「そうか」
メリーウェザ先生の前で、椅子に座ったまま、ハルシャは視線を落としていた。
ヨシノさんとサーシャは、お茶を入れに給湯室に行っている。
サーシャはヨシノさんを気に入っていて、お茶の入れ方を伝授すると大乗り気だった。
「ジェイ・ゼルらしいね」
リュウジの説明を聞き終えた後、メリーウェザ先生は一言呟いた。
「で」
長い沈黙の後、メリーウェザ先生が口を開く。
「ハルシャはどうするつもりだ」
ようやく目を上げると、
「帝星へ行こうと思う」
と、はっきりと言葉にした。
「ほう」
両眉を上げて、彼女が声を上げる。
「それは、またどうしてかな?」
「ジェイ・ゼルの裁判は、帝星で行われるそうだ。そして、ジェイ・ゼルは特殊な事情があるから、帝星の特別収容施設に入るだろうと、マイルズ警部に教えていただいた」
警部は、ジェイ・ゼルが所属していた『ダイモン』からの報復攻撃を警戒していた。内部事情を話したことで、ジェイ・ゼルは彼らの敵になった。
せっかく事件解決に協力してくれた人を、むざむざ殺させないと、はっきりと警部は言ってくれたのだ。
なので、最大限の配慮を施し、非常に堅固な守りを持つ刑務所に収容されるだろうと。
「帝星で、ジェイ・ゼルが刑を終えるのを、待ちたいと思う」
少しでも、彼の近くに居たかった。
ただ、それだけの理由だった。
「サーシャはどうするんだ」
ぐっと、一瞬言葉に詰まってから
「帝星へ一緒に連れて行こうと思う。リュウジが、良かったら共同生活をしないかと、言ってくれている。仕事を探してそこで生活し、サーシャも帝星で学校に行かせようと考えている」
と、ハルシャは言葉をつぶやいた。
リュウジとも話し合ったことだった。彼は賛成を示してくれた。
メリーウェザ先生が静かに肯いた。
「いいんじゃないか。ハルシャ」
思いもかけない明るい賛同の言葉に、ハルシャは顔を上げてメリーウェザ先生を見た。
彼女は優しく微笑んでいた。
「私は賛成だよ」
励ますような言葉に、ハルシャは収まったはずの涙が溢れそうになった。
感情が揺さぶられたせいか、少しのことでも心が震える。
「ありがとう、メリーウェザ先生」
手を伸ばして、彼女は優しくハルシャの髪を撫でてくれた。
「待つのは辛いが、未来を信じて生きることだ」
よしよしと、なだめられる。
「それなら、私も決断しようかね」
え?
とハルシャは顔を上げた。
「決断、とは?」
メリーウェザ先生が微笑む。
「以前にリュウジが提案してくれたことさ。帝星に移住しないかということだよ」
驚きに目が丸くなる。
「だ、だが、先生」
「最近な、ハルシャ。よく叔父の夢を見るんだ。『ミア、幸せか?』って、叔父が問いかけてくる。
もちろん幸せだと、私は答えるんだがね、叔父は寂しそうに首を振るんだ。
そうして、もう一度問いかける。
『ミア、幸せか?』と」
手を引くと、メリーウェザ先生は足を組んで首を傾げた。
「天国にいる叔父には、どうやら私が幸せにはみえないらしい」
メリーウェザ先生が、天国、とはっきり言いきってくれたことが、ハルシャには嬉しかった。
だが、言葉に籠る響きは、寂しげだった。
「私がここに居座っているのは、叔父が命を散らした宙域だからだ」
腕も組み、メリーウェザ先生が空を見上げる。
「ここだと、叔父の側にいるような気がしたからね。だが――叔父は、そんなことはもしかしたら、望んでいなかったかもしれない。
そう、思うようになったんだよ」
虚空を見つめたまま、メリーウェザ先生が呟く。
「で、考えてしまった訳だ。私の幸せとは、一体なんだろう、とね」
ふっと笑って彼女は付け加える。
「哲学的だろう?」
リュウジが口を開いた。
「それは、ドルディスタ・メリーウェザが、誰のためでもなく、自分のための人生を生きて欲しいという、叔父さんからのメッセージだと思います」
メリーウェザ先生は虚空を見つめて動かなかった。
「相変わらず鋭いね、リュウジ」
彼女は柔らかく笑った。
「叔父のために生きるのが私の人生の全てだった。叔父が見ていた宇宙だから、私はそこに憧れた。彼は私の全てだった。だから――叔父を失った時から、私は自分の人生を失った」
虚空に凝らされた目が、宇宙を見つめていた。
「空っぽのまま、人生を生きてきてしまった。オキュラ地域で人助けをしないと生きられないほど、私は空虚なんだよ。
叔父は、そのことを知っている。そして、悲しんでくれている――天国に行ったというのに、まだ、私の心配ばかりだ。叔父は私を自分から自由にしてあげようと、決して会わないと決めてくれたのに、私はその叔父にまだ甘えているんだ。
キルドン・ランジャイルの側にいたいと――
本当に」
薄っすらと涙が目に滲んだ。
「迷惑ばかりをかける、困った姪っ子だよ」
「心配するのは、大切だからだ」
ハルシャは呟いていた。
「幸せになって欲しいと願うことは、迷惑なことではない」
溢れそうになる涙を堪えながら、ハルシャは言葉をつづけた。
「自分よりも相手のことを大切に思えることは、とても素晴らしいことだと思う。
叔父さんは、優しい人だった。だから、メリーウェザ先生のことをいつも、一番に考えていただけだ。
メリーウェザ先生が夢に叔父さんを見るのは、本当は、メリーウェザ先生自身が、このままでは駄目だと思っているからだと思う。
叔父さんの願ってくれた、本当のメリーウェザ先生の幸せを、先生自身はもう解っている。
ただ。
動き出す勇気が出ないだけだ」
虚空から、メリーウェザ先生の視線が、ハルシャへ向かった。
「この場所を離れたら、叔父さんから遠くなるような気がするからだと思う。
でも、そうじゃない、メリーウェザ先生」
優しく、呟いてくれたジェイ・ゼルの言葉が耳に響く。
「どんなに離れていても、思えば近くになる。想い続ける限り、叔父さんは先生の心の中にいる。ずっと、ずっと。
だから、恐れなくていいと思う」
ハルシャは言ってから、袖口で涙を拭った。
メリーウェザ先生が微笑む。
きれいな涙が頬から流れ落ちた。
「この子は本当に――」
くしゃっと髪が撫でられた。
「叔父に言われているような気がしたよ。ミアが忘れない限り、私は側にいるよ、と」
ごしごしと、豪快に涙を拭うと、メリーウェザ先生は笑った。
「よし、決めた」
そう宣言したところで、ヨシノさんを従えてサーシャが戻ってきた。
「お待たせしました!」
ハルシャは慌てて、目をごしごしと拭う。妹に見られるのは、やはりきまり悪い。
「上手にお茶が入ったよ。ヨシノさんはとてもお茶を入れるのが上手だよ、お兄ちゃん」
ヨシノさんは穏やかにサーシャに言葉を返す。
「サーシャちゃんのご指導が良いからです」
お茶を配りながら
「さっき、決めたって、先生言っていなかった?」
と、サーシャが首を傾げながら問いかける。
「ああ、そう言ったね」
あちっと、一口飲んで小さくメリーウェザ先生が呻きを漏らす。
「何を?」
サーシャの問いに、
「帝星に、サーシャたちと移住すること、さ」
と、事も無げにいった。
えええええっ!
とサーシャが叫んだ。
「ど、ど、どうして。ええっ? サーシャは帝星に行くの? え? メリーウェザ先生が? ええええっ!」
混乱するサーシャの手から、素晴らしいタイミングで、ヨシノさんがお盆を受け取った。
「前々から考えていたんだがね、踏ん切りがつかなかった。だが、サーシャたちが帝星に行くというのなら、私も行こうかと思ってね」
あちっと、再び口の中で先生が言う。
「両親の家も、帝星にはあるからね」
お茶を一口飲んでから、メリーウェザ先生は微笑んだ。
「両親が亡くなった記憶が恐くてね、近づけなかったんだが――もう一度、色々向き合ってみようと思ってね。サーシャ」
優しい声で、妹を呼ぶ。
「君たちが一緒なら、私も頑張れそうだ」
ハルシャは、サーシャにラグレンで事件が起こり、自分たちがここにいると、色々マスコミに騒がれるかもしれない。
だからリュウジが心配して、一緒に帝星に行くことになった、と説明する。
サーシャはそれで納得したようだ。
「で、でも――患者さんたちはどうするの?」
震える声で問いかけるサーシャに、ミア・メリーウェザは満面の笑みを浮かべて
「私より、腕のいい医者に、後を頼んでおこうと思っている」
と、あちちっと口で呟きながら言う。もう少し冷めるまで待てばいいと思うが、この温度のお茶が、メリーウェザ先生は好きだった。
「腕のいい医者?」
初耳だ。
サーシャの問いに、先生が微笑む。
「みんなも面識があるはずだよ」
サーシャとハルシャは顔を見合わせる。
医者らしき人に知り合いはいない。
「リュウジも知っているはずだ」
同じようにリュウジが首を傾げる。
ニコッと笑って、メリーウェザ先生は言葉を続けた。
「リンダ・セラストン。彼女は医療産業で有名なプロキオン星系出身でね、そこで医者になるべく大学に通っていたところを、エルド・グランディスに釣り上げられたんだよ。
エルドはきちんと彼女が卒業するまで待って、結婚したからね。荒くれ者の宇宙海賊を相手にしてきたんだから、腕は確かだ。
しかも、私よりメドック・システムの扱いに堪能だ――常々思っていたんだよ。彼女ほどの腕の医者を、廃材屋で終わらせるのはもったいない、とね」
あんぐりと開いた口がふさがらない。
「あの、廃材屋さんが!」
「そうだよ。自分の眼ことも、自分で処置したんだから、手間が無い」
さらりとメリーウェザ先生が言う。
「そうと決まれば、リンダに打診に行くかな」
よっこいせ、とメリーウェザ先生が立ち上がる。
「サーシャも一緒に行くか?」
「え、良いの?」
「もちろん。リンダが、あの天使のような可愛い子と、褒めていたよ」
照れるサーシャを見ながら、
「ヨシノさん」
と、リュウジが言葉をかける。
「同行して頂けますか。何かあってはいけませんから」
と、警戒の滲んだ声を出す。
そうだ。
電撃的な現職の
自分たちは渦中の人だった。
ヴィンドース家の遺児たちを、マスコミは取材したがっていた。
「危ないなら、よしとくかい?」
メリーウェザ先生が心配した言葉に、
「ヨシノさんがいれば大丈夫です。ぜひ、彼女に礼を僕からも言っていたとお伝えください」
と、リュウジが笑顔で言った。
「そうかい。なら、行こうか、サーシャ。ヨシノ」
三人が出て行くときに、リュウジとハルシャも一緒に動いた。
ジェイ・ゼルが、マシュー・フェルズに会うようにと、言葉を残していたからだった。
*
ジェイ・ゼルは自分の個人資産を全て、ハルシャの名義にしてくれていた。
クラハナの工場も――
そして、自宅の一切を、ハルシャに任せると彼は一言付け加えてくれていた。
ジェイ・ゼルの事務所は、大変な混乱状態だった。
その中で、毅然とした態度でマシューは全てを仕切っていた。
ジェイ・ゼルが出頭することを、マシュー・フェルズだけは知っていたようだった。
そして、ジェイ・ゼルの自宅の認証キーが、彼の手からハルシャに渡された。
「これから、ご自宅へ行かれますか」
マシューは、静かな声でハルシャに告げた。
「ネルソンに案内させます」
ハルシャはその言葉に従った。
今回は、リュウジが同行する事にも彼は異論を唱えなかった。
ジェイ・ゼルの黒い飛行車を開けてくれるネルソンを見ると、なぜだかハルシャは涙が溢れて止まらなかった。
「ネルソン」
初めて彼が運転する飛行車に乗って、この事務所へ連れてこられたことが、記憶に蘇る。
「ご無事でなによりでした」
ネルソンは静かにハルシャに言う。
「ジェイ・ゼル様から、ご自宅に自由に案内するようにと承っています」
ジェイ・ゼルは、この車で出頭したのだろうか。
思わずセイラメに向かう車内で問いかけたハルシャに、そうです、とネルソンは応える。
ジェイ・ゼル様は出頭される前に、クラハナ地域の工場へ行くようにと指示されました、とぽつんと呟いた。
清掃用品をご所望された、と。
ホテルで、珍しく車を戻されたのでなぜかと思ったら――もうお帰りなるつもりはなかったようです。
と、彼は寂しげに言葉を続けた。
ジェイ・ゼルをそこに残してきてしまったことを、彼は悔いているようだった。
胸が、痛んだ。
これからネルソンはどうするのだろう。
運命の渦のようなものに、巻きこまれている不安がある。
全ての原因である自分を、ジェイ・ゼルの部下たちは一言も責めなかった。軽く頭を下げて自分の脇を通り過ぎる。
自分に対して、いつも冷たいような気がしていたマシュー・フェルズだが、ジェイ・ゼルの自宅の認証キーを手渡してくれた眼差しは、優しかった。
彼はきっと、なぜジェイ・ゼルがこんな決断をしたのか、深く理解していたのだろう。
ジェイ・ゼルとマシュー・フェルズの間の、揺るぎない信頼関係を見たような気がした。
数時間前に出たジェイ・ゼルの自宅に、ハルシャは再び戻った。
リュウジを伴い、玄関に立つ。
瞬間涙が溢れて止まらなかった。
膝を折り、しゃがみ込んで、ハルシャは嗚咽を漏らした。
その背をリュウジが腕で包んでくれる。
「帝星に――この部屋のものを、すべて運びましょう。ハルシャ」
優しい声でリュウジが言う。
「そこで彼が戻るまで、保管しておきましょう。帝星の部屋に、彼が戻っても自宅にいるように――協力します。大丈夫ですよ、ハルシャ」
リュウジが泣き崩れるハルシャの背を、優しくさすってくれる。
「そこで、ジェイ・ゼルを待ちましょう。大丈夫ですよ。僕がいます」
*
ジェイ・ゼルの部屋を整理するのに、十日ほどかかった。
持ち運びできないもの以外は全て、リュウジが帝星へ向かう宇宙船へ積んでくれた。彼の服も、使っていた寝具も、書籍も、全て。
その間、ハルシャはサーシャをメリーウェザ先生に託し、ジェイ・ゼルの自宅の中で過ごした。
食材を無駄にしてはいけないと思ったからだったが、少しでも彼の雰囲気の中にいたかった。
一番日当りの良い場所に置いてあったサボテンを、ハルシャは大切に持ち帰った。
全てを撤収し、空っぽになった部屋を、リュウジと共に後にする。
その足で、ハルシャたちはクラハナの工場へ向かった。
出頭する前に、ジェイ・ゼルがここに寄ったという言葉が気になったからだった。
工場は、ハルシャの名義に書き換えられている。
リュウジは、ラグレンを離れる間の管理人として、マシュー・フェルズを任命していた。
ジェイ・ゼルがラグレンを去ってから数日して、イズル・ザヒル本人がラグレンを訪れ、事務的な処理をしていったと聞いている。
その折に、『ダイモン』のラグレン支部は解体され、事後処理に幹部が一人残されていったらしい。
ジェイ・ゼルの部下たちは、そのままイズル・ザヒルに伴われて『アイギッド』に向かう人が殆どだったが、マシュー・フェルズは残留したらしい。
その彼を、リュウジは管理者に任じ、全権を任せていた。
ネルソンも『ダイモン』を離れたと聞いている。マシューの話では、生き別れになった家族を探しに行くと語っていたそうだ。あの優しい人の願いが叶うように、ハルシャは心に祈っていた。
混乱が落ち着いたクラハナ地域の工場を訪れたハルシャとリュウジを、ガルガー工場長が迎え入れてくれた。
彼はやつれていた。
色々なことをが重なってしまった。
ハルシャは急に辞めた詫びと、これからもお願いしたいということを、丁寧に述べる。
帝星に離れる間は、マシュー・フェルズがきちんと管理をしてくれると話しをしておく。
リュウジは、この工場をカラサワ・コンツェルンの宇宙部品工場とすることを考えているようだ。そのことも含めて、リュウジと工場長は軽く打ち合わせをしている。ハルシャはリュウジに全て委ね、二人の会話にただ耳を傾ける。
揺るぎないリュウジの経営方針に、ガルガー工場長も安堵したようだった。
「ジェイ・ゼルが」
リュウジとの話が一区切りした後、ハルシャは、ガルガー工場に問いかけていた。
「ここで何かをしていたようだが、心当たりはあるだろうか」
ハルシャの言葉に、はっと、ガルガー工場長の表情が動いた。
彼は無言でしばらくハルシャを見てから、静かにうなずいた。
「ご案内します」
言葉と共に、ガルガーが歩き出す。
伴われたのは、ロッカー室だった。
「ジェイ・ゼル様は、ここで作業をなさったようです。逮捕のニュースのあった朝、最初に訪れた職員が、除去剤の匂いに気付きました。その前の日までは、変化はなかったのです」
ハルシャは、きれいに落書きが消された自分のロッカーを目に映して、立ち竦んだ。
これを――
ジェイ・ゼルが。
震える手を伸ばし、滑らかな表面に触れる。
彼の心が伝わってくるようだった。
ハルシャ
声が聞こえる。
「ジェイ・ゼル……」
小さく呟いて、ハルシャはロッカーに身を寄せた。
無言で立ち尽くすハルシャを、じっとリュウジは見守ってくれていた。
随分長い時間、ハルシャはそこから動くことが出来なかった。
ジェイ・ゼルの裁判は、傍聴人を一切入れない、厳格な警備態勢で行われた。
そして、決まった刑の期間は、七標準年。
そして――
ジェイ・ゼルが刑務所に収容されて三か月後、不慮の事故により、彼が死亡したという記事が、小さく銀河帝国新聞の片隅に、掲載された。