ほしのくさり

第54話  悪意が招いた誤解-01





 結局、その後――
 クラヴァッシュ酒を三回ジェイ・ゼルの口に注いでから、漸《ようや》くハルシャは彼の膝の上から解放された。
 一口注ぐたびに、ジェイ・ゼルが口を合わせて離さないので、香りにしたたか酔いを得てしまう。
 どう考えても、グラスから直接飲む方が、合理的で味も良いと思うのだが、ジェイ・ゼルはこちらの方が美味しいと言って、譲らない。
 空腹の上に、息を詰めてクラヴァッシュ酒を注ぎ続けたので、ハルシャはふらふらだった。
 
 良く出来ました、と頭を撫でられて、ハルシャは自分の席に戻る。
 まるきり、子ども扱いだった。
 少し、足元がおぼつかない。
 向かい合った席に腰を下ろし、ジェイ・ゼルと晩餐をとる。
 いつもならジェイ・ゼルが頼んだものを、有無も言わさず食べるのだが、今回は、自分の分の料理は選ばせてくれた。
 彼の微かな譲歩が感じられた。
 それが――
 妙に嬉しかった。
 彼に隷属した者でなく、一人の人間として、きちんと扱ってもらえているような気がしたのだ。

 しかし。
 備え付けのタブレットのメニュー画面には、値段が書かれていなかった。
 『エリュシオン』に泊まるほどの人物なら、金額など気にせずに注文するのだろうか。
 それとも、ジェイ・ゼルがわざわざ、値段の表記のない画面を見せたのか、ハルシャには解らなかった。
 料理が高額だったらどうしようと危惧しながら、なるべく安価そうなものを注文する。
 一緒に食事をするときには、ジェイ・ゼルが代金を全額支払ってくれる。
 それは、五年前に最初に食事を共にした時から、変わっていなかった。
 けれど。
 甘えすぎては申し訳ないと、思ってしまうのだ。
 画面を睨むハルシャの横で、何でも好きなものを注文したらいいと、ジェイ・ゼルがのんびりとした口調で言う。
 選んだ料理は、部屋で簡易に食べるため、メインの魚料理と、数種類の前菜にサラダ、それにパンとスープのシンプルなものだった。それに、ジェイ・ゼルが勝手にラム肉料理を追加した。
 ハルシャは、魚料理が好きなので、白身魚のポアレを注文している。
 普段の生活でも、タンパク質類は、魚介類か大豆製品だった。
 自分は粗食でも良いが、成長期のサーシャの栄養状態が、いつもハルシャは心配だった。
 ふんだんに良質なタンパク質を食べて、自分は十五まで成長してきた。だが、サーシャには六歳から今の十一歳まで、ぎりぎりの生活をさせている。
 それが、心苦しかった。
「どうした」
 前から不意に、ジェイ・ゼルの声が飛んだ。
「考え事か?」

 手が、止まっていたようだ。
「少し――」
 わずかにためらってから、素直にハルシャは思いを口にした。
「妹にも、この料理を食べさせてあげたいと、考えていた。それだけだ」
 ハルシャは、柔らかい魚料理にナイフを入れる。
「サーシャは料理に興味を持っていて、色々な味を覚えては、家で作ってくれる」
 料理を見つめながら、ハルシャは微笑む。
「とてもありがたい」
 ジェイ・ゼルが、空いたグラスにクラヴァッシュ酒を自分で注いだ。手に取ると、静かにグラスを傾ける。

「サーシャは、十一歳になったんだな」
 独り言のように、彼が呟く。
 憶えていたのだ。
 ハルシャは、ただ、うなずきでジェイ・ゼルの言葉に応える。
 彼は波を打つ、赤い液体を見つめていた。

「この前、思わず引き留めてしまったが」
 グラスを置きながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「サーシャは大丈夫だったかい。彼女に、夜を一人で過ごさせてしまったね」
 思いがけない優しい口調で、彼は呟いた。
 ハルシャは食事の手を止めて、視線を向ける。
 ジェイ・ゼルは、赤いグラスの液体を見つめていた。
「オキュラ地域は、女の子が一人で夜を過ごすには、とても危険な場所だ」
 ぽつんと、彼が呟いた。

 ジェイ・ゼルは――意外とサーシャのことを気にかけてくれていた。
 なんと、サーシャの通う学校に、いくばくかの寄付をしてくれていたのだ。
 知ったのは、随分後だった。
 思ったよりも早く仕事を終えられた時、サーシャを学校まで迎えに行ったのだ。まだ、七歳ぐらいの時だ。
 サーシャの学校の校長、帝星ディストニアから越してきたハロン・ダーシュが、ハルシャを認めて近づいてきた。
 そして、立派な屋根付きの教室を建てることが出来たと、とても喜んでハルシャに話しかけてくる。
 最初、ハルシャは意味が解らなかった。
 なぜそんなことを嬉しそうに、感謝をにじませて自分に言ってくるのだろう。
 
 よくよく聞いてみると、サーシャが通い出してからしばらくして、ジェイ・ゼルがハロン・ダーシュ校長に、直々に寄付を手渡し、学校の設備を整えて欲しいと、依頼したらしい。
 驚きのあまり、ハルシャは言葉を失い、立ち尽くしてしまった。

 訪れた当時は、屋根もない場所でただ、フリップを手に先生役の人が、子どもたちに授業を行っていた。
 それが今は、三つの屋根付きの教室があり、表示用のスクリーンも備えている。
 ジェイ・ゼルのお陰で、安全に授業が出来ると、彼は手放しで喜んでいた。
 ラグレンに雨は降らない。
 だから、建物がある意味は、身の安全を守るためだった。
 オキュラ地域はとても危険な場所なので、突発的に暴力に遭う可能性がとても高かった。ことに子どもたちが集まっていると、襲いかかりたい者があるらしい。
 この学校でも、数度危険な目に遭わされたと、ダーシュ校長からきいていた。
 それが今は、門と壁に囲まれた教室があり、とても安全に子どもたちを教えることが出来ると、感謝の言葉を尽くしてくれる。
 ハルシャは絶句したまま、校長の言葉を聞くしかなかった。
 
 まさか。
 ジェイ・ゼルが?
 あの地獄の取り立て屋が?

 信じられない思いしか、湧き上がって来なかった。
 思い余って、その次の呼び出しの時、ハルシャはジェイ・ゼルに事の次第を訊ねてみた。
 彼は、あまりハルシャに知られたくなかったようだ。
 不意に不機嫌になった。
 長い沈黙の後、
 
 税金対策だ。

 と、ぽつりと言った。

 ラグレンの制度では、非営利団体に寄付をすると、金額に応じて税金が免除される。今回はたまたま、サーシャが通う学校を選んだだけだ。

 面倒くさそうに言ってから、ハルシャに鋭い視線を向ける。
 服を脱げ、ハルシャ。と、彼は静かに自分に命じて、会話を断ち切った。
 結局、詳細を聞けずじまいだった。

 ジェイ・ゼルは――
 時折、細やかな心遣いを見せる。
 サーシャが幼い頃は特に、速やかにハルシャを解放し、引き留めなかった。
 妹の世話をする必要があると、彼は認めてくれていたのかもしれない。

「大丈夫だった、ジェイ・ゼル」
 長い沈黙の後、ようやくハルシャは口を開いた。
「仕事で徹夜になる時もある――何かあれば、大家を頼るように言ってある。それに、近くにメリーウェザ医師も居てくれる。
 長く私が留守にするときは、彼女がサーシャを家に預かってくれている」
 
 ジェイ・ゼルが瞬きをしてから、視線を上げた。
 静かな笑みが、彼の顔に浮かんだ。
「そうか。なら、安心だな」

 言葉が途切れたまま、食事を続ける。
 ふと気づくと、食事をするハルシャを、静かにただ、ジェイ・ゼルは見つめていた。
 側にクラヴァッシュ酒のグラスだけを引き寄せて、ハルシャの動きを見守っている。
 視線が触れ合った。
 にこっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「見惚れていたんだよ、ハルシャ」
 沈黙の理由を、彼は笑いながら説明する。
「君は本当に、きれいな仕草で食事をする――優雅で、食事に対する感謝に満ちている。とても上品だ」

 微笑むジェイ・ゼルに、食器を置くと、ハルシャは真っ直ぐに向き合った。
「感謝をしている。いつも、食事を用意してくれていて」
 気恥ずかしいが、言葉を続ける。
「この前は――心づくしの料理を、ろくに味わわず、急かしてすまなかった。わざわざ惑星ガイアから取り寄せたものも、あったのに……」
 ずっと心に引っかかっていたことを、機会ととらえて詫びを口にした。
 ジェイ・ゼルの笑みが深まった。
「私が、勝手に君に押し付けたことだ。
 五年を祝うなど――君には意味のないことだったのにね」

 笑みを浮かべたまま、彼はやんわりと言った。
 けれど、口にしたことは、厳しい内容だった。
 ハルシャは、ただ、ジェイ・ゼルの口元を見つめていた。

 ジェイ・ゼルの視線が落ちる。
「君にとってはただ、五年前のあの日は、借金を背負わされた日であり、恐怖が始まった日だ。
 五年というのも、借金を払い続けて来た年月に過ぎない。
 それを祝えと言う方が、どだい無理な注文だ」

 ゆっくりと、ジェイ・ゼルが視線を上げる。

「これから長く続く日々の、ほんの通過点に過ぎない――それだけしか、君にとっては意味が無かったのにね」

 しんと、空気が凍った。
 なぜ。
 突然こんなことを、ジェイ・ゼルは言うのだろう。
 楽しいはずの食事の時間に。
 冷たいものを、背中にぶちまけられた様な気がした。
 正鵠を射ているだけに、ハルシャは何も言えずに、ただ、ジェイ・ゼルを見つめ続けていた。

「気を悪くしないでくれ。ハルシャ」
 視線を自分に向けたまま、ジェイ・ゼルが呟く。
「他意はない」
 そして、気を取り直したように、彼はフォークとナイフを手に取った。
「ここの料理は中々美味しいね」

 そこからジェイ・ゼルは明るい口調で、会話をリードしていく。

 サーシャは、どんな教科が得意なんだね。
 ほう、作文が――コンクールに提出できるほどの作品を書いたのだね。
 また、彼女の名に気を付けておこう。どこかの大賞をとるかもしれないからね。
 さすが詩人の血を引いているだけあるね、と。巧みに会話を交わしていく。
 さっきまでの凍り付いた時間が嘘であったように、食事は穏やかに進んだ。
 ジェイ・ゼルがたくさん食べさせようとしたので、ハルシャは満腹で、動けなくなりそうだった。
「若さはいいね」
 ジェイ・ゼルが、クラヴァッシュ酒を口に運びながら、微笑む。
「気持ちいいぐらいに、よく食べたね、ハルシャ」
 
 もっと食べなさいと、ジェイ・ゼルが勝手に自分の料理を、お皿に乗せてくる。
 ハルシャは律儀に残さずに食べ終える。
 正直、食べ過ぎて、苦しい。
 クラヴァッシュ酒の酔いと、満腹感が、それまでの身の疲労と相まって、ハルシャはどうしようもない眠気を覚え始めた。

 体は正直だ。
 休憩を声高に求めている。

 あくびをかみ殺し、懸命に瞬きをする。
 今、時刻は七時に近い。今から帰れば、自宅でサーシャたちに合流できる。今日は帰りが早いと言っておいたので、サーシャは真っ直ぐアルバイト先の飲食店から、自宅へ戻ると言っていた。
 夕食はもう食べることは出来そうにないが、サーシャの宿題は見て上げられそうだ。

 もう、帰っていいか、ジェイ・ゼル。

 と、ハルシャは問いかけようとした。
 だが、クラヴァッシュ酒を揺らしながら、静かに自分へ向けられたジェイ・ゼルの視線に出会い、ふと、沈黙する。
 彼の眼が、ハルシャを絡めとるように、熱を帯びている。
 無言で、彼と視線を交わす。
 ふっと、ジェイ・ゼルが笑った。
「眠たそうだな、ハルシャ」
 
 瞬間、ハルシャの頬が赤くなった。
 お腹がいっぱいになったら眠くなるなど、まるで赤ん坊のようだ。
「昨日、あまり眠れていないから……」
 口の中で、言い訳を呟く。
「そうだね。紫の森の中でも、気絶するように眠りについていた」
 ジェイ・ゼルが視線を伏せて、瞬きをする。
「時間的に余裕があるのなら、少し寝ていったらどうだ。一時間ほど眠ると、驚くほど体力は回復する」






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