉じ、慣らされた動きに、反射的に応えていた。
 頬から手が滑り、頭の後ろを優しく支える。
 舌が唇を割り、入ってくる。
 絡めた瞬間、身に甘い痺れが走る。まただ。ハルシャは頭の隅で考える。
 自分は、どうしてしまったのだろう。
 ジェイ・ゼルの舌を感じると、身が反応する。
 声が漏れそうになる。

 一時間以上は、拘束しないといっていたのではないのか、ジェイ・ゼル!

 ハルシャは、文句を言いたくなり、翻弄されながらも、必死に目を開く。
 どきんと、心臓が鳴った。
 自分のすぐ近くで――
 ジェイ・ゼルが、自分を見つめていた。
 口を触れ合わせながら、彼の視線は、ハルシャの顔へと注がれている。
 目の底に、暗い炎を秘め、静かにジェイ・ゼルが自分を見つめていた。
 ハルシャを行為に酔わせつつも、彼自身は少しも耽溺していない、ひどく冷静な眼差しだった。
 ぞわっと、身がざわめいた。
 いつも彼は、自分を見つめてくれていた。
 事実が、蘇る。
 身から力が抜けていく。彼に意志の力を吸い取られていくように、頭がぼんやりとしてくる。
 ハルシャは半開きの眼で、ジェイ・ゼルを見つめ返す。
 頬が、赤くなる。
 口を合わせながら、ふっと、ジェイ・ゼルが笑った。
 深くハルシャを探ってから、ゆっくりと唇が離れる。

「随分」
 息が触れる距離で、ジェイ・ゼル呟く。
「おねだりも、上手になったね。ハルシャ」

 かっと頬が赤く燃える。
「わ、私は、おねだりもしていないし、誘ってもいない!」
 懸命に抗議の声を上げる。
「ただ、見ていただけだ――そうしたら、ジェイ・ゼルが……」
 にこっと、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
「そうか。ハルシャはその気はなかったのだね」
 こくんと、必死にうなずいて、無実を証明しようとした。
「なら」
 ジェイ・ゼルの手が、ハルシャの顎を捉えた。
「覚えておくといい」
 呟きながら、ジェイ・ゼルが顔を近づけてくる。
「寝起きの潤んだ目で見つめられると、私はこういう反応をする――」
 唇が再び触れ合い、今度は激しくジェイ・ゼルはハルシャを求めた。

 嵐のようだ。
 気まぐれに、自分を翻弄する。
 穏やかかと思えば、激しい愛撫を与える。
 いつも、自分はジェイ・ゼルに搔き乱される。
 帰らなくてはならない、サーシャが待っていると解っているのに、慣らされた身が、彼の愛撫に甘やかな反応を示す。
 たった数日で、自分はジェイ・ゼルのものになったのだと、痛感する。
 だが。
 それは自分が望んだことだった。
 五年間――
 ジェイ・ゼルが差し伸べ続けてくれた腕の中に、ようやく自分は、身を委ねたのだ。
 だから、彼は見せてくれた――緑に美しく輝く、愛し合った後の、ジェイ・ゼルの瞳を。

 押し殺した呻きが漏れる。
 髪を撫でると、ジェイ・ゼルが静かに口を離した。
 近くで、ハルシャの目を見つめる。
「覚えておきなさい、ハルシャ」
 寝ぼけまなこで見つめると、ジェイ・ゼルは自分を離してくれないと、いうことのようだ。
「わかった、ジェイ・ゼル。覚えておく」
 彼は、本当に嬉しそうに笑った。
 くしゃっと、せっかくハルシャが整えようと試みた髪が、乱される。
「本当に、ハルシャは可愛いな」
 
 それで満足したのか、やっとジェイ・ゼルはハルシャを解放した。
 寝ていたベッドを整え、靴をきちんと履いて、ハルシャは入り口に置いていたボードを手に取った。
 ジェイ・ゼルを振り返って見る。
 机の上には、まだ食べた後の食器が乗っていた。
 ハルシャが眠っていたので、彼は給仕を呼んで下げさせなかったのだ。
 軽い電脳を傍らに抱えて、ジェイ・ゼルも視線を、ハルシャへ向ける。

「行こうか。ハルシャ」

 一緒に部屋を出るのが、ジェイ・ゼルの中で定番になったようだ。
 きゅっと、ハルシャは唇を噛み締める。
 今は、前回と違い、夜も早いので、大勢の宿泊客の眼がある。
 その中を、割るようにして歩いて行かなくてはならない。
 ジェイ・ゼルが大股に近づき、ハルシャの背中に触れた。
 そっと、促されて、歩き出す。
 鍵を解放し、静かに二人は廊下へと歩み出した。
 左の手が、ハルシャの肩を包む。
 柔らかな力で、ジェイ・ゼルが自分を身に引き寄せる。頬が、じわっと赤らんでくる。
 けれど。
 ジェイ・ゼルは、少しも恥ずかしくない。むしろ誇るべきことだと、言ってくれた。
 自分のことを、恥だと思ってはいなかった。
 なのに――
 自分は、ジェイ・ゼルの側に居ることを、恥ずかしいと思ってしまった。
 彼に抱かれている自分が。
 自分を抱いている彼が。
 この上なく、羞恥に塗れていると――

 私は、君が誇らしい。

 宇宙空港からラグレンの帰途、飛行車の中で、ジェイ・ゼルが小さく囁いた言葉が、耳に蘇る。
 彼は、自分を誇りに思ってくれていたのに――
 自分はジェイ・ゼルを、少しも誇らしく思っていなかった。
 地獄の使者、狡猾な借金取立人としてしか、彼を認識してなかった。
 ヴィンドース家の家長であることを誇るあまり、下賤な仕事だと、ジェイ・ゼルのことを、軽侮していた。
 何の実もない家名におぼれ、自分に与えられた仕事を果たしている人を、見下していた。
 あさましい所業だ。
 ヴィンドース家の長子であるだけで、そんなに、自分は偉いのか?
 思い上がっていたのかもしれない。
 自分の心の汚さを、否応なしに、ハルシャは見せつけられる。

 軽蔑されたら、どれだけ辛いか――あれほどジェイ・ゼルに軽蔑しないでくれと、訴えながらその実、自分はずっと心の中で、彼のことを蔑んでいたのだ。

 自分は、醜い。
 くだらないプライドに邪魔されて、きちんと物事が見えていなかった。
 最初に出会った時――
 自分では資金を作ることが出来なかった。ジェイ・ゼルの手を借りなければ、家を売ることすら出来なかっただろう。
 自分は、何も知らなかった。
 その自分に、住む場所と仕事を与えてくれたのは、ジェイ・ゼルだった。
 リュウジを預かってから、ハルシャはその意味を、じわっと理解し始めた。
 何一つ、身よりもなく生きる手立てを持たないということが、どういうことか。
 今、曲がりなりにも生活できるのは、ジェイ・ゼルが支えてくれていたからだった。
 彼の手が無ければ、自分とサーシャは、昨今餓死をするか、苦に耐え兼ねて、二人で命を絶っていたかもしれない。
 
 今日気付いたことだ。
 彼はただ、仕事をしていただけなのだ。
 借金を取り立てるという、自分の仕事を。

 ハルシャの肩を大きな手で包み、ジェイ・ゼルが廊下を歩いていく。
 傍らで歩を進めながら、合わせている身の方の手を、ハルシャは動かした。
 そっと、ジェイ・ゼルの背中に触れる。
 ぴくっと、彼の身がわずかに震えた。
 視線が降ってくる。
 自分がジェイ・ゼルの背に腕を回したことが、信じられないようだ。
 彼の眼差しを感じながらも、ハルシャはやっぱり頬が赤くなる。
 そこは、許して欲しかった。
 何と言われても、恥ずかしいのだ。
 でも、腕は引かなかった。
 ぎゅっと、ジェイ・ゼルの手に力が籠り、自分にさらに引き寄せる。
 身をぴたりと合わせて、廊下を歩く。
 すれ違う人に道を譲りながらも、ハルシャは手を離さなかった。
 ひどく、親密な態度だ。
 けれど、ジェイ・ゼルのことを、恥ずかしく思っていないと、彼に伝えたかった。
 これが、精一杯の、ハルシャに絞り出せる、勇気だった。


 *


 フロントで清算を終えたジェイ・ゼルに誘われて、ハルシャは飛行車に乗っていた。
 今回も、オキュラ地域まで送ってくれると、ジェイ・ゼルは言ったのだ。
 彼の好意を、ハルシャは素直に受けた。

 車内で、ジェイ・ゼルはネルソンから、依頼の品を受け取っていた。
「フェルズさんから、お預かりしてきました。ジェイ・ゼル様」
 あの時、ジェイ・ゼルが連絡をしていたのは、彼の勤勉な会計係、マシュー・フェルズだったようだ。
「ああ、ありがとう」
 ジェイ・ゼルが手にしているのは、腕時計のような形のものだった。
 ウェアラブル端末の通信装置だ。
 機能は制限されるが、持ち運びが軽いすぐれものだ。
「これを、ハルシャに貸してあげよう」
 ジェイ・ゼルは、白い樹脂のような素材で出来た、手首にはめるタイプの通信装置を、ハルシャに示す。
 画面を見せる。
 小さな画面の中に、通話という文字と、受信という文字が書いてある。
「私の通話装置とだけコンタクト出来る。『通話』の文字に触れると、私にかかる。受信した時は、この文字に触れる。それだけだ」
 ハルシャはうなずく。以前は、自分も迎えの車との連絡のため、通話装置を持っていた。使い方は解る。
「もし、雑音が多い時や、他人に会話を聞かれたくない時は、この横のボタンを押すと、骨を通じて音が聞こえるように出来る。顎の骨に当てるといい。それでハルシャには声が聞こえる」

 なるほど、と、ハルシャは技術の進歩に感心する。
 確か、骨伝導と言ったはずだ。
 耳は、振動を音としてとらえる。
 だから骨を介した振動もまた、鼓膜が音として拾ってくれるのだ。

「わかった。ジェイ・ゼル。ありがとう」
 礼を述べるハルシャの左手を、ジェイ・ゼルが取る。
「手首にはめてあげよう」
 引き寄せられた左手に、するっと通話装置が入り込む。
 大きい。手首で少し泳ぐようだ。
 ジェイ・ゼルが、通話装置の横のボタンを押すと、しゅっと、バンドが縮まって、ハルシャの手首に添った。
「自動で、持ち主の腕の太さに合わせるようになっている。きつくないか?」
 ハルシャは動かしてみた。
「大丈夫だ」
 ジェイ・ゼルが微笑む。
「少し、練習してみようか」

 練習? 何の?
 と問いかける前に、ジェイ・ゼルは自分の通信装置を取り出し、操作した。
 途端に、手首の通話装置が震える。
 画面に、「マスター」という表示が出る。
 そう言えば、これは会社の通話装置だと言っていた。ジェイ・ゼルのことは「マスター」と表示されるようだ。
 ハルシャは、「受信」の場所に触れた。
「ハルシャか?」
 隣と、通話装置と、二ヶ所からジェイ・ゼルの声が聞こえる。
「そうだ、ジェイ・ゼル」
 と答えた途端に、ぷつっと切れた。
「じゃあ、今度は、ハルシャから、かけてくれ」
 本当に、こんな練習が必要なのか? 操作方法なら解る。と言おうとして、とても楽しそうなジェイ・ゼルの笑顔に、ハルシャは言葉を飲んだ。
 仕方がない。付き合おうと、腹を決める。

 「通話」の場所に指が触れた途端、発信中の表示が出る。
「ハルシャか?」
 これもまた、二ヶ所から、声が聞こえる。
 律儀に通話装置に、
「そうだ。私だ、ジェイ・ゼル」
 と、ハルシャは答えた。
 今度は、ジェイ・ゼルは通話を切らなかった。そのまま、通話装置に話し続ける。
「これから、こうやって、私と連絡を取ってくれ」
「わかった」
 通話画面に向かってハルシャは言う。
「嫌な思いをさせた」
 小さな声が聞こえる。
 ハルシャは、ジェイ・ゼルへ顔を向けた。
 彼は通話装置を顔に寄せたまま、虚空を見ていた。
「もう二度と、そんな思いはさせない」

 ぴっと、通話が切られた。
 微笑みながら、ジェイ・ゼルは通話装置を服にしまっている。彼のは薄い板状だ。
「そのウェアラブル端末は、頑丈に作ってあるから、そのまま作業がこなせるだろう。いつも身に着けておいてくれ」
 言ってから、目が細められた。
「ハルシャ。これは無料で貸し出すが――もし紛失した時は、相応の弁償を覚悟しておいてくれ」
 脅しだ。
 この通話装置を四六時中身に着けていろと、ジェイ・ゼルは言っている。
「だが」
 ハルシャは、可能性を指摘する。
「作業上、大変な高温の場所に行くこともある。繊細な通話装置が、壊れてしまうかもしれない」
 ジェイ・ゼルは眉を上げる。
「ただし、不慮の事故は、この限りではない――失くさない限り、どんなことがあっても、弁償は求めない」

 意図が解らない。
「だが、高価な通話装置なんだろう。もし壊してしまったら……」
 危惧して、食い下がるハルシャに、ジェイ・ゼルが手を伸ばして、頬に触れる。
「では、言葉を換えよう」
 灰色の瞳がハルシャを見つめる。
「君が常にこの通話装置を携帯してくれれば、いつでも君と会話が出来るという、安心感が私に生じる。
 そのために、肌身離さず、いつも身に着けていてくれるかい。ハルシャ」
 
 ジェイ・ゼルの言葉に、ハルシャは無言で瞳を見返す。
 ひどく、精神的なことを、ジェイ・ゼルは言っている。
「無理を、言っているかな? 私は」
 首を傾げて、ジェイ・ゼルが問いかけている。
「君が満足し、それで良いと考えていると思って、私はあえて、伝言という形をとって来た。だが、それを君も望んでいないのなら――もう、私が譲歩する必要もないかと思ってね」
 譲歩。
「譲歩してくれていたのか、ジェイ・ゼル?」
 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルは静かにうなずいた。
「君は、必要最低限の私の接触しか、好まないかと思っていたからね」

 だから。
 直接ではなく、伝言で、だったのだ。
 ジェイ・ゼルと、自分は会話をしたくないと、彼が思い込んでいたから。
 そうさせたのは、工場長のシヴォルトだ。
 眉を寄せるハルシャの顔へ、静かなジェイ・ゼルの笑みが向けられる。
「そうでないのなら、出来れば君といつでも、連絡が取れる状態が、ありがたいな」
 ハルシャはうなずいた。
 だが、高温の作業に入る時には、あらかじめ時間帯を言って、通話装置を外すことだけは、約束を取り付ける。
 通話装置が気になって、作業に集中できないことを、ハルシャは恐れたのだった。
 そこはきちんと理解し、ジェイ・ゼルが譲ってくれた。
 左の手首に巻き付いた、通話装置をハルシャは見つめる。
 この腕の機械一つで、自分はジェイ・ゼルと繋がっているのだ。
 それを、安心感と、彼は呼んだ。
 なら――
 不安だったのだろうか。今までは。
 ハルシャは、問いかけることは出来なかった。



 ふわっと、オキュラ地域にネルソンが飛行車を停めた。
 彼の運転技術は素晴らしい。
 だが。
 それよりも、ジェイ・ゼルは卓越していた。
 ネルソンの言っていた通りだった。
 停車したのを確かめてから、ハルシャはジェイ・ゼルへ顔を向けた。
「今日は、本当にありがとう、ジェイ・ゼル」
 もっと何かを言おうと思ったが、上手く言葉に出来なかった。本当に、自分には文才がない。
「また」
 微笑んで、ハルシャはぺこりと頭を下げてから、扉に向かった。
「ハルシャ」
 ジェイ・ゼルが呼んだ。
 振り向いたハルシャは、ジェイ・ゼルに手首を引かれて、そのまま腕の中に包まれていた。
 彼は無言だった。
 ただ、抱きしめる力の強さだけが、別れ際の彼の思いを語っていた。
 しばらくしてから、髪に唇が触れた。
「サーシャに、戻してあげなくてはな」
 静かに、彼が呟く。聞き取れないほど、小さな声で。
 腕が解放される。
「また連絡する、ハルシャ」
 先ほどの腕の強さなど、何も感じさせないほど冷静な様子で、ジェイ・ゼルが言う。
 ハルシャはこくんとうなずいた。
「待っている」
 その言葉に、やっとジェイ・ゼルは微笑んだ。

「早く降りないと、このまま連れて行くぞ」
 また、そんな嫌味なことをジェイ・ゼルは言う。
 ハルシャには、笑う余裕があった。扉を開けて外へ出る。こんなところに降り立つ飛行車が珍しいのか、周りを人が数人囲んでいた。
 鋭い眼差しが、何だか嫌だった。

 さっさと飛行車から離れたハルシャを確認したのか、ふわっとネルソンは車体を操り、宙へと浮く。
 ハルシャは振り向いて、黒い飛行車が優雅な動きで、上空の飛行車専用の誘導路に向かう様を眺めていた。
 ふっと息をしてから、視線を落とす。
 白い、通話装置が手首にはまっている。
 ボードを小脇に抱え両手を自由にすると、ハルシャはそっと触れてみた。
 通話の文字に触れれば、すぐに、ジェイ・ゼルに繋がる。
 ――いつでも、彼の声を聞くことが出来る。
 事実が、どきんと胸を打たせた。
 ひどくジェイ・ゼルを近くに感じる。
 しばらく無言で、ハルシャは通話装置に触れていた。

 首を一振りすると、ハルシャは脇からボードを降ろし、浮かせる。
 家に戻る――気持ちを切り替えていく。
 サーシャとリュウジが、ハルシャを待っているはずだった。
 そっと、地面を蹴り、人ごみを縫いながら、ハルシャは家路を急いだ。

 





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