何もせずに、本当に寝かせてくれるのか?
と、辛辣な疑問を口にしかけて、ハルシャは飲み込んだ。
彼はひどくゆったりとしていた。
心から満足しているような、穏やかな笑みを浮かべて、温かな眼差しをハルシャに注いでいる。
自分のために、休憩を提案してくれているのだと、ハルシャは気付く。
家に帰れば、サーシャのためにハルシャは自分の時間を使う。
その前に、少しでも身を休めていけと、優しく忠告してくれていた。
ハルシャは、時間を見る。
午後七時に少し前。
ラグレンは、二十六時間で一日が動いている。
午後七時といっても、惑星ガイアでは夕刻に近い感覚だ。
瞬きをする。
眠気が、泥のように身を覆い始めた。
「すまないが、ジェイ・ゼル。一時間したら、起こしてくれるか?」
もちろん、と彼が請け合う。
「私は仕事があるから、起きているので安心してくれ。
ベッドで服のままで寝るといい。広いから、端の方だとシーツも濡れていないだろう」
事務的な口調でジェイ・ゼルが言う。
再びハルシャは、顔が赤らんできた。
そうだ。
二人が睦み合った場所は、行為を物語るように、体液で濡れている。
そういうことを、ジェイ・ゼルは平気で指摘してくる。
たぶん――ハルシャが顔を赤らめるのを、見るのが楽しいのだろう。
今も、にこにこと自分の羞恥に染まった顔を、見つめている。
「仕事があるなら、先に出ても大丈夫だ、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、なんとなく悔しくて、言葉を口にする。
「勝手に寝た後、帰るから」
ふっと、ジェイ・ゼルが笑みを消した。
ゆっくりと、瞬きをして、ハルシャを見つめる。
「ここで出来る仕事だから、気を遣わなくても大丈夫だよ、ハルシャ」
意図が解りながら、ジェイ・ゼルは言葉をすり替える。
クラヴァッシュ酒へ、視線を向ける。
「一時間ほど仮眠をしたら、戻るといい。それ以上は、拘束しないよ。ハルシャ」
あと、一時間、君と一緒に居たい。
言葉にしない、ジェイ・ゼルの心が聞こえた。
あと一時間だけ、自分のために時間を使ってくれと。
秘めやかな、想いが伝わる。
「わかった」
懸命に眠気をかみ殺しながら、ハルシャはジェイ・ゼルを見つめる。
「今日は本当に、ありがとう――とても、楽しかった」
胸の奥に、温かなものがこみ上げてきて、ハルシャは礼を言わずにはいられなかった。
にこっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「それは何よりだ」
クラヴァッシュ酒を手に取り、彼は口に運ぶ。
同じグラスに、自分が口を付けていたことを、ハルシャは思い出し、なんとなく、頬が赤くなる。
照れ隠しに立ち上がろうとして、ハルシャは、ふと、動きを止めた。
「ジェイ・ゼル」
ん?
と、ジェイ・ゼルがグラスから、ハルシャへ顔を向ける。
常と違うことを口にする自分に戸惑いながら、眉を寄せてジェイ・ゼルに問いかける。
「次は――いつ、逢える?」
言ってから、何だか、無性に恥ずかしくなって、ハルシャは盛大に顔を赤らめた。
まるで、次に会う時を楽しみにしているように、聞こえてしまう。
違う。
と、自分に言い訳をする。
これから、リュウジと一緒に仕事をすることになる。
突然のジェイ・ゼルの呼び出しに、自分は慌ててしまうかもしれない。
あらかじめ、予定が解っているとありがたいという、それだけの意味だった。
誤解をされてはいけないと、ハルシャは言葉を補足する。
「仕事の関係上、前もって予定が立てられると、とてもありがたい。今、請け負っている駆動機関部は、初めて手掛ける型なので慎重に作業を進めたいんだ、ジェイ・ゼル。伝言でなく、あらかじめ教えてもらえると、とても助かる」
それに。
ハルシャは、唇を噛む。
リュウジの前で、シヴォルトからジェイ・ゼル様からの呼び出しだと、言われることが、何よりも辛かった。
他の人に何を言われても気にならない。
だが。
もし――リュウジに軽蔑の目を向けられたら。
自分は、耐えられないかもしれない。
顔を赤らめて、唇を引き結ぶハルシャの顔を、しばらくジェイ・ゼルが見つめていた。
「シヴォルトから……君は伝言で十分だと言っていると、聞いていたが」
はっと、驚きに、ハルシャは顔を上げる。
その表情を見守ってから、ジェイ・ゼルの眼が細められた。
「どうやら、違うようだね」
シヴォルトは、ハルシャが彼からジェイ・ゼルの伝言がもたらされることを、歓迎していると、伝えていたのだ。
だから。
ジェイ・ゼルは、五年の間、シヴォルトを介して、ハルシャに予定を伝えてきたのだ。
驚きに、ハルシャは目を見開いて、ジェイ・ゼルを見つめ続ける。
簡単な通信装置すら、ハルシャは使用料金がかかるために、持っていない。
だから、職場の伝言でしか、ジェイ・ゼルは自分に伝えられないのだと、思っていた。
「ジェイ・ゼルは、それしか方法が無いから、工場長を使って、伝言をさせているのかと――私は思っていた」
ハルシャは、小さく、呟いた。
ジェイ・ゼルが首を振って、言った。
「私は、君がそれで、満足していると、シヴォルトから聞いていた」
不思議な静寂が、部屋に満ちた。
灰色の瞳が、自分を見つめている。
「君は」
静かな言葉が、呟かれる。
「本当は、シヴォルトから伝えられることが、不愉快だったんだね」
鋭敏なジェイ・ゼルは、ハルシャの表情から、読み取ったらしい。
ハルシャは、何も言えなかった。
ジェイ・ゼルは、ハルシャが状況に満足していると思って、シヴォルトに伝えさせていたのだ。
情報は、人を間に置くと、歪んで伝えられることがある。
ことに悪意がある時は。
ハルシャは、人の心の暗黒部を見てしまった。
シヴォルトは、わざとハルシャの言葉を歪めてジェイ・ゼルに話していたのだ。
悪意の介在によって、自分はジェイ・ゼルを誤解していた。
打ち解けた今なら、話せたことが、この五年間はただ、耐え忍ぶだけしか出来なかった。
こらえ続けて来たものが、唇を震わせた。
屈辱と、ジェイ・ゼルに対する不快感と、シヴォルトの嘲笑と、皆の軽侮の目と。
嫌だった。
ただ、苦しかった。
言えなかった想いが、あふれてくる。
ふうっと、ジェイ・ゼルが大きく息を吐いた。
「すまなかった、ハルシャ」
彼は不意に、服から通信装置を取り出すと、画面に指を滑らせた。
「ああ、私だ」
誰かと、繋がったようだ。会話が始まった。
ハルシャは、まだ唇の震えを止められないまま、ジェイ・ゼルを見つめる。
「会社に置いてある、通信装置を一台『エリュシオン』に持ってきてくれないか。
私の通信装置とだけ、連絡が取れるように、あらかじめ設定しておいてくれ。
ああ、出る時に、ネルソンに託してくれたらいい。
あと一時間ほど後になる。頼む」
短い会話を交わしてから、彼は通信装置を切った。
「一台、君に、私との連絡用の通信装置を、貸し出そう」
服に薄い通信装置を戻しながら、ジェイ・ゼルが静かに言う。
「ごくシンプルな機能しかもたない、簡易なものだ。私としか連絡が取れないように設定しておく」
灰色の瞳が、ハルシャを映す。
「今後は、その通信装置を使って、君との連絡を取ろう。なるべく、早めに予定も伝えることにする。もう、シヴォルトに伝えさせることはない」
痛みをこらえるように、眉を寄せて、ジェイ・ゼルが呟く。
「それで、許してくれるか、ハルシャ」
勇気を出して、歩み出せば、ジェイ・ゼルはハルシャの手を捕えてくれる。
無言で見つめるハルシャに、ふっと彼は笑顔を向けた。
けれど、ハルシャの中に、一つの危惧がぐるぐると渦巻いていた。
心配を見て取ったのだろう、ジェイ・ゼルが微笑んだ。
「安心しろ、ハルシャ。通信装置のレンタル料は、無料だよ」
そんなことを、心配している訳ではない。
言おうとして、ハルシャは首を振った。
でも、言うしかない。
勇気を振り絞って、ハルシャは言い難いことを口にした。
「シヴォルトが――私が告げ口をしたと、逆恨みをするかもしれない。自分の役が外されたと知ったら」
ジェイ・ゼルが静かに瞬きをした。
「なるほどね。大丈夫だ、ハルシャ。きちんとそちらも、手を打っておこう」
不意に、彼は立ち上がって側へと歩いてきた。
ふわりと、座るハルシャの身体が、ジェイ・ゼルの腕に包まれた。
「君は、忍耐強く、文句を言わない子だから、シヴォルトの言うことを鵜呑みにしてしまった。見抜けなかった私のミスだ。許しておくれ、ハルシャ」
髪に、唇が触れる。
「不愉快な想いを、させてしまったね」
手が、髪を滑っていく。
「もう、大丈夫だよ。ハルシャ」
ジェイ・ゼルが、すぐさま手を打ってくれたことが、嬉しかった。
彼の温もりに、安堵を覚える。
ぎゅっと、傍らに立つ、ジェイ・ゼルの身体をハルシャは抱きしめた。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
安心したのだろう。くらっと、目眩のような眠気が襲ってきた。
「眠いのか、ハルシャ?」
ジェイ・ゼルが問いかける。
うなずくハルシャの身体が、不意にジェイ・ゼルによって抱き上げられていた。
驚きよりも先に、もう大きな歩幅で、ベッドへと運ばれている。
「ジェイ・ゼル!」
「ハルシャは、今、酔っ払いだからね。足元が危なっかしい」
くすくすとジェイ・ゼルが笑いながら、ベッドの端にたどり着いた。
「酒量はひかえないとね、ハルシャ」
ジェイ・ゼルの方が、三倍以上、ハルシャより飲んでいる。
暴れる間もなく、ハルシャはベッドに横たえられていた。
「お休み、ハルシャ。一時間したら、起こしてあげよう」
さらっと髪を撫でて、ジェイ・ゼルがハルシャの靴を脱がし、布団で身を覆ってくれる。
ちゅっと、額に唇が触れた。
「いい夢を」
彼は踵を返して、そのまま机の方へ戻っていった。
本当に、自分を寝かせてくれるらしい。
枕を引き寄せて、ハルシャは自分の頭の下に押し込んだ。
横になったまま、ベッドの上からジェイ・ゼルの動きを見つめる。
彼は机の前に立つと、笑みを消した。
食器を動かし、場所を開けると、電脳を取り出す。
椅子を引いて机の前に座を占め、足を組んで、電脳の画面を見つめている。
それは、いつもハルシャに見せる表情ではなかった。
冷徹で計算高い、商売をするときの、ジェイ・ゼルの顔だった。
彼は電脳を見つめてから、指を画面に走らせた。
何かを指示しているのだろう。顔を斜めにして待ってから、再び情報を打ち込む。
顎に手を当て、考え込んでいる。
最初に出会った時、彼は今と同じ顔で、ハルシャを見ていた。
自分の中から、どれだけの利益を引き出すことが出来るのか、冷徹に見極める眼差しが、じっと注がれていたのを、思い出す。
けれど。
今は、違う。
愛しげに自分に向けられていた、緑の瞳の色が脳裏をよぎる。
優しく深みのある、色だった。
ハルシャだけに見せてくれた、ジェイ・ゼルの本当の姿。
布団を身に巻き付けると、ハルシャは目を閉じた。
誰かの気配を感じながら眠るのは、とても心地よく、満腹感と一つの憂いを除かれたことで、この上なく幸せな眠りの中に、ハルシャは誘《いざな》われる。
ジェイ・ゼルの手が、カタカタと立てる音を聞きながら、いつしか深い眠りの中にハルシャは落ち込んでいた。