ほしのくさり

第35話  ラグレンの夜明け-02




 身支度を整え、部屋を後にしようとしたハルシャの後ろから、
「私も一緒に出よう」
 と、声がかかる。
 ハルシャは、振り向いた。
 衣服を整えたジェイ・ゼルが、ハルシャを見つめて佇んでいる。
 ふと、最初に出会った時のことが、脳裏をよぎる。
 不意にヴィンドース家に訪れた長身の彼は、黒一色の服をまとっていた。
 冷たい眼差しと、凶報をもたらした彼は、ハルシャにとって、地獄の使いのように思えた。
 いや。
 昨日までは、そう思っていた。自分たちに不幸をもたらした元凶だと。
 その手がこれほど優しく、その口がこれほど大切そうに自分の名を呟くなど、ハルシャは知らなかった。
 今も彼は、黒一色の服を一分の隙も無いほど着こなし、袖口を留めている。
 短時間で整えた髪は、まだ、濡れていた。
 きわめて高価な風呂を、ここでもジェイ・ゼルは、ハルシャに使わせてくれた。
 自分も同じ温水の中に佇み、身を洗う手で、ハルシャを味わう。
 もうその頃には、彼の瞳はいつもの灰色に、戻っていた。

「どうした」
 視線を上げて、ジェイ・ゼルが微笑む。
「一緒に部屋を出るのが、そんなに不思議か?」
 笑いを含んだ問いに、ハルシャは微かに頬を赤らめ、首を振った。
 意外だった。
 いつも、ハルシャが先に帰り、ジェイ・ゼルは後から飛行車で去っていく。
 この前だけ残されただけで、その習慣は、五年間続いてきたものだった。
 裸体の彼も威風堂々としているが、服をまとうと、ジェイ・ゼルの威容がますます際立つ。
 良く鍛え上げられた体に、さらりと取り巻く服が、彼の身の大きさを余計に強調している。
 彼の側に居ると、自分がほんの子どものように思えてくるから、不思議だ。
 サーシャの前では、成人した大人として、振る舞えるというのに。

 袖を留め終えると、ジェイ・ゼルが動いた。
 大股にハルシャの側に近づき、背中に手を当てる。
「行こうか」
 ハルシャは、動きながら、彼を見上げた。
 ジェイ・ゼルは無言で歩き、鍵を激情にかられ、落として放置した床から拾い上げると、小さく笑みをハルシャに向けた。
「これが落ちたことににも、気付いていなかった。あの時は、必死だったからな」
 内側の感情を、ハルシャにさらして、彼は笑う。
 ハルシャも、なんとなく、口角を上げて、笑みを返した。
 こんな風に、屈託なく話す日が来るなど、昨日までは思いもしなかった。
 微笑むハルシャの唇に、つっと、ジェイ・ゼルの指が触れた。
 驚く視線を受けて、静かに笑みを深めると、ジェイ・ゼルが手を引いた。
「あんまり私を煽ってくれるな。また、襲いたくなる」
 笑ったことが、いけなかったのだろうか。
 笑みを消したハルシャの髪を、ジェイ・ゼルが優しく撫でた。
「ハルシャは、可愛いな。素直に反応してくれる――。せっかく笑ってくれたのに、すまなかった。気にしないでくれ」
 ジェイ・ゼルの言うことは、時々、矛盾をはらむ。
 それが、ハルシャを翻弄してくる。

「行こうか」
 呟きと共に、扉を解放し、ジェイ・ゼルは廊下へとハルシャを伴って出た。
 並んで歩きながら、手が肩に乗り、彼へと引き寄せられる。
 まだ夜明けからそう時間が経っていないため、客は誰も廊下に出ていない。
 ハルシャは、ジェイ・ゼルの温もりに包まれながら、黙って彼の側に佇んでいた。
 チューブがやって来た。
 乗り込み、飛行車の駐車場がある、総合受付の番号をジェイ・ゼルが押した。
「君のボードも、フロントに預かってもらっている」
 ハルシャは、ジェイ・ゼルへ視線を向けた。
「一度、そこで降りよう」
 いつも、ハルシャは最下階へ降りて、そこから、ボードで自宅へ向かっていた。
「わかった」
 ハルシャの言葉に、ぐっと、肩を抱くジェイ・ゼルの力が強くなる。
 彼は真っ直ぐに、チューブの少なくなる番号を見ていた。
 ちりんと可愛い音をさせて、フロントのある階についた。
 ジェイ・ゼルは、ハルシャの肩の手を外さなかった。
 彼は、恥ずかしくないのだろうか、と、いつもハルシャは思っていた。
 自分の相手であることを示すように、いつも彼は人前でも堂々と、ハルシャの肩に手を置いて歩く。
 彼の所有物になっているようで、ハルシャは肩を引き寄せられる親密な行為が、あまり好きではなかった。
 節度ある距離を取りなさいという、両親の教えがやはりこの身に沁みついているのだろう。

 ジェイ・ゼルがハルシャの手を離し、一人でフロントへ向かっていく。
 ハルシャは、その場で彼を待った。
 フロントに係が出て来て、ジェイ・ゼルと話をしている。
 彼はサラサラと、差し出されたタブレットにサインをし、袋に収められた荷物を受け取っていた。
 ハルシャのボードもある。
 荷物を手に、ジェイ・ゼルがハルシャの元へ、踵を返して戻って来た。
「君のだ」
 差し出されたボードを、ハルシャは、大切に受け取った。
 これが無いと、行動の自由が利かなくなる。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
 笑顔で言ってから、ハルシャは、チューブへ目を向けた。
 帰りが夜明けになるとは、思っても見なかった。サーシャと、リュウジが家で待っていただろう。
 早く、戻らなくてはならない。
 どんな別れの言葉を、ジェイ・ゼルにかけたらいいのか、一瞬、ハルシャは迷った。
 こんな風に別れることなど、初めてだった。
 迷った末に、選んだ挨拶は
「窓の大きな部屋で、眺めがきれいだった。用意してくれて、ありがとう」
 という、部屋に関する感謝だった。
 それじゃあ、と、別れようとしたハルシャの腕が掴まれていた。
「家まで、送ろう」
 ジェイ・ゼルの言葉が、耳を打つ。
「随分遅くなった。家まで送らせてくれ」
 
 ハルシャは、驚きに目を瞠った。
 飛行車でオキュラ地区に降りるのは、とても難しい。建物が入り組んでいるからだ。飛行車用の空間も整備されていない。
 だが、一度だけ、彼はオキュラ地域に飛行車を降ろした。ハルシャ達の部屋に案内する時、彼は難しい着地を、ネルソンに指示していた。
 ボードの方が早い、と。
 ハルシャは言わなかった。
「いいのか?」
 問いかけるハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルが小さく笑った。
「ああ」
 ハルシャの承諾を読み取ってか、きつく握り締められていた指が緩んで、ハルシャを解放した。
「ネルソンが、すぐに飛行車を回してくる。出たところで待とう」


 乗り込んだ飛行車の中で、ハルシャはジェイ・ゼルの腕に再び、包まれていた。
 ハルシャの腕を引くようにして、自分の側に座らせる。
 しばらくしてから
「食事が、まだだったな」
 と、ジェイ・ゼルが小さく呟いた。
 ハルシャは首を振った。
「サーシャが、朝食を用意してくれている。必要ない」
 ジェイ・ゼルの危惧を解くように、ハルシャは応える。
「そうか」

 短い呟きの後、長い沈黙が続いた。
 ネルソンは、卓越した技術で飛行車を操り、建物の群れを抜けながら、ハルシャたちの住まいの近くに、ふわっと飛行車を停めた。
「ありがとう、ネルソン」
 ハルシャは、彼に感謝を告げると、ジェイ・ゼルへ顔を向けた。
「わざわざ送ってくれて、ありがとう。ジェイ・ゼル」
 ボードを手に、降りようとしたハルシャの肩に、ジェイ・ゼルの手が乗った。
 ふっと隙を突かれるように、彼の方へ向かされていた。
 手が、ハルシャの顎を捉え、静かに唇が触れ合う。
 優しく甘やかな口づけだった。
 舌でハルシャの中をくすぐってから、彼は口を離した。
 灰色の瞳が、ハルシャを見つめる。
「今度会う時まで――」
 言いかけた言葉を、ジェイ・ゼルが飲んだ。
 わずかに、彼はためらった。
 短い沈黙の後、
「怪我をするなよ、ハルシャ」
 と、本当に言いたかった言葉を、別の文言にすり替えて、ジェイ・ゼルが呟く。
 さっきは一体、何を、言おうとしたのだろう。
 ハルシャは、一瞬、考えた。
 じっと見つめていたのだろう、ジェイ・ゼルが微笑む。
「早く降りないと、このまま連れて行くぞ、ハルシャ」
 それは困るだろう、と、片眉を上げて、ジェイ・ゼルが言う。
 引き留めたのは、自分だろうが、とハルシャは言いたかったが、代わりに
「わかった」
 と、呟き、飛行車の扉を開けて、少し高さのある距離を、軽い動きで、飛び降りた。
 地面に足がつく。
 そのまま、ハルシャは飛行車が飛び上がる時に、風を受けない距離まで歩いて、振り向いた。
 すでに、ネルソンの操る飛行車はふわりと浮き上がっている。
 中にジェイ・ゼルが居るのが見える。
 ハルシャは、ボードをきつく握りしめたまま、彼を見送った。
 飛行車は高度を上げ、緩やかに方向転換すると、滑るように、空間を去っていった。
 ハルシャは、小さくなる姿を見つめる。
 ふっと、息を吐く。
 たとえ、行為で心を通わせたとしても、借金を払い続けなくてはならない、現実は揺るがない。
 ハルシャは、一瞬、どちらが幸せだったのかと、考える。
 無理やりに抱かれていると思っていた時か。
 それとも、彼を受け入れて、望んで抱かれている時か――
 
 いくら考えても、答えは出なかった。
 ハルシャは踵を返すと、サーシャとリュウジが待つ住まいへと、足を向けた。
 

 *


 サーシャとリュウジは、並んで敷かれた布団の上に、行儀よく眠っていた。
 さすがに兄と違うのか、サーシャはリュウジから距離を取っていた。
 夜明けからまだ間がない。
 もう少し眠らせておいてあげようと、ハルシャはそっと鍵を閉め、部屋の中に入り、靴を脱いだ。

「――ハルシャ?」
 物音に、敏感に反応したらしい。
 リュウジが身をもたげながら、問いかけてきた。
 しーっと手で示しながら、ハルシャは、忍び足で彼の側に行き、
「帰りが遅くなってすまなかった。サーシャを寝かしつけてくれてありがとう」
 と、リュウジに詫びと共に、感謝を述べる。
 彼は頭を振りながら、
「お仕事、大変ですね」
 と、にこっと笑いながら言う。
 つんと、胸の奥が痛んだ。
「ああ。すまなかった」
 すんと、リュウジが鼻をならした。
「あれ?」
 何かに気付いたように、小さな声がもれる。
「どうした?」
 ハルシャの問いかけに、リュウジは首を振った。
「いいえ、気のせいです。それより――設計図が出来ましたよ、ハルシャ」
 と、リュウジが、布団をめくりながら言う。
「外見はそっくりで、内容は全く違うものに、作り変えておきました」
「一日でか?」
「はい。ハルシャが貸してくれた電脳に、計算ソフトが入っていたので、たすかりました。ジャム・ロック型の宇宙船も飛ばせるほどの、強力な駆動機関部です」
 長距離輸送用の巨大宇宙船の型を例に引いて、リュウジが笑顔で言う。
 だが。
「ありがたいが、リュウジ」
 ハルシャは、眉を寄せる。
「依頼主の希望とは、異なる駆動機関部を作ることになる――そこが、俺は引っかかる」
 細かい修正は必要だが、基本的に渡された設計図通りに作るのが、これまで託されてきた仕事だった。
 大幅な改造では、ノルマが果たせていないと取られるかもしれない。
「僕の勘ですが――」
 リュウジが眉を寄せながら、ハルシャに呟く。
「何か、悪意のようなものを感じます。ハルシャに対する、隠匿された悪意を」
 言い方に、ハルシャは、思わずリュウジを見た。
「悪意?」
「はい」
 真摯な顔で、リュウジがうなずく。
「これは違法な駆動機関部だと解って、ハルシャに作らせようとしている――そんな気がするんです。記憶を失った僕の勘なので、どこまであてになるか、解りませんが」
 譲るように言ってから、彼は微笑んだ。
「一番は、ハルシャに違法な犯罪に手を染めて欲しくないだけです。胸を張って、宇宙を飛ぶ船を作って欲しい。そのための協力なら、惜しみません」
 不思議な言い方をする。
 自分が犯罪に巻き込まれないように、リュウジが心を砕いてくれている。
 ふと側に、味方がいてくれるような気がした。
 代価を求めずに、ハルシャのために、動いてくれる人。
 ふっと、息がつけるような気がした。
「わかった。納期までは時間がまだある。外側からまず作り始めて、中は最後になるべく人目を避けて作るようにしよう」
「それですが、ハルシャ」
 リュウジが小首をかしげながら言う。
「僕も、ハルシャの仕事場で、働くことは出来ませんか?」

 意外なことを、リュウジが言った。
「きつい職場だ。今のリュウジの体力では、もたない」
 最初の頃も、ハルシャは体力がついて行かずに、よく熱を出した。その時に、サーシャが必死にハルシャを運んだのが、メリーウェザ医師の医療院だった。その時から、彼女との付き合いが始まっている。
 リュウジは納得するように、うなずく。
「正規に雇用してもらえば、仕事はハードなものになるでしょう。ですが、例えば、給料は必要がないので、ハルシャのサポートに回らせて欲しいと、提案してはどうでしょうか?」
 ハルシャは、瞬きをした。
「この駆動機関部を設計したのは、僕です。ハルシャと一緒に組み上げれば、それだけ時間的に早く済みます。ただ、ハルシャのサポートだけのために、僕が職場で働くことは、可能でしょうか」
 意外な提案を、リュウジがしてきた。
「尋ねてみないと、何とも答えることは出来ないが――」
「訊いてみてください。僕が働けるかどうか。ぜひ、打診してみてください。
 悪い条件ではないはずです。僕はハルシャの手伝いがしたいだけなので、給料を頂く必要はありません――ドルディスタ・メリーウェザのところのお手伝いをしばらく休んでもいいです。どうか、前向きに話をしてきて下さい」

 ハルシャは、彼の強い語調に、思わず、
「わかった。工場長に話をしてみる」
 と、請け合ってしまった。
 にこっと、リュウジが笑う。
「はい。お願いします」
 天使のように、無邪気な笑顔だった。
 二人の会話が、うるさかったのだろう。
 サーシャが身じろぎし、ぱちっと目を開いた。
 そこに兄がいるのを認めると、がばっと飛び起きて、ハルシャの胴に腕を絡めた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
 ぎゅっと、ひたむきに自分を締める妹の腕に、手を当てて、ハルシャは微笑んだ。
「おはよう、サーシャ。昨夜はよく眠れたか?」
「うん」
 キラキラした目で、サーシャがハルシャを見上げる。
「リュウジがね、夜眠る前に、色んなお話をしてくれたの。『イルナ・ハサウの涙』って、呼ばれる、不思議な赤い宝石の生まれた物語とか、暗黒の砦のお話とか」
 サーシャの青い目が、嬉しそうに細められる。
「とっても楽しかったよ。いつの間にか、眠っていて、暗黒の砦のお話は途中までしか、聞けなかったの」
「今日は続きから、お話してあげますよ、サーシャ」
 にこにこ笑いながら、リュウジが請け合う。
「ありがとう、リュウジ!」
 手離しで喜びながら、笑顔を、サーシャが向ける。
「お兄ちゃんも、一緒に聞けると良いね」
「そうだな」
 ハルシャは、サーシャの金色の髪を撫でる。
「多分今日は、大丈夫だと思う」
 ジェイ・ゼルは、連日、ハルシャを呼び出すことはなかった。二日か三日の間隔が空くのが普通だ。
「なるべく早く帰ってくるよ」
「嬉しい」
 ぎゅっと、ハルシャの身を、サーシャが抱きしめる。
「昨日はね、リュウジが居てくれたから、寂しくなかったよ、お兄ちゃん」
 それでも兄の温もりを求めるように、サーシャが身を寄せる。
 ハルシャは髪を撫で続ける。
「そうか――良かったな」

 ハルシャは、微笑みを、リュウジに向けた。
「ありがとう。サーシャに寂しい思いをさせないでくれて」
 リュウジが小さく首を振る。
「サーシャの作ってくれた、ご飯がとても美味しくて、それだけで僕は、とても幸せですよ、ハルシャ」
 打ち解けた二人の様子に、ハルシャは、ほっとする。
「そうそう、お兄ちゃん。リュウジが、棚を作ろうって、言ってくれているの」
「棚?」

 後をリュウジが引き受けて、説明をハルシャに与えてくれる。
「サーシャと話し合っていたんです。この部屋は、あまりにも、収納スペースが少なくて、全て床に平置きをしています。棚が一つあれば、もっと空間が立体的に使えて、便利が良いと思います」
「設計図も、リュウジが書いてくれたの」
 ハルシャの胴から手を離し、サーシャが立ち上がって、部屋の片隅から、ハルシャの電脳を持って戻ってくる。
「中に、設計図を入れてくれたの」
「簡単なものですよ」
 言いながら、リュウジが立ちあげ、ハルシャに図を示す。
「この部屋は縦に長いので、布団を置いてあるスペース分だけ、余裕があります。そこに棚を置いて、布団は棚の上部に置くようにすれば、中が衣類や、サーシャの勉強道具をおくスペースになります。今、道具を置いてある床がつかえるようになり、布団を敷く余裕ができます――横に並べて、三枚敷くのも、可能になるかもしれません」
 床に物が置いてあるために、有効利用できないスペースを、活かす方法をリュウジは考えているらしい。
「メリーウェザ先生が、廃材屋が近くにあるから、そこで材料が安く手に入るかもしれないって、教えてくれたの」
 ワクワクしたように、サーシャが言う。
「お兄ちゃんは器用だから、きっと棚が作れるよ」
「もちろん、僕もご協力いたします」
 リュウジが微笑みながら言う。
「もし、今日、ハルシャの帰りが早いなら、一緒に一度、廃材屋をのぞいてみませんか?」
「サーシャも行く!」
 嬉しそうに、サーシャが言う。
「もちろんですよ、サーシャ。あなたが一番、長くお部屋に居るのですから、あなたが気に入るものでないと、いけません」
 黙り込むハルシャに、サーシャが心配そうに
「棚の材料費なら、サーシャのアルバイト代から、出すから――」
 ハルシャの瞳をのぞき込む。
 沈黙を、危惧を示していると思ったらしい。
「棚を作ってはだめ? お兄ちゃん」
 心配そうに眉を寄せ、息をつめてハルシャの答えを待っている。

 ハルシャは、瞬きをした。
 ただ、思いがけない提案に、ハルシャは面食らっていただけだった。
「いや――生活を変えようと、あまり思ってこなかったから、意外だっただけだ。もちろん、良いよ、サーシャ」
 食費を数日分、自分のものを削れば、費用は捻出できるだろう、と、ハルシャは素早く計算する。幸いなことに、メリーウェザ医師からもらったパウチが箱である。ハルシャは、味を気にしなかった。
「やったー!」
 サーシャが喜んでいる。
 それだけで、十分だった。生きることに精一杯で、サーシャが喜ぶことを、ハルシャはしてあげることが出来ていなかった。
 誕生日も、歌だけで互いに祝ってきた。
 かつては――華やかなパーティを主宰し、百人以上の人々から祝われていたというのに。
 そんな過去など幻のように、心を込めた歌だけで、二人は支え合ってきたのだ。
 棚を作るだけで、これだけ喜んでくれるのなら、反対する理由などなかった。
 ハルシャは、サーシャの金色の髪を撫でた。
「今晩、なるべく早く帰ってくる。そしたら、三人で、廃材屋を見に行こう――」





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