次の日。
昼から、予告通りジェイ・ゼルが迎えに来た。
工場の正面玄関に、黒い彼の飛行車が横付けされ、ハルシャは工場長にジェイ・ゼルが待っていると、告げられる。
出かけるハルシャを、冷たい目が見ていた。
仕事をほったらかして、良いご身分だという視線が、突き刺さる。
無視してハルシャは、工場の中を進んだ。
鞄とボードを手に、真っ直ぐに飛行車へと向かう。
ハルシャが近づいたのを認めてか、車の扉が静かに開き、自分を迎え入れる。
今日は、ジェイ・ゼルが乗っていた。
身を屈めて乗り込むハルシャを、彼は腕を組んで見つめている。
無言でハルシャは、ジェイ・ゼルの傍らに位置を占めた。
扉が閉まり、ふわっと飛行車が浮かび上がった。
相変わらず、彼は黒一色の服をまとい、灰色の眼で自分を見ている。
ドクンと、妙に、心臓が鳴る。
ジェイ・ゼルの指がハルシャへ向かって伸びてくる。
「いい子にしていたか」
動き始め、微かな圧のかかる車内で、ハルシャの顎を捉えながら、ジェイ・ゼルが呟いた。瞳が、ハルシャを探る。
「きちんと食事をしているのか? 少し瘦せたようだが」
言葉をこぼしながら、ジェイ・ゼルが顔を寄せる。
たった二日で、そう面差しは変わらないと思うが、棚の費用をねん出するために、昼はメリーウェザ医師の強烈な味のパウチで過ごすことにしていた。
「ここのところ、パウチで済ますことが多い」ぽつっと、ハルシャは呟く。「そのせいかもしれない」
ジェイ・ゼルが眉を寄せた。
「納期は先だろう。食事をまともに出来ないほど、仕事を焦る必要があるのか、ハルシャ」
ジェイ・ゼルは、ハルシャの仕事の状況を、把握している。
工場長のシヴォルトと綿密に連絡を取っているのだろう。
納期が先のことを、彼は知悉《ちしつ》している。昼から呼び出したことから、ハルシャは、恐らくそうだろうと、推測していた。
ハルシャの仕事に余裕があることが解っていて、あえて午後から連れ出したのだ。
ふと、疑念がよぎる。
ジェイ・ゼルは、今ハルシャが任されている設計図のことも、把握しているのだろうか、と。
リュウジは、本来の設計なら、銀河帝国法違反になると教えてくれた。百五十年前に禁止されたはずの、スクナ人を動力源に使う、駆動機関部であると。
何も知らずに作れば、ハルシャが罪に問われるかもしれないと、リュウジは憂慮していた。
ジェイ・ゼルは、そのことを、知っているのだろうか。
もし、解ってハルシャに作らせているのだとしたら――リュウジが言っていた「悪意」はジェイ・ゼルにも、あてはまるのだろうか。
一瞬、焼けた鉄を押し当てられた様な、鋭い痛みが走った。
両親の死に対する、拭い難い疑いのことが、胸の奥によぎる。
もしジェイ・ゼルが、両親の死に関わっていたとしたら――
ハルシャは、唇を噛み締める。
自分はどうしたらいいのだろう。
両親の敵に身を任せているのかもしれない、という思いが、内側から裂くようにハルシャを蝕む。
昨日はあれほどジェイ・ゼルに素直になれたのに、シヴォルトと結託しているという一点が、ハルシャの心を曇らせた。
シヴォルトは、ジェイ・ゼルの情人という目で、ハルシャを見る。
蔑むように、あざ笑うかのように。
そうさせているのは、ジェイ・ゼルだった。彼はいつも、自分との連絡を、シヴォルトに伝えさせた。
黙り込むハルシャに、触れている手がゆっくりと頬を撫でる。
沈黙の質を推し量るように、指先が、ハルシャを探る。
「仕事が、きついのか?」
柔らかな問いかけに、ハルシャは目を上げた。
灰色の瞳が、じっと自分を見つめていた。
仕事を勤勉にしろ、と、言外にいつもジェイ・ゼルは告げていた。きちんと責務を果たせるように、健康にも気を遣い、怪我をしないように。
過酷で容赦ない仕事を、ハルシャに宛がってきているのは、ジェイ・ゼルだ。
「あんたが命じる仕事を、俺はこなしているだけだ。きついかどうかなど、俺は考えたことがない。納期が与えられる。それを果たす。その繰り返しだ」
借金を返し終えるまで、この仕事は続く。
「別に、不服はない」
お陰で、高額の給料をもらっているのだ、不満など漏らす必要もない。
言い切ったハルシャの目を、しばらくジェイ・ゼルが見つめていた。
ハルシャの奥を見透かすように、時折銀にも見える、ジェイ・ゼルの灰色の瞳が、自分を見据える。
かすかに、彼は口角を上げて、笑みを作った。
「そうか」
吐息のような言葉が口からもれる。
顔が寄せられて、静かに唇が覆われていた。
空いている方の手が、ハルシャの頭に回されて、静かにジェイ・ゼルの方へと引き寄せる。
ハルシャは逆らわなかった。
高度を保ったまま、飛行車がラグレンの空を滑っていく。
まだ日の高い車内で、ジェイ・ゼルの唇による愛撫を受けながら、ハルシャは、自分はどこまで変えさせられるのだろう、とぼんやりと考えていた。
昼間に呼び出すことなど、これまで、ジェイ・ゼルはしたことがなかった。
何かが、彼の中で変化していた。
今も、合わせる唇が、優しい。
それまでは、飢えを満たそうとするかのように、ジェイ・ゼルはハルシャを貪っていた。底に沈めてはいるものの、ハルシャの態度に対する、焦りと苛立ちがにじんだ行為だった。
けれど。
今のジェイ・ゼルは、静かにハルシャに何かを与えるように、唇を合わせてくれていた。
ふっと、ジェイ・ゼルは笑ってから、口を離した。
くつくつと、彼が喉の奥で笑っている。
「今日の昼は、一体何を食べたんだ、ハルシャ。パウチか?」
昼からの呼び出しなので、ハルシャは食事を終えていた。微かに、頬が赤らむ。一応口を洗っていたが、残り香があったらしい。
「ああ」
朝、適当にメリーウェザ医師からもらったパウチから、一つを掴んで仕事へ向かった。それを今日の昼食にしていたのだ。
「参考に、教えてもらっていいか。何味なのか」
笑いを含んだままで、ジェイ・ゼルが拳を口に押し当て、目を細めて問いかける。
ハルシャは、ますます、顔を赤くした。
少しためらってから、諦めたように銘柄を口にする。
「『惑星ファングーラの泡立つ海風味』だ」
一瞬の沈黙の後、ジェイ・ゼルが、大声で笑い始めた。
可笑しくて仕方がないというように、彼は身を折って声を上げている。
ハルシャは面食らった。
ジェイ・ゼルが手放しで笑っているところなど、初めて見た。
せいぜいが、口元で笑いを転がすぐらいだ。
あまりに盛大に笑われるので、ハルシャはやや気分を害した。
「悪いのか」
突っかかるような物言いに、ジェイ・ゼルが息を引きつらせながら、笑顔を向ける。
「よりによって、どうしてそんな味を選んだんだ、ハルシャ」
ジェイ・ゼルが片目をつぶる。
「その味が好みだったのか?」
打ち解けた、優しい言葉だった。
不意にドクンと心臓が鳴った。
「貰いものだ――俺は別に、味にこだわりがないから……」
腹が満たされたらそれでいい。味のことなど、二の次だと、割り切っていた。
でも。
ハルシャは、まだ笑うジェイ・ゼルへ、視線を向ける。
「そんなに、不味い味か?」
五年間、望まぬ口淫を強いられ、精を飲まされてきたハルシャは、少々不快で不味いものでも飲み込む術を身に着けていた。舌に載せずに喉に押し込む。実生活でも、意外と役に立つ技術だった。
そのため、パウチの味も、気にならなかった。
だが、ジェイ・ゼルに嫌な思いをさせたのなら申し訳ないと一瞬、考えてしまった。配慮が足りなかったかもしれない。
ハルシャの表情に、ふと、ジェイ・ゼルは笑いをひっこめた。
「いや」
目を細めて、ジェイ・ゼルが優しく呟く。
「思いがけない味だっただけだ」
再び、彼は微笑んだ。
「『惑星ファングーラの泡立つ海風味』か……」
ジェイ・ゼルの指が、ハルシャの顎を捉えた。
「君は本当に、面白い子だ、ハルシャ」
微笑んだまま、ジェイ・ゼルが再び口を覆った。
舌が差し入れられ、ハルシャの中を味わうように、優しく動く。
口を開いて、彼を受け入れながら、ハルシャは無意識にジェイ・ゼルの首に腕を回していた。
顎から手が離れ、背中と頭の後ろに、大きなジェイ・ゼルの手が支えるように動く。
舌が触れ合う度に、甘やかな痺れが身の内に走る。
ハルシャは懸命に、声が出そうなのを飲み込んだ。
ここは飛行車の中で、側にネルソンがいることを、意識の中に呼び起こす。
じっくりとハルシャを味わってから、ジェイ・ゼルが口を離した。ちゅっと、尖らせた唇でハルシャに触れてから、
「『惑星ファングーラの泡立つ海風味』――悪くないかもしれないな。ハルシャ」
とひどく近い場所で、呟く。
「君のお陰で、認識を新たにしたよ」
「パウチの購入はよした方がいい、ジェイ・ゼル」
ハルシャは慌てて言った。
「心臓が止まる人もいるそうだ」
メリーウェザ医師の受け売りだが、思いとどまらせようと、口にする。
再び、弾けるようにジェイ・ゼルが笑う。
「君は本当に、可愛いな。ハルシャ」
髪に置いた手が、静かに頭を撫でる。
「君の忠告を、素直に聞いておくよ。どんなに安売りをしていても、『惑星ファングーラの泡立つ海風味』のパウチだけは、購入を見送ることにしよう」
いつものように、『エリュシオン』へ向かうと思っていたハルシャは、ふと、方角が違うことに気が付いた。
工場から見て、『エリュシオン』は東の方向にある。だが、今、ネルソンは北に向かう通路を取っていた。
窓の外を見ていることに気付いたのだろう、ジェイ・ゼルがハルシャの髪を撫で
「今日は、少し遠出をしようと思ってね」
と、頬を寄せながら呟いた。
「私の我儘に、少し付き合ってくれないか、ハルシャ」
遠出?
遠出というのが、何を指すのか、ハルシャには解らなかった。
「どこへ……行くんだ?」
問いかけるハルシャに、笑いの息が髪に触れる。
「見てのお楽しみだ」
どうやら、ジェイ・ゼルは、今のところ、ハルシャに詳細を話す気はなさそうだった。
何かの心づもりがあって、いつもなら夕刻呼び出すのが、昼に時間を変更したのだろうと、ハルシャは推測する。
彼の望む行為には逆らわないというのが、契約の内容だった。
ハルシャに拒む術はなかった。
まだ教えたくないなら仕方がない。ハルシャは、それ以上の質問を控えて、黙って座席に座っていた。
ジェイ・ゼルは、ハルシャを自分に引き寄せ、肩にハルシャの頭を乗せさせている。髪に手を触れて、静かに頬を当てる。
親密な、動作だった。
自分の心臓の音が聞こえる。
昨夜――ハルシャは、内側の熱を抱えたまま、ほとんど眠ることができなかった。
身が反応するのが、あさましく思えた。
どうしても昂ぶりを抑えきれず、強いられてきた自慰行為以来、はじめて自宅で自分の手で達した。手洗いに籠り、きつく歯を食い縛り声がもれないようにしながら。
サーシャとリュウジが安らかに眠る同じ空間の中で――
身が、醜く穢れ果てているような気がした。
自分の変化が、厭わしく、恐ろしかった。
ジェイ・ゼルによって灯された身体の芯の火が、彼を求めていた。
今も、ジェイ・ゼルに身を寄せるハルシャの中に、熱が生まれる。
ハルシャは、目を細めた。
この先どこへ流されていくのか――自分の変化が、恐かった。
窓の外の風景が変わった。
ハルシャは、飛行車がサジタウル・ゲートに向かっていることに気付き、はっと、身を伸ばした。
前方に、外界に突き出すようにして、設置されている、サジタウル・ゲートの威容が見え出す。
ジェイ・ゼルが静かに言った。
「そうだ、ハルシャ。今日は、外界《ヴォード》へ出よう――」
驚きに目を見開いて、ハルシャは、ジェイ・ゼルへ顔を向けた。
外界――
ドームで手厚く守られた、惑星トルディアの都市を出た場所を、人々は『外界《ヴォード》』と呼んでいた。
人類が建設したドームの中は、巨大な浄化装置が常に働いており、生存に適した空気を適切に保ってくれている。
だが、外界は違う。
そこは、かつて人類を拒んでいた時と同じ状態で、少しでも外気を吸えば、肺が溶解する、荒々しい自然が待っている。
死の世界、とも言うべき、場所だ。
『外界』に出るためには、浄化装置を搭載した車両に乗り換える必要がある。
また、浄化した空気を外界に逃さないために、いくつも仕切りのある場所を通過して、人々は外界に出なくてはならない。
その外界とドームを繋ぐ場所が、「ゲート」と呼ばれ、都心ラグレンでは、二つあった。その一つが、サジタウル・ゲートだった。
惑星トルディアにとって、『外界』は、観光資源にあふれた場所でもあった。巨大な紫の木々が生い茂る森や、惑星トルディア特有の動物が、外界にはある。観光客を乗せた華やかなバスが、今もサジタウル・ゲートから飛び立つ様が、ドーム越しに見えた。
『外界』へ、行く――
ハルシャは、胸の高まりが抑えられなかった。
五年ぶりだ。
かつては、浄化装置付きの観光車をチャーターして、よく家族総出で外界へとピクニックに出かけた。それが、ヴィンドース家の日常だった。
食べきれないほどの料理を車につみ、朝から晩まで、楽しいひと時を過ごす。
思い出に、ハルシャは、目を細めた。
一日居ても、飽きることなどなかった。それほどまでに、惑星トルディアの自然は、魅惑的だった。
かつてヴィンドース家の祖、ファルアス・ヴィンドースがこよなく愛でた惑星トルディアの大地を、ハルシャもまた、愛していた。
ジェイ・ゼルの腕を逃れ、胸をときめかせながら、ハルシャは窓の外を見つめる。巨大なサジタウル・ゲートが前に迫る。
両手を窓ガラスに当てて、額を押し付けるようにして、外へ目を向ける。
くすくすと、ジェイ・ゼルの柔らかな笑い声が聞こえた。
「子どものようだな」
揶揄《やゆ》ではない口調で、彼は呟く。ハルシャは、顔を赤らめながら、振り向いた。
優しい灰色の眼が、自分を見つめている。
「それほど、嬉しいか?」
ふと、気付く。
外界にハルシャを連れ出すメリットは、ジェイ・ゼルには何もない。
これは、借金の返済とは、無関係の行動だ。
何一つ益にならない行動を、ジェイ・ゼルはハルシャのために、為そうとしている。
束の間、ジェイ・ゼルの瞳を見つめてから、ハルシャは口を開いた。
かつてなら、自分は違う言葉を吐いていただろう。彼の思惑を、踏みにじるように。少しも、嬉しくないと。仕事をさせてくれ、納期に間に合わせたい、と。
けれど。
今は、素直に思いが口からこぼれる。
「外界へ出るのは、五年ぶりだ。とても嬉しい。ジェイ・ゼル」
一瞬、ジェイ・ゼルの表情が消えた。
無言で、ハルシャを見つめる。
無表情な彼の中に、嵐のような何かが、渦巻いているような気がした。その感情を、ハルシャに示すことなく、彼は、瞬きをひとつすると、喜びを秘めて、静かに微笑んだ。
「そうか」
言葉が途切れ、ふっと、彼も顔を動かし、窓の外へ視線を向ける。
ハルシャも、外の風景に戻った。
サジタウル・ゲートが、もう、目の前に迫っていた。