ほしのくさり

第29話  最初の行為の傷跡



※文中に、過去の暴力的な性行為の表現が出てまいります。ご注意ください。





 ベッドに腰を下ろすジェイ・ゼルの膝の上に、ハルシャは抱えられていた。
 腕に包まれ、彼の頬が自分の髪に触れている。
 温もりのある静寂が、しばらく続いた。
 激しい感情の嵐の余波のように、ささくれていた神経が、不思議に沈黙の中でなだめられていく。
 互いの呼吸の音しかしない静けさの中に、不意に、ジェイ・ゼルの言葉が響いた。

「どうかしていた」

 ぽつんと、彼の言葉が、ハルシャの髪に触れる。

「君が強制された行為によって、快楽を得られるはずがない、と、解ってはいた。それでも、考えてしまったのだ。
 私以外からの行為ならば、君の恐怖心が薄らぐのかもしれない。
 その証拠に、君は自分自身の手なら、快楽を求めることが出来た。
 もしかしたら、他人ならば君は快楽に没頭できるかもしれない――と、わずかな可能性に、私は飛びついてしまった。
 どうかしていたんだ」
 後悔の滲む言葉が、夕闇の迫る部屋に響く。
 小さく、触れる頬が揺れる。
「冷静になるべきだった。私は判断を誤り、結果として、惑星アマンダの秘薬を使おうとする人物に、君を委ねようとしてしまった」
 目を閉じたまま、ハルシャは、押し当てた場所から響く声に耳を傾けた。

 自嘲を含んだ呟きがこぼれる。
「また、私は焦ってしまったんだろうな――君が絡むと、どうやら私は冷静でいられなくなるようだ。いつも、愚かな行動ばかりとってしまう」
 消えそうな声が、耳に響く。
「全く――どうかしている」


 彼は――楽しめなかったと、苦しそうに言っていた。
 自分以外の手が、ハルシャに快楽を与えることが、彼は辛くて仕方がない口ぶりだった。
 なのに。
 ジェイ・ゼルは、ギランジュ・ロアに、ハルシャを与えようとした。
 口淫の最中、支えるように頭の後ろにあった、ジェイ・ゼルの手の温もりを思い出す。
 酷い行為を強いていると、彼は解っていたのだろうか。
 冷静そのものに見えた彼の内側に、苦しみの炎があったのだろうか。
 ハルシャの苦境に、彼は黙って手助けした。
 自分の時には、彼は口から出すことを許さなかった。
 けれど――ハルシャの負担を軽くするために、彼は無言で、ギランジュを駆り立てた。
 ギランジュに抱かれるハルシャをみて、彼は何を思ったのだろうか。
 今回のことは、全てジェイ・ゼルが企んだことだ。
 ギランジュを、ハルシャにけしかけたのは、ジェイ・ゼルだ。
 彼の思いやりのなさに、自分は怒っていいはずだ。
 だが。
 不思議にハルシャの中に、怒りが湧き上がって来なかった。
 彼は、追い詰められたのだ。
 他人に任せてまでも、ハルシャの身に快楽を引き出させてあげたい――
 そこまでジェイ・ゼルを、追い込んだのは、自分だった。
 愚かな選択をさせたのは、ハルシャだ。

 胸が、痛んだ。

「すまなかった」
 押し当てられた胸にむかって、ハルシャは呟いた。
「反応できないことで、あんたを苦しめていたんだな」

 ゆっくりと、ジェイ・ゼルの頭が動いた。
「君は、悪くない」
 穏やかな声が、髪にこぼれる。
「悪いのは、私だ。最初の時、君の知識が全くないと気づくべきだった。無知さゆえの君の――懸命な言動を、曲解してしまい、感情を荒げてしまった。
 行為の時に服を脱ぐことすら、君はあの時、知らなかったというのに――」
 


 抗うな、ハルシャ。
 君を傷つけたくない。


 最初の行為の時、追い詰められたように、呟いていたジェイ・ゼルの声が蘇る。
 十五にもなりながら、厳格な両親に育てられたため、ハルシャには性的な知識が全くと言って良いほど、抜け落ちていた。
 学院でも、ハルシャは、友人がほとんどいなかった。飛び級で進学を続けてきたためか、皆から一線をひかれ、同じ部屋で学問を学びながらも、親友と呼べるような、深い付き合いの友人は皆無だった。
 それでもハルシャは、気にしていなかった。宇宙飛行士になるための勉強さえしていれば、それで満足だったのだ。
 通常なら、同級生を通じて得るはずの性知識もなく、ジェイ・ゼルの部屋で自分がこれから何をするのか、ハルシャは全く理解できていなかった。
 恐ろしいほど、無知だった。
 行為を行うのに、服を脱がなくてはならないのすら、ハルシャは知らなかったのだ。
 パルツァー係数を利用した計算式なら、息をするように解けるのに、ベッドの前に立たされて、ハルシャは途方に暮れてしまった。

 さあ、準備をしようか、ハルシャ。
 私が手伝わなくても、自分で出来るだろう?

 そう言われても、何をどう準備していいのか、ハルシャは解らなかった。
 立ち尽くすハルシャに、ジェイ・ゼルは、彼が服を脱ぐのを拒んでいると、考えたらしい。
 不意に、荒々しく彼の手によって、服がはぎ取られ、ハルシャは驚愕のあまり、パニックになってしまった。
 それまで、身体的な暴行を受けていなかったため、ジェイ・ゼルの豹変ぶりが、ハルシャを恐怖に落とし込んだ。
 
 恐い。

 その一心で、ハルシャは、ジェイ・ゼルに抗った。
 本能的なものだった。

 抗うな、ハルシャ。君を傷つけたくない。

 言いながら、ジェイ・ゼルが服を脱がしていく。
 裸にされた上に、ベッドに押し付けられ、両手足をジェイ・ゼルの体重で封じられてしまった。
 何が起こっているのか、理解できなかった。
 今なら、そういう契約だと、自分を抑えることが出来るが、当時の自分は、未知の行為を迫られていることに恐慌をきたし、ジェイ・ゼルの言葉すら、耳に入らなかった。

 落ち着け、ハルシャ。
 
 必死に、ジェイ・ゼルがなだめる声すら、ハルシャは、怒鳴りつけられているように感じた。
 大きな体で両手足を抑えこまれることに、恐怖しかない。
 無意識に、彼に抵抗する。
 だが。
 十五歳の力など、たかが知れている。
 暴れ続けて弱るのを、ジェイ・ゼルはひたすら待っていたようだった。
 肛門を使って、性交する。
 という言葉の意味すら、ハルシャには、正確に理解していなかった。
 動き続けるハルシャの力を流しながら、ジェイ・ゼルはベッドに置いてあった、容器を手に取った。
 ハルシャの両手首を左手ひとつでまとめて上に固定し、抗いを封じながら、ジェイ・ゼルは、ぬめりを指に乗せ、ハルシャの後孔を、入れやすいように、ほぐそうとしてくれた。
 ジェイ・ゼルの指が、後孔にすっと入り込んだ。
 与えらえた未知の感覚に、身を反らして、ハルシャは驚愕した。

 どうして、そんなところに、指を入れるんだ!

 叫んだように思う。
 こうしないと、君が傷つき、痛みを得る。
 答えるジェイ・ゼルの言葉に、ハルシャはますます、混乱した。
 ここで、性交をするのではないのか。
 身を捩りながら問いかけるハルシャに、
 そうだ。
 と、ジェイ・ゼルは短く言いながら、指で穴を広げていく。ハルシャは、おぞましい感覚に、身震いをしてしまった。
 指を抜いてくれ!
 ハルシャは、叫んでいた。

 契約に必要な性交を、早く済ませてくれ! それが望みなのだろう、ジェイ・ゼル!
 指など入れなくていい! 止めてくれ!

 恥辱と苦痛と恐怖に苛まれて、ハルシャは言葉を放っていた。
 自分の言い方が、彼の怒りをかったらしい。
 ジェイ・ゼルの灰色の瞳が、不意に底光りした。

 親切心は必要ないということか。
 痛みは覚悟の上、なんだな。

 低く呟くと、彼は問答無用で、うつ伏せにした。
 強い力でひっくり返され、胸をベッドに打ち付けて、ハルシャは息が出来なくなった。
 その動揺が収まらない中、さらなる衝撃が、腰部から走った。
 ハルシャは、叫んでいた。
 自分の身を裂くようにして、大きなものが、割り入ってくる。
 逃げようとする腰がジェイ・ゼルの大きな腕に掴まれ、痛みの元に引き寄せられる。

 これが、君が口にしていた、性交――契約の内容だ。

 冷たい声で、ジェイ・ゼルが呟く。

 これから君は、ずっとここで私を受け入れる。
 それが、契約だ、ハルシャ。

 ハルシャは、歯を食い縛った。
 この行為がジェイ・ゼルの望むことなら、拒否してはならない。
 脳を突き抜ける様な痛みの中で、それを必死に思い起こす。

 力を抜け、ハルシャ。少しは楽になる。

 凍るようなジェイ・ゼルの声を聞きながら、ハルシャは必死に言われた通り、強張らしていた体の力を抜いた。
 その一瞬を待っていたように、ジェイ・ゼルが強い力で、ハルシャの中に、一気に押し入ってきた。
 衝撃に――叫び声すら、出なかった。
 身が、裂かれて、生ぬるいものが、内太ももを伝う。
 血が流れていると、ハルシャは悟った。
 だが、これで終わったのだと、ハルシャはほっと息をつく。
 性交とは、中に入れたらそれで終わりだろうと、ハルシャは推測していたのだ。
 安堵したのも束の間、ハルシャは驚きに、目を瞠った。
  
 ジェイ・ゼルは、抜く気配がなかった。
 あまつさえ、ゆっくりと動き出し、中の粘膜が擦れる感覚が広がる。
 彼の行動に、驚愕しながら、異を唱えるように、ハルシャは叫んだ。

 何をしているんだ、ジェイ・ゼル! 性交は、終わったのだろう!?

 思わず声を放ったハルシャに、笑い声が答えた。

 違うよ、ハルシャ。
 性交は継続中だ。
 君の中で、私が射精するまでが、性交だ。
 私が君の中で精を放ったら、そこで今回の行為は終了だ。
 今後のためにも、覚えておくといい、ハルシャ。

 冷たく、容赦のない言い方だった。
 ハルシャは、自分の知識のなさを呪った。
 こんなに厳しいものだとは、契約するまで知らなかった。
 そして、射精という言葉の意味が、よく理解出来ない。
 自慰すらしたことのなかったハルシャは、男性器が刺激を受けて吐精するという知識が、おぼろにしかつかめない。
 信じられないほどに、当時の自分は無知だったのだ。
 けれど、彼が射精をしないと終わらないということだけは、理解出来た。
 
 なら、早く終わってくれ! 
 射精をしてくれ、頼む、ジェイ・ゼル。

 ハルシャは、痛みに顔を歪めながら、ジェイ・ゼルに懸命に訴えた。
 この苦痛にどれだけ耐えられるのか、ハルシャには自信がなかった。みっともなく泣きわめく前に、早く行為を切りあげて欲しかった。
 言い方が、彼の中の何かを動かしたらしい。
 ジェイ・ゼルの手が、するっとハルシャの腰を撫でた。

 初めてだから、優しく、ゆっくりとしてあげようと思ったが。

 不意に語調が変わる。

 早く終わることをお望みなら、ご希望に添うようにしよう。

 それまでの緩やかな動きとは違い、激しく打ち付けるように、ジェイ・ゼルが腰をハルシャの中に、ねじ込む。
 ハルシャは痛みのあまり、意識が薄れそうになった。
 力が抜け、身をシーツに擦るハルシャの腰を抱えあげて、彼は容赦なく、身を打ち付けた。
 ハルシャは、細い腰を彼の手に掴まれて、逃れることも出来ずに、ただ、太い彼を後孔に受け入れた。
 痛みと恐怖で、ハルシャは魂が抜けた人形のようになってしまった。全身に力が入らず、ひたすら、ジェイ・ゼルの手によって、身を引き寄せられ、太い楔を打ち込まれ続ける。
 そうか。
 これが、極めて好条件の契約の内容なのだ。
 苦痛と屈辱と――容赦ない仕打ちを受けることが。
 ハルシャは、心の中で納得する。

 早く、終わってくれ。

 そう願った時、ジェイ・ゼルがうっと小さく呻き、動きを止めた。瞬間、ハルシャの奥に、熱いものが注がれた。
 ジェイ・ゼルは、ぐっ、ぐっと二回ほど、奥に押し込むように、自分自身をハルシャの中に押し付けてから、完全に動きを止めた。
 
 終わったのか?

 ハルシャは、荒い息を吐きながら、痺れた脳の片隅で考える。
 これで、今回の行為は、終了したのか? 彼は射精をしたのか?
 ジェイ・ゼルの手が腰を離し、ずるっと、ハルシャの中から、彼自身が抜かれた。瞬間、支えを失ったハルシャは、ベッドに倒れ伏した。
 足に力が入らない。
 起き上がることが出来ず、歯を食い縛る。ジェイ・ゼルによって、後ろの孔に刻み込まれた痛みに、必死に耐える。
 身が、震える。
 自分の身に降りかかった痛みと衝撃に、がくがくと、体が痙攣する。
 血が、身を伝い流れ落ちた。

 ぼろくずのように、ハルシャはベッドに倒れ、身動きできなかった。
 痛い。
 これほどの痛みを伴う行為とは、知らなかった。
 圧倒的な力で凌駕し、ジェイ・ゼルは自分を暴力的に支配した。
 
 痛みに耐えるハルシャの側から、ジェイ・ゼルが動いた。
 一人になれることに、ほっとしながら、ハルシャは、顔をベッドに押し当てる。
 どうして、みなが性交を喜ぶのか、ハルシャには理解できなかった。
 こんな行為を、人は楽しんでするのだろうか。
 凄まじい痛みを伴う行為を――なぜ、好んでする必要があるのだろう。

 少しして、ジェイ・ゼルが戻ってくる気配がした。
 彼はベッドに上がり、ハルシャの側に、腰を下ろした。

 拭いておこう。

 小さく声をかけてから、ハルシャの後孔に、人肌ほどの温もりのある濡れた布が触れた。
 びくっと、ハルシャは身を震わせた。
 何もしない。ただ、拭くだけだ。
 ハルシャの恐怖を読み取ってか、なだめるように、ジェイ・ゼルが言う。
 彼は、行為の後の始末をしてくれているようだ。
 ぬめるものが、ハルシャの身から、拭われていく。
 彼の手ではなく、自分でしたかったが、ハルシャは身を動かすことが出来なかった。

 すまなかった。
 我を忘れてしまった――君は、初めてだったのに。

 小さく、ジェイ・ゼルが詫びの言葉を呟く。

 ――痛むか?

 ハルシャは、歯を食い縛って、答えなかった。
 血が出ている。見ればわかるはずだ。
 震えるハルシャの髪に、ジェイ・ゼルの大きな手が触れた。

 痛むんだな。
 すまなかった、ハルシャ。

 なだめるように、髪を手が滑る。
 触って欲しくなどなかった。自分を傷つけた同じ手で、もう、身に触れて欲しくなかった。
 だが、自分はこの行為を継続しなければ、父親の借金を返済することは出来ない。
 だから。
 どんなに辛くても、耐えるしかない。
 泣くな。
 自分に命じる。
 父亡き今、自分がヴィンドース家の家長だ。
 誇りを胸に掻き立てて、必死に勇気を振り絞る。

 大丈夫です。

 ハルシャは、押し付けたシーツに向けて呟く。

 すぐに、慣れます。
 この契約を、継続してください。お願いします、ジェイ・ゼル。

 ジェイ・ゼルの手が、止まった。
 わずかに震えてから、再び、手が動き出した。

 わかった。契約を続けよう、ハルシャ。

 ジェイ・ゼルの言葉に、ほっとハルシャは息を吐く。
 どんな痛みも、屈辱も、耐えられる。
 自分は、ヴィンドース家の直系だ。
 しばらく頭を撫でてから、ジェイ・ゼルが呟いた。

 次からは、痛みを与えないように、配慮しよう。
 借金の返済が終了するまで、君との関係は続く。私に出来る努力をするよ、ハルシャ。

 静かな声で、誓うように彼は言った。
 今なら――知識不足のために、ジェイ・ゼルが自分の身を心配して為そうとしたことを、必要ないと拒否したことが、解る。暴れるハルシャの身体をいなしながら、彼は極力痛みを与えないよう、指でほぐそうとしてくれていた。
 けれど、当時の自分は、ジェイ・ゼルの行為の意味が理解できなかった。
 自分に恥をかかせるために、ジェイ・ゼルがしているとしか、思えなかった。
 彼の好意に気付かず、羞恥と困惑から、ハルシャは手ひどく拒んでしまった。
 あの時、ジェイ・ゼルにも、余裕がなかったのだろう。
 拒むことは、契約違反だと思ったのかもしれない。
 身の程を知らない生意気な少年の言葉に、彼は逆上してしまった。
 激情にかられて、手荒く扱ってしまった行為を、今もジェイ・ゼルは後悔している。
 五年前の自分は――罪深いほどに、無知だった。

 それは――
 今も変わっていないのかも、しれない。
 ジェイ・ゼルが懸命に差し伸ばしてくれている腕を、自分は知りもせずに、拒んでいるのかもしれない。

 
 沈黙の後、ジェイ・ゼルが口を開いた。
「一向に服を脱がない君に対して、単に反抗しているのだと、短絡的に私は考えてしまった。まさか、十五にもなって性に関する知識がないなど、思っても見なかったからな――自分の価値基準で判断し、そして、手ひどく君を傷つけてしまった」

 後から、ジェイ・ゼルに訊かれて、ハルシャは無知をさらしてしまった。
 ハルシャよりも、知ったジェイ・ゼルの方が、驚いていた。
 誰も君に教えなかったのか、と、彼は叫ぶように声を放っていた。
 赤子レベルの知識しかないと知ったジェイ・ゼルは、絶句し、動揺していた。
 自分で、昂ぶりに触ったことも、ないのか?
 呻くような彼の言葉に、ハルシャは真っ赤になりながら、うなずいた。
 母に、禁じられていた、と。
 結婚するまでは、そのようなことに、興味を持ってはなりませんと、ハルシャはきつく言われて育ってきた。
 純粋培養だったのだろう。
 ハルシャも、そちらよりも、宇宙の知識を得ることに夢中だった。
 宇宙船は、狭い空間だ。
 中で長期間、多数のスタッフと生活する。
 様々なトラブルを回避するため、船内では、禁欲生活が当たり前で、宇宙飛行士専用に開発された、性欲を抑える薬もあるらしい。
 興味を持たないことは、自分にとって宇宙飛行士になるための、一つの資格のようにもハルシャは思っていた。
 露呈したハルシャの知識の乏しさに、ジェイ・ゼルはしばらく衝撃を受けたように動かなかった。
 キスをしたことがないとは思ったが、男女がどうするかも、知らないのか?
 なぜ、ジェイ・ゼルにこんな自分の私的なことを、話さなくてはならないかと、一抹の疑問を抱きながら、
 知りません。
 と、ハルシャは言い切った。
 ジェイ・ゼルは、真っ直ぐな眼で、ハルシャに訊ねた。
 射精というのも、知らなかったのか?
 ハルシャは、ますます顔を赤らめて、
 この前、知りました。あなたから。
 と、やっと、応えた。
 ジェイ・ゼルの表情が消えた。
 何かを悟ったような、顔だった。

 知らずに、私を煽ったのか?

 彼の口調に動揺しながら、ハルシャは必死に首を振った。

 煽る、という意味が、よく解りません。

 ジェイ・ゼルの眉が、きつく寄せられた。

 くそっ。そういうことか。

 小さく、罵り声が彼の口の中で呟かれた。
 
 その後、長く彼は沈黙していた。
 ベッドの前に立たされていたハルシャは、彼の様子が変であることに、危惧を覚えた。何か、自分は妙なことを言ったのだろうか。
 彼に声をかけようとした時、不意に手首が掴まれ、彼に引き寄せられていた。

 すまなかった。

 ハルシャを腕に包んだまま、彼は苦味のある言葉をこぼした。

 知っていて、私を煽っていると思った。
 違ったんだな、ハルシャ。
 君は何も知らなかった。
 素直に、想いを私に伝えていた、だけだったんだな――
 
 痛いほど、身に抱きしめられる。

 苦痛を与えて、すまなかった。
 私が、間違っていた。

 それから、ジェイ・ゼルは、ハルシャの服に手を触れず、脱ぐ時は自分でするように、命じだした。
 余計羞恥を感じたが、彼が最初に荒々しく身を剝いたことが、その時は恐怖として残っていたから、ありがたいことだった。
 誓いを守るように、どんな状況でも、ジェイ・ゼルは後孔に痛みを与える行為は決してしなかった。
 そして彼は、地上に留まるのに、必要な知識でもあるかのように、ハルシャに互いの身体を使って出来る、あらゆることを教え込んでいった。
 受け入れる前に、彼の指に身を任すことも、力を抜く術も、舌を絡めることも、一つずつ、丁寧に教えてくれる。
 一つ、覚えるたびに、より深く泥に沈んでいくようだった。
 けれど。
 それが、ジェイ・ゼルがハルシャに対してしてきた、彼なりの努力だったのだ。
 行為を通じて快楽を得て欲しいと、ジェイ・ゼルが願っていることも、強く感じた。
 最初の行為の過ちを、重ねる愛撫で消し去ろうとするかように。
 思いが伝わる度に、ハルシャはかたくなな態度で彼の心を拒否した。
 どうしても、彼に心を預けることが、出来なかったのだ。
 最初の行為で、ジェイ・ゼルは誰も侵入したことのなかった後孔と共に、ハルシャの心をも、引き裂いてしまったのだ。

 柔らかな静寂のあと、ジェイ・ゼルが再び口を開いた。

「君が応えられないのは、私が自ら蒔いた種だ」
 小さく頭が揺れる。
「何もハルシャは悪くない。解っているのに、私はその事実が苦しかったんだろうな――耐えきれずに、安易な方法に、逃げようとした。
 他人の手を借りて、君を高めてもらう。
 卑怯な手だ――責任を放棄するに等しい。
 だが、それしか、方法が無いように思えたんだ――」

 頭を、ジェイ・ゼルの手がゆっくりと撫でる。
 子どもにするような、動きだ。

「ハルシャ。君はどんな状況にあっても、決して逃げずに、立ち向かっていく。
 そんな君に行為を強いながら、私自身はそこから逃げようとした。
 たった五年で、忍耐が尽きるなど、思っても見なかった。
 結局」
 笑いが小さく響く。
「自信がないんだろうな――私もギランジュのことを、言えない。何かに頼らずには、いられないほどに――不安になってしまった。結果、間違えた方法を、選んでしまったようだ。愚かなことだ。本当に――愚かな……」

 ハルシャ――

 ぼんやりとした意識の中で聞いた、低いすすり泣きの声が、耳に蘇ってくる。
 あの声は――ジェイ・ゼルだったのか?
 まさか。
 彼が泣くなど、あり得ない。

「私はまた、君を理解出来ずに、一方的に傷つけてしまった」


 呟きが、耳に染み入ってくる。
 ふうっと、小さく息を吐くと、彼は腕を解放した。

「引き留めてすまなかったね」
 離れたジェイ・ゼルの手が、ベッドに置かれる。
 身を引きながら、彼は微笑んだ。
「約束通り、今日はこれ以上、君には何もしない――帰ってくれないか。ハルシャ」

 薄闇が支配し始めた部屋の中に、ジェイ・ゼルの彫の深い顔が浮かんでいた。
 灰色の瞳が、真っ直ぐにハルシャを、見つめていた。
 自分の間違えた行為を罰するように、彼はハルシャに手を出さずに、帰そうとしている。
 乗せられた膝の間のものが、張りつめて、彼を求めているのに――
 それでも、ハルシャを、去らせようと、している。

 残ったこの部屋で一人、あんたは、何を考えるんだ。

 ハルシャは、瞳を見つめながら、心の中で、問いかけた。
 五年前の自分の配慮に欠けた行為の懺悔か、他人にハルシャを与えようとしたことの後悔か。
 それとも――ハルシャに反応を引き起こすことの出来ない、自分自身への侮蔑なのか。

 ラグレンの街の灯りだけが差し込む、地上百七十階の建物の中で、ハルシャは、目の前の男と、向き合っていた。
 灰色の瞳の中に、自分の姿があった。
  
 五年の間――
 ジェイ・ゼルは反応しないハルシャを、一言も、責めなかった。
 私に慣れないね、と悲しげにつぶやくだけで。
 彼は
 待っていてくれたのだ。
 ハルシャの心が、ジェイ・ゼルを受け入れ、反応を返す時を。
 忍耐強く、五年間もの間。
 待ち続けてくれていたのだ。
 媚薬など、従わせる手段を熟知しながら、あえて使おうとはせずに。
 原始的ともいうべき方法で、ただ身を触れ合わせながら、彼はハルシャに語り掛けていたのだ。

 私を、受け入れて、くれと――

 聞こうとしなかった、彼の心の声が聞こえる。
 私の愛撫に応えてくれ。
 私を見てくれ。
 決して君を、傷つけはしないから、と。

 黙するハルシャに、静かにジェイ・ゼルが微笑みを与える。
「君の礼は、思いがけなくて、嬉しかったよ。だが、もう帰ってくれないか、ハルシャ。――そうでないと、私はまた、君との約束を、破ってしまう」
 ジェイ・ゼルが、ハルシャとの距離を取る。
「私は、今日は君に手を出さないと、約束をした。
 きちんと約束を守らないと、また君が拗ねるからね」

 軽い調子で言いながら、彼の身が緊張しているのが解る。
 額に、かすかな汗がにじんでいる。
 鼻孔をくすぐる媚薬の匂いが、部屋に充満している。これは、粘膜から吸収されるとギランジュが、言っていた。もしかしたら、微量の成分が、粘膜を通じて今も身に取り込まれているのかもしれない。
 ジェイ・ゼルは、内の衝動に、必死に耐えているような気がした。

 ハルシャは、彼の眼を見つめていた。
 両手を動かすと、彼の頬を包んだ。
 引き寄せながら、唇を合わせる。
 ジェイ・ゼルが、驚いたように、目を見開いていた。
 唇を離しながら、ハルシャは呟いた。
「俺は、あんたが望む行為に従う」
 灰色の瞳をのぞき込む。
「あんたが、帰ることを望んでいるのなら、俺は帰る」
 震えそうになる声を叱責しながら、ハルシャは続けた。
「違うことを望んでいるのなら――」
 灰色の瞳に映る、自分を見ながら、ハルシャは呟いた。
「俺は、残る」

 ジェイ・ゼルの瞳の中の自分が、自分を見返す。
「あんたの、本心を教えてくれ。ジェイ・ゼル」
 瞳の中のハルシャも問いかける。
 お前の本心は、どうなんだハルシャ、と。
「俺は、あんたの望む行為に従う」





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