ほしのくさり

第206話  愚かな想い






 ジェイドという本名を口にした瞬間、イズル・ザヒルの目が僅かに見開かれた。
 彼は何も言わなかった。
 無言を了承と取り、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。

「先代の頭領ケファルの元より、妹共々イズル・ザヒル様がお救い下さったとき、私は『愛玩人形ラヴリー・ドール』としての自分の過去を封じました。
 もう二度と誰かに支配される人工生命体の境遇には戻りたくないと。
 それから私は「人間」であろうとし続けました。
 人間は、よほど親しくなければ安易に唇を触れ合わさない。自分の頭で判断し、きちんと生きていかなくてはならない。
 性の奴隷としての生しか知らなかった私には、一時間でも人として振る舞うのは難しいほどでした。
 ですが、イズル・ザヒル様が常にお側に自分を置いて下さり、人としての所作の全てを、身をもって教えてくださったお陰で、次第に意識せずとも人の間で生きていくことが出来るようになりました。
 人として生きていくようになると、『愛玩人形ラヴリー・ドール』であった自分が、どれだけ歪んだ生き方をして来たのかを、思い知らされました。
 恥ずべき過去であり、忌まわしき記憶です。
 私は決してこの瞳の色を快楽に変じさせないでおこうと、心に誓いました。
 人間は、瞳の色が変わることなどありません。
 行為の最中に、もし色が変わったらと思うと、ある意味恐怖に近いものが身の内にあったのは確かです。
 ですが、頭領ケファルのお力になることであればと思い、少年たちの指導も誠心誠意努めさせて頂きました。
 その中で、新たな自信が出来てきたのも事実です。
 誰も自分が『愛玩人形ラヴリー・ドール』であることに気付きませんでした。ただ、性技に堪能なだけだと理解されているようです。それは、この上なく嬉しいことでした。
 自分は人として振る舞えている。ようやく過去を乗り越えられたように、思ったのです」

 ジェイ・ゼルはふと、言葉を切った。
 沈黙したままイズル・ザヒルは耳を傾けてくれている。
 そのことを感じながら、次に話すことへの勇気をかき集める。

「ですが、その自信が――ハルシャと出会って、崩れ去りました。
 ただ体だけの関係であれば、相手を快楽に導き満足を与えることが出来るのに、ハルシャには自分の全てが通じませんでした。
 それでも、私は彼を求め続け、そして、体で繋がることしか出来なかったのです。
 あれほど人間として生きようとしていたのに、たった一人、心から求めた人には『愛玩人形ラヴリー・ドール』として培ってきた技術でしか、対応できなかったのです。
 過去に封じたはずの自分が、やはり本当の自分だった。
 どんなに「人間」の振りをしても、自分は忌まわしい惑星アマンダで作り出された人工物でしかないのだと、思い知る日々でした。
 彼を自分の毒に浸している、無垢な少年を踏みにじっている。解り過ぎるほど解っていました。
 それでも、私は彼を求めずにはいられませんでした。
 契約がある限り自分に彼を繋ぎ止め、ただ身を合わせることで思いを伝えようとしていたのです。
 けれど。
 唐突に、契約は終了を迎えました。
 ハルシャの借金は全額返済され、私には彼と関係を持つ理由を、全て失いました。
 だから――彼を手離したのです」

 落ちそうになる視線を留めながら、ジェイ・ゼルは大きく息を吸って言葉を続けた。

「ハルシャは惑星トルディアの父と呼ばれる偉大な祖先を持つ、名家の家長です。闇の金融業を営み、彼の身を弄んだ私の傍に、置くことは許されない。
 どれほど彼が愛しくても、私は彼には相応しくない。
 ハルシャを自分から解き放ち、自由に生きていて欲しかった。
 それが、理由です。
 ハルシャは納得していないようでした。それでも、彼を突き放すのが私に出来る、彼のためのたった一つの正しいことだと、思っていました」

 あの時の別離の苦しみが身の内に湧き上がってくる。
 歯を一瞬食い縛って痛みに耐えてから、ジェイ・ゼルはもう一度顔を上げて言葉を続けた。

「突き放し、二度と来てはならないと言っておいたのに――
 それでもハルシャは、私を訪ねてやってきました。
 私が不在の折に事務所を訪れたようです。命じた通りに追い返そうとした部下に、必死に食い下がり、彼は私の自宅へとたどり着いたのです。
 そこまでして、必死に訪ねてくれた彼を――それでも、追い返すのが正しいことだと、解っていました。
 自分の手元に置てはいけない。
 光の元に返してあげなくてはならない。
 言葉を尽くし、私はハルシャを説得しようとしました。自分が帝国法違反の人工生命体『愛玩人形ラヴリー・ドール』であることも告げ、爛れた過去も伝えました。
 それでもハルシャは諦めようとしませんでした。
 彼が結局心を決めたのは、私が彼の幸せを祈っている、それが手放すことだと信じていると、理解してくれたからです。
 私の願いだから、ハルシャは別離を決意してくれたのです」

 想いが込み上げる。

「別れたくないと全身で叫びながらも、彼は心を決めてくれたのです」

 イズル・ザヒルの薄青い瞳が、自分の心を語るジェイ・ゼルを静かに見つめていた。

「ハルシャは、元来、言葉で思いを伝えることが得手ではありません。むしろ、言葉足らずで相手に誤解を与えてしまうこともあり、職場では苦しい立場に立たされていました。
 本人もよく自覚していて、思いを言葉にすることを躊躇する場面がよくありました。
 そんな彼が、別れを決意した後、懸命に想いを伝えようとしてくれたのです。
 ひどく朴訥で、飾りのない言葉で」

 溢れる涙を抑えることもせずに、必死に伝えようとしていた姿が、心に浮かぶ。
 胸の内に姿を抱き締めながら、ジェイ・ゼルは言葉を呟いていた。

「その時に、彼は言ってくれたのです。
 ――私は、まがい物の人間ではない」

 込み上げるものを飲み下しながら、ジェイ・ゼルは震える声で続けた。

「本物の『愛玩人形ラヴリー・ドール』なのだ、と」

 イズル・ザヒルの眼が、真っ直ぐに自分を見つめる。
 彼の眼差しを受け止めながら、ジェイ・ゼルは続けた。

「私はずっと、人間であろうとしてきました。『愛玩人形ラヴリー・ドール』である自分を憎み、呪い、封じ続けてきました。
 そんな私にハルシャは、あなたの本当の姿は『愛玩人形ラヴリー・ドール』なのだと、教えてくれたのです。
 それでいい。
 それ以外にならなくてもいい。私はそんなあなたを誇りに思うと、言ってくれたのです。
 そこまで告げて、ハルシャは私の部屋を立ち去りました。彼が部屋を去った時、どうしようもない喪失感に襲われたのです。
 その時、イズル・ザヒル様の声が聞こえました。かつて、私にかけてくださったお言葉です」

 眼差しが触れ合う。

「お前はどうしたいんだ、ジェイ・ゼル。
 逃げるな。
 本気を見せてみろ――と」

 ぴくっと、イズル・ザヒルの頬が震えた。

「耳に聞こえた瞬間、私はハルシャを追いかけていました。自分が別れる様に説得し続け、ようやく決意した彼を、です。
 去ろうとした彼を腕に抱きしめた時、自分の決断は間違っていなかったと、思いました。
 ハルシャほど深く自分を理解し、愛してくれる人はいない。
 彼の前では、ありのままの私で居られるのです。
 まがいものの人間ではなく――本物の『愛玩人形ラヴリー・ドール』として」

 あの時の感動が胸の内に湧き上がってくる。

「彼は過去も、肌を通じてしか相手に触れ合えない私のことも、全てを理解して受け入れてくれました。
 だから、彼には告げることが出来たのです。
 私の本当の名が、ジェイドであることを……あれほど忌み嫌った、ナダル・ダハットの所有物であった証の名を……私は、ハルシャには、知って欲しいと思ったのです。ありのままの、本当の私を。彼には、彼だけには……」

 頭領ケファルは、知っている。
 どれほど自分が「ジェイド」の名を嫌っていたかを。
 二度と『愛玩人形ラヴリー・ドール』に戻りたくないという戒めを込めて、あえて「J」の頭文字を名乗ろうとするほど。
 忌まわしい記憶とともに、惑星アマンダで作られた生命体としての名はあった。
 エメラーダが自分の名を臆することなく名乗ることを、羨ましくさえ思えるほど、自分は本名を忌避していた。
 その音は、かつての所有者の口からでたものだったからだ。
 過去の記憶に心を乱しながら、ジェイ・ゼルはなおも言葉を続けた。

「ハルシャは私の全てです。腕に抱きしめた時に、彼の未来を何があっても守ると、心に誓いました。
 もう二度と、彼を誰にも傷つけさせないと――けれど」

 抑えようのない想いが、内側から溢れて、止まらない。

「ハルシャの不幸の真の原因は私でした」

『ジェイ・ゼル』

「いえ、イズル・ザヒル様。彼に借金を負わせる原因を作ったのは、私です。私がダルシャ・ヴィンドースに一三五万ヴォゼルを貸し付けたのです。
 企みによって両親を殺された少年の身を、凌辱し、極貧の生活に甘んじさせ、夢も希望も奪い――妹の存在を盾にとり死ぬことすら許さず、生き続けさせたのは私なのです。
 彼の両親の血に濡れた手で、私は――自分を深く愛して、理解してくれる大切な人を、抱いてきたのです。
 私は――」

 溢れそうなものを飲み下し、飲み下し、ジェイ・ゼルは呟いた。

「この命をかけて、ハルシャ・ヴィンドースに償いをしたいのです」

 唇を噛み締めてから、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。

「私の身を考え、レズリー・ケイマンを処分して下さろうとなさった、頭領ケファルのご温情はこの身に染みて理解しております。
 それでも、罪深い身でありながら、裁きを受けずに私はハルシャの側にいることが出来ません。
 愚かなことです。
 我が子として戸籍を与えて下さり、類まれなご恩腸を頂戴しているイズル・ザヒル様を裏切る行為だとは、重々承知です。
 ですが――私は罪人として裁かれることでしか、愛する人を傷つけて来た自分を許すことが出来ません。
 裏切りが死に値するとお考えなら、この身をご処分下さい。
 ですがその前にどうか――」
 懸命に言葉を続ける。
「どうか、レズリー・ケイマンがヴィンドース夫妻を謀殺したという証拠を、私にお与えください。
 お願いいたします、イズル・ザヒル様」
 ジェイ・ゼルは頭を再び下げた。

 愚かなことだ。
 たった一人の人のために、自分は大切な人々を裏切り、全てを捨てようとしている。
 それでも悔いが無いほどに――
 私はハルシャを愛してしまった。


 長い沈黙の後、イズル・ザヒルが口を開いた。
『君を』
 静かな言葉だった。
『ラグレンへ、向かわせるのではなかったな』

 ゆっくりと顔を上げると、微笑みを浮かべたイズル・ザヒルが、ジェイ・ゼルを見つめていた。

『ハルシャ・ヴィンドースに、出会ってしまう未来が解っていたならな』

 後悔がかすかに滲んだ言葉だった。
 今彼は、頭領ケファルではなく、イズル・ザヒル個人として言葉をかけてくれている。
 無言で眼差しを交わし合った後、ジェイ・ゼルは震える声で、呟いた。

「ハルシャ・ヴィンドースに出逢っていなければ、私は一生、まがい物の人間で終わりました。虚偽の存在であることに怯えながら、自分自身を否定し続けていたと思います。
 ですが」

 愛し合った時の、ハルシャの眼差しがよみがえる。
 その記憶を抱き締めながら、ジェイ・ゼルは言葉を続けた。

「ハルシャのお陰で自分が何者かを、思い出しました。私は、肌を通じて快楽を与えるために存在する――惑星アマンダの科学の粋を集めて作り出された、宝玉の名を持つ『愛玩人形ラヴリー・ドール』です。
 たった一人のためだけに、私の瞳の色は変わります。
 その深く真摯な喜びを――ハルシャが教えてくれました。
 彼と愛し合った時、私は生まれて初めて『愛玩人形ラヴリー・ドール』である自分を……許すことが出来たのです」

 悲しみに近い笑みを、イズル・ザヒルが浮かべた。

『君のためと思いながら――私は君の本質を否定し、人間であることを強制していたのかもしれないね』
 苦い痛みが彼の口調からこぼれ落ちる。
『君は、愛し、愛されるためにこの世に生を享けた。なのに私は後継者としたいがために、君に暴力的な行為を強いてきた。
 命を傷つけることは、君の本質に反することなのにね。さぞ苦しかっただろう』
 ぽつりと、言葉が滴る。
『それでも君は耐え続け、私の期待に応えてくれた。
 だから気付かなかったんだよ、ジェイ・ゼル。
 君がそんなにも、傷つきながら生きていたことに』

 優しい声で、イズル・ザヒルが呟く。

『ハルシャ・ヴィンドースの腕の中で、君は自分自身に戻ることが出来たのだね』

 これほど深く、自分を理解してくれた人がここにもいたのだと。
 ジェイ・ゼルははじめて悟った。

「イズル・ザヒル様……」

『君は、やはり『愛玩人形ラヴリー・ドール』だ。人を愛し、慈しむためにこの世に生まれてきた。だから、誰も傷つけずに、自分だけが傷つこうとするのだね』
 穏やかな声で、微笑みながらイズル・ザヒルが呟いた。
『初めて出会った時には、まだ八歳の少年だったが、いい大人に成長したな。ジェイド、君は――』
 眉を寄せて、イズル・ザヒルが言葉を絞り出した。
『私の自慢の息子だった』

 不意に、イズル・ザヒルが立ち上がって、ジェイ・ゼルに背を向けた。

『欲しがっていたデータを今から手元に送る。
 安心しろ。私は録音する時は、相手の声だけしか入れていない。自分の言葉を残して、余計な詮索を受けたくはないからな』
 抜け目のない頭領ケファルらしい配慮だった。
『被害がこちらに及ばない限り、裏切り者とはみなさない。君が個人的に愚かな摘発を受けて、犯罪を暴露したと説明しておく。
 ただし、少しでも私に不利益が及ぶ時は、命で贖ってもらう』
「はい、頭領ケファル
 言葉が震える。
「ありがとうございます」

 背を向けたまま、しばらくそこにイズル・ザヒルは佇んでいた。

『摘発を受けたら、一度ラグレン支部に私が赴こう。後の処理は任せておきなさい』

 破格のことだ。

『元々、君のためだけに開いた支部だ。撤収も視野に入れる。働きたいという君の部下はこちらで引き取るから、安心しなさい』

 今、耳にしたことが信じられなかった。

「ラグレン支部は――」

 イズル・ザヒルが振り向いて、静かに笑った。

『君が力をつけて、私の後継者として相応しく成長するための場所として選んだだけだ。元々、君が引き上げたら、撤収するつもりだった。
 レズリー・ケイマンにも、そのことは含めておいたはずだったんだがな。
 君のことを全面的にサポートする約束で、執政官まで行かせてやったのだが。
 欲が出たのだろう。
 愚かな男だ』

 笑みを深めて、イズル・ザヒルが呟く。

『命を賭けても悔いが無いほどの人に出逢ったことを――喜ぶべきなのだろうな。父親ならば。息子が真の幸福を見出したことを。だが、私は悔しくて仕方がない』
 小さく首が揺れる。
『ラグレンで、君は永遠の伴侶を見出し……私は大切な息子を失った』

 笑みを消すとイズル・ザヒルは再びジェイ・ゼルに背を向けて歩き出した。

「ありがとうございます! イズル・ザヒル様」

 ジェイ・ゼルの言葉にイズル・ザヒルは振り向かなかった。
 もう、二度と逢うことはないと、悟っているような背中だった。
 迷いのない足取りで彼は部屋を出て行った。
 彼の消えた部屋を見つめ続ける。

 しばらくして専用回線のデータ移送装置が点滅して、情報が送られてきたことを告げる。
 ジェイ・ゼルは自分の部屋に戻り、電脳用の記憶装置にデータを移行した。
 移したデータを手に持ち、送られてきた情報を確認する。
 それは、音声だけでなく、画像も入った完璧なものだった。
 レズリー・ケイマンの後には、ラグレン政府の紫の森の意匠の紋章入りの旗がかかっている。
 密議の言葉を、ヘッドセット越しに確認する。
 やはり、マイルズ警部の話していた通り、彼の正体はセジェン・メルハトルで、ダルシャ・ヴィンドースがその正体に気付いたと、狼狽えながら訴えている。
 何度か重ねられた通信の記録が、明確に録画されている。
 行ける。
 これで、レズリー・ケイマンが為したことを証明できる。
 立ち上がろうとしたジェイ・ゼルは、動きを止めた。
 繋ぎっぱなしだった頭領ケファル専用の部屋に、別の人物が入って来た。
 驚きに、目を瞠る。
 涙をこぼしながら、エメラーダが画面に向けて駆け寄って来た。
『お兄さま!』

 瞬間、ジェイ・ゼルは悟る。
 イズル・ザヒル様が、妹を呼んで下さったのだ。
 最後の別れを、交わすために。

「エメラーダ……」
 立ち上がり、画面に両手をつく。
 その手の平の形に添うように、妹が華奢な指を合わせる。
 遠く離れた場所であっても、手を握り合うように。
 かつての記憶が蘇る。
 醜悪な所有者からの暴力に、二人は指を絡めながら耐え続けた。
『お兄さまは、ハルシャ・ヴィンドースを選ばれたのですね』
 微笑みながら、きれいな灰色の瞳から、涙が溢れて頬を伝う。
『イズル様からうかがいました』

 私室からほとんど出さない妹を、自分に逢わすためにわざわざ連れて来たのだと、ジェイ・ゼルは悟る。
「ハルシャが私を選んでくれたのだよ」
 静かに言葉が滴る。
「彼と出会って、初めて私は自分自身を許すことが出来た」
 愛する人と身を合わせることの悦びを、自分はハルシャに教えられた。
 瞳の色が変わることすら、彼への愛と感じるほどに。
 その例えようのない喜びを、妹に伝えたかった。
「命を失っても悔いないほどに、私はハルシャを愛している。彼は私が『愛玩人形ラヴリー・ドール』であることを、全て受け入れてくれたのだよ、エメラーダ」
 ぽろぽろとエメラーダの頬から涙がこぼれ落ちる。
『お兄さま――』
「ジェイドでいいよ、エメル」
 微笑みながら呟く。
「昔のように呼んでおくれ。私の本当の名を」
 もう、これがきっと君に逢う最後だからと、言葉に出来ずにただ、ジェイ・ゼルは笑みを浮かべた。

『ジェイド』
 滑らかにエメラーダが名を口にする。
『どこにいても、幸せを祈っています。私の大切なジェイド』
「私よりも、ハルシャのために祈ってくれないか、エメル」
 手の平を合わせながら、ジェイ・ゼルは呟く。
「彼が幸せなら、私は幸せだ」

 エメラーダはうなずいた。
『解りました。ずっと祈っています。ハルシャ・ヴィンドースとジェイドの幸せを。この命が尽きるときまで、ずっと』
「私も祈っているよ、エメルとイズル・ザヒル様の幸せを」
 眼差しを交わし合う。
「すまない、エメル。行かなくてはならないところがある。もう、通信を切るね。
 申し訳ないが、先ほどイズル・ザヒル様にお伝え出来なかったことを、エメルから伝えてもらっても良いかな」
 笑みを消して、ジェイ・ゼルは呟いた。
「私は――あなたの息子になれて、幸せでした。お父さま、と」

 ぐっと、エメラーダが唇を引き結んだ。
 眉を寄せて、ジェイ・ゼルは呟いた。
「愚かな兄を許しておくれ、エメル」
 呟きに、エメラーダが激しく首を振る。
『愚かではありません、愛し抜いた人のために命をかけるのは――』
 微笑みに涙をこぼしながら、彼女は呟いた。
『とても幸せなことです。私は誇りに思います』
 
 同じ感情を理解してくれる妹に、ジェイ・ゼルは、ただ微笑んだ。

「ありがとう。愛しているよ、エメル」
『私もです、ジェイド』

 合わせていた手を離して、小さく振るとジェイ・ゼルは通信を切る。
 もう、思い残すことはないような気がした。

 気持ちを立て直すと、後ろの棚に保管していた、ダルシャ・ヴィンドースとハルシャたちに関する資料を、持ち運んで来た鞄に入れる。
 中に入っていたハルシャの涙が沁み込んだ服を、そっと一番上に戻し、データを握り込んで、専用回線の繋がれている部屋を出た。
 もう、ここに帰ることはないと、心に呟く。
 私室を抜けて、事務室にいた部下に軽く挨拶をしてから、そのまま外へ出る。
 夜明け前に訪れたが、すでに日が昇り始めていた。
 廊下を進みながら、鮮やかな夜明けの空を見つめる。
 ネルソンはずっと、玄関で待っていてくれた。
 待たせた詫びを呟き、ジェイ・ゼルは
「『アルティア・ホテル』へやってくれないか」
 と、指示を出した。

 ふわっと浮いた飛行車の窓から、ジェイ・ゼルは夜明けのラグレンを眺めていた。
 『アルティア・ホテル』に着くまでに、暁が広がり、美しいピンクに空が染まる。ふっと、ハルシャの笑顔が、明るい空に重なって見えた。
 ネルソンは、ほとんど対向車のいない空を駆けて、十五分ほどでホテルへと到着した。

 泊り客が今日は多いらしい。
 ほとんど空きのない駐車場に、ネルソンはきれいに飛行車を着けた。
 開けてくれる扉から降りながら、
「時間がかかるかもしれないから、一度戻っていてくれるかな」
 と、穏やかに声をかける。
「お待ちしております。いくらお時間がかかっても大丈夫ですので、ジェイ・ゼル様」
 と、律儀にネルソンが答える。
 微笑んで、ジェイ・ゼルは首を振った。
「一日中になるかもしれない。すまないが、一度戻っていてくれるか」
 言葉に、今度はネルソンは納得したらしい。
「またお呼びください」
 と礼をして、ジェイ・ゼルを見送る。

 自分が立ち去るまでネルソンは飛行車を動かさない。知っているジェイ・ゼルは手を振ると鞄を手に駐車場から降りた。
 教えられていた階へ着き、そのまま、マイルズ警部の指示した部屋へ向かう。
 ノックと共に
「ジェイ・ゼルだ」
 というと、すぐに扉が開けられた。
 中にはマイルズ警部の他に、切れ者らしい刑事たちが顔を揃えていた。
「これは、これはお揃いで」
 部屋の内側に入りながら、ジェイ・ゼルは微笑んだ。

 さっとマイルズ警部が立ち上がり、手を差し伸べながら近づいてくる。
「ジェイ・ゼルさん。ご協力に感謝いたします。汎銀河帝国警察機構から先ほどついた捜査員たちです。
 今回の事件について、特別捜査チームを結成しております」
 差し出した手を握り、ジェイ・ゼルは、その手の中に画像データが入った記憶装置を託した。
「レズリー・ケイマンが、ダルシャ・ヴィンドース氏殺害を計画した画像データだ。活用してくれ」

 捜査員たちが色めき立った。
「詳しい事情と、早速ですが、データを拝見してもよろしいですか」
 マイルズ警部の言葉に、ジェイ・ゼルはうなずいた。
「全ては私とレズリー・ケイマンが計画したことだ。他の誰の関与もない。
 それだけは、事実として確認させてもらえるかな」
 ジェイ・ゼルの瞳を見つめたまま、マイルズ警部は静かにうなずいた。
「もちろんです、ジェイ・ゼルさん」








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