紫の、森だ。
地平の彼方に、煙るような木々の姿が見え出し、ハルシャはいても立っても居られなくなった。
視線が、釘付けになる。
くすっと、隣でジェイ・ゼルが笑い声を上げる。
「きちんと座席に座っておくんだ。危ないぞ」
近づく風景に、ハルシャは身を浮かして、見入っていたようだ。
子どもに言うような口調で呟き、片手が動きを制するように、ハルシャの膝に乗った。
「そんなに焦らなくても、じきに森につく。落ち着け、ハルシャ」
注意を受けて、腰を座席に深く沈める。
ハルシャは、頬が赤らむのが止められなかった。
まるで、アミューズメント施設にいく時の、子どものように浮足立ってしまった。それをジェイ・ゼルに見られたことが、たとえようもなく恥ずかしい。
ジェイ・ゼルの巧みな運転技術のお陰で、極めて安定しているために、今、飛行車に居るということを忘れそうになる。
あまりに安定していたので、思わず立ち上がってしまったのだ。
座ったにもかかわらず、ジェイ・ゼルの手は、まだ、ハルシャの膝の上に留まっている。
触れている場所が、温かだった。
サジタウル・ゲートを抜けてから、ジェイ・ゼルは真っ直ぐに紫の森へと向かう。
何も言わなくても、ハルシャが紫の森へ行きたいのだと解ってくれていたかのように。
ゲートを同時に抜けた多くの観光車も、森を目指していたようだ。
飛行車用の光の道をたどり、列をなして進んでいく。
彼らと前後しながら、ジェイ・ゼルは確かな運転技術で森へと向かっていた。
都心ラグレン近郊の森は、サイアガナの森と呼ばれている。
広範囲に広がる植物群は同じような様相を呈し、迷うと抜け出せない。
そのため、観光客が入るのは、森のごく浅い場所だけで、深部へは、よほど覚悟をして向かわなくてはならない。
だが――
かつて行っていたピクニックは、いつも森の深部でだった。
サイアガナの森は、ヴィンドース家にとって、とても特別な意味を持っている。
それを、確認するための行事が、ピクニックだったのだ。
観光客が立ち入らない、森の奥深くで、いつも自分たちは時間を過ごしていた。
ふと、過去の記憶が、ハルシャの中をよぎる。
小さく首を振り、思い出を追い出す。
まだ、ジェイ・ゼルの手は、ハルシャの膝に乗っている。
彼は片手で器用にパッドを操り、飛行車を飛ばしている。
乗っていただけのジェイ・ゼルの手が、ハルシャの膝の形を確かめるかのように、ゆっくりと動き出した。
優しい手つきで、服の上を手が滑る。
布越しの刺激に、ハルシャは、唇を引き締めた。
膝から、太ももへと、ジェイ・ゼルの手が移動する。
手の平で玩味するような彼の穏やかな動きに、かっと身の内が熱くなる。
これ以上、ジェイ・ゼルの手が、上に来たら困る。
昨日の熱が再び宿りそうで、ハルシャは頬を赤らめた。
動揺を感じたのか、するっと一撫でしてからジェイ・ゼルが手を引いた。
「大人しく座っていてくれ。ハルシャ。もうすぐ着く」
何事もなかったかのように、彼は呟いてから、両手をパッドに乗せて、平然と運転を続ける。
頬の熱が、引かない。
ハルシャは、ジェイ・ゼルから顔を背けて、惑星トルディアの大地を見つめる。
ここに、雨は降らない。
常に晴天で、彼方まで澄んで見通せる。
だから、惑星ガイアの人々が日常目にする、雲は、一つもなかった。
ハルシャは、図鑑の中でしか、雨や、海という存在を見たことがない。
いつの日か、実際に目にする時を、自分は楽しみにしていた。
紫の森へ向かう今、どうして、こんなにも過去が蘇ってくるのだろう。
断ち切っても、断ち切っても、両親の笑顔が胸の中にあふれてくる。
それだけ自分にとって、ここは、大切な場所だったのだ。
幸福な記憶の眠る森――そうなのだ。
ハルシャは、目を細めて虚空を見つめた。
幸せとは――手にしている時には、それと解らないのだと、ハルシャは知った。
失うまで、その本当の意味に、気付けない。
不幸になってからしか、幸せが何であるのかを、悟ることが出来ない。
だから。
自分が今、幸せだと気づいている人は、一度不幸を味わった人なのだ。
ふと。
リュウジの言葉が蘇る。
全て手に入ることが、幸せとは限りません。
薄闇の中に、彼は呟いた。
口調を思い出す。
彼は、幸せの本質を知っているような気がした。
廃材屋で――
リュウジは、サーシャの心を汲み取りながら、何も出来なかったハルシャの苦しみを理解してくれた。
あの時、自分はサーシャに、ぬいぐるみ生物を買い与える決断が出来なかった。
どれだけの価値があるのかと、打診すら廃材屋にしなかった。
もし高額だったら、購入を見送ることで、サーシャを失望させてしまう。
手に入るかもしれないという希望を与えながら、それを打ち砕くことが、ハルシャには出来なかった。
それなら、最初から希望などない方が良い。
望んでも叶えられない想いが、どれほど人を不幸にするのかを、ハルシャは、知りすぎるほど、知っている。
せっかく妹が、断腸の思いで下に置いたぬいぐるみ生物のことを蒸し返し、余計傷つけたくなかった。
何も言えなかったハルシャの苦悩を――リュウジは救ってくれたのだ。
交渉に持ち込み、おまけという形を引き出して。
そして、言ってくれた。
あなたたちの心は、豊かだと。
ヴィンドース家の末裔として、失ってはならないものを、どんなに傷つけられても、必死に握りしめ続けているハルシャのことを――
リュウジはただ、認めてくれた。
そうか。
ハルシャは、気付く。
自分はどうやら、心が不安定になっているようだ。
色々なことが、矢継ぎ早に起こり、心が対応しきれていない。
だから。
こんなにも心がざわつくのだ。
紫の森に近づくにつれ。
ジェイ・ゼルの優しさを、感じるにつれて――
彼は、冷酷無比な借金取りであるはずなのに。
「ハルシャ」
注意を促すような、ジェイ・ゼルの声がした。
はっと、ハルシャは、前を見た。
視界に、森が広がっていた。
紫の木々の梢が、折り重なるように、天を覆っている。
何百年も、何千年もかけて、惑星トルディアに育ってきた森が、圧倒的な存在感で、眼前に迫る。
紫の、森だ――
瞬間。
全てを忘れて、ハルシャは、森に見入った。
サイアガナの森の木々は、いずれも、巨木ばかりで名高い。
厳しい環境に育つ木々は、生き残るための競争もまた、熾烈だった。
隣り合った木々の内、早く成長したものが、遅れたものを覆い、枯死させる。
空間を独り占めにしながら、木々は成長をしていく。
そうやって、何百年も淘汰を続けた結果、巨大な木々が、まるで聖堂の柱のように整然と並ぶ、サイアガナの森が出来上がってきた。
一つの木は、大人が十人ほどで抱えるぐらいの大きさがある。
それが、距離を保ちながら、延々と大地を埋め尽くしている。
悠然と空に高く枝を張り、見上げる天を紫の葉で埋め尽くした森の中は、観光客たちを、いつも感嘆させてきた。
森の中は、何千年という時を経てきた静寂が、満ちていた。
ジェイ・ゼルは、静かに森の中に飛行車を進める。
森の中には、飛行車用の整備された道はない。
でこぼこの大地のギャップを計算しながら、進まなくてはならない。
かなり揺れるために、観光客を乗せたバスは、森の周辺をぐるっと回るだけで、帰っていく。
高性能な飛行車は、整備されていない場所でも、ぶれることなく直進していた。
それは、ジェイ・ゼルの手腕に負うところも、多いのかもしれない。
森の中で、観光客を乗せた飛行車が、次々に停まっていく中、ジェイ・ゼルは停車する気配もなく、なおも深部へと飛行車を駆っていく。
ハルシャは、透明な覆いごしに後ろを振り向き、随分森の奥へと進んだことに気付いた。
「ジェイ・ゼル」
ハルシャは、遠くなる森の入り口を見ながら、声をかける。
「中に、入り過ぎじゃないか?」
顔を、ジェイ・ゼルへ向ける。
「深部は、危険だ」
ジェイ・ゼルは、静かに微笑んでいた。
「大丈夫だ」
確信のある彼の口調に、ハルシャは眉を寄せた。
「森の中は、ナビゲーションシステムがあまり利かない」
危惧が声に滲んでしまう。
「戻れなくなるかもしれない」
年に数回、不用心な観光客が森で行方不明になる事故が起こる。
森の中の単調な風景に惑わされ、居場所が解らなくなるのだ。さらに厄介なことに、この森の中は妙な磁場があって、ナビゲーションシステムが上手く機能しない。
眉をひそめるハルシャに、温かな声が応えた。
「この飛行車には、マーキングシステムが搭載されている。地図上に、通った道が記録されるんだ。見てみろ、ハルシャ」
身を寄せて、ジェイ・ゼルが示す、制御盤の表示を見る。
森が地図で表示されていた。そこに、通った場所が、赤いラインで記録されていく。今も、線が伸び続けていた。
「最悪、道に迷っても、この記録を辿れば、元の森の入り口に帰ることが出来る」
顔を近づけるハルシャの頭に、軽く手が触れた。
「意外と心配性だな、ハルシャは」
髪を軽く撫でてから、彼は運転に戻った。
「君はいつも未来を予測して、起こりうることに、懸命に身構えている。想定内に物事が収まっているときは冷静に見えるが、一端予測不可能なことが起こると、突然パニックに陥る」
視線を上げて、ハルシャはジェイ・ゼルを見つめた。
今彼は、灰色の眼を、真っ直ぐ前に向けていた。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だ。ハルシャ」
優しい声が、彼の口から響く。
「きちんと、時間になったら元に戻る。安心して座席に座っていろ」
大丈夫だ、ハルシャ。
握りしめてくれた手の温もりと、湧き起る感覚に戸惑うハルシャにかけてくれた、力強い彼の言葉が耳に蘇る。
ジェイ・ゼルには、何か考えがあるのだ。
「上を眺めていたらどうだ、ハルシャ」
ジェイ・ゼルの声が穏やかに耳朶を打つ。
「幸い、この飛行車の外装は透明で、ほとんど視界を妨げない」
その仕様の飛行車を、わざわざ彼は選んでくれたのだという気が、した。
ふっと体から力を抜く。
「わかった」
一言呟くと、ハルシャは黙ってシートにもたれかかり天を仰いだ。
高い梢が、空を覆い、紫色の柔らかな光が、ちらちらときらめきながら、降り注いでいる。
大地に、葉の影が映る。
透明な結晶のような惑星トルディアの木々の葉は、それだけで土産物として有名だった。
アメジストのように、オブジェとして飾ることが出来るのだ。
落ち葉の季節――天からはらはらと紫の葉が散りたとえようもなく美しい。
防護服をまとわないと、外へ生身で出ることが出来ないが、森で落ち葉を見ることが、惑星トルディアの人にとっては、楽しみの一つだった。
光に透けながら、紫の結晶のような葉が、天から舞い落ちる。
惑星ガイアの人が、雪のようだと言っていた。
雪がどう降るのかハルシャは知らなかったが、きっと美しいのだろうと想像する。
きらきらと木々が光る。
見つめながら、ハルシャは心の内に呟いていた。
どうして。
ジェイ・ゼルは、自分を外界へ連れ出そうと思ったのだろう。
口に出せない疑問が、心の内に渦巻く。
ハルシャが、心を開いたことへの、彼なりの思いやりなのだろうか。
それとも、他人にハルシャを抱かせようとしたことの、詫びなのだろうか。
解らない。
今も、ハルシャの中には、両親の死に対する疑念が、毒のようにわだかまっているというのに、
信じたいのに、信じきれない苦しみが、炎のように身を焼くというのに。
彼は高価な浄化装置付きの飛行車をチャーターし、自分を、外界へ連れ出してくれた。
そして、一番自分が行きたかった、紫の森の中を今、進んでくれている。
紫の森は、美しかった。
五年前も、今も。
恐らく千年前も、千年後も――変わらずに美しいのだろう。
自分が命を失った後も、森は残り続ける。
ハルシャの先祖が愛した森。
彼は今も、この森の中に、眠っている。
ふと、ハルシャは、視線を前に向けた。
はっと、驚きと共に、身を起こす。
見覚えがある風景だった。
いつも、ピクニックで向かっていた、森の深部――
まさか。
ハルシャは、目を見開いたまま、ジェイ・ゼルへ視線を向ける。
まさか。
ジェイ・ゼルは、静かに飛行車を操り、観光客が決して立ち入らない場所へと、進んだ。
一部の人間しか知らない、場所。
サイアガナの森の深部――
ハルシャにとって、とても大切な場所へと。
予感は確信に変わった。
サイアガナの森の一部に、木々を払って、広場のようになっている場所がある。
ジェイ・ゼルは静かに、そこに飛行車を停めた。
「どうして」
ハルシャは、ジェイ・ゼルを見つめたまま、呟いていた。
「どうして、この場所を知っているんだ、ジェイ・ゼル」
光が穏やかに差し込む、円形の広場の中央。
そこには、墓石が一つ、立っている。
ハルシャのはるかな祖先、ファルアス・ヴィンドースの墓だった。
ジェイ・ゼルが静かに微笑んだ。
「さあ、なんでだろうな。ハルシャ」
浄化装置を動かすために、駆動部を切ることなく、彼は運転席に身を預けて静かに、言葉をこぼした。
「惑星トルディアの歴史を、懸命に勉強した成果かな?」
はぐらかすように、ジェイ・ゼルが言う。
ハルシャは、揺れる瞳でジェイ・ゼルを見つめていた。
惑星トルディアの父、と後に敬意を持って呼ばれたファルアス・ヴィンドースは、晩年、病に侵された。
最初期に移民として惑星トルディアに移り住んだ彼の肺は、まだ浄化装置がきちんと整備されていない頃の傷跡を、受けていたのだ。
病を得たファルアス・ヴィンドースに、当時としては、最高の医療が施された。
しかし経過は芳しくなく、彼の命は余命いくばくかとなった。
そんな折。
治療を受けていた病院から、ある日、忽然とファルアス・ヴィンドースは姿を消したのだ。
皆は、必死にファルアスの行方を捜した。
自宅にもどこにも、彼の姿はなかった。
ただ、彼が日常使用していた車も、同時に姿を消していた。恐らく、ファルアス・ヴィンドースは車でどこかに出かけたのだろう、と、結論が出された。
彼の車に搭載されていた、発信装置の電波を、皆は懸命に探る。
結果――彼の車は、発見された。
場所は、紫の森と呼ばれる、サイアガナの森だった。
駆け付けた捜索隊が発見したのは、乗り捨てられた彼の車と、森の中で絶命する、ファルアス・ヴィンドースの姿だった。
死期を悟ったファルアスは、生身で森に出て、そして、彼が名付けた有害物質トルディオキシンによって肺の組織が溶解したために、命を失っていた。
乗り捨てられた車には、彼の書置きがあった。
紫の木の葉の中に、眠る幸せを、許して欲しい。
この身が森と一つになることを、望んで止まない。
惑星トルディアを人類のものとした男は、最期の場所として、彼がこよなく愛した千年の紫の森を選んだ。
だから――
彼が絶命した場所に、今も彼の身体は眠っている。
簡素な墓石に、彼の生存年と名前だけを刻んで。
落ち葉の季節になれば、彼の墓標は、紫の木の葉で埋め尽くされる。
惑星トルディアの父と呼ばれた、ファルアス・ヴィンドースが選んだ、ここが最期の場所だった。
望んだとおりに、彼は森と、一つになった。
彼が命を落とした日を記念とし、ハルシャ達はこの場所で一日を過ごすのが、慣例となっていた。
彼が愛した森の中で、美しい、若葉の季節に。
」