結局、ハルシャは、電脳をリュウジに預けて、仕事へと出かけた。
出かける自分を、サーシャと並んで、いってらっしゃいと送りだすリュウジの顔をみながら、まるでずっとそうやってきたような妙な感覚にとらわれる。
三人でこれまで暮らしてきたような――何の違和感も抱かないほど、リュウジは不思議に生活に馴染んでいる。
今日は、遅くなる。
と、ハルシャは二人に、朝食の時に告げていた。
だから戸締りに気を付けて、二人で先に寝ていてくれと依頼する。
お仕事気を付けてね、とサーシャが言う。
心配そうにハルシャを見上げる、彼女の金色の髪を撫でる。
ああ、気を付けると、安堵させるようにハルシャは応えた。
違法な駆動機関部。
ハルシャは、残していたデータを別の電脳に入れて、もう一度丹念にシミュレーションを行った。
確かに。
異常な硬度を要求しているのは、スクナ人の反物質生成能力に対応するためだったのだと悟る。
もしか。
と思い、ハルシャは周りに誰もいないことを確かめてから、スクナ人の動力源を利用した場合の数値を入れてみた。
途端に、シミュレーターの上で凄まじい出力が記録された。
その上、駆動機関部は熱量に耐えている。
ハルシャは静かに今入力したデータを削除し、電脳にもどこにも残らないように証拠を隠滅した。
スクナ人を想定した、駆動機関部。
違法な宇宙船を、誰が作ろうとしているのだろう。
さあっと、ハルシャは血の気が引くような気がした。
もしかしたら。
これまでも、自分は違法な何かを作らされていたのかもしれない。
気付いた事実に目眩がしそうだ。
言われるままに厳しい納期を守り、心を込めて作ってきたものが銀河帝国法に違反するものだったとしたら――
嫌悪感が胸の中に渦巻く。
自分は体だけでなく、仕事まで不当にジェイ・ゼルに支配されているのだ。
ちろっと炎のように、想いが心の底にうずく。
もう、自由になりたい。
遅くなると言った時に、サーシャは無垢な眼差しを自分に注ぎながら、気を付けてくれと言っていた。
ジェイ・ゼルが自分を呼び出している。
兄が男に身を任せるために遅くなるのだと――サーシャに知られたくなかった。
言えないことが、胸の奥で硬い氷の塊のように詰っていく。
いつか――
この塊に飲まれて、息が出来なくなるかもしれない。
妹の金色の髪を撫でる手で、自分はジェイ・ゼルに触れる。
夕刻まで、ハルシャは普段では忙しくて出来ない書類の整理をして過ごした。
製作に取り掛かる振りをして、データを仕分け続ける。
普段、人との関わりのないのが幸いした。
その途中で、ジェイ・ゼルの意図を満たすべく、自分の腸内を洗浄しておく。
あらかじめ呼び出しを告げられる時は、すぐに行為に及べるように準備をしておけと、ハルシャは教育されていた。
急な呼び出しの時は――ハルシャが腸内を洗浄する姿を、眺めたいということだった。
ジェイ・ゼルは、悪趣味だった。
*
夕刻になり、予告されていたようにジェイ・ゼルの黒い飛行車が、ハルシャを迎えに来た。
今回も、車内にジェイ・ゼルの姿が見えない。
「先にお待ちです」
ジェイ・ゼルのお抱え運転手、ネルソンがハルシャの疑問を汲み取ったように、教えてくれる。
彼はいつも淡々と仕事をこなしている。運転技術は素晴らしく、どんな場所でも針の上に乗るように、ぴたりと飛行車を停める。浮遊する物体をきちんと停めるのは難しいと、ハルシャは経験則から知っていた。
向かう道中で、ハルシャはラグレンの街を上から見下ろす。
今、リュウジは何をしているのだろう。
ふと、考える。
電脳を手足のように操って、ハルシャのために設計を書き換えているのだろうか。
彼はメドック・システムを数分で調整したと、メリーウェザ医師は言っていた。通常ならおそらく数時間はかかる作業だ。
その彼が、一日欲しいと言った。
相当大変な作業なのだろうと、ハルシャは推測する。
ハルシャが犯罪に巻き込まれないために――彼の言葉がふと蘇る。
リュウジは、自分を守ろうとしてくれている。
事実が、胸を打つ。
助け手の居ない中もがき続けた人生の中で、リュウジの言葉がとても嬉しかった。
飛行車が停車したのは、いつもの『エリュシオン』の前だった。
部屋の番号が告げられハルシャは記憶する。
ボードを掴むと、静かに飛行車の扉をくぐり出て行く。
怒りを、抑えなくてはならない。
ハルシャは自分に言い聞かせる。
だまし討ちのように、彼を昂ぶりに持って行ったことも、違法な駆動機関部を作らせようとしていることも――意識から、削除しなくてはならない。
でないと、ジェイ・ゼルにひどい言葉をぶつけてしまいそうになる。
黙して、ハルシャは廊下を進んだ。
部屋の番号を確かめて、ハルシャは軽く扉を叩いた。
「開いているよ」
中から、ジェイ・ゼルのくぐもった声が聞こえる。
自分で開けて入ってこいということらしい。
ハルシャは、扉に手をかけて、そっと押す。しゅっという音がして扉が開いた。
ジェイ・ゼルは、椅子に座っていた。
広い部屋だった。
窓が大きく開いていて、ラグレンの街並みが見える。
夕刻になり、空が珊瑚色を帯び始めている。
ハルシャは一瞬、自分が何のためにここに立っているのかを忘れて空の色に見入った。
きれいだ。
オレンジを帯びたピンクの深い空――
地平の彼方には、紫に煙る森の姿が見える。
故郷の夕暮れは魂が震えるほどに美しかった。
くすっと、小さく笑う声が聞こえた。
「ハルシャは本当に、空が好きだね」
見とれる自分に、ジェイ・ゼルが声をかけている。
はっと意識を戻すと、ハルシャは入り口にボードを立てかけてから、彼に目を向けた。
灰色の眼を細めて、彼は微笑んでいた。
「この眺めが気に入ってもらえて、良かったよ。ハルシャ」
あやすような口調で、ジェイ・ゼルが言う。
妙に子ども扱いされているようで、ハルシャは少しむっとする。
いつもなら、ハルシャを見ると近寄ってくるジェイ・ゼルが、椅子に座ったまま動かない。
巨大な窓の横、壁に添う位置に広いベッドが一台ある。
そこから離れた場所に、丸い机と椅子が三脚並べられ、ジェイ・ゼルが優雅に座っている。
「おいで、ハルシャ。少し座って話しをしよう」
椅子から一歩も動かぬまま、ジェイ・ゼルが言葉でハルシャを招く。
まるで、犬を呼ぶようだ。
ハルシャは黙って指示に従った。
歩を進めて机に向かい、彼の正面に当たる椅子を引き、腰を下ろした。
一連の動作を、じっとジェイ・ゼルが見つめている。
柔らかい笑みが浮かんだ。
「どうした。やけに不機嫌だな」
見抜かれてしまったようだ。
ハルシャは
「別に」
と、呟いた。
「さては、この前置いていかれたことに、拗ねているのだね」
ははん、というように、机に肘を突き、ジェイ・ゼルがハルシャに身を寄せてくる。
「仕事があったのだ。許してくれ、ハルシャ」
見当違いも、はなはだしい。
「そんなことは気にしていない。仕事を最優先するのは当たり前だ」
おや、とジェイ・ゼルが首を傾げる。
「食事が気に入らなかったのかな?」
「飯は美味かった」
言ってから、小さくハルシャは付けくわえる。
「食事と、わざわざメモを残してくれて、ありがとう」
礼は、礼だ。
と、ハルシャは思う。
非礼を、ヴィンドース家は好まない。
「なら、何をそんなに拗ねているんだ。ハルシャ・ヴィンドース」
また、子どものように、ハルシャを扱う。その上、名前をフルネームで呼んでくる。
かっとなって、ハルシャは思わず低い声で呟いていた。
「――達したら、解放してくれる、と、約束した」
ジェイ・ゼルが、瞬きをする。
意味が解らないという、顔だ。
ハルシャは、頬が赤らむのを感じながら言葉を続ける。
「だから、俺は、した、のに――」
ああ、と、ジェイ・ゼルが不意に理解を示し、
「それで、拗ねていたのだね、ハルシャ」
と、笑いを含んで言う。
小馬鹿にされたようで、ハルシャは益々頬を赤らめる。
「ジェイ・ゼルは、約束をした」
尖りのあるハルシャの言葉を、いなすようにジェイ・ゼルが首を縦に振る。
「そうだね、ハルシャ。私は約束をした。君が達したらそこで終わりだと」
約束違反だ、と睨みたいハルシャに、柔らかなジェイ・ゼルの声が響く。
「だが、ハルシャ。私は何回達したら、とは言わなかった」
ジェイ・ゼルが、ハルシャを見ている。
灰色の瞳の中には、笑みがなかった。なのに、彼の口角が上がる。
「ハルシャは勝手に、一回達しただけで、私が終わりにすると勘違いしてしまったのかな?」
愚かな生徒に言い聞かせるように、ジェイ・ゼルが言う。
一回自慰で達したら、終わりにする。
とは。
確かに、ジェイ・ゼルは言わなかった。
達したらそこで終わりだ、と言っただけだ。
勘違いをしたのは、ハルシャの方であり、自分には非はないと、ジェイ・ゼルが宣言している。
だから、今のハルシャの不機嫌は不当なことだと、責める視線を送ってくる。
そうだ。
こいつは、闇の世界に生きる男だ。
手練手管で人を煙に巻き、不当に搾取するのを生業にしている。
言葉に翻弄された自分が、愚かだったのだ。
黙り込むハルシャに、穏やかな口調でジェイ・ゼルが続ける。
「自分で高めていく時の、君はとても可憐で美しかった。
頬を赤く染めて羞恥に身悶えしながら、それでも足を閉じずに私の視線に耐えていた。
実に愛らしかったよ、ハルシャ」
えぐられるような痛みと共に、ハルシャは頬が紅く染まっていくのが止められなかった。
自分が恥辱に耐えていた行為を、彼はそんな風に観察していたのだという事実が、突き付けられている。この上ない辱めだった。
ハルシャの心などどこ吹く風で、ジェイ・ゼルが思い出を手繰るように、言う。
「だが、よほど恥ずかしかったのだね。懸命に手を動かすのに、君のものは中々反応しなかった。
君の自由に任せるつもりだったが、あまりにも苦戦する君を見かねて、つい手を出してしまった。過干渉だったかと、心配したが――どうやら、心地良かったようだね。
私が与えた刺激を求めるように、君は自分でも乳首をいじり始めた。実に感動したよ。君がそこまで成長していたとは――みずから快楽を求めるようになってきたんだね。
いい子だ、ハルシャ」
あられもない言葉に、頬が燃えるように赤くなる。
やめろ、と、机をひっくり返して叫びたかった。
だが、ハルシャは両手を固く握りしめて彼の言葉に耐えた。
「懸命に行為に励む君は、本当に愛らしかった――細めた眼で私を見つめながら、手を動かし続けていたね。
全身が上気して、ほのかなピンクに染まっていた。
ああ、達するんだな、と思ってみていた前で、君は自分の手で絶頂に持って行くことが出来た――十六の時は、途中でリタイアしてしまったが。君は上手に出来るようになった。私の言いつけを守り、一年間、家で自慰行為をしてきた成果がでたのだろうね。ハルシャ。君は本当に賢くて、真面目で嘘のつけない子だ」
ハルシャは、唇を噛み締めていた。
命じられた自慰行為は一年間続いた。十六から十七になる間で、三日おきに、自分を昂ぶりに持って行く。ハルシャは、恥をしのんで指示に従った。
一年後、反応を見ていたジェイ・ゼルは満足したようだ。今後は、自分のしたい時だけすればいいと、許しを与えてくれた。
ハルシャは安堵した。サーシャがもう大きくなってきていた。彼女と同じ部屋で自慰を続ければいつか気付かれる。
強制されなくなってから、ハルシャは一度も自宅ではしていない。
そんなものを持ち込みたくなかった。
屈辱に満ちた行為を、彼はまるで手柄のように言う。
不意に、饒舌だったジェイ・ゼルの言葉が途絶えた。
彼はふっと、窓へ目を向けた。
壮大な夕焼けが、遙か彼方まで続いている。
しばらく無言で、彼は珊瑚色に染まる街を見つめていた。
「私が、楽しめたか、と。君は聞いたね」
夕焼けを見つめたまま、ジェイ・ゼルが言う。
星が一つ、ぽつんと空に光っていた。
アルデバランだろうか、と思ったハルシャの耳に意外な言葉が飛び込んできた。
「私が、達する君を見ながら楽しめたとでも、思ったのか、ハルシャ」
言葉の放つ厳しさに、ハルシャは輝く星から背を向けるジェイ・ゼルへ顔を戻した。
「どうして、楽しめるのだ。君が私以外の存在で、快楽を得ているというのに」
ゆっくりと、ジェイ・ゼルが顔を戻す。
視線が触れ合う。
ジェイ・ゼルの顔には、一切の表情が消えていた。
「私は君に快楽を与えたかった――君が楽しめたかと聞いたとき、全く理解していない君に正直腹が立った。
だから私の舌と手で、君を絶頂へと持って行かざるを得なかった。
君が自慰をしている間中、私は、楽しむことなど出来なかったからね」
どうして。
こんなことを、突然ジェイ・ゼルは言っているのだろう。
楽しむためでなければ、どうして自分に自慰行為を強いたりしたのだろう。
意図が掴めない。
だが。
この前も感じた感覚が広がる。
彼は妙に切羽詰まっている。
ギリギリのところで自分を抑え、ハルシャに向き合っているような気がする。
「言ったことが、気に障ったのなら、謝る」
ハルシャは、詫びを口にした。
彼の心を傷つけてしまったのかもしれない、と思ったからだ。
ジェイ・ゼルの瞳に、不意に優しい光が宿った。
「謝る必要はないよ、ハルシャ。私が君に快楽を与えられないのが、悪いのだ――」
自嘲気味に、彼が呟く。
ハルシャへ、灰色の瞳が注がれる。
短い沈黙の後、彼は口を開いた。
「最初の行為の時、私は君をひどく傷つけてしまった。
怯えさせてしまったのだろうね。君の心に恐怖が、刷り込まれてしまったのかもしれない。
あの時の君は、男女の交わりすら知らない全くの無垢な状態だった。
知識と経験のない君に、もっと優しくしなければならない、丁寧にほぐしてあげなくてはならないと解っていたが――焦ってしまったのだろう。
私は君を、手荒く扱ってしまった」
初めて聞いた、ジェイ・ゼルの思いだった。
小さく呟かれていた、悔恨の言葉がハルシャの耳に響く。
あの時の言葉を、今もジェイ・ゼルは、無言の内に呟いているのだと気付く。
五年間、身を合わせるたびに――
彼は、ハルシャに詫びていたのだと。
「君は、五年経っても私との行為で快楽を得ることが出来ない――それは、おそらく、行為をするのが、私とだからなのだろうね。
最初に与えられた恐怖が、君から快楽を奪ってしまった。
これは辛い行為だ。痛みを与えるものだ、意志に関係なく身の内にねじ込まれるものだ――そう、思わせてしまったのは、私だ。ハルシャ」
微笑むジェイ・ゼルを、ハルシャは無言で見つめていた。
違う。
俺は、わざとあんたに反応しないようにしていたんだ。
行為は拒否しない。
そこは、守る。
だが、心の中では、ジェイ・ゼルに対して、抵抗していた。
彼の愛撫に一切反応しないことで――
自分がジェイ・ゼルに対して行っていた密かな企みによって、彼は傷ついていたのだと、はじめてハルシャは気付いた。
これまでジェイ・ゼルは、反応できないハルシャを一切責めなかった。
反応を呼び起こそうと激しい行為に及ぶことはあっても――言葉でハルシャをなじったことはなかった。
それは――
ハルシャの身体から快楽を奪ったのは自分だと、思っていたからだったのだ。
ずきんと、ハルシャの胸の内が痛んだ。
「私とでは、君は快楽を得ることが出来ない。そう、考え出してね、ハルシャ」
ジェイ・ゼルが、静かに言葉を呟く。
ふと、その言葉の中に忍び込まされた、静かな覚悟が、ハルシャの顔を上げさせた。
ジェイ・ゼルがハルシャを見つめ、静かに笑みを深める。
「少し、手立てを変えることにしてみた」
ジェイ・ゼルが言った瞬間、扉が軽く、叩かれた。
「時間ぴったりだ」
彼は満足そうにハルシャに言ってから、不意に声を張って、扉の向こう、ノックをした人物に叫んだ。
「扉は、開いている。入ってきてくれ」
はっと、ハルシャは扉の方へ顔を向けた。
ゆっくりと扉が開き、その向こうに、恰幅のいい男が立っていた。
「この時間で良かったかね、ジェイ・ゼル」
ハルシャは、見ているものが信じられなかった。
そこには二日前に顔を合した男、駆動機関部の依頼主――
ギランジュ・ロアが、満面の笑みを湛えて立っていた。