ハルシャは、凍り付く。
長い沈黙が続いた。
「今日は、もう帰ってくれ、ハルシャ」
不意に、ジェイ・ゼルが声を放った。
「これ以上、君には何もしない」
ぎゅっと、ハルシャは膝を抱きしめた。
ハルシャが動かないことに気付いたのか、背中から声が響く。
「抱かれていないからといって、借金に上乗せはしない。安心しろ」
それが、ハルシャの行動規範の全てであるように、ジェイ・ゼルが告げる。
ハルシャは視線を落としてから、膝を解き、ジェイ・ゼルから離れた方向へと身を滑らせてベッドから降りた。
服を脱ぎ捨てた場所まで、無言で歩いていく。
手早く服をまとうと、ジェイ・ゼルへ顔を向けた。
彼は、ハルシャを見ていなかった。
表情を消して、部屋の一隅を見つめている。
自分自身と対話をするように、彼は沈黙していた。
ハルシャは、視線を落とした。
胸の奥が、ざわめく。
ぐっと歯を食い縛ると、手を握り込み静かに歩を進める。
ベッドの端に腰を下ろす、ジェイ・ゼルの元へと。
彼はハルシャが近づいたことに気付き、顔を向けた。
瞳が問いかける。
どうした? と。
彼の疑問を無視して、ハルシャは座るジェイ・ゼルの前に立った。
静かに、彼を見下ろす。
あまりない状況だ。いつも、自分はジェイ・ゼルに見下ろされている。
灰色の瞳が、ハルシャの意図を探るように、ひたむきに見つめてくる。
微かな胸の奥の痛みを握りつぶしながら、ハルシャは動いた。
身を屈めると、驚きにかすかに口を開いたジェイ・ゼルの唇に、自分の唇を重ねた。
馴染んだ味がする。
どうして――
安堵など覚えるのだろう。
自分自身の感覚をいぶかりながら、ハルシャは目を閉じる。
軽くジェイ・ゼルを探ってから、目を開き口を離した。
身を立てると、見開かれた彼の瞳にむけて静かに呟く。
「助けてくれた、礼だ」
羞恥に頬を赤らめないよう、懸命に努力しながらハルシャは言葉をこぼす。
ジェイ・ゼルの表情が消えた。
驚きを消し、恐いほど真剣な眼でハルシャを見つめている。
無言で、二人は見つめ合った。
ハルシャは、わずかに口角を上げて、踵を返そうとした。
瞬間、強い力で手首が握られ、振り子のように、ジェイ・ゼルの元へと引っ張られていた。
抱えあげられるようにして、彼の膝の上に乗せられる。
横抱きにして、ジェイ・ゼルが両腕で包み込む。
彼は、頬を、ハルシャの髪に押し当てた。
衝動的な動きに、自分自身が戸惑うようにジェイ・ゼルは沈黙していた。
腕に力が籠ってから、彼は呟いた。
「恐かったか、ハルシャ?」
髪に、ジェイ・ゼルの言葉が触れる。
「痛みを、感じたのか?」
かすかに、彼の身が震えていた。
ハルシャは、首を横に振った。
「大丈夫だ」
嘘を、吐く。
彼の震えを、止めるために。
「……すまない」
絞り出すような、ジェイ・ゼルの言葉に、再びハルシャは首を振った。
「あんがた命じたことに、俺は従う。他の男の相手をしろとあんたが言うのなら俺は相手をする」
ハルシャは、ジェイ・ゼルの温もりに包まれながら、呟いた。
「そういう契約だ」
あんたは、俺に対して正当な権力を行使しただけだ。
だから――傷つかないでくれ、ジェイ・ゼル。
言えない言葉が、胸の中で渦巻く。
助けてくれなど、彼に訴えるべきではなかった。潔く相手をするべきだった。
どうということはない。
いつもしていることだ。
命じられた時は、そう割り切って考えた。
だが。
ジェイ・ゼル以外を受け入れることが、これほど嫌悪を掻き立てるなど、ハルシャは思いもよらなかった。
ギランジュが触れるたびに体中が拒否し、吐き気が身を襲った。ジェイ・ゼルが相手では感じたことのない衝動だった。
ジェイ・ゼルに従わされている、行為を強制されているとずっと思っていた。
彼は自分の身体を利用しているだけだと。
忌避すべき行為を強いられている屈辱が、いつも心の中にあった。
けれど――
彼の手しか触れてこなかったこの身体は、ジェイ・ゼル以外の存在を拒否した。
ハルシャの心よりも、体の方がよく理解しているのだ。
誰が、自分を大切にしてくれているのか――どの手が快楽に導いてくれるのか。
慣らされ、馴染まされ、身に添うようになってきた行為が、決して苦痛だけではなかったと――身体の方が明確に覚えていた。
五年という、年月の間に――自分はジェイ・ゼルのものになっていたのだ。
あれほど、心では抗っていたというのに。
時の流れが、自分を変えた。
私のハルシャ
彼は、自分をそう呼んだ。
※ね……寝取られ、ませんでした。