夢からまだ覚め切らないまま、傍らにあるはずの温もりをハルシャは無意識に求めていた。
「ジェイ・ゼル……」
呟きに応える声がない。
まどろみを引きずりながら、目を開いて彼の姿を探す。
ジェイ・ゼルはいなかった。
瞬きをしてから、ハルシャは身を起こした。
「ジェイ・ゼル?」
もう日が高くなっていた。
随分ぐっすりと自分は眠ってしまったようだ。
しばらくぼうっと、寝台に身を起こして見るともなく、部屋を眺める。
もう、ジェイ・ゼルは、仕事に行ったのかもしれない。
そんなことを昨日言っていたような気がする。
朝早く出るかもしれないが、ハルシャは寝ていたらいいから、と。
予期せぬあくびが一つ出る。
ふと気付くと身が拭われていた。
ジェイ・ゼルがしてくれたのだろうか。
昨日は――臆面もなく彼を求めてしまった。
顔がかっかと赤くなる。
自分があんなに大胆になれるなど、初めて知った。
熱い頬を手の平で包み、ハルシャは身を動かした。ベッドから降り、ベッドサイドにジェイ・ゼルが置いてくれていた服を着る。
これも新しい品のようだ。
ここに滞在するために、ジェイ・ゼルが気遣ってくれているのを感じる。
ジェイ・ゼルの姿を求めて部屋の中を歩いていくと、食卓に自分の分の料理が置いてあるのを発見する。
メモが添えてあった。
ジェイ・ゼルの特徴的な文字だ。
手に取り、内容を読む。
やはりジェイ・ゼルは仕事に出かけたようだ。迎えに来てくれるまで、彼をここで待っていれば良いようだ。
「わかった、ジェイ・ゼル」
メモに向かって、ハルシャは言葉をかける。
彼が話しかけてくれた時のように。
顔を洗ってから、用意してくれていた食事を感謝と共に口にした。
「とても美味しい。ありがとう、ジェイ・ゼル」
食卓で、自分の前に座を占めていた姿を想いながら、ハルシャは感謝の言葉を伝えた。
それは良かった。
優しい声で、返事が聞こえたような気がする。
微笑むと、ハルシャは静かに食事をとり続けた。
昨日の内に、食材のことは聞いていた。何でも使って食べて良いと――
お昼は何を作ろうかと、考える。
ジェイ・ゼルはまだ戻らないだろうから、一人分で良いだろう。
だが、もし彼が帰ってきたら――
そんなことをつらつらと考える。
食後の薬を飲んでから食器を洗い、ハルシャはソファーへ向かった。
他の映画を観ようとして座った机の上に、昨日ジェイ・ゼルが書いてくれた、子守唄の歌詞があった。
手に取り上げて、半分に折っていたのを広げる。
睫毛を伏せて、一気に書いてくれていた様子がふと、視界に浮かぶ。
しばらく見つめてから、ハルシャは歌い始めた。
ジェイ・ゼルは、昨日、子守唄を歌ってほしそうにしていた。
あまりにも恥ずかしくてついついうやむやにしてしまったが、申し訳ない気持ちが胸の奥にちりちりとしている。
しっかり練習をして、今夜歌ってあげようと、心に決める。
照れくさいが……ジェイ・ゼルがそうしてほしいのなら、頑張れるような気がする。
彼の手書きの文字を見つめながら、ハルシャは子守唄を静かに口ずさむ。
記憶の中のジェイ・ゼルの優しい声が、重なって聞こえるようだ。
今夜、眠る時に歌ってあげたら、ジェイ・ゼルは喜ぶだろうか、と、頬を染めて考える。自分の歌を聞きながら、彼が眠りについてくれたら――と思うと、心の奥がほんのりとした。
想像を噛み締めながら、ハルシャは懸命に練習を続ける。
子守唄を歌うハルシャの少し高い声が、ジェイ・ゼルの部屋の中に響き続けていた。
*
昼を過ぎて、恒星ラーガンナの光が建物の影を、路面に落とす。
その影を踏んで、リュウジはレズリー・ケイマンが執政官として居を定める、執政館府を見上げていた。
建てられてから三百年経つ重厚な建物だった。
決戦の覚悟を決めると、傍らに立つ、水色の最新式のドレスをまとう女性に声をかける。
「準備はよろしいですか、レディ」
大柄な女性は金色の髪を背に流し、つばの広い帽子を右に傾けるようにして、あみだにかぶっていた。この帽子も最新式のものだ。
軽やかな装いがとても良く彼女に似合っていた。
優雅な帽子のつばからのぞく、形のいい赤い唇が笑みの形を作る。
「いつでも」
「では」
彼女に腕を差し出す。
優雅な仕草で、彼女はその腕に手を触れ、エスコートを許す。
微笑むと、正式な服装をまとって威儀を正したリュウジは、磨き抜かれた靴の爪先を一歩出した。
「参りましょうか――毒蛇狩りに」
「望むところです」
二人は並んで歩を進める。
その後ろから静かに、吉野が従った。
吉野は今日、自分の秘書という触れ込みだった。
カラサワ・コンツェルン次期総帥カラサワ・リュウジは、祖父の名代として惑星トルディアを訪れたという理由をつけたのだ。
訪問の目的は、こうだ。
カラサワ・コンツェルンは、紫の森の観光資源としての価値に注目している。
ラグレン政府の協力を得られれば、新規事業の開拓も視野に入れている。
ついては、レズリー・ケイマン
もちろん、極秘で、だった。
ラグレン政府にコンタクトを取るに当たり、リュウジは、なりふり構わず祖父に懇願した。
孫がやっと自分に連絡を入れたことが嬉しかったのか、それとも、ハルシャの境遇に同情したのか、祖父はすんなりとリュウジの申し出を受け入れてくれた。
その代わり肩のマッサージを十日間、リュウジがすることを約束させられる。祖父は孫に肩をもんでもらうことを、無上の喜びとしているようだ。
リュウジは笑顔で祖父に快諾を伝える。
そして、最速で申請が出され――
本日午後一時に、リュウジたちはレズリー・ケイマンと面会する手はずを整えたのだ。
玄関の前で控える衛兵たちに、通行パスを示し、リュウジは静かに建物の中に入った。
入り口で来訪の意を伝えると、もう連絡がいっていたのだろう、一部の隙もない男が自分たちを出迎え、ケイマン
彼はリー・アルバンタインと名乗った。レズリー・ケイマン
運動を趣味にしている人独特の動きで、アルバンタイン第一秘書が自分たちを建物の最上階、五階の一室へと案内する。
執政官室と、扉に流麗な文字の表記があった。
扉の向こうは前室で、秘書が控える場所となっていた。さらにその奥にレズリー・ケイマン本人が居る部屋が広がっている。
「
一応ここでは、リュウジは偽名のマサキ・ウィルソンを使っていた。レズリー・ケイマンには次期総帥のカラサワ・リュウジが訪ねるとは伝えてある。
だが、訪問は極秘と釘をさしているので、偽名の方で訪問が通っているらしい。
さすが、そつがない。
「どうぞ」
やや高めの声が聞こえる。
その声を耳にした途端、隣の女性の身が微かに強張った。
第一秘書が開けてくれた扉の向こうに、笑顔で机から立ち上がるレズリー・ケイマンの姿があった。
「ようこそお越しくださいました、ウィルソンさん」
リュウジもニコニコ笑いながら彼に近付き、伸ばしてきた右手をしっかりと握って握手を交わす。
「はじめまして、
「レズリー・ケイマンです。お目にかかれて光栄です」
微笑みながらリュウジは手を離し、隣に控える水色のドレスの女性を示す。
「こちらは私の共同経営者のレディ・ミリアム・アーソルトです。
主に観光資源に関する分野を専門に手掛けています」
レディという貴族の称号に敬意を示しながら
「ようこそ、レディ・アーソルト。レズリー・ケイマンです」
と、彼女が差し出した白手袋が美しくはめられた手を握る。
瞬間、わずかにレズリー・ケイマンが顔を歪めたことを、リュウジは見逃さなかった。
「はじめまして、ケイマン
優雅な帝国公用語を話す女性に、ケイマンは微笑みを与えた。
手が離れたタイミングで
「後ろにいるのは、私の秘書のクラシキ・オリエです。この会合に同席させていただきます」
吉野にも慎重に偽名を使う。吉野貴臣という本名を名乗る必要は無かった。
「もちろんです」
吉野には愛想の良い笑みだけを与えて、
「どうぞ、お座りください」
と、執政官用の重厚な机の前にある、応接セットを示す。
「では、お言葉に甘えて」
と、リュウジはレディ・アーソルトを導いて、彼女と並んで指示されたソファーに座った。
執政官室の窓の横には、紫の森をデザインしたラグレンの紋章が縫い取りになった旗が掲げられている。
「すてきな惑星ですね。文化的で清潔で、リトル・ガイアとの異名もうなずけます」
リュウジは穏やかに話を切り出した。
「お陰様で、とても平和な都市です」
レズリー・ケイマンはにこやかにリュウジに応える。こちらの意図を知っているので、懸命に売り込みをしようとしているらしい。
しばらく都心ラグレンの優れたところを、褒め称えることで時間を費やす。
「これだけ優良な都市なのは、やはりまとめあげる執政官のお力のため、と考えざるを得ませんね」
リュウジの持って回った褒め言葉に、嬉しそうにレズリー・ケイマンが笑う。
笑うと、皮膚にわずかな古い傷のようなものが浮かぶ。
リュウジは静かに目の前の男を観察する。
レズリー・ケイマンが第一秘書を前室に去らせたところで、リュウジは本題に入った。
「紫の森の観光資源としての価値に、私たちカラサワ・コンツェルンは大変興味を抱いております」
「紫の森は、都心ラグレンの主要な収入源となっております」
そして、過去五年間の観光客の推移を、さらさらとケイマンは諳んじてみせた。
頭脳はそこそこ明晰らしい。
リュウジは感心してみせた。
「もし、私たちカラサワ・コンツェルンがあなたがたラグレン政府の協力を得られれば」
静かに、リュウジは呟く。
「その人数を、五倍にして差し上げます」
利に敏いレズリー・ケイマンの目が静かに、底光りした。
魚が餌に食いついた。
だが。
勝負はここからだった。
急いで引き上げると、口から釣り針が外れてしまう。しっかりと魚が自分の中に深く呑み込むまで、まずは自由に泳がせることだ。
「クラシキ」
リュウジは吉野の偽名を呼んで、
「例の資料を」
と、指示する。
吉野は携帯してきた鞄から、タブレット端末を出して、レズリー・ケイマンに手渡す。
彼は比較的大きな画面を両手で持ち、そこに展開される情報に目を落としている。
「何といっても、惑星トルディアの一番の観光資源は紫の森です。
ですが、ここ数日視察させて頂いた手ごたえでは、その価値を十二分に生かしているとはいいがたいと、私とレディ・アーソルトと結果を出さざるを得ませんでいた。
というのは、魅力的な時間帯――夜間の観光を、少しも開発されていないというところが、大変惜しい」
リュウジは微笑んで言葉を続ける。
「惑星トルディアには、衛星――つまり、月がありません。なので、夜はいつも多変に暗い。
逆にそこを利用し、様々な照明を駆使し、夜の紫の森をライトアップするのです。
そのための動力はカラサワ・コンツェルンで独自に開発した、太陽光の蓄電池型のものが使えます。惑星トルディアには雲が発生しませんので、コンスタントに集光できますので、うってつけです」
リュウジは言葉を切り、発言の効果を確かめてから、再び話しを続けた。
「神秘的な紫の森の、夜間ツアー。決行すれば、観光客は倍になります」
効果的に笑みを浮かべる。
「それに、今の観光ではただ、浄化装置付きの車内から眺めるだけです。それでは大変勿体ない。
わが社が独自に開発した、個人装着の浄化装置付き宇宙着を使えば、自由に森の中を散策できます。
工夫次第では、森の中で一夜を過ごす――というのも可能かもしれません。
そうなると、さらなる集客を望めると思います」
リュウジは、説明につれてレズリー・ケイマンの手元で切り替わる画像を視界に入れながら、滔々と語り続ける。
巨大企業カラサワ・コンツェルンは、多角経営で知られている。
宇宙船部門はリュウジが主力を注いで育て上げてきた、稼ぎ頭だった。
タブレットに表示された宇宙着をアレンジした『紫の森散策服』の仕様に、レズリー・ケイマンは知らず知らずに声を上げている。
「なるほど、直接森の木々に触れられる、というと確かに魅力が増しますね」
「最近は体験型のアトラクションが人気です」
ずばりとリュウジは言い切る。
「紫の森では、落ち葉の季節がとてもきれいだそうですね。たとえば、一日じっとそこで落ち葉が降り積もるさまを楽しむ――という、瞑想などを取り入れた体験型の催しも考えられます。スピリチュアル部門も、人気が高い項目です」
ほう、とレズリー・ケイマンが感嘆の声を上げた。
「我々では思いつかない発想です。なるほど」
「もし、ラグレン政府のご協力を得られるのなら――カラサワ・コンツェルンとしても、全銀河を対象に働きかけを行い、一大ムーブメントを起こすのも可能だと考えています」
ちょっと言葉を切ってから、
「もちろん、平和な街が好ましい。あまり観光客が出入りしても、とケイマン
「いえいえ、大変魅力的なお話です。ぜひラグレン政府としましても、協力させて頂きたい」
手を引かれるのを恐れてか、レズリー・ケイマンが慌てて言う。
にこっと笑って
「大変ご協力的で、こちらとしても大変ありがたい。総帥にもそのように伝えておきます」
さらにリュウジは、紫の森の木材の優良さについても指摘する。
もっと木工業を発達させてはどうか、と。
工場を建てれば、雇用も発生し、さらに豊かになるのではないか。
紫の森の落ち葉を利用した加工品の可能性にも、言及する。
次々に繰り出すアイディアに、レズリー・ケイマンはすっかり興奮し、こちらの手の中に次第に入ってきた。
頃合いを見て、リュウジは吉野に、執政官の手からタブレット端末を取る様に指示する。
「さすが、大企業の方は発想力がありますね。我々は千篇一律のことしか出来ていないと、思い知らされました。
このラグレンの可能性をここまで引き出して下さるとは――」
リュウジは笑みを深めた。
「ですが、大量の観光客を呼び込むとなると、これまでとはまた違った問題が出てきますね。
例えば、大気の問題や、食糧そして、飲用水――」
静かな声で呟く。
「ラグレンでは水は極端に少ないのですね。しかも大変に高価だ。いくら紫の森で観光客を呼び込んでも、物価が高いとブームも一過性のものに終わってしまいます。
恒常的に観光客を呼び込むのなら、こうしたライフラインの確保が必須となります。そこはどうお考えですか。ケイマン
先ほどまではしゃいでいると言っても過言でなかった、レズリー・ケイマンの表情が変わった。
「水問題は、常にラグレン政府にとって深刻な問題です」
やや重い口調になって彼は言う。
「実際、ラグレンに現在ある水は、帝星や惑星ガイアからの輸入品です。確かに――シャワー施設のないホテルがラグレンではほとんどです。
惑星ガイアのレベルを観光客が求める気持ちは解りますが、それがラグレンの現実だと心得ていただき……」
もごもごと、言い訳のような理由を、ケイマンが呟いている。
リュウジは彼に好きに喋らせておいてから、言葉が途切れたところで、切り出した。
「ですが、惑星トルディアは実際には水があるのではないですか? 偽水と呼ばれているようですが――」
レズリー・ケイマンの顔に笑みが浮かんだ。
「『偽水』は、水とありますが飲用不可なのです。工業用や洗濯などには使えますが――」
おや、とリュウジは眉を上げた。
「私の聞いた話では、すでに偽水を飲用水にする技術が確立されたらしいと。
飲用水が確保できるのならと、カラサワ・コンツェルンとしても今回の企画を通すつもりになったのですが」
あからさまに、レズリー・ケイマンの顔が変わった。
「それを、どこからお聞きになったのですか」
丁寧な口調で彼が問いかける。
リュウジは静かに言葉を返す。
「ラグレンの名士、ダルシャ・ヴィンドース氏からです」