ほしのくさり

第201話  古いガイアの子守唄






 壁一面に、突き放すような青が、踊る。
 波の音が響く。
 寄せては返し、寄せては返し、弛みなく打ち寄せる、塩辛い水。

 美しい色と動きに見とれる。
 茫然と見つめるハルシャの横に、ジェイ・ゼルが戻ってきた。
「きれいだね」
 座りながら彼が言う。
「惑星ガイアは、環境保全に取り組んでいるからね。噂では百年前より、今の方がきれいな海が見られるそうだよ」

 これが全て、水。
 解っていても圧倒される。もしラグレンにこれほどの水があったら、もっと生活は楽になるのだろう。
 そんなことも、考えてみる。

「宇宙も良いが、海もいいね」
 ぽつりと、ジェイ・ゼルが呟いた。

「きれいだ」
 ハルシャは壁の向こうに、本物の海があるような錯覚を覚えながら呟いていた。
「ありがとう、ジェイ・ゼル」

 映画を用意してくれたのは、静養を命じられているハルシャのためなのだろう。
 押し付けがましく言わないけれど、自分のために懸命に選んでくれたような気がする。
 隣りに座るジェイ・ゼルの肩に、頭を預けて呟く。
「ありがとう、本当に」
 肩にジェイ・ゼルの手が回り、そっと引き寄せられた。
 海を見つめながら、二人で身を寄せ合う。
 約束した言葉が耳に響く。

 いつか二人で、惑星ガイアに行こう――

 ハルシャは目を閉じた。ジェイ・ゼルの温もりに身を任せて、海の音を聞く。

「本物の海を、一緒に見に行こう。ジェイ・ゼル」
 囁くような声で、彼に告げる。
「いつか、きっと」
 そうして、波打ち際を歩くのだ。手を繋いで。
 広がる未来に心が震える。
 ぐっと、ジェイ・ゼルの手に力がこもった。
「そうだね、ハルシャ」

 約束を忘れていないよという言葉の代わりに、海の画像が収められたものを、用意してくれたような気がする。
 潮のうねりが耳に響き続ける。
 太古の海の中で、命は生まれた。だからこんなにも、海鳴りが懐かしい気がするのだろうか。
 古いガイアの子守唄のように。

「ジェイ・ゼルが」
 ハルシャはぽつりと呟いた。
「教えてくれた子守唄を歌おうと思ったのだが――」
 言ってから、顔が赤くなる。
「あ、その。することがなかったから」
 一人で子守唄を歌っていたなど、幼げだと思われるかもしれない。慌てて言い訳をする。
「きちんと覚えていなくて、上手く歌えなかった」
 目を開けて彼を見る。
「もう一度、歌って教えてくれないか」

 ハルシャの言葉に、ジェイ・ゼルはふっと笑った。
「勉強熱心だね、いつでも君は」
 肩を抱いていた手が髪に滑ってから、静かにジェイ・ゼルが立ち上がる。
「歌詞をかいてあげよう。そちらの方が覚えやすいだろう」

 ジェイ・ゼルはメモと筆記具を手に戻ってきた。
 ソファーの前の机に紙を延べて、さらさらと文字を綴っていく。
 ジェイ・ゼルの字は、特徴的だった。残された『エリュシオン』の部屋の中に、彼の伝言があったことを思い出す。
 繊細で尖ったような華やかな字。
 ハルシャが見守る前で、みるみる歌詞が形作られていった。

「これを見ながらだと、憶えやすいかな」
「ありがとう、ジェイ・ゼル」
「どういたしまして」
 受け取って、ハルシャはしみじみと歌詞を噛み締める。
 童謡のようだ。歌詞の中に鶴と亀が出てくる。
「一度歌うから、歌詞を目で追ってごらん」

 言いながら、ジェイ・ゼルが歌い始めた。

 昔むかしの その昔
 まんだ昔の そのむかし
 鶴が 亀に 言うことにゃ
 私のお嫁に なっとくれ
 あんよの長いが いやのんか
 おくびの長いが いやのんか

 あんよの長いも いやでない
 おくびの長いも いやでない
 鶴は千年 亀万年
 お前が先に いったなら
 あとの九千年が わしゃつらい

 おねんねなされ おねんねよ
 おねんねなされ おねんねよ

 ゆったりとしたリズムで、ジェイ・ゼルが歌う。
「どうかな、歌えそうかな、ハルシャ」
 大体わかった。
 ハルシャは大きく頷いた。
「一度歌ってみる。聞いていてくれるか、ジェイ・ゼル」
 歌詞を見ながら歌うハルシャを、微笑みながらジェイ・ゼルが見つめる。
 終わった時に、小さくジェイ・ゼルが拍手をしてくれた。
「ちゃんと歌えているよ。覚えが良いね」
「歌詞が手元にあると、とても歌いやすい。ありがとう、ジェイ・ゼル」
 ふふっと、ジェイ・ゼルの笑みが深まる。
「なら、今度は私がハルシャに歌ってもらおうかな」
 手を伸ばして、ジェイ・ゼルが髪をそっと撫でる。
「今夜、眠る時に、ね」

 灰色の瞳を、まじまじと見つめる。
 ジェイ・ゼルに、子守唄を歌ってあげる。
 理由は解らないが、想像するだけで、とても恥ずかしくなってしまった。

 困惑しながら、言葉を返す。
「だ、だが。まだ歌詞がはっきりしていないから、間違えるとジェイ・ゼルは気になって、眠れなくなってしまうかもしれない。
 もう少し、上達してからでもいいだろうか?」
 にこっと、ジェイ・ゼルが笑う。
「なら、今から猛特訓しようか」
「い、いや。大丈夫だ。自主練習するから」
 ハルシャは、手にしていた歌詞を慌てて二つに折る。
「練習して、歌えるようになるから――それまで待っていてくれるか。ジェイ・ゼル」
 髪を撫でながら、静かにジェイ・ゼルが微笑む。
「そうか」
 視線が包むように見つめる。
「なら、今日は諦めようかな。ハルシャが心配するならね」

 どうして――
 こんなに切ない目で、ジェイ・ゼルは自分を見るのだろう。

 途切れた会話の後に、海鳴りが響いていた。
 約束したように、二人で波打ち際にいるようだ。
 ジェイ・ゼルを見つめる。
 笑みが深まり、静かに彼が顔を近づけた。
 覆われると思った唇ではなく、額に軽く、彼の口が触れた。

 気付く。
 今日は一度も、ジェイ・ゼルは唇に触れてこない。
 いつもなら、挨拶のように頻繁に交わし合うのに。
 朝は、病院にいるためなのだろうか、と思ったけれど、今はジェイ・ゼルの自宅なのに、どうしてだろう。
 妙な違和感が湧き上がってくる。
 けれど。
 そんなことを、直接ジェイ・ゼルに聞くことは、ハルシャにとってあまりにもハードルが高い。
 言葉の代わりに、じっと彼の唇を見つめる。
 視線に気づいたジェイ・ゼルの顔から、笑みが消えていった。
 無言で見つめ合う。

 どうしてだろう。
 彼が、欲しくてしかたがなかった。

 視線を交わしながら、ハルシャは無意識に顔を寄せようとした。
「だめだよ、ハルシャ」
 髪から頬に手が滑り、柔らかく押しとどめるように、ジェイ・ゼルが呟く。
「医師からしばらく、激しい運動は控えるように言われていただろう?」
 そうだった。
 脳の血管は塞がっているが、一度破れたところがまた再出血するかもしれない。念のために数日は運動を控えるようにと言われていた。
 朝、ジェイ・ゼルは検査の結果と退院の許しを、ハルシャと一緒に診察室で聞いていたのだ。
 もしかしたら、そのために彼は行動を規制していたのだろうか。
「これでも必死に自制しているんだよ。私の努力を無駄にしないでくれないかな、ハルシャ」
 笑いを含んでジェイ・ゼルが言う。
 手が、頬を滑る。
「いい子だから、今日は我慢しようか」

 幼い子どもに言い聞かせるように、ジェイ・ゼルが優しく呟いていた。
 ひどく堪え情が無い、わがままな子どものようだ。
 微笑みながらジェイ・ゼルは、指先を頬に滑らせる。
「もう一本、映画を観るかい?」

 灰色の瞳を見上げる。
 深く愛し合った後の、彼の緑の瞳を心に思い描く。
 透明で温もりのある優しい翡翠の色。
 愛しているよと、言葉でなく教えてくれる――彼の本当の心の色。
 どうして――
 こんなにも見たいと思ってしまうのだろう。
 喉の渇きに水を求める旅人のように、翡翠に変わるジェイ・ゼルの瞳が、無性に見たくて仕方がなかった。
 想いに、突き動かされる。

 ハルシャは身を延べる様にして、無言でジェイ・ゼルの唇を求めていた。
 柔らかく口が触れ合った瞬間、灰色の瞳が、驚きに見開かれる。
 ハルシャと、小さく彼の唇が動いた。
 その動きすら飲み込むように、無心に彼の温もりを貪る。
 身を引こうとしたジェイ・ゼルを追いかけるようにして、身に腕を回して舌を差し入れる。
 彼が欲しかった。
 ただ、愛し合いたかった。
 想いを伝えるように、舌を絡める。

 ジェイ・ゼルは笑いを浮かべて、最初はハルシャをいなそうとしていた。
 適当にあしらうように唇で応えながら、手で距離を取ろうとする。
 けれど、ハルシャが真剣に求める姿に次第に余裕が消えていく。
 彼の中に火を点そうとするかのように、合わせた唇で懸命に求め続ける。
 やがて――
 自分を引き離そうとしていたジェイ・ゼルの手の力が緩み、不意に強く抱き締められていた。
 一切の余裕をかなぐり捨てた激しさで、ジェイ・ゼルがハルシャに応じる。
 嵐のようだった。
 海の音が聞こえる。
 二人で惑星ガイアの波打ち際に座っているようだ。
 命を生み出した母なる海の側で、ハルシャは懸命にジェイ・ゼルを求め続けた。

「聞き分けのない子だ」
 激しく求めあった後、わずかに離した唇でジェイ・ゼルが呟いた。
「私の忍耐を試しているのか、ハルシャ」

 目の奥に激しい炎が揺らめいているようだ。

「愛し合いたい」
 上気した頬のままで、ハルシャは彼の口元へ呟く。
「お願いだ」

 くっと、小さくジェイ・ゼルが息を飲んだ。
「ハルシャ、君は――」

 寂しかった。
 あなたの居ない空間に一人残されるのは。
 あなたの気配に包まれながら、あなたを想い続けるのは。
 心が枯れてしまうほどに、寂しかった。
 ジェイド。
 あなたが、恋しい。
 側にいたい。
 ずっと――

「一つになりたい」
 心臓がばくばくと音を立てる。
 ジェイ・ゼルが自分の身を考えて、我慢してくれようとしているのに、自分は勝手な思いを押し付けている。
 愚かでわがままだ。
 でも。
 それが本当の自分だった。
 思いがごまかせない。
 ただ一途に、彼が欲しくて仕方が無かった。
「――抱いて欲しい」
 腕を首に回して、強く抱き締めながら彼の名を呼ぶ。
「お願いだ、ジェイド」

 ジェイ・ゼルが、息を数度する。
 触れている場所が大きく上下して、呼吸の激しさを感じさせる。
 激しく動揺させているのだと、はっきりと解る。
 顔が、真っ赤になってきた。
 なんてことを、口走ってしまったのだろう。
 抱いて欲しいなど、と。
 恥ずかしさのあまり顔が上げられない。
 でも、正直な気持ちだった。唇を噛んで羞恥に耐える。
 赤らめた頬のまま、ジェイ・ゼルの返事をハルシャは待ち続けた。

 沈黙していたジェイ・ゼルが、わずかに顔を動かし、そっと唇で髪に触れた。
「君は本当に―ー」
 温かな息と共に、言葉が髪に滴る。
「私を煽るのが上手だ」

 言葉を返す前に、そのまま膝の上に抱き上げられてた。
「準備をしようか、ハルシャ」
 腕の中で、真っ赤になりながらハルシャはうなずいた。
 まともにジェイ・ゼルの顔が見られない。首に腕を回したまま視線を伏せる。
 くすっと小さくジェイ・ゼルが笑ってから、立ち上がった。
 腕に包まれ揺られながら、ハルシャはゆるぎないジェイ・ゼルの身に頬を寄せる。退院したばかりなのに、昨日も愛し合ったのに。
 それでも、彼が欲しかった。

「すまない、ジェイ・ゼル」
 小さく詫びると、笑いが返ってきた。
「保証は出来ないが、なるべく身体に負担をかけないようにしよう。
 そうでないと」
 顔を伏せるハルシャの髪に、再び唇が触れる。
「また病院に逆戻りになってしまうからね」
 ますます顔が赤くなる。
「本当にすまない」
「いいよ」
 不意に、しっとりと艶めいた声でジェイ・ゼルが呟く。
「君が私を求めてくれた――これ以上の歓びなど、ないからね」

 固く抱き合ったまま、ハルシャの身は手洗いへと運ばれていった。








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