布団にくるまるハルシャの耳に、人の立てる音が聞こえた。
ジェイ・ゼルが、帰ってきたのだ。
約束していた昼を少し過ぎた時間だった。
彼しかこの部屋に入れない設定にしておくと、言っていた。
だから。
この足音は、ジェイ・ゼルだ。
ハルシャはじっと耳を澄ませた。
次第に音が近づいてくる。
そっと扉が開かれた。
ハルシャは布団に潜り込んで顔を出せないままに、ジェイ・ゼルの動きを感じ取ろうとしていた。
しばらく戸口でジェイ・ゼルは立ち止まっているようだった。
人の形に盛り上がる布団を見ているのだろうか。
眠っているかどうか、様子を伺っているのかもしれない。
途切れていた足音が再び聞こえた。ジェイ・ゼルがベッドに近づいてくる。
「ハルシャ」
ジェイ・ゼルの声が聞こえる。
「眠っているのかな?」
ハルシャは唇を噛み締めて、返事をしなかった。
今のこの顔を見られるのは、どうしようもなく恥ずかしい。
だから、寝たふりをしようと布団を頑なにかぶり続ける。
ふわりと、彼の手が布団越しにハルシャの身に触れた。
ドキンと心臓が躍る。
しばらくそのままジェイ・ゼルは、動かなかった。小さく吐息をつくと、静かに手が引かれた。
彼の温もりが離れていく。
眠っていると思ったのだろう。ジェイ・ゼルは静かな足取りで、立ち去って行こうとした。
彼の足音が次第に小さくなる。
離れていくことに耐えきれずに、
「おかえり……なさい。ジェイ・ゼル」
と、布団越しにくぐもった声で、ハルシャは呟いた。
ぴたっと、足音が止まった。
素早い動きで戻ってくると、ベッドを揺らしてジェイ・ゼルが寝台の横に腰を下ろした。
「起きているのか、ハルシャ」
布団の上からそっと身を撫でるように、手が滑る。
「お昼を用意してきたよ。目が覚めているなら、一緒に食べようか」
顔を見られるのが恥ずかしくて、ますます布団の中に潜り込む。
様子がおかしいことに、すぐにジェイ・ゼルが気づいたようだ。
「どうかしたのか、ハルシャ」
「な、何でもない」
声から何が起こっているのかを悟られたかもしれない。
わずかの沈黙の後、身を覆っていた布団が、そっとジェイ・ゼルの手でめくられる。
とっさに、ハルシャは顔を手で覆って隠そうとした。
けれど、ジェイ・ゼルに気付かれてしまった。
一瞬の間があってから、優しい声で彼が問いかけた。
「泣いていたのか、ハルシャ」
ふるふると首を振る。
ふっと小さくジェイ・ゼルが笑う。
「どうした」
髪に手が滑る。
「寂しかったのか」
身を寄せて、ジェイ・ゼルが髪に唇を触れさせた。
「戻ったよ、ハルシャ」
腕を外し、ジェイ・ゼルを見る。
泣いたために、鼻が赤くなっている。
その様子に目を止めてから、ジェイ・ゼルが目を細めて呟いた。
「心細かったんだね」
手で促され身を起こすと、ジェイ・ゼルが両腕に包んで抱き締めてくれた。
「もう大丈夫だよ」
布団の中で、一人で泣いていたことを知られてしまった。
ジェイ・ゼルの帰りを待ちわびながら、なぜだか涙が滲んでしまったのだ。
泣くつもりなどなかったのに。
触れる温もりに心が安らいでくる。
腕をジェイ・ゼルの胴に廻してぎゅっと抱き締めると、さっきまでの寂しさが消えていくようだ。
そうなると、無礼な自分の態度が申し訳なくなってくる。ジェイ・ゼルが呼びかけてくれたのに、すぐに反応しなかったことが……。
「さっきは」
顔を服に押し付けたままハルシャは呟く。
「すぐに、返事をしなくてすまなかった、ジェイ・ゼル」
よしよしと髪を撫でながら、ジェイ・ゼルが小さく笑う。
「いいんだよ、ハルシャ。拗ねている君も、とてもかわいいからね」
拗ねている?
自分は、拗ねていたのか?
「まだ君は心が不安定だったのに、独りにしてしまったね」
優しく手が髪を滑る。
「許しておくれ、ハルシャ」
唇が髪に押し当てられた。
「言いつけを守って、大人しくベッドにいたご褒美を持ってきたよ。食事の後に一緒に観ようか」
ハルシャは涙がまだ乾かない顔を上げて、ジェイ・ゼルを見上げた。
「観る?」
何を?
と、問いかける。
にこっと、ジェイ・ゼルが笑った。
「君が好みそうなものを選んで来たつもりだけれどね」
灰色の眼を細めて、彼は優しく呟いた。
「映画をいくつか用意してきた。好きなものを選んでおくれ。一緒に観ようか、ハルシャ」
*
昼食を済ませた後、ジェイ・ゼルが用意してくれた十本の映画の題に、ハルシャはワクワクと胸を躍らせた。
昔好きだった『キャプテン・ヴァランタイン』の最新版、『惑星ファルシオンの希望の花』がある。娯楽から離れていた五年の間に、放映されていたようだ。
思わず手に取りパッケージを眺めていると、
「それにしようか」
と、ジェイ・ゼルがするりとハルシャの手から、パッケージを抜くようにして取り去った。操作をして、記録媒体を取りだすと座っていたソファーから立ち上がった。
よく見ると、ここにはモニターのようなものはない。
どうやって映画を観るのだろう、と考えていると、ジェイ・ゼルはそのまま壁へと歩いていった。
壁の一部に触れると、手元がぱかりと開いて、記録装置を差し込めるジャックが出て来た。
ジェイ・ゼルは飛び出したジャックに、『キャプテン・ヴァランタイン』の記憶装置を差し入れる。
その瞬間、ソファーに向かい合った真っ白な壁が、映画の画面に変わった。
驚きに、ハルシャは口を開きそうになった。
壁自体が、放映装置になっているらしい。
さすがセイラメ。最新設備が整っている。
大きな壁一面に、映画会社のロゴが映し出された。
大迫力だ。
驚くハルシャの横に、笑いながらジェイ・ゼルが戻ってきた。
「壁がスクリーンになるんだよ」
ソファーを軋らせて、ジェイ・ゼルが腰を下ろす。
父親に連れて行ってもらった、映画館のことが思い出される。
中でも、凄腕の宇宙船船長、キャプテン・ヴァランタインが活躍するシリーズが大好きだった。
ふと。
ジェイ・ゼルはそのことを知っていたのだろうか、と疑問がよぎった。
映画は全て、ハルシャが好きな宇宙船に関するものがほとんどだった。
「シリーズ五作目なのだね」
横でゆっくりと背もたれに身を預けながら、ジェイ・ゼルが呟く。
「三作目まで、映画館で観ていた」
ハルシャはちょっと、ジェイ・ゼルに身を寄せて彼の呟きに応える。
「大好きなシリーズだ。ありがとう、ジェイ・ゼル」
口角を上げて、ジェイ・ゼルが微笑む。
「四作目を抜かしてしまって、すまなかったね、ハルシャ」
「だ、大丈夫だ、ジェイ・ゼル。物語自体はそんなに関連性はないはずだから。五作目が見られるだけで、十分だ」
と、慌ててハルシャはジェイ・ゼルの詫びに報いようと言葉を尽くす。
微笑むと、ジェイ・ゼルが横に座るハルシャの肩に腕を回して、身に引き寄せた。
「なら、前作を知らない私でも、楽しめるかな?」
問いかけに顔を上げて彼を見る。
「大丈夫だと思う」
ハルシャの言葉に、静かにジェイ・ゼルは笑う。
「そうか」
ジェイ・ゼルが視線を壁に向ける。
「ほら、始まるよ。ハルシャ」
促されて、画面に見入る。
映画は、キャプテン・ヴァランタインのところに、突然送られてきた謎のメッセージから始まった。
助けを求めるものだった。
差出人の解らないメッセージを無視しようという仲間の言葉を封じて、キャプテン・ヴァランタインは助けに行くことを決意する。
誰かは解らないが、俺に助けを求めて来たんだ。行かずにはいられないだろう? と笑いながら。
個性的な仲間たちと乗り出した旅は、思わぬ展開を見せる。
謎のメッセージの送り主は、宇宙海賊たちに捕らわれる少女だった。その少女にはとんでもない秘密があり、彼女を狙う複数の組織が入り乱れて、混戦状態になる。
その中で、キャプテン・ヴァランタインは仲間たちと協力して、何とか少女を救い出そうとする――
前半だけで、ハルシャはドキドキして、ジェイ・ゼルの服を掴みながら画面に見入った。
物語が佳境になる。
『キャプテン・ヴァランタイン! もう宇宙船が限界です!』
『ミーシャ。限界ってのは、壊れてから言うもんだ。まだ「
突っ込むぞ、亜光速でだ。
喉の奥に舌を突っ込んどけ、歯で噛まないようにな!』
キャプテン・ヴァランタインの操る真っ白な宇宙船が、漆黒の宇宙を翔ける。
憧れに近いものが胸に溢れだした。
父親と並んで、身を乗り出しながら映画に見入ったことが、鮮やかに蘇る。
そうだ。
彼のように宇宙を自在に翔けたかった。それが、自分の夢だった。
限界の状態の宇宙船で、キャプテン・ヴァランタインは無事に少女を救出した。
そして、修理をし、騙しだまし少女の故郷にキャプテンたち一行はたどり着く。
少女の故郷の惑星は荒れた星だった。
そして、物語の最後に、衝撃的な結末が待っていた。
少女はずっと『希望』と呼ばれていた。
その理由が、最後に判明する。
なんと、少女は故郷の大地と一つになることで、植物たちを活性化させる『種子』の宿命を持つ者だったのだ。
彼女は命を大地に捧げることで、失われた緑の大地を復活させることが出来るのだ。
幼い時に犯罪組織に奪われ、惑星再生の材料として売り払われるところを、宇宙海賊にさらわれたらしい。
『なら、この子は――大地を復活させるための道具として、自分の故郷に帰って きたというのか!』
少女の命を大地に捧げようとする惑星の長老に向けて、珍しくキャプテン・ヴァランタインが怒りを露わに叫んでいた。
『死が待っているというのなら、俺はこの子を故郷になど、戻さなかった!』
『死ではないわ、キャプテン・ヴァランタイン』
ひどく大人びた声で、黒髪の少女がキャプテンに話しかける。
『私はこの荒廃した星を蘇らせるために、生まれてきたの。これが、私の宿命――恐くないわ』
小さな少女の手が、キャプテン・ヴァランタインの手を包む。
『どんなことにも恐れずに、進む勇気をキャプテンが教えてくれたから』
目を上げると、少女は微笑みながら、言葉をかける。
『キャプテン、本当はね、私、故郷に帰るのが嫌だった。どうして自分だけが犠牲にならなくてはならいかって。
でも、私はこの故郷を蘇らせることが出来る――その力を授かったの。今では誇りに思うわ。ねえ、きっと、百年後の子どもたちは、緑の中で笑うわ。酸素に苦労することもなく――。
それが、とても嬉しいと思うの。キャプテン・ヴァランタイン』
そして、覚悟を決めて少女は長老の元へと歩いて行った。
少女の最後を見届けずに、キャプテン・ヴァランタインと仲間は、ボロボロの宇宙船で、少女の故郷の星を後にした。
去り行く惑星を見守るキャプテン・ヴァランタインの目に、荒廃した灰色の大地が、みるみる緑に染まっていく様が映った。
小さく、少女の名を呟いてから、キャプテン・ヴァランタインは目を閉じる。
きらめく緑に包まれた星から、宇宙船が遠ざかっていく。
漆黒の宇宙に向けて――
エンドロールが流れ、優しい声の歌が画面から響いた。
映画のテーマソングだ。
涙腺がどうかしてしまったのかもしれない。
ハルシャはキャストの名前が流れる画面を見つめながら、ぽろぽろと涙をこぼし続けていた。
映画が終わり、真っ白な壁が戻ってからジェイ・ゼルが立ち上がった。
記録媒体を壁から抜き、パッケージに戻す。
まだ涙の止まらないハルシャの頭を撫でてから、彼はキッチンへ行き、二人分の飲み物を持って戻って来た。
机の上に置くと、
「次は、何を観ようか、ハルシャ」
と、キャプテン・ヴァランタインの映画以外のものを、並べた。
次に観たのは、宇宙船で事件が起こる、サスペンスだった。
三十五人の乗組員を乗せた宇宙船カイリウ号が、突然行方不明になる。三日後に発見された宇宙船の内部は、凄惨な状態だった。
ほとんどが惨殺されていたのだ。
映像のショッキングさに、ハルシャは思わずジェイ・ゼルに掻きついて目を逸らしてしまった。
なんと、三十五人のほぼ全員が殺害されていた。
その中で――たった一人が生き残っていた。だが、彼は事件当時の記憶を失っていたのだ。
生き残った一人が、三十四人を惨殺したのか、それとも、未知の生命体が宇宙船を襲ったのか――
謎が謎を呼ぶ展開だった。
そもそも、行方不明になった宇宙船が、本当はどこを目指していたのかが、全く解らなかった。
生き残った一人は、仲間たちが殺された理由を探ろうと、必死に捜査し続ける。けれど、彼自身が大量殺人の容疑を受けている。
困難な中で、殺害された仲間の妹と協力し、彼はついに一つの真実にたどり着く――
さっきの映画とは違い、サスペンス要素が高いので、ハルシャの心臓はどきどきしっぱなしだった。
ジェイ・ゼルの腕を握りしめて、ハラハラする展開に息を飲む。
映画の演出に、思わず悲鳴を上げてしまうこともあった。
終わった時は、ぐったりしてしまうほど疲れていた。
ぎゅうぅっと、ジェイ・ゼルの腕を握りしめ続けていたので、指先が痛いほどだった。
真っ白になった画面を見ながら、まだハルシャは動けなかった。
「終わったよ、ハルシャ」
声をかけられて初めて、自分がジェイ・ゼルの腕を捕えて固まっていたことに気付く。
ジェイ・ゼルが視線を与えてくれながら、微笑む。
「面白かったね。まさか『カイリウ号』にあんな秘密があったとは、ね」
ジェイ・ゼルも、楽しんでくれたのだろうか。
見上げるハルシャに、
「たくさん叫んだから、お腹が空いただろう。少し休んだら、食事にしようか」
と優しく声をかけてくれる。
はっと気づくと、もう夕方を回って、夜に近い。
映画を観ていると、時間の経つのがとても速く感じられる。
握りしめていた腕を、ようやくハルシャは離した。
「す、すまない、ジェイ・ゼル。強く握ってしまって――痕になっていないか?」
恥ずかしさに顔を赤らめながら、ハルシャは問いかける。
くしゃっと、髪が撫でられた。
「大丈夫だよ。鍛えているからね」
夕食は、この前と同じように二人で一緒に作る。
ジェイ・ゼルは、エプロンを貸してくれた。
今日は、冷凍保存庫に作り置きしていた、ハンバーグを使うようだ。
ハルシャはニンジンを使ったサラダと、コーンスープの調理を担当した。
ニンジンを細く切り、ブイヨン味の出汁で茹で上げる。ビネガーや粒マスタードをベースにしたドレッシングを作り、茹で上げたニンジンとカッテージチーズ、玉ねぎのスライスを合わせて、ドレッシングをかける。
簡単だが美味しい料理だった。
サーシャはお酢の味が苦手なのであまり作ったことはないが、両親との食卓に出ていたことを覚えている。
コーンスープは、スープの素を伸ばすだけで手軽だ。
ジェイ・ゼルも出来合いのものを使うのだ、と妙に感心する。
横でハンバーグを焼いていたジェイ・ゼルが、再び香りのいいお酒を振りかけて、炎を上げている。
二度目なので、心構えが出来ていた。何とか悲鳴を上げずにすむ。
ジェイ・ゼルは気づいたようだ。
「慣れたのかな、ハルシャ」
と、口角を上げながら問いかける。
視線が横に滑る様にして、ハルシャを見た。
「もう驚かないんだね」
「大丈夫だ。火事にはならないのだろう?」
くすくすとジェイ・ゼルが笑う。
「そうだね。やり過ぎたらお肉が焦げるぐらいだね」
料理をするジェイ・ゼルを、見つめる。
これからずっと――こうやって彼の傍らで料理をするのだろうか。
たった二度一緒に料理をしただけなのに、不思議に長く共に厨房に立っていたような気がする。
ごく自然で心が安らぐ。そして、楽しかった。
ふと、サーシャの作文の言葉が脳裏をよぎった。
そうだ、妹は言っていた。
料理を作るということは、相手の命を想うことだと――
ジェイ・ゼルの命を思いながら作るから、こんなにも一緒にする料理が楽しいのだろうか。
それともただ単に、彼の側で作業が出来るのが嬉しいのだろうか。
どうも自分は、内側の感情に名前をつけることが苦手のようだ。
さっきも布団の中で丸くなっていたのを、ジェイ・ゼルは「拗ねる」と言った。
経験したことのない感情に、翻弄される。
ちくんと、胸の痛みともに思い出す。ジェイ・ゼルの笑顔に、みなが顔を赤らめることが、どうしてあんなに気になったのだろうか。
ジェイ・ゼルを見つめる。
彼に話したら――その感情の名前を、教えてくれるだろうか。
見つめていることに気付いていたのだろう、ジェイ・ゼルが静かに笑みを深めた。
「こちらは完成したよ」
首を傾げながらジェイ・ゼルが顔を向ける。
「食事にしようか、ハルシャ」
五年間、幾度も一緒に食事をしてきたのに、ジェイ・ゼルの自宅で食べる料理が一番美味しいような気がした。
サーシャは元気だと、食事をしながらジェイ・ゼルは教えてくれる。朝食をメリーウェザ医師に作ってあげたそうだ。彼女は感涙していたらしいと、彼は笑いながら言う。
それから、メリーウェザ先生のとんでもない味のパウチの話になった。
思わず二人で笑う。
話題が次々に移り変わる。
今日食べたハンバーグは、まとめて作って冷凍しておいたものだそうだ。
意外とこまめなのだと感心する。
楽しい食事の後、薬をきちんと飲んでから再びソファーへと向かった。
また映画を観るのかと思ったら、ハルシャが選ぶ前にジェイ・ゼルは一つのパッケージを手にして、壁を操作している。
お勧めの映画だろうか。
ワクワクしながら待つハルシャの目の前に、不意に――
惑星ガイアの海が広がった。