雨だ。
雨が降っている。
惑星ガイアの大地を潤す、天から降り注ぐ恵みの水――
ハルシャは、夢の中に、自分の頬に、雨の一粒がぽつりと落ちるのを感じた。
優しい水が、ハルシャの中を満たす。
ジェイ・ゼル。
夢の中で、ハルシャは彼を呼んでいた。
呼びかけに応えるように、温もりが自分を包んだ。
ほっと、安堵が内側に広がる。
腕をのばし、温もりを引き寄せる。
大丈夫だよ。ハルシャ。私は、どこにも行かない。
君を、置いてはいかないよ。
遠い所で、声がする。
なだめる様な声に、ハルシャは全身の強張りを解く。
ふと、思い出す。
この前、快楽の中で朦朧としながら、ハルシャはジェイ・ゼルに懇願していたような気がする。
自分を独りにしないでくれ。側に居てくれと。
大丈夫だと、その時もあやすように、言葉が聞こえ、指が絡んできた。
与えられた温もりを、ハルシャは懸命に握りしめていた。
だから――
ラグレンの夜明けに目覚めた時、自分はジェイ・ゼルの手を握っていたのだ。
無意識の中に、記憶が揺蕩《たゆた》う。
目覚めたら、忘れてしまうかもしれない。
けれど、きっと魂の底には残る。
与えてくれた、温もりと安らぎは――
雨だ――
雨が降っている。
ぽつんと、頬に当たる。
温もりのある、水。
優しい、天から降る水――
雨だ――雨が降っているのだ。
きれいな、水だ……
*
「水が欲しいのか、ハルシャ」
明確な声が聞こえた。
意識がぼんやりとする中で、ハルシャは声のした方へ顔を向けた。
薄く開いた目に、ジェイ・ゼルの顔が映った。
彼の眼はもう、灰色だった。
ハルシャを見つめて彼が問いかける。
「喉が渇いて、水が飲みたいのか?」
なぜ、ジェイ・ゼルはそんなことを言うのだろう?
考えてから、はたと、ハルシャは思い至る。
水が降っていると、口走っていたような気がする。
ジェイ・ゼルが首を傾げている。
ハルシャの答えを待っていた。
水が飲みたいわけではなく、夢に雨を見ただけだと、ハルシャは伝えようとしたが、言葉が中々でなかった。
すっと髪が撫でられてから、ジェイ・ゼルが動いた。
またうとうとしかけたハルシャの唇が、柔らかくジェイ・ゼルに覆われた。
次の瞬間、温みのある液体が、静かに口の中に押し込まれた。
こくんと、ハルシャは飲み込む。
さあっと、水分が身体の中に吸い込まれている。
自分は思ったよりも、水を欲していたようだ。
幸せそうな顔をしたのだろう。
くすっと小さい笑い声が漏れてから、再び水が口の中に滑り込んだ。
冷たい水の感触に、ハルシャははっと目を開けた。
こくんと、再び飲み込む。
唇が離れると同時に、声が聞こえる。
「もう少し、飲むか?」
ハルシャは、顔をジェイ・ゼルに向けた。
透明な水が入ったグラスを手に、彼は微笑んでいた。
意識が急速に覚醒していく。
自分は随分寝てしまったようだ。
ジェイ・ゼルはすでに、服を着ていた。
瞬きをしてから、ハルシャは応える。
「ああ」
無理矢理に身を起こした。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
ぴくぴくと、全身が痙攣しているような感じがする。
それでも腕で身を支えて、右手を彼に差し伸ばす。
眉を少し上げてから、ジェイ・ゼルがグラスをハルシャの手に渡してくれた。
指が触れ合った瞬間、妙な恥ずかしさが、全身を駆け巡った。
自分は、彼を、ひどく直情的に求めた。
悔いはなかった。
けれど――なぜか――まともに、ジェイ・ゼルの顔が見ることが出来ない。
正気に戻ると、どうしても今までの自分の生き様が、素直になることを妨げる。
本音で向き合おうと、決意したにもかかわらず。
ジェイ・ゼルの手が、グラスから離れた。
重みを受け止めながら、ハルシャはグラスを口に運び、一気に飲み干す。
体中に、水の恵みが染み渡るようだった。
飲み終えた後、ため息が出る。
最上級の水の味だった。
おいしい。
ふっと、ジェイ・ゼルが笑っていた。
「元気そうだな」
手が伸びて、子どもをあしらうように髪を撫でる。
「起きて、食事が出来るか、ハルシャ」
自分は一人で寝床を占領していたようだ。身が丁寧に拭われ、寒くないように布団で覆われていた。
ジェイ・ゼルは仕事をしていたようだ。
机の上に、電脳が出ている。
「俺は、どれだけ寝ていたんだ、ジェイ・ゼル」
何気なく問いかけた言葉だった。
今日は昼からの呼び出しなので、サーシャにそれほど遅くならないと言ってある。どれだけ自分が眠り込んだのか、単純に知りたかった。
不意に、微笑んでいたジェイ・ゼルの笑みが、すっと消えた。
違和感を、思わず抱くような表情の変化だった。
何か、妙なことを言ったのだろうか。
ハルシャはグラスを手にしたまま、ジェイ・ゼルへ視線を向けていた。
ゆっくりと、彼の顔に笑みが戻って来た。
「また――」
静かな言葉だった。
「俺と、君は自分のことを呼ぶのだね」
何かを、突き付けられたような、気がした。
どきんと、胸の奥が痛む。
「いつもの……ことだろう。ジェイ・ゼル」
痛みをごまかすように、笑いながらハルシャは言った。
ジェイ・ゼルも微笑みを返してくれながら、手を伸ばし、優しくハルシャの髪を撫でる。
「そうかな」
すっと手が離れ、グラスに触れる。
「本当の心を告げているとき……君は、違う言葉で自分を呼ぶよ」
ジェイ・ゼルが、凍り付くハルシャの手から、グラスを受け取った。
「気づいていないのかい? ハルシャ」
軽い口調でジェイ・ゼルは言っていた。
だが、込められている意味は、重かった。
とてつもなく。
見抜かれている。
彼に――
ハルシャの心の底まで。
そうだ。
自分は心の中で呟くときは、いつも「私」と言っている。
十五年間そうしてきたように、今も本当は「私」と言いたかった。
だが。
それでは、工場の工員たちに馬鹿にされる。
とんでもないお坊ちゃまだと。
馬鹿にされるのも、いちいち面倒くさかった。
だから。
「俺」とハルシャは自分を呼ぶことにした。
それが、相応しいと、考えたからだ。
借金に塗れ、男に抱かれ、皆に軽蔑の目を向けられる自分に――
ジェイ・ゼルは、最初から見抜いていた。
だから言ったのだ。
いつから君は、自分のことを、私から、俺というようになったんだろうね、ハルシャ。
俺という時、君は自分を蔑むような顔をする――と。
違う恥辱が、内に湧き上がって来た。
内側の衝動に耐えかねたように、低い声で、ハルシャは呟いていた。
「自分を、どう呼ぼうと、俺の自由だろう。ジェイ・ゼル」
顔が赤らむ。
心を言い当てられたことが、無性に恥ずかしかった。
自分の弱さを、彼に見つけられたことが。
彼は軽蔑しないと、言ってくれていたのに。
心がひどく無防備で、少しのことに、動揺してしてしまう。
わかっている。
ジェイ・ゼルは、自分のために言ってくれている。
心のままに「私」と言っていいのだと。
本音で話してくれと。
彼の前に壁を作らないでくれと――
なのに、指摘されたことが、こんなにも、辛い。
だから。
これは、八つ当たりだ。
自分を守るために張り巡らしてきたものを、見破られたハルシャの、つまらない八つ当たりだ。
静かにジェイ・ゼルが呟いた。
「もちろん、自由だよ。ハルシャ」
優しく、微笑みを浮かべる。
「どう呼ぼうが、君は、君だ」
すっと、彼は立ち上がった。
傷つけた。
瞬間、ハルシャは悟る。
自分の心が無防備になっているように、きっとジェイ・ゼルも心がむき出しになっているのだろう。
だから、本当のことをハルシャに言ってくれたのに、くだらないプライドが邪魔をして、彼にきつい言葉をかけてしまった。
殻をかぶっていた時は、自分をきちんとコントロールできたのに、どうして、今は出来ないのだろう。
ハルシャは、眉を寄せた。
きっと。
甘えているのだ、彼に。
彼の優しさに、もたれかかって安心したいのだ。
どんな自分でも受け入れてくれるという言葉に、すがりたいのだ。
まるで、子どものようだ。
手の付けられない反抗期の、子どもだ。
心底、情けなかった。
「すまない、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、勇気を振り絞って、ジェイ・ゼルに声をかけた。
「指摘は正しい」
ジェイ・ゼルが足を止めた。
振り向いて、ハルシャを見ている。
「本当は、俺と、自分のことを呼びたくない。ひどく粗野で、乱暴な言葉だ。だが、工場では『私』というと、お高く留まっていると、陰口をたたかれる。
気にしなければいい。
そう思ったが、あまりにも執拗なので、自分を変えることにした」
ジェイ・ゼルが、じっと自分を見ている。
ハルシャは、歪んだ笑みを浮かべた。
「『俺』と言う度に、私は敗北を味わう。自分自身でいることが出来なかった自分の弱さを――思い知る」
ジェイ・ゼルが、無言で動いた。
身を起こすベッドの端に腰を下ろすと、黙って、ハルシャの身を抱きしめる。
「すまない、ハルシャ」
沈黙の後、耳元で小さくジェイ・ゼルが呟いた。
ハルシャは、小さく首を振った。
「言わせてくれて、ありがとう。ジェイ・ゼル」
彼の身に腕を回す。
「お陰で、自分の弱さと向き合うことが出来た。見ようとしなかった、ものを」
ぎゅっと、抱きしめる。
「ジェイ・ゼルが見させてくれた」
心が過敏になっているのだ。
反動のように、身が細かく震える。
「本当はいつも、自分のことを『私』と言っている。きっと本音の時は無意識にそう呼んでいるんだろう」
目を閉じて、彼の温もりに身を沈める。
「ありがとう。ジェイ・ゼル。気づいてくれて」
ハルシャの呟きに、ぎりっとジェイ・ゼルが歯を食い縛った。
「私はただ……ハルシャに、自分を蔑んでほしくなかっただけだよ」
無理に感情を抑えるように、彼は優しい言葉を呟く。
「ハルシャが自分をどう呼ぼうと、自由だ。要らぬことを言って、また傷つけてしまったね」
背中に手が、なだめるように滑る。
「君が自分を護るために、懸命に身に着けたことだったのに――余計な差し出口をしてしまった。許してほしい」
小さなことだった。
「俺」と呼ぼうが、「私」と呼ぼうが、ハルシャの自由だと、切り捨ててしまうことは簡単だったろう。
けれど。
ジェイ・ゼルは、見逃さなかった。
「俺」と自分を呼ぶ時に込められた、ハルシャの悔しさと諦めを。
手の平にぬめりを乗せて温めてくれるように、静かにハルシャのために、言葉を呟いてくれた。
甘い言葉だけが、優しさではないのだろう。
ハルシャは、静かに気付く。
今――自分が絶望の中でも、何とか生きていられるのは、ジェイ・ゼルがハルシャに示してくれるからだ。
借金がだんだん減っていることを。
丁寧にまとめられた一覧表を、毎月きちんと、ジェイ・ゼルは渡してくれた。
そして、教えてくれる。
今月はこれだけの入金があった。残りはこの金額だ、と。
ジェイ・ゼルは、目標を与えてくれていた。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、ただ礼の言葉を呟いた。
ぎゅっと、ジェイ・ゼルの腕の力が強くなる。
波立っていた心が落ち着いてくる。
ああ、私は、自分でいて、良いのだ。
と、小さく心に囁く。
ジェイ・ゼルの前では、自分であっていいのだ。
「ありがとう」
温もりに向けて、呟く。
無言のまま、ジェイ・ゼルが唇を寄せて、ハルシャの口を覆っていた。
柔らかい刺激に、遠い快楽が蘇る。
ジェイ・ゼルの首に腕を回し、ハルシャは彼を一心に求めた。
髪に指を絡めるようにして、ジェイ・ゼルがハルシャを自分に強く引き寄せる。
次第に、口づけが深くなる。
長く互いを味わった後、ゆっくりとジェイ・ゼルが口を離した。
「ハルシャ」
重い言葉で彼は呟いた。
「これ以上、こうしていたら、もう一度君の中に入りたくなる」
目の奥に炎がある。
「食事にしよう。ハルシャ」
こくんとうなずくと、彼は最後にちゅっと、軽く唇を合わせてから身を離した。