ほしのくさり

第48話  求めた真実-01








 自分から、ジェイ・ゼルを求めた時――
 もう、本当の心を彼にさらしているつもりだった。
 心の壁を乗り越えて、懸命に彼に手を延ばしたはずだ。
 けれど――
 ジェイ・ゼルの目には、そうは映っていなかったのだろうか。

 優しく唇を触れ合わせながら、ハルシャは戸惑いと混乱が拭えなかった。
 自分の本当の心を知りたくて、彼は半日、ハルシャに付き合ってくれたのだろうか。
 解らない。
 ジェイ・ゼルの心は、ハルシャの許容範囲を超える。
 複雑で深くて、知らない知識に満ちていて、掴み切れない。

 自分は――十五になるまで、宇宙飛行士になることだけを、考えて生きてきた。
 宇宙と、学問と。
 それ以外のものには目もくれず、ひたむきに走って来た。学ぶべきことは膨大で、知りたいことは底なしにあった。憧れが胸を焼くままに、宇宙の知識を貪って来た。
 けれど。
 その反面――
 ハルシャは、同じ年頃の友人を持たなかった。
 語りたいのは、教授たちで、身の内に知識を蓄えることだけが、楽しかった。
 子どもの遊びに、付き合っている時間はないと、密かに思っていた。
 もしかしたら、自分は……。
 人として大切なことを、どこかに置き去りにして、生きてきたのかもしれない。

 今も、彼が示す複雑な感情が、把握しきれない。
 ジェイ・ゼルは深すぎて、何を考えているのか、ハルシャはつかめずに苦しかった。
 何を意図して、自分に様々な行為をさせるのか、いつも戸惑った。
 けれど――
 この前、ジェイ・ゼルが媚薬を使う手段を知りながら、ハルシャを守るために手を出さなかったのだと知った時――
 彼を信じようと、思ったのだ。
 ハルシャに与えてくれることは、自分のために熟慮を凝らした結果なのだと。
 だから。
 初めて襲った感覚にも、彼を信じて、身を任せようと決めた。
 結果、果てしない快楽の海に突き落とされた。
 だが。
 ジェイ・ゼルはそんな中でも、ハルシャが達するまで、手を繋ぎ続けてくれた。その温もりだけを支えに、未知の感覚にハルシャは懸命に耐え続けた。
 あの時――確かに、心が触れ合ったと思った。
 でも。
 まだ――足りないのだろうか?
 自分の態度のどこかが、彼に不満を抱かせているのだろうか。

 悩みの果てに、ハルシャはジェイ・ゼルの唇の中に、問いを呟いた。
「本当の自分を、俺はジェイ・ゼルに見せていないのか?」
 ジェイ・ゼルが、動きを止めた。
 顔を離して、少し首を傾けながら、ハルシャを見つめる。
 ゆっくりと、彼は瞬きをした。
 身を起こすと、ジェイ・ゼルはハルシャの髪をゆっくりと撫でた。
「どうした」
 優しい問いが、彼の口からこぼれる。
「今、ジェイ・ゼルは、本当の俺を見せてくれと言った」
「そうだね」
 小さく、彼は肯定の言葉を呟いた。
 行為の是非はどうあれ、ハルシャは精一杯を尽くしているつもりだった。
 なのに、まだ彼には至らないように思えるのだ。
「俺は、ありのままで、ジェイ・ゼルに接しているつもりだ」
 懸命なハルシャの言葉に、かすかにジェイ・ゼルは目を細めた。
 髪を撫でる手つきが優しい。
 それを支えに、ハルシャは、必死に言葉を続ける。
「不快な思いをさせているのなら、謝る。打ち解けていないというのなら――」
「そうじゃないよ、ハルシャ」
 ジェイ・ゼルが静かな声で、ハルシャの言葉を遮った。
「君の態度は、立派だ。最初から――自分の責務を弁え、礼儀正しい。そして、この上なく優しく、思いやり深い。私は、不快な思いなどしていないよ、ハルシャ」

 慈しむように、ジェイ・ゼルがハルシャの髪を指で梳く。
「むしろ逆だ。
 この五年間、どんなに私との行為が嫌であっても、君は逃げずに――懸命に応えようと、実に健気に努力を重ねてきた。真面目で歪みのない、素直ないい子だ。
 今も、打ち解けようと、懸命に努力をしている」

 問いかける眼差しをしていたのだろう、ジェイ・ゼルの顔に微笑みが浮かぶ。
「そう、驚かないでくれ。 君の気持ちを言い当てたからと言って――」
 小さく笑いをこぼしてから、灰色の眼を細め、静かに彼は呟いた。
「人は、言葉で嘘はつけても、合わせた身体では、欺けない。身を合わせると、手に取るように解るんだよ。どんな性根なのか、性格も思考も、何を大切にして生きているのか――全てが、如実に合わせた肌から伝わってくる」

 さらさらと、髪がジェイ・ゼルの手の中でほどける。
 やはり。
 彼は孤独な人のような気がした。
 ハルシャに触れながら、彼はとても遠い所に、独りで佇んでいるようだ。
 時折深く底光りを放つ瞳が、今は穏やかにハルシャを見つめている。
 心の奥から、言葉を一つ、一つ探してくるように、ジェイ・ゼルが、ハルシャの髪を撫でながら、語る。
 
「身を守る服を脱ぎ去り、裸体になって、性交するだろう? 誰も自分自身を誤魔化すことは出来ない。性交とはそういう行為なんだよ。一切の虚飾を取り去って、自分自身をさらし、相手を受け止める――とても親密で、極めて勇気の必要な行為だ」

 頬に手が触れる。
 ジェイ・ゼルの目が、真っ直ぐにハルシャを見つめる。
「私が契約という名で強いたその行為から、君は決して逃げなかった。
 身を強張らせ、私の手に恐怖を抱きながらも――君は懸命に、責務を果たそうと、努力し続けて来た」
 頬に触れている手の温もりは、いつもハルシャにほどこされるぬめりの温かさと同じだった。
「一言も不満を言わずに、黙って、耐え続けて来た」

 不意に、言葉が途切れた。
 長い沈黙の後、ジェイ・ゼルが痛みに顔を歪めるように、口の端に笑みを浮かべた。
「本当は、口淫など、嫌で仕方なかったのだろう? 精を飲まされる時、いつも君は苦しそうにしていた。
 けれど、懸命に耐え、一言もそれに対する抗議の声を上げなかった」
 親指がすっと、ハルシャの頬を撫でる。
「私が言わせなかったんだ――君の気持ちが解っていながら。契約という名で縛りつけ、高潔な君の責任感を利用した」

 ジェイ・ゼルは、知っていた。
 ハルシャが、口に出された精子を飲むことが嫌で仕方がないことを。
 知っていて、させていた。
 告げられた真実が、ハルシャの心をかき乱した。
 やはり彼は――冷酷な人間なのだろうか。
 彼は自分のために、これまでの行為をしていると思った、根幹が揺らぐ。
 たったこれだけの一言で、ジェイ・ゼルに対する信頼が消えてしまいそうになる。
 不安が頭をもたげてくる。
 どうして、急にこんなことを話しだしたのか、ジェイ・ゼルの心が掴み切れずに、ハルシャは、眉を寄せた。
 途方に暮れたようなハルシャの顔を、しばらく眺めてから、すっと、ジェイ・ゼルは身を引いて、自分から距離を取った。
 横たわるハルシャの傍らに、立膝をして座り、静かな眼差しを向けている。

「私はこれまで、腐った世界で生きてきた」
 ぽつんと、彼は呟いた。
「人は快楽に弱い。心では拒んでいても、身の快楽に容易に支配されるところを、たくさん見てきた。
 だから、君もそうだと思っていたのだろうな。
 どんなに最初は拒んでも、きっとその内、君も私の身に慣れて、馴染んでくれる。そう考えて、君に私の持てる知識をすべてつぎ込んだ。無垢な君の身体に、性的な知識を叩き込んできた――五年間をかけて」
 ジェイ・ゼルが、小さく微笑む。
「私の毒に君を、浸し続けて来た」

 ふと、気付く。
 本当の君を見せてくれと言った言葉を、裏返すように、彼は今、自分の飾りのない心を、見せてくれている。
 メリーウェザ医師が、そうしてくれたように。
 自分自身の中を、そっと、ハルシャに開いてくれている。
 告げられる事実は酷く、酷薄なのに、こぼれ落ちる言葉は、優しく静かだった。

「君はこれまで、私との行為を心では拒みながらも、契約で縛られているために、為さざるを得なかった。
 それが、君を蝕み続けていたのだろうね。
 性交は、本来深い愛情と信頼の上に成り立つ、情愛のこもった行為だ。
 それを私は、恋もしたことがない君に、形式上で強いてきた。
 君の本能は知っていたのだろう、今のこれは、行為の本来ではないと。
 どんなに快楽を与えようとしても、君の心と身体は頑なに受けつけなかった。
 そのたびに、私は自分が愚かで間違っていることを、思い知らされ続けたよ。それでも――」

 瞳の中に、燠《おき》のような暗い炎が、揺らめいている。
 笑みを消して、ジェイ・ゼルが静かに呟いた。

「私は、君を抱かずにはいられなかった」


 長く沈黙していたような気がする。
 先ほどまで与えられていた身の熱が引き、胸の尖りが刺激の残滓のように、微かに痛むだけの身を抱えて、ハルシャは、真っ直ぐに自分を見つめる、ジェイ・ゼルの瞳を受け止めていた。

 ふっと、彼の顔に自嘲に近い笑みが浮かんだ。
「どんなに君が反応をしてくれなくても――私が君に与えられるものは、ただ身の快楽しかなかったからね」

 どうして――
 そんな風に、身をおとしめる様な言い方をするのだろう。
 
 沈黙し続けるハルシャの耳に、ジェイ・ゼルの言葉が響いた。
「悩みの果てに、愚かな行動に走った私に、君は手を差し伸ばし、身をかけて許しを与えてくれた。
 その時、私は自分の間違いに初めて気づいたんだ。
 私は、この五年間、私のどんな愛撫にも快楽を示さない君が、反応するように仕向けてきた。持てる手腕を全てつぎ込んでね。
 だが、私が本当に求めていたのは、愛撫に反応する君の身体ではなかった――」
 静かな笑みを浮かべながら、ジェイ・ゼルが言葉を紡ぐ。

「私が欲しかったのは、君の心だったんだ」

 笑みが深まる。

「愚かだろう、私は――五年もかかって、やっと、その間違いに気づいたんだ、ハルシャ」

 ゆっくりと、ハルシャは身を起こした。
 ジェイ・ゼルと、目の高さが合う。
「今日」
 ジェイ・ゼルの言葉が、近い場所で呟かれる。
「君と半日過ごしてみて、わかった。
 ただ、何もせずに同じ空間に、同じ時間を過ごすだけで、十分だった。
 身を合わせなくても、ただ、それだけで――
 私はそんな生き方を、これまで知らなかった。だから」
 灰色の瞳を細めて、ジェイ・ゼルが笑う。
「勝手な思惑で、ずっと、君を傷つけ続けて来た」

 ハルシャは両手を差し伸べた。
 彼に向けて。
 彼の、孤独な心に向けて――
 ひたむきに、両手を伸ばし、彼の身を抱きしめた。
 押し当てた胸の鼓動が、ひどく早かった。
 緊張し、勇気を振り絞りながら、ジェイ・ゼルが思いを伝えてくれているのだと、ハルシャは身を触れ合わせながら、気付く。
 腕に、力を籠める。
 ためらいがちに、ジェイ・ゼルがハルシャを抱きしめ返した。
「行為の最中に、君が懸命にどうして欲しいのか伝えてくれた時、とても嬉しかった。今まで私が封じてきた、君の本当の言葉が、どうしようもなく、嬉しかったんだ、ハルシャ」
 こくんと、彼の胸に向けて、ハルシャはうなずく。
「心を開いて、君が私を受け入れ達してくれた時――これほど幸福なことがあるのかと、思った」
 髪を、ジェイ・ゼルの手が撫でる。
「君の中に、消えてしまいたかった」

 押し殺した声が、耳朶を打つ。
「私がこれまで、封じてきた君の本当の姿を、見せてくれ、ハルシャ」
 優しい手が、ハルシャの髪を撫でる。
「正しくあろうと、しなくていいんだ。君の中の、堅い殻を開いて、素の君を見せてくれ――恐れずに――どんな君でも、私は受け入れる。どんなに醜くても、傲慢でも、愚かでも――それが君だ」
 髪に頬が押し当てられる。
「私に見せてくれ、本当の君を――」







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