ほしのくさり

第52話  自分の呼び方






 雨だ。
 雨が降っている。
 惑星ガイアの大地を潤す、天から降り注ぐ恵みの水――
 ハルシャは、夢の中に、自分の頬に、雨の一粒がぽつりと落ちるのを感じた。
 優しい水が、ハルシャの中を満たす。
 
 ジェイ・ゼル。

 夢の中で、ハルシャは彼を呼んでいた。
 呼びかけに応えるように、温もりが自分を包んだ。
 ほっと、安堵が内側に広がる。
 腕をのばし、温もりを引き寄せる。

 
 大丈夫だよ。ハルシャ。私は、どこにも行かない。
 君を、置いてはいかないよ。


 遠い所で、声がする。
 なだめる様な声に、ハルシャは全身の強張りを解く。
 ふと、思い出す。
 この前、快楽の中で朦朧としながら、ハルシャはジェイ・ゼルに懇願していたような気がする。

 自分を独りにしないでくれ。側に居てくれと。

 大丈夫だと、その時もあやすように、言葉が聞こえ、指が絡んできた。
 与えられた温もりを、ハルシャは懸命に握りしめていた。
 だから――
 ラグレンの夜明けに目覚めた時、自分はジェイ・ゼルの手を握っていたのだ。
 無意識の中に、記憶が揺蕩《たゆた》う。
 目覚めたら、忘れてしまうかもしれない。
 けれど、きっと魂の底には残る。
 与えてくれた、温もりと安らぎは――

 雨だ――
 雨が降っている。
 ぽつんと、頬に当たる。
 温もりのある、水。
 優しい、天から降る水――
 雨だ――雨が降っているのだ。
 きれいな、水だ……


 *


「水が欲しいのか、ハルシャ」
 明確な声が聞こえた。
 意識がぼんやりとする中で、ハルシャは声のした方へ顔を向けた。
 薄く開いた目に、ジェイ・ゼルの顔が映った。
 彼の眼はもう、灰色だった。
 ハルシャを見つめて彼が問いかける。
「喉が渇いて、水が飲みたいのか?」

 なぜ、ジェイ・ゼルはそんなことを言うのだろう?
 考えてから、はたと、ハルシャは思い至る。
 水が降っていると、口走っていたような気がする。
 ジェイ・ゼルが首を傾げている。
 ハルシャの答えを待っていた。
 水が飲みたいわけではなく、夢に雨を見ただけだと、ハルシャは伝えようとしたが、言葉が中々でなかった。
 すっと髪が撫でられてから、ジェイ・ゼルが動いた。

 またうとうとしかけたハルシャの唇が、柔らかくジェイ・ゼルに覆われた。
 次の瞬間、温みのある液体が、静かに口の中に押し込まれた。
 こくんと、ハルシャは飲み込む。
 さあっと、水分が身体の中に吸い込まれている。
 自分は思ったよりも、水を欲していたようだ。
 幸せそうな顔をしたのだろう。
 くすっと小さい笑い声が漏れてから、再び水が口の中に滑り込んだ。
 冷たい水の感触に、ハルシャははっと目を開けた。
 こくんと、再び飲み込む。
 唇が離れると同時に、声が聞こえる。
「もう少し、飲むか?」
 
 ハルシャは、顔をジェイ・ゼルに向けた。
 透明な水が入ったグラスを手に、彼は微笑んでいた。
 意識が急速に覚醒していく。
 自分は随分寝てしまったようだ。
 ジェイ・ゼルはすでに、服を着ていた。
 瞬きをしてから、ハルシャは応える。
「ああ」
 無理矢理に身を起こした。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
 ぴくぴくと、全身が痙攣しているような感じがする。
 それでも腕で身を支えて、右手を彼に差し伸ばす。
 眉を少し上げてから、ジェイ・ゼルがグラスをハルシャの手に渡してくれた。
 指が触れ合った瞬間、妙な恥ずかしさが、全身を駆け巡った。
 自分は、彼を、ひどく直情的に求めた。
 悔いはなかった。
 けれど――なぜか――まともに、ジェイ・ゼルの顔が見ることが出来ない。
 正気に戻ると、どうしても今までの自分の生き様が、素直になることを妨げる。
 本音で向き合おうと、決意したにもかかわらず。
 ジェイ・ゼルの手が、グラスから離れた。
 重みを受け止めながら、ハルシャはグラスを口に運び、一気に飲み干す。
 体中に、水の恵みが染み渡るようだった。
 飲み終えた後、ため息が出る。
 最上級の水の味だった。
 おいしい。

 ふっと、ジェイ・ゼルが笑っていた。
「元気そうだな」
 手が伸びて、子どもをあしらうように髪を撫でる。
「起きて、食事が出来るか、ハルシャ」
 自分は一人で寝床を占領していたようだ。身が丁寧に拭われ、寒くないように布団で覆われていた。
 ジェイ・ゼルは仕事をしていたようだ。
 机の上に、電脳が出ている。
「俺は、どれだけ寝ていたんだ、ジェイ・ゼル」
 
 何気なく問いかけた言葉だった。
 今日は昼からの呼び出しなので、サーシャにそれほど遅くならないと言ってある。どれだけ自分が眠り込んだのか、単純に知りたかった。
 不意に、微笑んでいたジェイ・ゼルの笑みが、すっと消えた。
 違和感を、思わず抱くような表情の変化だった。
 何か、妙なことを言ったのだろうか。
 ハルシャはグラスを手にしたまま、ジェイ・ゼルへ視線を向けていた。
 ゆっくりと、彼の顔に笑みが戻って来た。
「また――」
 静かな言葉だった。
「俺と、君は自分のことを呼ぶのだね」


 何かを、突き付けられたような、気がした。
 どきんと、胸の奥が痛む。
「いつもの……ことだろう。ジェイ・ゼル」
 痛みをごまかすように、笑いながらハルシャは言った。
 ジェイ・ゼルも微笑みを返してくれながら、手を伸ばし、優しくハルシャの髪を撫でる。
「そうかな」
 すっと手が離れ、グラスに触れる。
「本当の心を告げているとき……君は、違う言葉で自分を呼ぶよ」
 ジェイ・ゼルが、凍り付くハルシャの手から、グラスを受け取った。
「気づいていないのかい? ハルシャ」

 軽い口調でジェイ・ゼルは言っていた。
 だが、込められている意味は、重かった。
 とてつもなく。

 見抜かれている。
 彼に――
 ハルシャの心の底まで。

 そうだ。
 自分は心の中で呟くときは、いつも「私」と言っている。
 十五年間そうしてきたように、今も本当は「私」と言いたかった。
 だが。
 それでは、工場の工員たちに馬鹿にされる。
 とんでもないお坊ちゃまだと。
 馬鹿にされるのも、いちいち面倒くさかった。
 だから。
 「俺」とハルシャは自分を呼ぶことにした。
 それが、相応しいと、考えたからだ。
 借金に塗れ、男に抱かれ、皆に軽蔑の目を向けられる自分に――
 
 ジェイ・ゼルは、最初から見抜いていた。
 だから言ったのだ。


 いつから君は、自分のことを、私から、俺というようになったんだろうね、ハルシャ。
 俺という時、君は自分を蔑むような顔をする――と。



 違う恥辱が、内に湧き上がって来た。
 内側の衝動に耐えかねたように、低い声で、ハルシャは呟いていた。

「自分を、どう呼ぼうと、俺の自由だろう。ジェイ・ゼル」

 顔が赤らむ。
 心を言い当てられたことが、無性に恥ずかしかった。
 自分の弱さを、彼に見つけられたことが。

 彼は軽蔑しないと、言ってくれていたのに。
 心がひどく無防備で、少しのことに、動揺してしてしまう。
 わかっている。
 ジェイ・ゼルは、自分のために言ってくれている。
 心のままに「私」と言っていいのだと。
 本音で話してくれと。
 彼の前に壁を作らないでくれと――
 なのに、指摘されたことが、こんなにも、辛い。
 だから。
 これは、八つ当たりだ。
 自分を守るために張り巡らしてきたものを、見破られたハルシャの、つまらない八つ当たりだ。

 静かにジェイ・ゼルが呟いた。
「もちろん、自由だよ。ハルシャ」
 優しく、微笑みを浮かべる。
「どう呼ぼうが、君は、君だ」


 すっと、彼は立ち上がった。
 傷つけた。
 瞬間、ハルシャは悟る。
 自分の心が無防備になっているように、きっとジェイ・ゼルも心がむき出しになっているのだろう。
 だから、本当のことをハルシャに言ってくれたのに、くだらないプライドが邪魔をして、彼にきつい言葉をかけてしまった。
 殻をかぶっていた時は、自分をきちんとコントロールできたのに、どうして、今は出来ないのだろう。

 ハルシャは、眉を寄せた。
 きっと。
 甘えているのだ、彼に。
 彼の優しさに、もたれかかって安心したいのだ。
 どんな自分でも受け入れてくれるという言葉に、すがりたいのだ。
 
 まるで、子どものようだ。
 手の付けられない反抗期の、子どもだ。
 心底、情けなかった。

「すまない、ジェイ・ゼル」
 ハルシャは、勇気を振り絞って、ジェイ・ゼルに声をかけた。
「指摘は正しい」

 ジェイ・ゼルが足を止めた。
 振り向いて、ハルシャを見ている。
「本当は、俺と、自分のことを呼びたくない。ひどく粗野で、乱暴な言葉だ。だが、工場では『私』というと、お高く留まっていると、陰口をたたかれる。
 気にしなければいい。
 そう思ったが、あまりにも執拗なので、自分を変えることにした」

 ジェイ・ゼルが、じっと自分を見ている。
 ハルシャは、歪んだ笑みを浮かべた。
「『俺』と言う度に、私は敗北を味わう。自分自身でいることが出来なかった自分の弱さを――思い知る」


 ジェイ・ゼルが、無言で動いた。
 身を起こすベッドの端に腰を下ろすと、黙って、ハルシャの身を抱きしめる。
「すまない、ハルシャ」
 沈黙の後、耳元で小さくジェイ・ゼルが呟いた。
 ハルシャは、小さく首を振った。
「言わせてくれて、ありがとう。ジェイ・ゼル」
 彼の身に腕を回す。
「お陰で、自分の弱さと向き合うことが出来た。見ようとしなかった、ものを」
 ぎゅっと、抱きしめる。
「ジェイ・ゼルが見させてくれた」

 心が過敏になっているのだ。
 反動のように、身が細かく震える。
「本当はいつも、自分のことを『私』と言っている。きっと本音の時は無意識にそう呼んでいるんだろう」
 目を閉じて、彼の温もりに身を沈める。
「ありがとう。ジェイ・ゼル。気づいてくれて」
 
 ハルシャの呟きに、ぎりっとジェイ・ゼルが歯を食い縛った。
「私はただ……ハルシャに、自分を蔑んでほしくなかっただけだよ」
 無理に感情を抑えるように、彼は優しい言葉を呟く。
「ハルシャが自分をどう呼ぼうと、自由だ。要らぬことを言って、また傷つけてしまったね」
 背中に手が、なだめるように滑る。
「君が自分を護るために、懸命に身に着けたことだったのに――余計な差し出口をしてしまった。許してほしい」
 
 小さなことだった。
 「俺」と呼ぼうが、「私」と呼ぼうが、ハルシャの自由だと、切り捨ててしまうことは簡単だったろう。
 けれど。
 ジェイ・ゼルは、見逃さなかった。
「俺」と自分を呼ぶ時に込められた、ハルシャの悔しさと諦めを。
 手の平にぬめりを乗せて温めてくれるように、静かにハルシャのために、言葉を呟いてくれた。
 
 甘い言葉だけが、優しさではないのだろう。
 ハルシャは、静かに気付く。
 今――自分が絶望の中でも、何とか生きていられるのは、ジェイ・ゼルがハルシャに示してくれるからだ。
 借金がだんだん減っていることを。
 丁寧にまとめられた一覧表を、毎月きちんと、ジェイ・ゼルは渡してくれた。
 そして、教えてくれる。
 今月はこれだけの入金があった。残りはこの金額だ、と。
 ジェイ・ゼルは、目標を与えてくれていた。

「ありがとう、ジェイ・ゼル」
 ハルシャは、ただ礼の言葉を呟いた。
 ぎゅっと、ジェイ・ゼルの腕の力が強くなる。
 波立っていた心が落ち着いてくる。
 ああ、私は、自分でいて、良いのだ。
 と、小さく心に囁く。
 ジェイ・ゼルの前では、自分であっていいのだ。
「ありがとう」
 温もりに向けて、呟く。
 無言のまま、ジェイ・ゼルが唇を寄せて、ハルシャの口を覆っていた。
 柔らかい刺激に、遠い快楽が蘇る。
 ジェイ・ゼルの首に腕を回し、ハルシャは彼を一心に求めた。
 髪に指を絡めるようにして、ジェイ・ゼルがハルシャを自分に強く引き寄せる。
 次第に、口づけが深くなる。
 長く互いを味わった後、ゆっくりとジェイ・ゼルが口を離した。

「ハルシャ」
 重い言葉で彼は呟いた。
「これ以上、こうしていたら、もう一度君の中に入りたくなる」
 目の奥に炎がある。
「食事にしよう。ハルシャ」
 こくんとうなずくと、彼は最後にちゅっと、軽く唇を合わせてから身を離した。











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