「エンガナウ宙域に伝わるお話です。
昔むかし、その宙域では、よく頻繁に通りかかった宇宙船が姿を消していました。消えた宇宙船はどこに行ったのか誰も知らず、二度と姿を現わすこともありませんでした。
実は、その宙域には暗黒の砦と呼ばれる場所があり、恐ろしい悪魔が、たった一人で住んでいたのです」
サーシャが、ハルシャの方へ顔を向けて
「ね、ワクワクするでしょう、お兄ちゃん」
と小さな声で囁いてから、すぐに顔をリュウジに向けた。
ハルシャは、語るリュウジの姿を見つめる。
物語は覚えているのに、彼は自分の素性を、思い出すことは出来ないのだ。
「その悪魔は、とても狡猾で無慈悲で、おまけに冷酷でした。
暗黒の砦は、暗いために皆には見えません。その中に悪魔は一人潜んで、近くを通りかかる宇宙船を捕えては、中の者たちをいたぶって殺してしまうのを、楽しみにしていました。
宇宙船が頻繁に姿を消すのは、この悪魔が捕縛していたためだったのです」
リュウジの話が恐かったのだろう。
びくっとサーシャが身を震わせて、じわじわとハルシャの方へ近づいてくる。
背中をぴたっとハルシャに預けて、それでも顔はリュウジに向けながら懸命に耳を澄ましている。
背中が温もりに守られていると、安心するのだろう。
ふと。
今朝、ジェイ・ゼルが自分の背中を温もりで包んでくれていたことが、記憶の中に蘇る。柔らかい眼差しと、繋がれていた手の確かさと――
何の前触れもなく、ハルシャの頬が熱くなった。
どうしたと言うんだ。
自分で戸惑う変化は、薄闇の中では皆に見えないと、心を落ち着かせる。
なぜ、こんな気持ちになるんだ。ジェイ・ゼルのことを、家の中に持ち込みたくないと、ずっと思っていたのに、なんということだ。
「殺すなんて、ひどいね」
小さくサーシャが呟く。
リュウジが語りを中断させて、サーシャに答える。
「悪魔ですから。命を奪うのが、楽しいのです」
「そうなの?」
「はい」
言い切られて、サーシャは納得したようだ。
「悪魔は恐いね」
「そうですね」
そこで会話は終わったようだ。再びリュウジが話を始めた。
「悪魔は世界を呪っており、誰に対しても、慈しみなど持っていませんでした。ひたすら闇の中に息をひそめて、愚かな犠牲者が手元に転がり込んでくるのを、待っていたのです。
そんなある日のこと、暗黒の砦に、一人の天使が落ちてきました。
天使は誤って悪魔のいる暗黒の砦に、迷い込んでしまったのです」
ぎゅっと、サーシャはぬいぐるみ生物を身に抱きしめた。
「転がり込んだ天使は、格好の悪魔の獲物でした。
これまで人間を殺すことを楽しみにしてきた悪魔は、今度は天使を殺そうとしました――しかし、いくら痛めつけても」
リュウジは言葉を切ると、サーシャをじっと見つめた。
「天使は、死ななかったのです」
「ええっ」
小さく、サーシャが驚きの声を上げる。
「どうして?」
「天使だからです」
にこっと笑って、リュウジが端的に説明する。
「神々の加護があるので、天使は死なないのです」
ハルシャは、大胆な説明に、まばたきをした。
だが、サーシャはそれで納得したようだ。
「天使って、すごいね」
と、呟いている。
リュウジの話の方がすごいと、ハルシャは黙したまま思った。筋の跳躍が、半端ではない。
サーシャが納得したことを受けて、話が再開された。
「どんなに傷つけても、天使は死なず、傷も数日すると、自然に治ってきます。
悪魔は、喜びました。
なぜなら、とても残酷な性質を持っていたので、天使を痛めつけて苦しむさまを、ずっと見ていられるのが、楽しくて仕方がなかったのです。
天使が逃げないように、悪魔は重い鎖で手足を縛り付けました。
そしておもむろに、天使をその爪で裂いたのです。
天使は何度も死にそうな目に遭いました。そして数日放置され、また、悪魔によって、痛めつけられるのです。けれど天使の傷は、いつの間にか癒えてしまいます。
悪魔の爪を受けるたびに、天使は祈っていました。
自分から逃れたくて天使は祈っていると、悪魔は思っていました。
それが、腹立たしくて仕方がなく、悪魔は捕えた天使を幾度も、幾度もいためつけました。
天使のことに夢中になっていたために、近くを宇宙船が通っても、悪魔は気付きませんでした。いつもなら素早く捕えて命を奪っていたのですが、天使を手に入れてから、悪魔は宇宙船に興味を失いました。
もっと楽しいものを、得ることが出来たのです。
次はどうやって、天使に傷を負わそう。
そればかりを、悪魔は考えていました。
そうして、思いつく限りの方法で、悪魔は天使を痛めつけました。
ですが――どんなに傷つけられても、天使は死ななかったのです」
サーシャは、真剣な表情で、リュウジの話に耳を傾けていた。
彼女を見守りながら、彼は静かに言った。
「そして、天使はいつも、祈りを捧げていました」
しんと、静寂が満ちる中、リュウジの声だけが響く。
「悪魔は天使を傷つけることに、次第に飽きてきました。考えうるどんな残酷な仕打ちにも、天使が耐えてきたからです。
ある日のこと、初めて悪魔は、天使に声をかけました。
『いつも、何を祈っているのだ』と。
天使は答えませんでした。
腹が立った悪魔は、また天使を傷つけました。それでも、天使は口を開きません。反抗していると、悪魔は思いました。汚らわしい自分と言葉を交わすことすら、忌んでいるのだろうと。
それもそうです。
天使は神々に愛された存在です。それに対して、悪魔は神々に呪われた存在なのですから。己が醜い存在であることを、悪魔は誰よりもよく知っていました。
天使は自分を憎み、嫌っている、
だから、話さないと思った悪魔は、声高に言ったのです。
『どうせ、悪魔の手から助けて下さいと、祈っているのだろう。
だが、お前が祈る神々は、お前を助けはしない。決して。
私を助けないように、な』
思い知らせるように、悪魔は再び天使の身に傷を負わせました。今度こそ、死んでしまうかもしれないと思うほどの、ひどい傷です。
天使の身からとめどなく流れ出る血に、さすがに悪魔もひるみました。
自分の周囲に血をまき散らし、天使は動かなくなりました。
『死んだのか?』
動かない天使に、悪魔は問いかけました。
近づき触れた体は、いまだかつてないほどの、冷たさでした」
びくっと、サーシャが身を震わせた。
ハルシャに必死に身を寄せる。
サーシャの身に腕を回し、ハルシャは温もりを与えた。ぎゅっと、サーシャがハルシャの腕をつかむ。ぬいぐるみ生物のふかふかした手触りと、兄の腕にすがりながら、サーシャはリュウジの語る物語に、懸命に向き合っている。
それほど恐いなら聞かなければいいのに、と、怯える妹の様子に微笑みながら、ハルシャもいつしか、リュウジの話に引き込まれていた。
「天使が、死んだ。
それは、悪魔が望んだことのはずでした。死なない天使に苛立ち、悪魔はずっと天使を痛め続けて来たのですから。
ですが――驚いたことに、動かない天使を前に、悪魔はうろたえたのです」
リュウジは言葉を途切れさせた。
あれほど死を望んだ天使が、息をしていないと気づいたとき、悪魔はうろたえた。その一言が、ふと、ハルシャの胸を打った。
憎しみ続け、厭い続けたものの、別の側面を見た時――心が揺らぐことが、理解できたからだった。
短い静寂の後、リュウジは言葉を続けた。
「悪魔は、天使が死ぬのを、喜ぶべきはずです。
なぜなら――ずっと、天使を殺したかったのですから。
なのに、実際に動かない天使を目にした悪魔は、どうしようもなく、困惑しました。
やりすぎてしまった。これほど傷つけるつもりはなかった。
苦い後悔とともに、繋いでいた鎖を解き、悪魔は冷たい天使の体を慌てて抱き上げて、自分の寝床に運びました。
血まみれの身体をきれいにし、傷口をふさごうとしました。
ですが、中々、血がとまりません。
深紅の血が流れ続け、どんどん、天使の身体が冷たくなっていきます。
悪魔は天使の身体を抱きしめて、自分の温もりを与えようとしました。
何とか、冷くなることを食い止めようとしたのです。
もしかしたら、祈ったのかもしれません。
あれほど死を願ったはずの天使の命が消えることが――悪魔は嫌だったのです」
ぎゅっと、ハルシャの腕を、サーシャが握り締める。
リュウジは静かに残酷な物語を、語り続けた。
「三日三晩、悪魔は天使を腕に抱いていました。天使の身体は、冷たいままでした。なおも諦めずに、悪魔は天使を腕に包みました。
そして三日目に、ほのかな温もりが、天使の中に宿ったのです。もう、血も止まっていました。
さらに三日、悪魔はただ、天使を腕に抱き続けました。
七日目の朝、やっと天使は目を開いたのです」
リュウジの瞳が闇の中に光っていた。
「不思議なことに――悪魔はそれが、嬉しかったのです。きれいな天使の瞳をもう一度見ることが出来たことが――」
宇宙を宿した瞳をサーシャに向けて、リュウジが語り続ける。
サーシャは引き込まれて夢中で耳をそばだてている。
「自分を抱きしめる悪魔を見て、天使が初めて口を開きました。
『どうして、私を助けたのですか』と。
悪魔は答えることが出来ませんでした。
殺すことを望んでいたはずなのに――自分で理由が解りませんでした。
『また、私を痛めつけるためですか?』と、天使は尋ねました。
そう言われた時、悪魔はひるみました。
もう、天使を傷つけることが出来ないように、思えたからです。
解らないという意味を込めて、悪魔は首を振りました。
天使は、静かに言いました。
『私は生き延びました、どうぞ、また私を傷つけて下さい』
天使の言葉に、悪魔は目を開きました。
悪魔の腕にまだ抱きしめられたまま、天使は悪魔に言ったのです。
『あなたが私を傷つけている限り、あなたの犠牲になる人はいないでしょう』
そして、天使は静かに微笑みました。
『これが、あなたの知りたかったことです。私はずっと、そう祈っていました。
私を傷つける代わりに、どうか、宇宙船の人々が、犠牲にならないように、と。
私はそのために、この暗黒の砦に来たのです。
神は、私の祈りを、聞き届けて下さいました。あなたは私を傷つけるのに夢中になり、宇宙船の人々の命を奪わなくなりました。
それが、私の願いです――どうか、私を傷つけて下さい。
その代わりに、誰の命も、奪わないでください。私は永遠の命で、あなたの憎しみを受け止めます』と」
サーシャの身が震えている。
ぎゅっとハルシャは彼女を抱きしめた。
「悪魔が暗黒の砦に一人籠るようになった理由を、天使は知っていたのです。
昔、悪魔は大変力が強く、背中にある強い翼で、宇宙を縦横に駆け巡り、人々の命を奪っていました。
それを罰するために、天使の軍団が、悪魔の背中から翼をむしり取ったのです。そのために、悪魔はどこにも行くことが出来ずに、暗黒の砦に一人籠り、近づいた宇宙船を捕えては、命を奪っていました。
天使は、悪魔が翼を失った苦しみを、憎しみに変えて人々を殺そうとしていることを、よく知っていました。
天使は――その憎しみを、一人で身に受けようとしていたのです。
天使の言葉に、悪魔は再び憤りを覚えました。
とても傲慢に思えたのです。
『お前に、翼を失った私の気持ちが解るのか』――と、天使を寝台の上に放りながら、悪魔は叫びました。
『そんなに傷つけられたいのなら、その翼を奪ってやる』
そう言って、悪魔は、天使の羽根を、背中からむしり取りました。
天使は黙って耐えていました。
はっと気づいたときには、悪魔の手の中に、引き剥がされた天使の羽根があったのです。
自分のしたことに茫然とする悪魔に、天使が痛みをこらえながら言いました。
『その羽根を、背中につけて下さい。そうすれば、あなたは再び飛ぶことが出来ます』
激痛の中で、それでも天使は微笑んで、悪魔に言いました。
『あなたは、もう一度、翼で空が飛びたかったのですね』と」
短い沈黙の後、リュウジは再び物語を続けた。
「不意に、悪魔の目に涙があふれました。
誰にも言えなかった苦しみを、天使が解ってくれたからです。
宇宙船を襲ったのは、自由に飛ぶことが出来る彼らが、憎かったからです。
身を拘束し天使を殺そうとしたのも、神々に愛され翼がある存在が、許せなかったからです。
その淋しさに、ただ、彼が苦しみを与え続けていた天使だけが、気付いてくれたのです。
大空を飛ぶ大切な翼すら、天使は与えようとしてくれていました。
命を奪い続け、神々に罰を課せられた自分の側に――ただ、この天使だけが居てくれたことを、悪魔は悟りました。
逃げることは出来たのに、天使は逃げなかったのです。
悪魔の憎しみをひたすら、身に受けながら、天使は悪魔が罪をこれ以上犯さないよう、自分のために、祈ってくれていました。
天使は悪魔である自分を、決して忌み嫌っていなかったということに、やっと悪魔は気付いたのです。
天使が暗黒の砦に来てくれてから、悪魔はあれほど感じていた孤独を、忘れていました。
悪魔自身も解らぬうちに、天使が側に居てくれることで、本当は幸せを感じていたのです。永劫の孤独が、天使の存在で、癒されていたと、やっと悪魔は知りました」
目を見開いて、サーシャが話を食い入るように聞いている。
孤独な悪魔の側に、天使は選んで留まっていた。身が傷つけられることすら、厭わずに。
衝撃をもって、サーシャは話を受け止めていた。
穏やかなリュウジの声が、木の香りの漂う部屋に、響く。
「悪魔は手にしていた翼を、天使の背中に戻しました。
それはまるで磁石のように天使の背にくっつき、元の状態に癒えていきました。
背中に翼のある天使を、悪魔はこの世で一番美しいと思いました。
『あなたの背に、その翼は相応しい』そう言って、悪魔は微笑みました。
天使にとって大切な翼すら与えようとしてくれた時、悪魔ははじめて、自分の心を知ったのです。
もう、悪魔は天使を痛めつけることが出来ませんでした。
どんなに痛めつけても、彼を罵ることなく、静かに見つめ返す天使を――いつの間にか、悪魔は――愛していたのです」
リュウジが目を細めて、大切そうに言葉を続ける。
「悪魔は、新たに気付いた事実を、天使に告げました。
『あなたを、愛しています』と。
その瞬間、悪魔の角と尾が取れ、身が霧のように薄れてきました。
悪魔は神々の呪いを受けた存在であり、冷酷で残虐な性質です。
愛は、彼らの根本を歪めます。
だから――愛を知った悪魔は、この世に存在できないのです」
びくっと、サーシャの身が震えた。
「それがわかりながら、悪魔は、天使を愛している自分を、受け入れ、消え去る運命を選びました。
今まで痛め続けた天使に、どうしても自分の気持ちを伝えずには、いられなかったのです。
天使の目の前で薄れていく悪魔は、幸せそうに微笑んでいました。
これまで生きてきた中で、一番美しい笑顔を浮かべて、悪魔は消えていったのです。
それ以来、暗黒の砦として恐れられた宙域は、悪魔が消え去ったために、安全な航路となりました」
にこっと、リュウジは笑って、
「エンガナウ宙域に伝わる、昔話です。昔、その宙域で姿を消す宇宙船が続出したために、悪魔が居座る暗黒の砦がある、と言い伝えられてきました。
いつの間にか安全な航路となったために、こんな物語が出来たようです。
昔の人々の想像力は、素晴らしいですね」
と、残酷で美しい物語を、締めくくった。
サーシャはしばらく無言だった。
リュウジが微笑む。
「面白かったですか?」
こくんと、サーシャがうなずいた。
「でも」
「でも?」
問いかけるリュウジに、少しためらってから、サーシャが口を開いた。
「一人残った天使さんは、どうしたの?」
リュウジは目をぱちくりとさせた。
ゆっくりと、彼は微笑んだ。
「泣いたかもしれませんね。消えてしまった悪魔のために――」
ぐっと、サーシャは息を飲んだ。
「悪魔さんは、幸せだったの? 最後に笑っていたって――」
懸命に問いかけるサーシャに、リュウジは静かにうなずいた。
「幸せだったと思いますよ。世界を憎しみ続けていた悪魔は、愛を知ったのです。
消えてしまっても悔いがないほど、悪魔は幸福だったと、僕は思います」
「でも――」
まだ問いかけようとするサーシャに、リュウジが優しく声を上げて笑った。
「寝物語には少し重い内容だったでしょうか。では、次は、モラン・ガランの歌う石のお話をしましょうか」
さっと、サーシャの興味がそちらへ移った。
「うん。お話をして、リュウジ」
「いいですよ。昔むかし、惑星カランディアの辺境に、不思議な石があったのです。それは……」
散々リュウジに話をさせた後、サーシャはこてんと寝入り、今は穏やかな寝息を立てている。
「すまなかったな、リュウジ」
小さな声で、ハルシャは詫びる。
「随分、話をさせてしまった」
「いえいえ。サーシャが喜んでくれれば、それで良いです」
枕に頭を預けながら、リュウジが微笑む。
「彼女には、文学的な才能があるようなので、ぜひたくさんの物語に触れて欲しいと思って、話しているのです。僕の勝手でしていることなので、気にしないでください、ハルシャ」
たった数日で、リュウジはサーシャの才能を見切っていた。
訪れた静寂の中、ハルシャは、眠るサーシャの髪を撫でる。
腕にぬいぐるみ生物を抱いたまま、穏やかに眠っている。
廃材屋からこれを差し出された時のサーシャの顔を、ハルシャは思い出す。
嬉しくて、信じられなくて、彼女は茫然としたまま、ぬいぐるみ生物に手を延ばしていた。
今、サーシャの腕にぬいぐるみ生物があるのは、リュウジの尽力の賜物だった。
「ありがとう、ぬいぐるみ生物のことに、気付いてくれて」
ぽつりと呟いたハルシャに、リュウジが首を振った。
「ハルシャの表情から、わかっただけです」
ふと、胸を突かれる。
痛みに目を細めながら、ハルシャは言葉を漏らした。
「サーシャには、随分我慢をさせている」
髪を撫でる。
途切れた言葉の後、リュウジがぽつんと呟いた。
「全て手に入ることが、幸せとは限りません」
視線を向けた彼は、枕に頭を預け、上を向いていた。
「サーシャは、人として大切なことを、きちんと解っています。それは、兄であるあなたが、日々の暮らしの中で、導いてあげているからです」
リュウジが目を閉じた。
「物が周囲にあふれていても、心が貧しい人は、たくさんいます。ハルシャたちは、互いを思いやる強い絆で結ばれています。それは、とても豊かで素晴らしいことです――僕は、あなたたちに出会えて、とても幸運だと思っています」
呟いた後、もう、彼は何も言わなかった。
静寂の中、穏やかな寝息が響き出す。
サーシャと、リュウジの立てる音だった。
ハルシャも、身を横たえると、目を閉じた。
自分の心臓の音が聞こえる。
明日――昼から、ジェイ・ゼルが迎えに来る。
いつもなら、厭わしいはずのことが、どうしてこんなに心臓を波立たせるのだろう。
薄闇の中で初めて見た、ジェイ・ゼルの緑の瞳の色が、蘇る。
もう一度見たい、と――
思ってしまうのは、なぜなのだろう。彼の瞳が緑に染まるさまを、見つめていたいと。互いの呼吸の音だけを聞きながら、彼の温もりに包まれたいと。
どうして……。
ずんと、身の奥に深い衝撃のようなものが、走る。
ハルシャは、顔を赤らめながら、湧き上がるものに、眉を寄せた。
欲情――しているのか、今。
自分は。
あさましく、彼を求めているのか。
与えられた甘美な感覚が、身の内をざわめかせる。
歯を食い縛って衝動に耐えながら、ハルシャはきつく目を閉じ、懸命に眠りへと、自分を追い込んでいった。
眠りの中で、自分の熱が冷めることを、願いながら。