長い沈黙の時が過ぎた。
ただ身を寄せ合っただけで、ジェイ・ゼルは何もせずにハルシャを腕に包んでいる。
温もりと静寂が、心をなだめていく。
「ここに、よく来たのか。ハルシャ」
不意に、ジェイ・ゼルが口を開いた。
紫の木々が、わずかな風に揺らぐさまを見ながら、ハルシャは
「一年に一度。若葉の頃――に」
と、短く答えた。
ハルシャを乗せていた腕が動き、手が髪をさらっと撫でた。
「そうか」
そこで、会話が途切れた。
静寂が戻る。
「良い詩だった」
再び、ジェイ・ゼルが言葉を発した。
「君の先祖は、詩人だな」
ジェイ・ゼルの手が、髪を撫でる。
彼は、ファルアス・ヴィンドースの直筆の詩のことを言っているのだ。
ハルシャは、目を細めて、瞼の裏に焼き付いて離れない、少し癖のある、ファルアス・ヴィンドースの自筆の詩を、思い出す。
『愛しき故郷の星』と、彼は詩に題をつけていた。
切なる願いに応え
この星は私に教えてくれた
大気に潜む大いなる秘密を
人類に心を開き
住む許しを与えるように
愛しき我が故郷《ふるさと》と
子孫たちは呼ぶだろう
かつて星が見せてくれた
懐の深さを讃えるために
はるか紫の森深く
珊瑚の色の空遠く
私は永遠をいつも祈る
千年の後のこの大地に
子孫の微笑みがあふれているように
紫の木の葉の海がきらめくように
ジェイ・ゼルの手が髪を滑り落ちる。
「良い詩だった」
ぽつりと、彼が呟く。
居間にかかっていた額が、誰の手に渡ったのか、ハルシャは知らなかった。
惜しむことはしない。
ただ。
買い取った人に、大切にして欲しかった。
ファルアス・ヴィンドースが、子孫に残した大切な彼の思いを。
愛しい故郷とこの星を呼びたかった、ただそれだけのために、鉄の意志で困難を凌いだ祖先の思いを。
この詩は、未来への祈りだった。
千年の後も、人類が地の上に栄えていて欲しいという、ファルアス・ヴィンドースの、朴訥な祈り。
自分たちが直筆の走り書きの詩に、限りない敬意を表してきたように、手にした人もそうあってほしかった。
伝える方法はもう、どこにもないけれども。
「父が」
ハルシャは、宙に向けて呟いていた。
「幼い頃、腕に抱き上げて、額を見せながら詩の意味を教えてくれた。ヴィンドース家の祖の偉業と共に。代々の当主が、この詩を子孫に引き継いできたのだと」
自分も家長として、その大切な歴史的逸品を、子孫に伝えるはずだった。
だが、もう、どこにあるのか、所在はつかめない。
誇りと共に受け取って来た伝統を、自分の代で、断ち切ってしまった。
それだけが、辛かった。
「ファルアス・ヴィンドースは、故郷と呼ぶ星と一つになれた。
そのことを記念して、ヴィンドース家の者は、この場所を彼の命日に一年に一度訪れていたんだ。たくさんの食べ物を積んで、ピクニックとして」
ハルシャは、話しを思い出にすり替える。
「妹のサーシャが覚えているかどうかは、わからないが」
ハルシャは、呟き、言葉を切る。
ジェイ・ゼルの腕の力が強くなった。
「そうか」
髪を撫でるジェイ・ゼルの手が、優しかった。
あやされ、なだめられているようだ。
「若葉の季節に、ファルアス・ヴィンドースは、大地に帰ったのか」
小さく彼が呟いた。
「最期に彼が目にした風景を、私たちも今、見ているんだな」
若葉からは少し時間が経っていたけれど――
ハルシャは、紫の天蓋を見つめる。
この風景を、ファルアス・ヴィンドースも見つめていた。
ジェイ・ゼルと並んで、同じ景色を目に映す。
最期の瞬間、自分の祖先がここで何を思ったのか。
ハルシャは、束の間考えていた。
何も言葉のない時間が、ゆっくりと流れていく。
これほど長く、彼とただ身を触れ合わせていたことなどなかった。
呼ばれるときは、抱かれるときだった。
渇望のように彼は自分を求め、ハルシャは彼に反応しないことで拒み続けた。
彼にとって自分は、ただ、性欲を満たすためだけの存在だと、ずっと思っていた。
なのに今。
彼は無言でハルシャを腕に包み、同じ場所を見つめている。
時間を二人で共有することが、一番大切な事でもあるかのように。
ハルシャを求めず、行為を要求もせず、静かに身を触れ合わせている。
森の奥で、静寂に身を浸しながら、ハルシャはひどくジェイ・ゼルを近くに感じた。
ほんの少し、彼の方へ動く。
そっと、身の重みを預ける。
自分の血に繋がる、偉大な科学者が最期に見た風景を眺めながら、この森でファルアス・ヴィンドースは、やっと自由になれたのだと、気付く。
人類のために走り続け、大気の改革に尽力し続けた彼は、最期の瞬間、真に望むことをした。
故郷の星と一つになりたい。
それは、ハルシャの願いでもあった。
全てのくびきから自由になる時――それはきっと、自分が故郷に骨を埋める時なのだ。
ハルシャは、目を閉じる。
借金が返済し終わるまで、君との関係は続くと、ジェイ・ゼルは言った。
なら。
自分は人生の最後を、ジェイ・ゼルの側で終えるのだろうか。
彼の熱を、頬に感じる。
もしかしたら、それは――悪いことではないかもしれない。
ふと、ハルシャは思った。
*
目を閉じたまま、どうやら自分は眠ってしまったらしい。
さらっと、髪が一撫でされ、声が耳元で響いた。
「ハルシャ」
柔らかな呼びかけに、はっと意識が覚醒する。
ジェイ・ゼルが上からのぞき込んでいた。
「この後、少し寄りたい場所がある。そろそろ、森を出よう」
言葉が優しく降り注ぐ。
頬に手が触れる。
「良く寝ていたな、ハルシャ」
静かにジェイ・ゼルが呟く。
しまった。
ハルシャは優しい灰色の瞳を見上げる。
昨夜、ほとんど寝ていなかったツケが来たようだ。
前後不覚に自分は眠り込んでしまっていた。
しかも、ジェイ・ゼルの腕を枕にして。
彼の側で眠りこけたのは、これで二度目だ。
妙に恥ずかしかった。
「俺は、寝てしまったのか」
取り繕うように、呟く。
頬を赤らめるハルシャに、ジェイ・ゼルが目を細めた。
「安心しろ。寝言は言っていなかった」
そんなことを心配しているのではない。
ふふっと、笑って、ジェイ・ゼルが身を起こした。
敷いていた腕も動くので、促されるようにハルシャも体を立てた。
「俺は、どのぐらい寝ていたんだ」
どぎまぎしながら、ハルシャはジェイ・ゼルに問いかける。
「二時間ほどかな」
座席を起こして、ジェイ・ゼルが呟いた。
「二時間!」
ハルシャは、思わず叫んでいた。
「用事があるなら、起こしてくれればよかったのに」
ふふと、ジェイ・ゼルは相変わらず笑いながら
「あまりに可愛い寝顔だったから、起こすのが忍びなかった」
と、悪びれなくいう。
しばらく沈黙してから後、ハルシャの頬が、燃えるように赤くなった。
「寝顔を見ていたのか」
「森の他には、見るものはそれぐらいしかなかったからな」
しれっと彼は言う。
ハルシャは歯噛みをしたくなった。
「起こしてくれれば良かったのに」
「そうだな」
ジェイ・ゼルが、静かに呟く。
「次からは、そうしよう」
言葉が途切れ、ジェイ・ゼルが駆動部を立ち上げた。
低い唸りが響く。
「あまり長居して、死者の眠りを妨げるのも、無粋だ」
長い黒の睫毛が、木漏れ日に、影を落としている。陰影がよりはっきりとして、彫りの深いジェイ・ゼルの顔を際立たせていた。
「偉大な先人を、彼が愛した静寂の中にお返ししよう」
時折――
ジェイ・ゼルは詩的な表現で言葉を呟く。
文学的な教養があるのだろうか。
これまで、彼はどんな人生を送ってきたのだろう――今まで考えたこともない疑問が、唐突に脳裏をよぎった。
彼は飛行車を、卓越した手腕で操る。
公にはされていない、ファルアス・ヴィンドースの墓の所在を知っている。
この仕事に就く経緯や、彼の過去が、ハルシャはふと、気になった。
自分の隣に座る男が、どんな人間なのか、初めてハルシャは知りたいと思った。
今まで、ただ自分の身体を蹂躙し、望まぬ行為を強いる、無情な人物とだけしか、認識していなかったのに。
睫毛を伏せて、飛行車の準備をするジェイ・ゼルを、ハルシャは見つめていた。
ふわっと飛行車が浮かぶ。
元来た道を辿り、ジェイ・ゼルが森を行く。
ハルシャは後ろを振り返り、遠くなるファルアス・ヴィンドースの墓の姿を目に映す。
次、来ることはもうないのかもしれない。
けれど。
紫の森がある限り――彼の眠りは安らかだ。
こよなく愛した大地の中で、ファルアス・ヴィンドースは木々に守られ、抱きしめられている。
季節になれば、紫の結晶のような落ち葉が包み、若葉の季節には光を投げかける。
彼は、幸せな人生を生きた。
信じた道を貫き通して――
一つの幸福の在り方を、ハルシャは知った。
心の奥で納得すると、前を向く。
自分も、偉大な先祖のように、信じた道を生きよう。どんなに身が汚れても、魂だけは気高くあるように。
自分は、ファルアス・ヴィンドースの、直系の子孫だ。
彼の詩がもうこの手元になかったとしても――
残した祈りは、自分の中に息づいている。
千年の後も、森が残るように、子孫たちが笑うように。
愛する、大切なこの故郷の星の上に。