ほしのくさり

第203話   黒い翼の天使-01






「そう言えば、約束していた話が途中だったね、ハルシャ」
 唐突に、ジェイ・ゼルが話を切り出している。

 内側の快感から、ハルシャは懸命に意識を引き剥がし、ジェイ・ゼルの言葉に耳を傾ける。
「……話、とは……」
 切れ切れに、問いかける。
 くすっと、笑いの息が耳朶に触れた。
「天使と悪魔の話――『暗黒の砦』の物語だよ」

 一瞬、ハルシャは自分の内側で動く、ジェイ・ゼルの存在を忘れそうになった。
「お、憶えていてくれたのか」
 驚きに思わず声が大きくなる。
 再び笑いがもれる。
「忘れていないよ」
 身を引き、抜けそうなところまで行ってから、再び同じ緩やかな速度でジェイ・ゼルが自分を押し込みながら、耳元に呟く。
「君との約束だからね」

 押し寄せる快楽に眉を寄せながら、ハルシャの心が喜びに震える。
 ジェイ・ゼルは自分との約束を、忘れずにいてくれたのだ。
 それだけのことが、こんなにも嬉しい。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
 心のままに素直に呟いたハルシャの首筋に、再びジェイ・ゼルの唇が触れる。
「天使が悪魔に、自分の殺し方を伝えたところまでだったね」
 淡々とした声で語りながら、緩やかにジェイ・ゼルが動く。
 内側に高まる熱に抗うように、ハルシャは懸命に彼と会話を交わした。
「そ、そうだ。ジェイ・ゼル。悪魔が……殺せないことに……気付いたところまでだっ……た」
 無視しがたい快楽に、声が思わず震えてしまう。
「そうだった。思い出したよ、ハルシャ」
 耳に寄せた口で、静かにジェイ・ゼルが語り始めた。

「天使を殺すことが出来る。秘密を知った悪魔は、喜びよりも戸惑いを覚えてしまった。
 あれほど天使の命を奪うことを渇望していたはずだ。なのにどうして、自分は天使を殺せないのだろう。
 自分は悪魔だ。
 醜悪で神々に呪われた存在だ。
 破壊と殺戮が自分の宿命のはずだ。
 目の前にいるのは神々の恩寵を浴びるほど身に受けた、忌々しい存在だ。天使を殺害すれば、自分を産みだしながら呪詛しか与えなかった、傲慢な神々に対する復讐ともなる。
 気付いた悪魔は、自分の中の戸惑いをかなぐり捨てた。
 自分は呪われた存在だ。神々が自分に与えた、それが運命だった。なら、何をためらうことがある。
 殺せばいい。
 目の前の天使を――」

 呟きながら、ジェイ・ゼルは緩慢な動きを続ける。
 喘ぎを微かにもらしながら、ハルシャは彼の語りに聞き入った。
 薄闇の中で、リュウジが話してくれた言葉が重なる。
 天使を引き裂いた悪魔は、七日間天使を腕に抱いて蘇生を願った。
 思い出しながら眉を寄せて、ハルシャは物語を聞こうと耳を澄まし、込み上げる快楽に耐えた。

「悪魔は心を決めると、天使の羽根に手をかけた。それまでにひどく痛めつけられていた天使は、自分の血に濡れながら、悪魔へ顔を向けた。
 天使は決して抗わなかった。
 運命を受け入れるように静かな眼差しで、ただ、自分を殺そうとする悪魔を見つめ続けていた。
 その眼があまりに静かだったので、悪魔は思わず荒々しく問いかけた。
 死ぬのが恐くないのか、と。
 天使の表情が一瞬曇った。
 そして、凛とした声で天使は悪魔の質問に答えたんだ。
 恐いです、とても。と」

 身を引き、ゆっくりとハルシャの中に熱い熱が打ち込まれる。ひどく緩やかな動きなのに、温もりのある重い衝動が、再び内側に溜まり出した。
 ハルシャは自分の感覚を必死に締め出しながら、語り続けるジェイ・ゼルの声に耳を澄ます。彼の言葉一つ一つを、しっかりと記憶しておきたかった。
 なのに。
 高まっていく熱が抑えられない。

「悪魔は狂喜した。相手の恐怖を味わいながら命を奪う。かつて手にしていた二つの楽しみを、再び得ることが出来る。
 そうか死ぬのが恐いかと、悪魔は天使を嘲弄したんだ。
 天使は静かに首を振って
 いえ、死ぬのは怖くありません。と穏やかな声で呟いた。
 この期に及んで言い逃れをすることに、悪魔は腹を立ててしまった。
 恐いと言っただろう。と怒鳴りつけるように叫んだ悪魔に、天使は静かな声で返した。
 はい、恐いです。私を殺した後、あなたが無聊を慰めるために再び宇宙船を襲い、人々の命を奪ってしまうことが。許されざる罪を重ねてしまうことが。
 それが私は怖いのです、と」

 リュウジが話してくれた話と随分違う。
 驚きながら、ハルシャは耳元で滴る悪魔と天使の物語に、心を奪われ聞き入った。

「澄んだ眼で悪魔を見つめながら、天使は言葉を続けた。
 ですが、不死である私の存在があなたを苦しめてしまうのなら、仕方がありません。私を殺してください。
 私はあと一度だけ、あなたから与えられる苦痛に耐えましょう。
 それですべては終わります。
 天使の死は、存在の消滅です――それでも」
 ジェイ・ゼルの言葉が耳朶に触れる。
「あなたがそれを望むのなら、私に死を与えて下さい。
 それで私も、楽になれます」

 百年の間、天使は悪魔からの責め苦に耐え続けた。
 身を傷つけられることは、やはり苦しかったのだとジェイ・ゼルはかつて語っていた。
 その天使が、あとたった一回の苦痛に耐えるから、命を奪ってくれと悪魔に言った。
 それで楽になれるのだと――懇願するように。

「百年の間、天使は自身の苦痛で悪魔の憎しみを、癒そうとしていたのかもしれない。
 けれど、どんなに傷つけても悪魔の心は渇望し続け、天使に憎しみを向け続けた。命を奪うことで悪魔が満足するなら、それでいいと――存在を消滅させる秘密を、天使は悪魔に打ち明けたのだ。
 悪魔には、慈悲の心など無かった。
 だから、天使に宣言したんだ。
 望み通りに命を奪ってやろうと。
 お前の神に祈るがいい。私に呪詛をかけ悪魔として生んだ同じ神に。
 神は百年の間お前を救わなかった。悪魔に引き裂かれる天使など、初めから神々に見捨てられたものなのだ。
 そう言って、悪魔は天使の羽根を掴んだまま、無情にその背から羽根をむしり取ったんだ。
 天使は――悲鳴を上げる代わりに、悪魔の言ったように天に向かって声を放って祈った。
 私を生み出した神よ。私の命を捧げます、この祈りをお聞き届けください。どうか、この者の呪いをお解きください。どうか、神よ、と」

 ジェイ・ゼルは動きを止め、ハルシャの身を腕で抱きしめた。

「言葉が終わると同時に、翼を失った天使はがくりと倒れ、目を閉じて動かなくなった。
 まだ、悪魔は半分信じていなかったんだ。百年もの間何度痛めつけても、腕を引きちぎっても、天使はすぐに身を癒し蘇ってきた。
 たかが羽根をむしり取ったぐらいで、死ぬなどというのは自分を欺いた言葉かもしれない。
 どうせまたすぐに蘇ってくるだろう。
 だが。
 天使はぴくりともしなかった。
 羽根を失った背中からは、滝のように血が流れ落ちる。
 引き千切られた翼は、見ている前で羽根が抜け落ち、干からびていく。
 さすがの悪魔も焦り出した。
 死ぬのか。
 この天使は、死ぬのか。
 そうだ、自分はこの天使の死を望んだはずだ。なら良いではないか。望みが今、叶ったのだ。
 恐怖の中での死。自分が何よりも好んだもののはずだ。
 なのになぜ――動かない天使を見て、自分はこんなにも狼狽えているのだろう。
 悪魔には理由が解らなかった。
 だが、混乱の中でもこのままでは天使が確実に死ぬと言うことだけは解った。
 悪魔は何とか血を止めようと、必死に手の平で傷を塞ごうとした。
 だが、何をしても止まらなかった。
 みるみる天使の身体からも熱が失われていった。
 バラ色の頬をしていた天使は、青白い透明な肌へと変わっていく。
 命の息吹がない、美しい彫像のような顔に――悪魔がいつも命を奪った後の、静謐な死の表情に。天使に死が訪れようとしていた。
 喜ぶべきはずのそのことが、悪魔にはとてつもない後悔を巻き起こした。
 天使を失う瞬間になって、初めて悪魔は自分の中の真実を知ったんだ」

 ハルシャの髪に、そっとジェイ・ゼルの唇が触れた。
 短い沈黙の後、彼は再び語り始めた。

「百年の間、契約を理由に天使が自分の傍らにずっと居てくれたことに。どんなに傷つけても罵っても、天使が自分の側を離れなかったことに。
 そのお陰で自分の――永劫の孤独が癒されていたことに。
 時に何もせずに天使の傍らに居るだけで、満足するほどに――自分にとって天使が、どれだけ大切な存在になっていたかと言うことに。
 ようやく、悪魔は気付いたんだ」

 自分を抱き締めるジェイ・ゼルの腕に、ハルシャは触れた。
 温もりを、手の平が拾い上げる。

「命が失われていく天使の身体を抱き上げて、悪魔は生まれて初めて、天へ祈った。どうか、この者を助けてくれ、と。
 奇跡のように天使が蘇るということはなかった。
 やはり自分は呪われている。だから、神々は自分の祈りを聞いてはくれないのだと、むしろ祈ったことで憎しみが湧き上がる。
 神々に見捨てられても、悪魔は天使を救いたかった。
 悪魔は考え続け、一つの方法を思いついた。
 自分の背には、翼があった。
 神々から戒められ、天を飛ぶことを禁じられた翼だった。だが、もしかしたらこの翼が天使の引き裂いたものの代わりになるかもしれない。
 悪魔が引き千切ってしまった天使の羽根はもう、元の形を取っていない。
 だが、自分の羽根をすぐに天使に与えれば、もしかしたら天使は生き返るかもしれない。
 覚悟を決めると、悪魔は天使をそっと床に横たえた。
 そのまま自らの背にある暗黒の翼に手をかけ、何のためらいもなくむしり取ったんだよ。
 引き裂かれる痛みよりも、天使を失う痛みの方が強かった。
 歯を食いしばり、悪魔は自分の羽根を引き剥がした。
 そして、青ざめた天使の背に、自らの羽根を与えたんだ。
 生まれて初めての祈りが通じたのか、悪魔の暗黒の羽根は、ぴたりと天使の背に吸いついた。
 それを見て、悪魔は狂喜した。
 迷いなく右の羽根も引き裂き、それを天使に与えた――黒い羽根を得た天使に、すぐに変化が起こったんだ。
 蒼白な顔にほのかに赤みが戻り、土色だった唇がばら色に輝きだした。
 触れる悪魔の手の先に、天使の鼓動が力強く響き出した。
 悪魔はほっとして、身が崩れそうになった。
 明らかに力が弱ってきていた。天使にとって羽根が命の源であるように、悪魔にとって翼は能力の源だった。力を失った悪魔は、ひどく弱り始めた。わかっていても悪魔はやはり、天使を救いたかったんだよ」

 ふと、ジェイ・ゼルが言葉を切った。
 リュウジの話では、悪魔は翼を失ったから怒りにかられて宇宙船を襲ったとなっていた。けれど話の筋の違いは、あまり気にならなかった。
 自らの羽根を与えるほど、悪魔は天使の命が大切だったのだと、不思議な感銘を受けながらハルシャはジェイ・ゼルの言葉に耳を傾ける。

「だが、悪魔は悪魔だ。
 命を取り留めた天使が目を覚ました時、悪魔はこう言ったんだ。
 簡単に殺すのは癪に障るからな、と背中に羽根を与えた理由を説明した。
 天使の癖に、そんな醜い黒い羽根をしていたら、さぞ仲間たちから疎まれるだろう。
 いい気味だ、と――
 悪魔は能力をほとんど失いながら、懸命に虚勢を張って言ったんだ。
 けれど本当は、こう伝えたかった。
 美しいあなたの羽根をむしってしまって、すまなかった。
 命を失うよりはと、自分の羽根を与えてしまってさぞ、不快だろう。
 けれど、私はあなたに生きていて欲しかったのだ、と――
 言えない本当の心の代わりに、悪魔は天使を罵った。
 なぜなら、彼は悪魔だったから。殺戮と破壊を宿命づけられているものだから――呪いしか、撒き散らすことが出来なかった。
 それが、悪魔の生き方だったのだよ」

 腕に力を籠めると、ジェイ・ゼルの言葉が続いた。

「歪み、捻じれ切った悪魔の言葉を聞いた天使は、はらはらと涙を流して、羽根を自らもぎ取った悪魔の身を、その腕で抱きしめた。
 あなたは、痛みをものともせずに、私に貴重な羽根を与えてくれたのですね。
 立派な大きな羽根です。
 ですが、それではあなたが死んでしまいます――もう、そのお心だけで十分です。どうかこの羽根を背に戻し、私に死をお与えください。
 私は、あなたを苦しめるつもりはなかった。
 あなたにこれ以上の罪を犯して欲しくなかっただけだったのです。
 ただ、お側であなたの孤独に寄り添っていたかったのです。と。
 悪魔は、天使の真実の言葉を聞いた。
 天使は、本当は純白のその羽根でいつでも飛び去ることが出来た。
 そうしなかったのは、自ら望んで悪魔の側にいてくれたのだと、ようやく気が付いたんだ。
 恐れられ、憎まれ忌まれた悪魔の側に、ただ、天使だけが居てくれた。
 身を傷つけ、手ひどく罵り、命すら奪おうとしたというのに。
 力を奪われ神々に呪われている悪魔の孤独を、ただ、天使だけが理解してくれていた。そして、天使は歪み切った悪魔の言葉の奥にこもる、真実の響きを聞き取ってくれていた。
 全てのことに気付いた時、ようやく悪魔は本当のことを口にすることが出来たんだ。
 宇宙船を襲って命を奪ったのは、寂しかったからだと。
 命を奪う瞬間、相手は自分を見てくれる。忌み嫌われる自分が相手と関わる方法はそれしかなかったのだと。
 歪み切った心が本当は、誰かを求めていたのだと、天使だけが理解して身に傷を受けながらも自分の側にいてくれた。
 それが――嬉しかったのだと。
 あなたの命が失われたかけたときに、自分はそのことに気付いた。
 だから、生きていて欲しいと。
 呪いの象徴である暗黒の翼も――あなたの背にあると、美しく見える。
 飛ぶことを禁じられた自分だが、本当は空を飛びたかったのだと。かつて、呪詛を受ける前に自在に天を翔けていたように。
 真実を告げる悪魔の頬に、天使の涙がはらはらと落ちかかった。
 温もりのある涙を受けながら、悪魔はもう一つのことに気付いてしまった」

 一瞬言葉を切ってから、ジェイ・ゼルは静かに呟いた。

「百年の間に、悪魔は天使を愛してしまったんだ。
 命を奪うことで永遠に自分のものに出来ないことに、苛立ってしまうほどに。
 悪魔は天使が離れて行ってしまうことが、本当は恐かったんだ。
 だから、殺して体を手に入れたかった。けれど命を失いそうになったときに、悪魔は自分が欲しかったのは、天使の身体ではなくじっと自分を見つめてくる、澄んだ眼差しだったことに、気付かされてしまった」
 押し当てた唇から、言葉が滴る。
「だが、悪魔は呪われた存在。
 愛とは相いれない。
 だから――愛を知った悪魔は、存在が許されない。
 それでも、想いを伝えずにはいられなかった。
 天使の腕に抱かれながら、自分の存在を消滅させる言葉を、悪魔は呟いたんだよ」

 ハルシャはぎゅっとジェイ・ゼルの腕を強く握りしめた。
 髪に唇を当てて彼は静かな言葉を呟く。

「あなたを、愛しています、と」

 ドキンと、心臓が躍る。
 まるで、悪魔が本当に告げた言葉を聞いたようだった。
 わずかな沈黙の後、ジェイ・ゼルが淡々と語り続ける。

「愛を知った悪魔の身体が大気に溶けはじめた。取り戻そうとするように、天使はきつく腕に抱きしめたが、無駄だった。
 溶けながら悪魔も天使を抱き締めた。
 そうしながら悪魔は幸せそうに微笑み、一言呟いたんだ。
 ああ、これで私は楽になれる、と。
 天使が命をかけて祈ったことは、叶えられた――
 悪魔の身にかけられた呪いは解かれ、彼は万物の根源の元へと戻っていったんだ。身を霧散させて、安らかな笑顔を浮かべながら」

 穏やかな声でジェイ・ゼルが、物語を紡ぐ。

「悪魔が消えたあと、その力で作られていた『暗黒の砦』も崩れ去った。天使は悪魔が与えた翼を開いてそこから静かに飛び去ったそうだ。
 そうして、悪魔が消えたエンガナウ宙域ではもう宇宙船は消えることなく、安全な航路として知られるようになった。
 その安全は、一人の天使が守っていると言い伝えられている。
 清純な姿に似つかわしくない、暗黒の翼を背中に持つ美しい天使が――
 天使は時折、一点をじっと見つめていることがあるそうだ。
 それはかつて悪魔が潜んでいた『暗黒の砦』があった場所だと言われている」
 吐息のように、ジェイ・ゼルが呟いた。
「これが――エンガナウ宙域に伝わる、昔話『暗黒の砦』だよ。ハルシャ」










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